中国を集める56

奈良大学教授  森田憲司

   『鴻雪因縁図記』の話にもう少しお付き合いいただきたい。

   まず、房山の金陵(第三集下「房山拝陵」)。明の十三陵ほど有名ではないし、地上には目だった遺跡は残っていないが、金王朝歴代の陵墓は、北京西郊の房山県にある。前回も書いたように、著者の麟慶は金の皇室の子孫で、第五代皇帝の世宗から分かれた血筋の第二四代目であると、「因縁図記」の中に書かれている。

   清朝は満洲族と自称するが、これは建国者のヌルハチの時代に定められた名前で、文殊菩薩にちなんだものと普通は言われている。もとをたどれば、金と同じ女真民族である。そうしたことから、清朝はこの金陵には敬意を払った。長城を越えて中国内地に攻めこんだ太宗ホンタイジは、軍が北京に迫った天聡三年(一六二九)、人を派遣して金の陵を祀らせている。

   図版でおわかりいただけるように、挿図にはいくつかの建造物が描かれているが、乾隆一八年(一七五三)に、乾隆帝が荒廃していた金陵を整備させ、祭祀のための建造物も再建させているので、ここに描かれているのは、その建物だろう。この時麟慶の先祖も陪席したと、「因縁図記」に書かれている。

   こんなことが気になったのは、一九九五年の春に房山の金陵の故地を訪れた時に、大理石造りの建物の遺構が、あちこちに残っているのが目にとまったからだ。今から考えれば、それは清朝の乾隆帝の時のものである可能性が大きいということになる。

   ちなみに、金の陵墓が荒廃したのは、明の万暦時代に東北で満洲族が興起した時、その王気の地脈を断つために、祖先にあたる金の陵墓を壊させたためだという。清朝は、その報復に、明の十三陵のうち万暦帝の定陵だけは、最初のうちは祭祀の対象としなかったと、記録にある。

   ところで、図の右下には虎が描かれている。かねて人から虎が出ると聞かされていた麟慶が金陵で参拝していると、遠くに虎が見えた。陵を守る人間から、これは「守陵の神虎」だと教えられたが、たちまち見えなくなったとある。金陵は周口店の北、車ならすぐである。高速道路が使える現在では、北京からも二時間とかからない。記事は、道光二六年(一八四六)のことである。このあたりに虎が出没したのだろうか。四月一二日付の『光明日報』は、中国国内の野生東北虎は、二十匹をきったと伝えている。

   もう一つは、彼の家の墓地に関係する。彼の七世の祖の達斉哈は、清朝の入関に従って北京へやってきたのだが、功績によって墓地を賜った。墓地は東西黄寺に近かったという。黄寺は、安定門外にあるチベット仏教の寺で、現在は西黄寺だけが残っている。第三集上の「賜塋来象」という節を読むと、このあたりで儀式に使う象の訓練をしていたということで、麟慶一行は象に出会っている。中国では、「太平有象」(天下泰平のしるしあり)という言葉があって、象は吉兆とされているので、孫をつれて墓参にきていた麟慶はたいへん喜んでいる。

   この連載のごく初期、地図の話の中で、まだ公開されていない史蹟の一つとして、西黄寺を紹介したことがある。今は亡き根箭さんをはじめ、桜井さん、以前に本誌の担当であった藤岡さんといったメンバーで、西黄寺の門前まで出かけたけれど、やはり入れなかったのは、記録を調べてみると、一九九二年の九月のことだった。

   また、五塔寺が描かれた図もある。似ているような、いないようなで、この絵などは、逆に本書の図版のリアリティへの評価を減ずるものかもしれないが、見ていただきたい。この寺が、石刻博物館となっていることは、これまでも書いてきた。彼はたまたまチベット僧の奏楽に出会って、詩に詠んでいる(五塔観楽)。

   『鴻雪因縁図記』に書かれた麟慶の人生行路とその挿絵とは、日本でも共感をよんだらしい。佐藤春夫は、昭和四年に、「鴻雪因縁図記」という文章を書いて、この書物を紹介している。彼が読んだのは光緒五年(一八七九)の石版縮印本だが、佐藤は挿絵について、「細かい線などまで割合見事にうつっている」と述べて、気に入っている。この石印本なら琉璃廠などでも、比較的安く売られている。

   ただし、筆者が今回利用したのは、北京古籍出版社から出た洋装三冊の影印本。底本は道光二九(一八四九)年刊行の木版本で、十五年ほど前の出版だから、今も手に入るかどうか分からないが、定価十五元は安い。どこかで見かけられたら、手にとってみていただきたい。

   脇道に入りついでに、北京にかかわる挿図本のことをもう少し続ける。

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