中国を集める59

奈良大学教授  森田憲司

   今回は、小湯山の温泉と離宮について書いてみたい。小湯山については、以前に明治の長城紀行を紹介したときにも触れたことがある。小湯山のある場所は、北京の東北、昌平県城からさらに東へ十四キロほど行ったところである。明朝の皇帝も利用していたようだが、この温泉に最初に離宮を建てたのは清朝の康熙帝で、康煕五四年(一七一五)のことであった。その後、乾隆帝なども愛用したが、義和団の時に八カ国連合軍に荒され、現在では療養所(北京市小湯山康復医院)となっている(以上は、『昌平県地名志』の記事による)。

   これも前に書いたように、かつては十三陵や長城に行く時、ここに立ち寄る人も多く、欧米人もよく来ていたらしい。そうした次第で、明治末年あたりの日本人の紀行文にはちょくちょく名前が出てくる。当時の小湯山離宮はどうなっていたのであろうか。

   そんなことを気にしていたら、明治三二年(一八九九)に北京を旅行した内藤湖南の「禹域鴻爪記」の中には、次のような記述があった(全集第*巻所収)。

   湯山は温泉を噴出するを以って行宮を置かれたるも、今は頽廃を極めて、大理石製の欄と床とを有せる、壮麗なる湯壷も、草間に埋没して、数十の房屋は見るかげもなく破れたり、猶ほ事務を管理する官吏あれども、之に一元を投ぜば、何人も入りて浴するを得べし。と書いて、彼自身も入浴している。どうも番人に金をつかませれば入浴できたらしい。まだ清朝が健在の時代に、離宮の浴槽に入浴できたというのは、現在の我々には解せないところだが。それに、一八九九年だと八カ国連合軍は北京にまだ入っていないから、それ以前から荒廃していたことになる。

   離宮の荒廃については、明治三九年に訪れた徳富蘇峰も、「其離宮の荒廃の甚だしき、泥まみれの靴を入るるさへ、気持ち悪しく候」と書いているが、やはり入浴はしていて、湯は清徹であると評している(『七十八日遊記』)。その他にも、建築史の伊藤忠太(明治三五年)、中国哲学の宇野哲人(明治三八年)、など、この温泉を訪れ、入浴した事を書き残している人は多い。

   さて、こうなってくると、この小湯山温泉離宮の写真が欲しくなる。探していたら、手もとの本の中から見つかった。明治三九年刊行(一九〇六、所蔵の本は四二年再版)の、『北京名勝』という名所風俗アルバムに、廃墟のようになった離宮の建物や庭の写真が二枚掲載されていた。内城の霞公府(今の北京飯店あたり)にあった、日系の写真館の山本照相館の出版である。ただし、離宮のどこなのか、写っている欄干が温泉のものなのかなど、何が写っているのかよく分からないの写真ではあるのだが。なお、この写真集では、湯山の次は十三陵、そして長城と写真が続く。位置的に当たり前と言われればそれまでだが、当時は一連のルートと考えられていたことが、これからもわかる。

   資料としての写真については、これまでも何回もこの欄で書いてきた。すでに書いたように、この種の写真集や絵葉書の類には転写が多く、図柄は類型化しているものも多い。だから、この『北京名勝』の写真も、どこまでオリジナルなのかどうかは分からないが、清朝末期の珍しい光景をいくつか見出すことができて貴重だ。城内の光景では当時の正陽門駅などもあるが、城外では、黒龍潭の廟の写真などは珍しいのではないだろうか。黒龍潭は、海淀区の西北部にあり、龍王が祀られた廟で有名な場所で、少なくとも明代からは皇帝の祭祀の対象となっている。昔は多くの人が訪れたらしく、前に紹介した大鳥圭介の『長城遊記』でも、長城の帰りに立ち寄っている。しかし、現在ではほとんど無名と言っていいであろう。筆者の記憶では、日本では、昨年か一昨年に北京の水源の神として一度テレビで取りあげられたことがあったような気がするくらいしかない。

   ところで、筆者の知るうちで、日本人の小湯山紀行で一番くわしいのは、北京で出されていた日本人雑誌『燕塵』に掲載された旅行記で、明治四一年に北京在住の邦人十三人が、十三陵、長城への旅行の途中で、湯山の関帝廟に泊まり、宴会をしている。この『燕塵』については、いずれ腰をすえて書きたいと思っているが、「かわら版」の祖先と言えるのではないかと思っている。

   残念ながら、今回の原稿では、締切の関係などで『北京名勝』の小湯山の写真を編集部へお届けすることができなかったが、櫻井さんから現在の浴槽の写真を提供していただけたので、それを見ていただくこととしたい。

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