雑学 中国を繙く36

道路名とロバート・ハート

櫻井 澄夫

   前号まで12回も一つのテーマで連載をしてしまい、しばらく北京についてのことがおろそかになっているので、元に戻ろう。
   前門の東、東交民巷のそば台基廠の一角の古い壁に、なにやら見かけない横文字のプレートがはめ込まれている。元の色が何色であったのかわからない。壁と同じ灰色に塗り込まれているので目立たなくなっている。よく見るとその文字は、「RUE HART」と読める。RUEというのは、フランス語で「通り」のことだから、道路名のようだ。調べてみるとこのあたりはかって外国の使館街で、この他にもRUE MARCO POLO,RUE du CLUBなどがあり、RUE MEIJI(明治通り)やAvenue YAMATO(大和)まであった。もちろんこれらは新中国になって、中国式の現在の道路名に変更された。「RUE HART」は壁にはめ込まれていたので、偶然生きのびたものであろう。
   さてそれではHARTとはいったい何なのだろう。
中国税関の近代化に尽くした ロバート・ハート
   これはアイルランド人、ロバート・ハート(ROBERT HART)の名なのである。ロバート・ハートは1835年、アイルランドの田舎に生まれ、1854年香港にやってきて中国語を学習し、その後、寧波、広州、上海などで領事館や中国税関の業務に携わり、63年、当時の清朝の海関(税関)の総税務司に就任し、その後、40年あまりの期間中国に滞在し、大きな影響力を持った。彼は現在、中国税関の近代化に尽くした人として、中国でも一定の評価をされている。また中国語に非常に堪能で、各地の方言まで使えたそうだ。ハートの死後、上海の外灘の現在の上海海関の前には、ハートの銅像が建てられた(今は無い)。
   ハート自身がこのプレートの近くに居を構えていただけでなく、北京の海関もこの一角にあった。このあたりはハートに縁のある地だったのである。ハーバード大学から、近年、ENTERING CHINA担 SERVICE Robert,Hart痴 Journals,1854-1866という2巻ものの資料(日記)が出版されており、またI.G. IN PEKING, Letters of Robert Hart,Chinese Maritime Customs 1868-1907という、これも二巻ものの資料が出ている。興味のある方はお読み頂きたい。
   また彼については、ハートの死(1911年)のちょっと前の1909年に本人の姪のジュリエット・ブレドンが『SIR ROBERT HART』という伝記を書いている。これには北京でのハートの生活や、当時の町の様子を写した珍しい写真もかなり収録されており参考になる。
   さてジュリエット・ブレドンと聞いて、思い出すことがある方があるかも知れない。彼女は今でも復刻版が出ていて北京の書店でも時々見かける『Peking』(1922年)の著者であるからだ。英文の北京についてのガイドブックとしては、古典的な本である。叔父さんの縁で中国に滞在し、機会あってこのような本を書いたのだろう。ブレドンには他にも、『The Moon Year』(1927年)のような中国関連の著書がある。
   さて私事だが私は北京に来る前、香港に住んでいた。事務所が九龍にあったこともあり、九龍のチムシャツイあたりはよく徘徊した。
   ネーザンロードからチムトン(チムシャツイイースト)の方に行く商店街の横に、HART AVENUEという短い道路があるのをご存知の方もあろう。いつも通るたびに気になったので調べてみると、これもロバート・ハートに因む地名だった。香港のハートアベニューは漢字で赫徳道と書く。この地名は1909年に名付けられたそうだ。
   北京に来てから、香港だけでなく北京にも冒頭に触れたような、ハートの痕跡が残っていたのには、正直驚いた。今はやりの路上観察の結果である。
   この他、資料によるとハートは、新界への香港の拡張にも関与していたようだ。その他、航路の整備のための、上海の黄浦江と長江の合流点近くの砂洲の排除の問題などにも関係し、多方面で活躍した。香港、広州、上海、北京など中国各地と縁の深い人だったのだ。最近、日本で中国の海関の歴史についての研究書が出ている。もちろんここにハートの名がしばしば登場する。私もこの本を読んで、少し税関の制度について勉強してしまった。地名というのは見方によっては、その場所に必然的に名付けられたものでなく、恣意的なものも多いと言えよう。しかし、このようなものをキーとしてその土地やそこに住んだ人の過去に近づくことが可能であり、一つの真実や時代の背景を記録した断片とも言えるだろう。地名でなくてもいいけれど、何でもきっかけが必要だ。
   実は北京の東交民巷近くにRUE HARTの表示板と同じデザインの縁取りのプレートが壁に埋め込まれているところがもう1ヵ所ある。文字は塗り込められているので読めない。ここにどんな文字が書かれていたのか、興味のある方は探して考えてみて欲しい。あなたのANOTHER STORYが見つけられるかも。

PROFILE

SAKURAI Sumio


『北京かわら版』編集顧問。過去に、「中国でのクレジットカード」「北京カラオケ事情」「北京雑感」「北京の地名を歩く」「特別寄稿・毛沢東バッジの収集」「北京を愛した人」などを執筆。

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