中国を繙く31

「支那」は本当に悪くない言葉か(8)

櫻井澄夫

   前回、チャイナの連結形であるSINOについて触れた。辞書を調べてみると英語におけるチャイナの連結形には他に、CHINOというのがあるそうである。CHINO-JAPANESE RELATION(日中関係)という風に使う。補足しておきたい。それからSINOTRANでなくてSINOTRANSが正しいのでこれも修正しておきたい。

   さて、この連載も8回目でもう飽きられそうだから、不十分ながらそろそろ暫定的なまとめをしておきたい。私の「支那」とは何かという問題に対する現時点での答えである。

   (一)支那という言葉は、中国に始まったもので、その後日本で使用されるに至るが(詳細は別の書に譲る)、一部の中国人が言うように、日「本」と「支」那、つまり日本が中心(本)で中国が枝葉(支)とか、「死ね」とか、蒋介石が言ったという「死にかかった人間の意」というような語義、或いは意図は本来、全くなく、またある日本の政治家が言うように、孫文が作った言葉でもない。つまりこの言葉は本来蔑称でない。

   (二)しかるに、中国ではこの言葉は古い時代にはあまり普及せず、反対に江戸末期から明治時代に入って日本で広く使われるようになる。その使われ方は、英語のチャイナ、フランス語のシーヌなどとほぼ同様で、宋、元、明、清、中華民国、各軍閥など国名や政権がたびたび変化する国の外国からの呼称として、時代が限定されずに使用でき便利であったからと考えられる。

   (三)日本での「支那」の使用は、日清戦争前後より強まったといわれる。そのころ一般の日本人で中国(当時は清)や中国人を敵視、蔑視する考え方が強まったが、中国人(戦争後、日本への留学生が激増した)はこのころ、「支那」に対しては反感を持たず、インテリ(魯迅、梁啓超、厳復、章炳麟ら)は自らこの言葉を使用した。しかし「チャンコロ」に対しては反感を持った。このころの中国あるいは中国人に対するその他の呼び名としては、南京(南京町、南京虫、南京豆など)や蔑称の「チャンチャン」などがあった。

   しかし大正時代に入ると事態は一変し、日本による21カ条の要求などの押しつけは、一般の中国人を激怒させ、自分たちがあまり使わない「支那」、「支那人」を蔑称と考える人も出てきた。その傾向はその後強まった。そこで(一)にあげたような、俗説、誤謬も生まれた。

   (四)歴史的にはチャイナやシナは、秦と同様に主として漢民族の居住地を指していた。今でも、特に東西を問わず学問的に使われる場合は、その傾向が強い。また語源を一にするはずのチャイナ、チーヌなどが「支那」と違って批判の対象にならなかったのは、「支那」が日中共通の文字であり、一般の中国人が直ちに判読できる漢字によって書かれていたことも関係があろう。つまり「支那」が、アメリカ、イギリスの「CHINA」と同様の、日本語による日本からの呼称であるとは、認めがたかったものと思われる。(しかしヨーロッパで子供が中国人を見ると、「チーノ、チーノ」と言って追いかけたように、欧米において、「チャイナ」系の言葉が蔑称として使われたことが無かったとは言えない)

   (五)国家間ではたびたび「支那」を使用しないようにとの合意、あるいは要求が生まれたが、日本側では依然として「支那」が使用され、また合意(大支那共和国から大中華民国への1930年の変更)は国名についての合意であったためか、一般には必ずしも徹底せず、その傾向は第二次世界大戦の終了まで続いた。それまで(中国びいきの人も含め)一般の日本人のかなりの部分は、英語におけるチャイナと同じような感覚で「支那」を使用し、その流れは現在に至る。今でも日本国内のかなりの数のラーメン屋が、「支那そば」という言葉を使用しているのはその一例である。しかし中国居住の日本人などの間に、戦前から、「支那」を好まなくないと考え、「中国」を使用すべきと考え主張した人たちがいたことは銘記すべきである。

   (六)1946年、日本政府(外務省、文部省)は新聞社、学校などに「支那の名称を避けることについて」という公文書を送り、「支那」の文字を今後使わぬよう指示した。ここで注目すべきは、「唯歴史的地理的又は学術的の記述などの場合は必ずしも右に拠り得ない。例へば東支那海とか日支事変とか云ふことはやむを得ぬと考へます」といっていることである。これが日本で今に至るまで地図上などで「東シナ海」、「南シナ海」が使用されている背景なのであろう。

(続く)

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