頤和園長廊物語〔番外編〕

かわら版100号記念に寄せて

コマースクリエイト梶@関口美幸

   私が『かわら版』に「頤和園長廊物語」を書くようになったのは、1997年2月号からです。当時は根箭芳紀前編集長(コマースクリエイト前社長)がまだ健在でしたので、「来月号から連載で載せたいので場所を空けてください」と、ほとんど強引に頼みこんだのがきっかけでした。98年2月に前編集長が亡くなると、連載だけでなくもっと深くかわら版にかかわるようになりました。そのため、一部の特集や「勝手にグルメ」といった私の駄文が、かわら版にも度々載るようになり、そちらの執筆や編集作業のため、「頤和園長廊物語」をお休みしなければならないといった不本意な結果になったこともあります。
(下)頤和園正門の近くにあるレストラン
に描かれた「牧童遙指杏花村」、左上
にあるべきはずの酒屋を示す旗がない
   さて、『かわら版』への執筆は97年からですが、私が頤和園長廊物語に興味を持ち始めたのは85年の事です。当時北京に語学留学に来ていた私を留学先の先生が頤和園に連れていってくださり、長廊を歩きながら、「これは何々の物語」と一つひとつ説明してくれたのです。当時は言葉もまだよく分からなかったし、中国語専攻でありながら、「紅楼夢」、「水滸伝」という言葉すら知らなかった私には、一つとしてまともに聞き取れた物語はありませんでした。先生は、日本で「桃太郎」、「かぐや姫」、「牛若丸」といった誰もが知っている物語をするような感じで話を進めていきます。その話を聞いている内に私は「よし、この長廊の物語を全部勉強しよう」という気になりました。早速「頤和園長廊画故事集」(中国旅遊出版社)という本を買いました。長廊の絵の写真を取り始めました。そのために何度も頤和園に行き、写真の漏れがないか、順番通りに並んでいるかをチェックしていたときには、一般の観光客から頤和園の職員に間違えられたりしました。この長廊の絵の写真を取り終え、写真に物語の名前を全部書き込んだのは、私が二度目の留学を終えて帰国した88年の事です。
   『かわら版』に連載を始めるようになると、かわら版に書くためにその物語のことを色々と調べるようになりました。物語が載っている本のこと、作者のこと、関係している伝説や別の言い伝えなどなど、調べることは無限にあります。そうした興味が高じて、今年からとうとう中国文学を勉強するために再度留学することにしました。そういうわけで今は会社と学生の二足の草鞋です。
   ところで、長廊にあるような絵は他のところにはないのでしょうか? 調べたわけではありませんが、私が気がついただけでも結構あるようです。頤和園の中だけでも、仏香閣に登るまでの斜めの渡り廊下や諧趣園にありますし、正門の前の売店のひさしにも同じような絵が描かれています。また、恭王府でも見たことがありますし、おもしろいところでは、友誼賓館の頤園の入り口にも頤和園のミニチュアのような渡り廊下と絵があります。友誼賓館の方はおそらくその名前からして頤和園の長廊をまねしたのでしょう。ただ残念なのは、これらの絵にはもちろん解説本がないので、私には何が描かれているかほとんど分からないことです。おもしろいと思ったのは頤和園の正門の近くにある小さなレストランのひさしに描かれていた絵のことです。そこには、晩唐の詩人杜牧の「牧童遙指杏花村」という七言絶句の絵が描かれていたのですが、絵の左上にあるべきはずの酒屋を示す旗がないのです。頤和園の長廊の絵でもとても小さい旗なので、うつした時に落としたのでしょうか?
   それにしても毎回原稿を書きながら、中国人の想像力の豊かさに驚かされています。『西遊記』や『聊斎志異』に出てくる様々な妖怪や神仙が繰り広げる摩訶不思議の世界、素手で虎を退治した武松や木を根ごと引っこ抜いた魯智深を描く『水滸伝』、義に燃える男達を描く『三国演義』などなど、それはまるで孫悟空の如意棒のように自由自在にその形を変えながら、つかの間の桃源郷を見せてくれます。そんな絵が約150枚長廊には描かれているのです。重複している物語も多いため、その半分の75話として、二ヶ月に一度掲載するという今のペースを続けるとしたら、あと12年余り連載を続ける計算になります。そういう訳で読者の皆様にはこれからも当分私の駄文にお付き合いいただくことになりそうです。あと12年、私の連載が終わるまで、かわら版が続いていくことと200号記念にも「200号記念に寄せて」という文章を書けることを切に祈っています。


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