no doubt



いつもとは異なる背中の感触に、無自覚な不安を感じながらも瑛里は目蓋を上げた。
見知らぬ天井。
…いや、知らないわけではない。
頭の片隅に残っている古い記憶…そう、ここは瀬口冬馬の家だ。
昔は何度か遊びに来ていたようにも思うが、ここ数年は自ら出向く事は無かった。
…じゃあ、なぜ今自分はその家で目を覚ますのか…?
 「瑛里さん、お目覚めですか?」
唐突に聞こえてきた聞き覚えの有る声が妙にウキウキしてるように感じられて
瑛里は眉間に不快感を露にした。
 「…なんで俺がお前んちで目を覚まさなきゃいけねぇんだよ…」
そう言って睨んだ先に有るのは、いつもと寸分違わぬ笑顔。この家の家主だ。
 「やっぱり昨日の事覚えてらっしゃらないんですか?瑛里さんにしては珍しいですね。
  記憶が失くなるまでに呑まれるなんて」
そう言えば・・・と、瑛里は昨晩の記憶の糸を手繰り寄せてみる。
確かに自分は呑んでいた。行き付けのバーで。
だが、そこに冬馬の姿は無かった筈だが…。
 「俺は1人で飲んでたと思うが?」
 「はい、1人で呑んでらしたみたいですね。でも僕は瑛里さんにケータイで呼ばれたんです。
  …つまりは、その時点から既に記憶が無かったということですね?…まぁいいでしょう。
  で、なんかベロベロに酔っぱらってらっしゃったので僕の家にお連れした次第なのです」
…なんで俺んちじゃなくて自分ちに連れ込むの?なんて疑問もあったが、なんとなく答えが
怖いので敢えて訊かないでおく。
 「しかし、あなた程にお酒の強い方が、ああも悪酔いされるなんて…。
  無意識で僕を呼ぶほどに…そんなにも寂しいですか?新堂さんがいない事が…」
 「……」
――――寂しい?
自分が…?
愁一が、レコーディングの為にとロンドンに向かってからかれこれ1ヶ月ほど経っている。
確かにはかどらない仕事にイラついていたようには思う…思うが…。
それが愁一と会えない事からくる寂しさの為だと…?
 「…俺がそんな事で寂しがるような人間だと思うか?」
 「じゃあ何をそんなにイラついてるんですか?お酒の量だって増えているでしょう」
 「それ…は…」
仕事が進まないから…と言おうとしたが、言葉が続かなかった。
物語を綴れなくなる事はこれまでにもあった。だが、ここまでイラつく事は無かった筈だ。

 ――1人が寂しい――?

 そんな筈はない…。
 そんな感情はとっくに失くした筈だ。
 あの日に置いてきたんだ…自分を守る為に。
 だから…そんなこと認めない。認められない―――。

 「…僕はね、あなたが悲しむのだけは絶対に嫌なんです」
 黙ったままの瑛里の頭に手を乗せ、穏やかな顔をして
 冬馬が笑う。

「…だけど、悲しみと同時に笑顔もくれましたよね、新堂さんは。
 ――たまには素直に自分から求めてみるのも良いんじゃないでしょうか…?」




 「…オレって幸せ者だよね。デビューして1、2年目の新人が海外レコーディングよ?
  これってかなり幸せな事だよなぁ…」
そろそろ見慣れてきたレコーディングスタジオに、ギターとボーカリストの会話がある。
 「じゃあなんでそんなに不幸そうな顔してんのよ」
 「…別に不幸っつーんじゃないんだけど…」
自分らの担当部分がとりあえず一段落ついて、今は小休憩である。
…と言いたいところだが、事実はそんな平穏なものではない。
愁一の声が出ないのだ。歌声が。
原因はただ1つ。そんな事、誰もがわかっている。
わかってはいるが…。
予定通りにCDを出す為に残された時間は3日。残された曲は2曲。
時間的にはまだ余裕が有るように見られた…が、いかんせんボーカルの声が出ない事には
曲は完成しない。
だからと言って、今から日本に帰って恋人に会ってまたロンドンまで帰って来るような余裕は
残されてはいない。
そんな事では確実に発売延期だ。
「…ホントにオレ…、情けなくてゴメン…」
会話から受ける印象よりもずっとずっと、愁一のダメージは大きい。
それがわかるから無理に歌わせる事も出来ない。
「アンタ…今日はもう帰った方がいいわ」
レイジが呟く。
 「ただしあげれる時間は1日だけよ。それで自分でどうにも出来ないようなら、発売延期は
  覚悟してなさい。プロとしてそんな事、許されない事だけどね」
 「なんだよレイジ、マネージャーっぽい事言ってんじゃんか…」
苦笑まじりに言ってみせる愁一だが、心の底からレイジに
感謝したい気分だった。
1日という時間で何が出来るかわからない…。
だけど今の自分にとっては少なくとも無理に歌う自信など
無かったのだから…。
 「本当に悪い…」

愁一がいなくなった後のレコーディングスタジオ。
ボーカル以外の部分の録りが進められた。
 「新堂さん、本当に1日で復活出来るんでしょうか? 根本的には何の解決にもなってないような
  気がするんですが…1日だけの休みって…」
藤崎順が自分の仕事を終えて出てきた。
 「まぁな。こんだけマイってんのはやっぱ”彼”が原因だろうけど…。でも、こんな状態で無理に
  歌わせてたら本当にマイっちまうからな。あいつもプロなんだし。オレはその辺、愁一を信じるぜ」
そう言うとヒロは持っていたコーヒーの紙コップに口を付けた。




 部屋に戻って来た愁一は、力無くベッドに倒れ込む。
ふと、枕元のスタンドにあった灰皿が目に入った。
使う者のない灰皿。
自分の周りでは、吸い殻の入ってない灰皿など有り得なかったのに。
ここには、この灰皿を使う主がいない。

 (なんでアイツじゃなきゃダメなんだろう…)

昔は、何があっても歌は歌えてた。それが自分にとっての1番「大切」な事だったから。
だけど…アイツと出会ってしまった―――。
歌う事はもちろん今でも大切だ。
だけど、大切なものが1つではなくなってしまった。
そのどちらが欠けても、自分が自分じゃなくなるんだ。
片翼では空は飛べない。

飛べなくなった鳥は、失くした翼を―――――――求めてる。


 玄関から聞こえるチャイムの音で、愁一は目を覚ました。
いつの間にか眠っていたようだ。
そう言えば、ここ最近ちゃんと眠ってなかったように思う。さすがに疲れていたのだろう。
気付くと、窓からオレンジ色の光が差し込んでいる。
それはさておき、客人である。
ロンドンに自分を尋ねてくる知り合いなんてのがいるわけないのだから、自分を心配した
ヒロがお見舞いにでも来てくれたのか…?などと考えてはいたのだが、開けたドアの前に
立っていたのは予想していた人物ではなかった。
ただし、ここには到底いる筈のない人物。
日本人でありながら日本人離れしたその容姿。
例えば、この国の街中を歩いていたりしても、違和感なく溶け込むだろう。
だが、今の自分の視界の中では溶け込んではくれはしない。
それどころか、その輪郭だけがはっきりと浮き立ち…。
1番見慣れているのに、いつまで経っても見慣れない人物。

――――由貴瑛里…だ――。

……幻覚…?
心の中で呟いたつもりだった愁一だが、口に出していたのだろう。
瑛里は心底呆れた顔を向けた。
 「アホか、お前は。」
 「だ、だって…!」
だって、あんたがここにいる筈がないだろう?!
いくらなんでもそんな都合良く…と色々と言いたい事は山程あるが、上手く言葉にならない。
こんな状況で冷静でいられるほど、人間出来ていない。
ただ、久々に聞いた耳に残る甘い低音に涙腺が緩みだす。
自然と手が伸びる。確かめるように。
恋人の元へと。
ただ言葉が出てこない。 けど、他のどんな言葉を言えなくても構わない。
この言葉だけ言えればそれでいい。
こっちに来てからずっと我慢していた言葉。
 「…会いたかった…っ」


[2]へ続く