中国を集める65

奈良大学教授  森田憲司

ああ分からない、分からない
   これは戦前の戯れ唄の一節だが、今回の原稿を書こうとして、分からないことが続発して困っている。
   前回に予告しように、『亜東印画輯』の月報雑誌である『亜東』を取りあげて、その執筆者を手がかりとして、在野の「中国通」について考えていこうとしたのだが、これが難航している。本誌の、一月、二月が合併号で、一回分締切が先になり、いささか油断していたことや、実家の取り込みもあったのだが、原因はそれだけではない。
『亜東』表紙
   中国関係の人名を調べるということについては、「中国の人名を調べるための辞典・事典」なる一文を、『しにか』の昨年5月号に書いて、他人様に辞書を紹介している身でありながら、こうした人物を調べる方法が、急には思いつかない。
   近現代の中国の人名事典については、僭越ながら、ちょっとした専門図書館くらいの数は、我が家の書庫に揃えていると自負している。しかし、在華邦人となると、これらの資料ではまったくお手上げなのだ。中国の人名事典にはないし、日本の紳士録や現代人名事典の類でも、在外邦人については重視されていない。
   早い時期なら、まだ『対支回顧録』とか、『東亜先覚志士記伝』とかいった本があるのだが、大正昭和となっていくと、これもあまり役に立たない。『近代来華外国人名辞典』という辞典が、社会科学院近代史研究所の編で、一九八一年に出てはいるのだが、えらい人ばかりで、ダメ。いくらか縁のありそうな文献としては、森秀樹という人が編んだ『朝日新聞と東亜の人々』という、ちょっと変わった本があるのだが(スバルインターナショナル、一九八八)、今回の人名に関しては出てこない。
   とすれば、この種の人々には、大なり小なり著書のある人が多いから、それを当たっていって、ある程度の見当をつけるのが、残された方法だと考えた。たとえば、『亜東』の常連執筆者である奥村義信には、『満洲娘娘考』という有名な著書があって、その序文で、この本の出版された一九四〇年当時には、新京(長春)にあった、満洲事情案内所の所長であったことがわかる。他にも、伊藤清造、上田恭輔といった執筆者達の著書の一部は、記憶では、我が家の書庫にも存在しているはずで、本の姿も目に浮かぶ。しかし、書庫の本は、積みあがり、散らかりしていて、肝腎な時にはものの役に立たない。
   図書館に頼ろうにも、タイミングの悪いことに、大学は入学試験シーズンで、図書館も休みのことが多い。インターネットによる検索も、こうした古い書物の場合は、あまり役に立たない。レポートの提出期限ギリギリにテーマが思惑はずれの上に、図書館が休みであることに気がついた学生の心境だ。
   そこへ、締切の数日前に、不思議な地図を「発見」してしまった。
   先日、ヤフーだったか、グーだったかで、北京関係のページを検索していて目にとまったのが、東北大学附属図書館のページにある『萬暦年間北京城内圖』という地図だった。図像をダウンロードしてみたら、木版に手彩色の綺麗な地図だ。
   このページでは、この図像に、次のような短い解説が付されている(原文のまま)。  

「北京城宮殿之図。嘉靖年間(1531−1562)に制図され萬暦年間(1573ー1620)に刊行された。北京図 としては現存最古の地図として明代北京地理研究の好資料とされる稀覯地図である。」

   地図の上部に大きな字で「北京城宮殿之図」とあったので、これが正式な名称だが、恥ずかしながら、この地図のことは、今の今まで見落としていた。なにしろ、苦しい時の地図頼みのこの連載だから、これからこの地図についても勉強しなければならないこととあいなったのだが、急なことで調査がいきとどかない。
   中国の昔の地図についての基本的な図録である、『中国古代地図集』(文物出版社、全三巻)に、明代の巻があるが、見つからない。もう一つ、哈爾濱地図出版社から『中華古地図珍品選集』という、やはり巨大な図冊が出版されており、以前に櫻井さんのお世話で入手していた。こちらを調べると図版が掲載されていて、さいわいなことにもう少し詳しい解説もある。ここでもやはり最古の北京地図とされているのだが、日本宮城県東北大学蔵となっているから、世界でこれ一舗しかないのかもしれない。東北大学の図像にもスケールは写しこまれているが、この解説によれば、おおよそ、タテ一メートル、ヨコ五十センチで、かなり大きな地図であることがわかった。
   この地図については、少し調べて次回以降に書いてみたいと思っている。ただし、厳密に言えば、都の地図ではなく、宮城の地図なのだが。
   というわけで、冒頭に書いたように、今回は、「ああ分からない、分からない」ということにあいなった。

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