長い…長い夢を見ていた気がする――――

    誰かの泣く声がする
    振り返った場所にいると思ったのだけれど そこには誰もいなくて
    ただただ 声だけが頭に響くばかりで…
    早く 見付けてあげないと
    手を 握り返してあげなければと わかってはいるのに
    涙が涸れてしまう前に――――




激しくドアを開ける音が、室内に響く。
勿論、予想していないわけじゃなかった。だけど、そんな事は起きなければ良いと願った。
しかし、愁一がここに来たという事は、想定出来る一番最悪な事態を辿っているということを
暗に示していた。
「…瑛里さんに、何かあったんですね…」
いつにない暗鬱を浮かべた冬馬の問いに、愁一が今にも泣き出しそうな顔で切れ切れに答える。
「由貴が…一週間経って帰って来なかった時は、ここに行けって…」
精一杯で何かを抑えている。強く握り締めた拳が、白くなる程に。
「今日で丁度一週間、というわけですか」
愁一は黙って頷く。声を出したら、箍(たが)が外れてしまいそうで怖かった。
「…それで? あなたはどうしたいのですか、新堂さん」
「…オレは……オレは、由貴を助けに行きたい…」
それまでずっとパソコンの画面に向けられていた冬馬の目が、初めて愁一の方に向けられた。
電源をオフにし、真っ直ぐに愁一を見つめる。
「―――あなたに、何が出来るのですか?」
「…っ…」
愁一は息を詰める。
未熟さは痛いほど自覚している。瑛里の足元にすら到底及ばない。
自分に何が出来るかと問われたら、出来ることなど
何も無いというのが正しい答えかもしれない。
わかってる、誰が見たってそう答える…。
だけど―――。
その答えは、自分の中の”答え”じゃない。
何が”出来る”かじゃなくて何を”したい”か。
「オレは由貴を助ける…。…助けに行く」
先程までとは違う、強い意思がその眼差しに在る。
愁一の眼差しを受け、冬馬は一つ息をついた。
「…わかりました。どうせあなたは止めたところで聞かないでしょうからね。
 じゃあ一つ、あなたにお守りを渡しておきましょう」
そう言って、デスクの引き出しの最奥から取り出したのは、一丁のオートマティック式小型拳銃。
「瑛里さんが以前に使用していた物です。使い方くらいは習ったでしょう?」
「え、あっ、はい…」
愁一はデスクの上に置かれたピストルを手にする。黒光りするそれは、確かに見覚えがある。
忘れもしない、瑛里と出逢ったその日、瑛里の手にあったものだ…。
それからも、何度か目にする事があった。
だが、何時の頃からだったろう。今のCOLT PYTHON(コルトパイソン)に変わったのは。
「本当は瑛里さんとの約束だったんですけどね、あなたには絶対に銃器を持たせないという事。
 手を汚すのは自分だけで十分だと…仰ってました」
「由貴…が…?」
「瑛里さん、その為に今まで使ってた型から今使用してる物に変えたんです。…自分の手で
 あなたを守ろうとしたのでしょうね」
…全く、そんな想いには気付かずにいた。瑛里が今の型を使い出したのはかなり以前の事だ。
それなのに自分は、全くその意味さえ知らなかった。
そんな自分の情けなさが…悔しくて堪らない。
「オレは…何も知らないで…っ」
愁一は目を伏せ、自分自身への怒りを吐露する。
「別に瑛里さんも、あなたに知って欲しいなんて思ってなかったでしょう。そういう人なんです、
 瑛里さんという人は」
「パートナーになって…力になれるって一人で舞い上がって…。オレ、もっと強くなりたい…」
――ふと、冬馬の表情が和らいだように見えた。愁一も気付かなかった、ほんの刹那。
「…大丈夫ですよ、あなたはまだまだ強くなれます。現に僕との約束をずっと守ってるじゃない
 ですか。”必要以上に泣かない事”。あなたの涙は、それ自体が瑛里さんの負荷になります
 からね」
お荷物になるのだけはとにかく嫌だった。足枷にならないようにと頑張ってきたつもりだった。
だけどこういう時、嫌というほど己の非力さを痛感する。強くなりたい。もっと―――――。
「…ただまぁ、すぐに強くなれるものでもありませんから。今回は、僕も一緒に同行させて
 いただきますよ。瑛里さんに手を出したからには…相手の方に代償を払っていただかないとね」
いつもと変わらない、淡々とした口調で語られた言葉の羅列だが、明らかに違う色が含まれて
いた。それは”敵意”と称すべきものだろうか。
いつも人好きのする笑みを湛えているというイメージしかなかった冬馬の、明らかな怒りを、
愁一は初めて目の当たりにする。
表に出す事はなくても、内に秘めるものは誰よりも激しいのかもしれない。
「ただ一つ、覚えておいて下さい。その銃を受け取るからには絶対に守っていただきたい事。
 今お渡ししたピストルは、人を殺める為の道具ではなく、誰かを守る為の道具だという事を。
 これは、僕の言葉としてではなく、瑛里さんの言葉として頭に入れておいて下さいね…」
「…由貴の…」
愁一は、手にあるピストルを改めて見直す。
そこに込められてきた様々な気持ちを、今自分は手にしている。
由貴瑛里の―――。
「”守る為”のもの…」


「…ところで新堂さん、一つ質問が有るのですが。瑛里さんの行き先は分かってるのですか?」
「あ…」
そこで初めて気付く。瑛里と樹把が向かった場所など、聞いてはいなかった事に。
「そんな事だろうと思ってましたよ。まぁ、その点は僕に任せて下さい。明日までにはなんとか
 情報を集めておきますから」
「お、お願いします…」
ますます愁一は、自分が情けなくなる。いつだって考えなしで無鉄砲な自分が。
この組織に入ってから2年以上経ってるのに、こういう時何から始めていいのかすら分からない。
いつだって、瑛里の後ろを尾いて回っていただけだった。瑛里がいなければ、何一つとして
全うする事が出来ないだろう…。
「気持ちだけで突っ走るのは、この世界に於いては厳禁ですよ。情報が無いことには、大抵
 失敗に終わるのがオチですから。出来る限りの準備を、怠らないことです」
「…はい」
瑛里が学んで来た事を自分も学んで行く。
そして、瑛里がこだわり続けてきたものを、自分が受け継ぐ。
瑛里ほどに実力の伴わない自分がこんな事を言うと他人は嘲うかもしれない。だけど、気持ちの
強さなら誰にも負けない。
守りたいものは―――ただ一つだ。
まだまだ学ばなければいけないことは山積みで、なんて非力なのかと思う事も多いけれど。
守られるだけでなく、守りたい。
気持ちだけの先行ではなく、実際に「力」になれる人間でありたい。

願わくば―――――。




「ん……」

開こうとした瞼があまりに重くて、瑛里はもう一度目を閉じる。
何度か同じ事を繰り返したのち再び外気に晒した瞳には、見知らぬ天井が映っていた。
状況が把握出来るほど、脳は覚醒しておらず、周りを見渡すような気力もない。
何が起きたのか、思い出すのも億劫なくらいのだるさが全身を支配している。
何が…起こったのだったろう…。
「…目ェ覚めた?」
聞き覚えの有る声が、自分の隣から聞こえる。
「たつ…は…?…つ…っ」
瑛里は上体を起こそうとしたが、腹部に激痛を感じ小さく呻いた。
「まだ起きちゃダメだって。急所も外したし弾も貫通してっけど、結構出血は多かったから
 身体ツライだろ」
「…撃ったのはお前だろ…」
「まぁ、そうなんだけどさ」
大して悪びれる様子もなく、さらりと肯定する。
まだ目の前が暗い。貧血からくる眩暈の所為か。それとも別の要因か…。
「でもビビッたぜ。3日も寝たまんまだからさ。ホント死んじまうんじゃないかって…」
「…お前は、それが望みだったんじゃないのか?」
「オレは…っ」
瞬発的に言い掛けた言葉を、喉元で押し潰す。沈黙が部屋を支配する。
しばらく瑛里を見つめていた樹把だったが、何かを振り切るかのように口を開いた。
「オレが望んでんのは一つだけだよ。…あんたが開放される事だけ」
瑛里の頬に手を差し伸べる。瞳は真っ直ぐに瑛里を見つめたまま。
「俺は別に…何かに束縛されてるつもりはない…」
静かに語る瑛里。だけど樹把は知っている。瑛里を束縛するものを…。
ずっと昔に交された、瑛里と冬馬の間の一つの約定。
「なんでだよ!あんた、オレをあそこから出す為に瀬口と何の取引をした?! 一生を瀬口に
 捧げるとでも言ったんだろ?!」
ほとんど無意識で樹把は瑛里の身体にまたがっていた。両の腕を押さえ込む。
気が遠くなりそうな程圧迫された腹部の痛みに、瑛里は
抗うので精一杯だ。
「――つ…っ!……言って…ねぇ…よ」
「そんな嘘通じると思ってんの? それでホントに
 オレが幸せだとでも思ってんのかよ!」
傷口から再度滲み出だした鮮血が、包帯に新たな染みを
作り出していた。
その部分に手を当て、樹把が瑛里の耳元で囁く。
「痛い? 痛いだろ、ココ。大事な大事な兄貴のカラダが
 傷付けられたって知ったら瀬口が黙っていないだろーね。
 オレ、殺されるかな」
「…ぅ…あ…っ!」
樹把の手が更に傷口を弄る。遮断された思考回路に、
声が遥か遠くから聞こえてくるような錯覚さえ覚える。
脳の中枢に何かを打ち込まれたようだった。
「まー、思い通りにさせてやるつもりもねぇけど。…渡さねぇからな、兄貴は」
「…た…っつは…っ」
やっとの事で傷口が樹把の手から開放されたが、身体を伝って脳髄に叩き付けられる痛みは
まだ治まらない。瑛里は、肩で激しく呼吸を繰り返す。
樹把が、手に付いた血を舌で拭い取ったあと、瑛里を見た。
「オレは、兄貴さえいればあとは何でも良かったんだ…」
「……」
傷口の痛みは徐々に引いてきて、少しは言葉の意味を理解出来るようにはなってはきたが、
先程までとは違う痛みが、瑛里の内に生まれていた。
身体に付けられた傷とは違う、それは深い処の傷の痛み…。
瑛里の腕が樹把の頬に伸ばされる。だが、触れる寸前のところで手首を掴まれ、止められた。
「オレの事は離したくせに…なんで愁一は傍に置くんだ…?」
瑛里も見た事の無い、捨てられた子供のような目をした樹把がそこにいる。痛いくらいの
感情を携えた―――。
瑛里は、その目を直視する事が出来なくて、無意識で視線を逸らしていた。
「…あの時の俺には、お前を守る力なんて無かったんだ。だから…お前をあそこから出す事
 くらいしか俺に出来る術は無かった…」
「じゃあ、オレの気持ちは? どうでも良かったんだ?」
「……」
自分のエゴだったと認めないわけにはいかない。ただの自己満足だったと―――。
願いは自分の願いでしかなく、樹把の意思を蔑ろにしたのは事実だ。
無言の瑛里を吹っ切るようにして樹把は、瑛里の身体から離れる。
腕を掴もうとした瑛里だったが、掠っただけで届きはしなかった。まだ、熱を帯びたような鈍い
痛感が腹部に残っていて、身体の動きは鈍い。
「きっともうすぐここに瀬口が来る。だからオレは、目的を果たさせてもらうぜ。その為に北沢とも
 組んでるんだしな。お互いの利害の一致でね。…その目的の為には手段なんて選ばねぇよ」
「北沢…! あいつどこに…っ」
「さぁ? お互いに干渉しないってのが約束だからな。いちいち行動なんて把握してねぇよ」
そのまま樹把は扉の方へと歩いていく。
「待て、樹把…っ」
起き上がろうとした瑛里だったが、足が縺れて動かない。そこで初めて、足首を布のような物で
縛られてる事に気付く。どうにか身体を起こそうと試みるが、腹筋が使えない事には上体を
起こす事すら儘ならない。瑛里には、樹把の行く先をただ目で追うことしか出来なかった。

「…お兄チャンは、そこで待っててよ」

それだけを言い残し、樹把は後ろ手に扉を閉ざす。
笑みを浮かべて樹把が零した言葉には、あまりにも表情とは対照的な色が含まれていて。
このまま行かすわけにはいかないと、止めなければいけないと感じたけれど、再び薄れつつある
意識がそれを邪魔して、瑛里はただ、意識を手放した…。


「兄貴が目を覚ましたぜ」
「…そう」
瑛里が眠る部屋の壁を一枚隔てた隣の部屋に、樹把と北沢がいた。
会話をするには少し不都合な位置関係に有るソファとテーブルチェアに、それぞれが腰を下ろして。
顔を向き合わせて会話する気など、どちらにも毛頭無いのだろう。
「瑛里くんが、本当に死んでしまったらどうするつもりだったんだい? 大事な”お客”なんだよ?」
淡々とした口調で北沢が告げる。その口調からは、いまいち感情が汲み取れない。
「…わかってるよ。でも手負いも無しで兄貴を拘束しようなんて所詮無理な話なんだよ。オレが
 兄貴の実力を知ってる。兄貴を甘く見てると痛い目見るぜ、北沢サン」
横目で、北沢は樹把を垣間見る。その視線は、ひどく冷淡なものに見えた。
「あははっ…オレも彼と会ったのは9年ぶりだからね。きっと腕を上げたんだろうな。あの頃とは
 比べ物にならないくらいに。…楽しみだね」

そう呟き、北沢有希はひとつ、冷笑を浮かべた。



<<page2 page4>>