液晶の画面に、都内の地図が映し出されている。
「…瑛里さんがいると思われるのは、ここですね。この建物」
画面の中心部に、赤く光る一点があった。それは、都会のど真ん中に位置する所。
この冬馬の事務所からも、そう遠くない場所だ。
もっと、ずっと都心から離れたところだろうと予想していた愁一は、意表を突かれる形となった。
しかし、いつもの事ながら冬馬の情報網には低頭してしまう。たった一日で本当に瑛里の居所を
掴んでしまったのだから。
普段の依頼でもそうなのだが、依頼書と一緒にその件の情報を渡される事も少なくない。
依頼を請けた時点で、その依頼が組織が動くに値するかを徹底的に調べ上げるのである。
それを、冬馬と助手の坂野の二人で全て行っているのだから、自然と情報網が拡大されていても
おかしくはないだろう。
ただし、それには少額ではない”情報料”というものが動いてると思われるが…。
「ただ、どうしても腑に落ちないところが有るんです。…余りにも簡単に居場所が分かり過ぎて
 かえって不自然ですね。向こうが、故意に情報を流してる可能性も考えられます」
「え…っ、それってどういう…」
「誘い出されてる、と考えるのが妥当でしょう」
冬馬の持つ情報網を解した上での行動なのは明らかだ。その上でこちらを誘引しようとしている。
余程の切り札が有る事を、如実に語っている。人質、という名の―――。
広げていたノートパソコンを折りたたみ、冬馬は愁一を見た。
「行動は慎重さを欠く事の無いように。何度も言うようですが、感情的に突っ走るのは厳禁です。
 僕は瑛里さんのような人間ではないですから、あなたの安全まで責任は持てませんよ」
「…はい。分かってます」
ここから、自分を守るのは自分自身だ。
「それでは…行きますよ」
ジャケットを着込んだ冬馬が、車のキーを握り締めた。




「生きてたとはな…」
目の前にいる男を睨め付け、瑛里が吐き捨てるように言う。
再度、意識を取り戻した時に最初に目に映ったのが、誰でもない、
北沢有希だった。
9年経っていても、纏う空気は何一つ変わっていない。
あの頃のままだ。声も、目も。
声が脳に届く度に記憶がフラッシュバックして吐き気がしそうだった。
「嬉しかった? 死んだと思ってた奴が生きてたって事」
薄い笑みを浮かべて北沢が口にした言葉には、声音ほどの優しさなど
こもっていないことがはっきりと感じられた。
語りかけるような語調も変わっていないが、そこに感情が存在しない事も
昔と変わってはいない。
「…裏切ったのはあんただ。死ぬ事は当然の報いだった」
「でも、俺はこうして生きてる。君の目の前にちゃんといるだろう?
 つまりは俺の罪なんて大した事じゃなかったと神様が認めてくれたって
 事かな」
「っざけるな…!」
握り締めた拳が怒気で震える。だが、北沢の表情は微動だにしない。
「依頼人が請負人をたばかる事が最大のタブーだという事は、知っていた
 筈だ。なのにあんたはあんな形で裏切った。何が赦される…っ」
「相変わらず君は正義感が強いな。だから心の中にずっと俺がいたんだね。…初仕事の依頼者を
 自分の手で撃ち殺す事になるなんて…忘れられない傷にもなるかな」
「…っ!」
息が詰まる。心の奥底に押さえ込んできたものを、引き摺り出されて強い力で抉られたような
感覚だ。ひどい頭痛と眩暈がする―――。
「――兄貴苛めるのもその辺にしたら? 北沢さん」
近くの壁に背を預けて二人の様子を黙って見ていた樹把が、口を挟んだ。心なしか少し不機嫌な
ようにも見える。
「おいで下さったようだぜ、社長さんが」
窓の外を、顎で指し示す。
「瀬口くん? 思ったよりも早かったな。よほど…瑛里くんの事が大事なんだね」
「せ…ぐち…」
北沢は瑛里を一瞥し、笑みを浮かべた。
「悪いけど樹把くん、瀬口くんをここまで連れて来てくれるかな」
渋々といった面持ちで樹把は、扉へと向かう。”依頼人”ではあるが、それ以上には何の感情も
抱かない相手に、顎で使われてるようなのはどうも納得がいかないのだろう。
だけど、今はそんなことで揉めてる場合でもない。樹把は二人を残して、部屋をあとにした。

「…君にまた会えて嬉しかったよ」
二人きりになった部屋で、北沢が静かに口を開く。
「変わってないよね、あの頃と。顔付きも身体も成長してるのに、持ってるものは何も変わらない。
 変わっていたのなら、あるいは許す事も出来たかもしれないのにね…」
…何故だろう。
立場的には全く違う位置にいる筈なのに、同じ事を想うのは――――。
「…あんただって、何も変わっちゃいない」
お互いに変わっていれば、何かが違ったのかもしれない。互いに引きずっているだろう、過去を。
9年という月日が、まるで無意味だったような。癒える筈の傷が、余計に膿んでいくような…。
「結局、今回のあんたの目的とは何なんだ…?」
「目的…? さぁ、なんだったかな…」
さして考える風もなく、北沢は窓の外を眺めている。はぐらかす、と言うよりは、本当にどうでもいい
話なんだと思ってるように、瑛里には見えた。
「…長いこと恨みを持ってるとね、何が元の気持ちか分からなくなるんだよね。忘れようとした事も
 有ったように思うけど…忘れられないんだ。俺はね、あの時から右足が動かない」
「…?!」
「神経がイカれちゃったらしくてね。二度と動く事はない。右足の銃創を見る度にあの日のことが
 過去じゃなくなって、その所為で俺は気持ちを風化させる事が出来ないんだよ」
―――今でも鮮明に残る記憶。
怒りだったか、悲しみだったか。既に狙いなど定められる状況ではなく、ただ無心で引き金を
引いていた。
どこに当たったかなんて、覚えてはいない。一発ではなかったのかもしれない。
だけど流れる血の紅さは、昨日の事のように今でも鮮やか過ぎる色で脳裏に焼きついている。
「君たちさえ邪魔しなければ、目的を遂行出来てたというのにね」
「…あんたにとっては、俺たちはチェス盤上の一つの駒に過ぎなかったんだろうが…その駒に
 俺と瀬口を選んだことがあんたの過誤だったんだ」
「…そうかもしれないな」
しばらく沈黙が続く。そして、先に口を開いたのは北沢の方だった。
「だけど俺には選択肢は一つしかなかった。そしてそれには、どうしても君たちレベルの人間が
 必要不可欠だった。だから、後悔はしていないよ。…ただ、怨んでいるだけさ」
「…単なる逆恨みに付き合うつもりはない」
「君に付き合うつもりはなくてもね。止まっていた秒針は、既に進み出してしまっているんだ。
 …ほら、瀬口くんが来たようだよ」
遠くから、足音が響く。ゆっくりと二つの足音が、規則的な音でこちらの部屋に近付いてくる。
仕事柄、そういう物音には敏感な筈だったのに、北沢に振られるまで全く気付きもしなかった。
普段の判断力を欠いているならば、今の自分に勝ち目などない。
だけど、負けるわけには絶対にいかない―――。

ガチャ。
扉が開かれる。先に顔を出したのは樹把だった。
「連れてきたぜ」
「ありがとう。――久々のご対面だね…瀬口くん?」
樹把のあとに、顔を出したのは冬馬。
「…やはりあなたでしたか、北沢さん」
表情を変える事がなかったのはさすがと言うべきか。だけど、警戒心を抱いているのは否めない。
静かに冬馬は、北沢を見据えている。
「なんだ、バレてたんだ?」
「そういう情報が入ってきてましたから。こちらの情報網を軽視しないでくださいよ。あなたの
 生死くらいすぐ分かります」
「さすが敏腕社長、と言ったところかな」
愉しそうに、北沢は喉の奥で笑う。まるでゲームを楽しむように。
いや、北沢にとっては全てが遊戯なのかもしれない。こうした会話でさえもが。
「じゃあ君は、僕が生きてると知っていながら瑛里くんに隠していたんだ?」
瑛里が、軽く目を見開く。
「…そうなのか、瀬口…」
瑛里が冬馬を見る。その瞳が、回答を躊躇わせる。
責めているのか、悲しんでいるのか。感情は伺えない。
瑛里自身ですらもきっと、自分がどんな顔をしてるかなんて判っていないだろう。
「確かに…隠していたのは事実です。どうしても言えなかった、僕には…。思い出さないで生きて
 いけるなら、それが一番良いと思ったから…」
「……」
何も言わずに、瑛里はただ真っ直ぐに冬馬を見つめる。
知っていたら何かが違っていたのだろうか…そんな事を考えても、無駄だという事は解ってる
つもりだ。知らなかったから今がこうなってる、とかは思わない。仮に知っていたとしても、
”現在(いま)”というものは、何も変わらなかったかもしれない。
…だけど何故―――。
知っていたかったと思うのだろう。知って何を想いたかったのだろう…。
「いや、いい…。…知っていても何も変わらなかった」
言い聞かしてるように見えたのは気のせいだったのだろうか。
責められない方が、余計に痛いこともある。
「どっちにしろ、北沢が生きてたという事実がここにある。今は…それだけだ」
冬馬に向けていた視線を、瑛里は北沢に向けた。
迷いは命取りだ。自分の信じたものを信じ切るのみだ、今は。
「それで? どうしたいんだい、瑛里くんは」
「それはこっちが訊きたい。あんたはどうしたいんだ…」
訊き返されたことが意外だという風な面持ちで、北沢が瑛里を見ている。だけど、すぐに表情は
元に戻る。薄い笑みを浮かべた表情に。
「そうだね…過去は変わらない。だから俺は”再生”を望むだけさ。その為にね、君たち2人には
 消えてもらいたいんだ、俺の記憶からね――――」
「っ! 避けろ瀬口!!」
「!」
咄嗟に身体を移動させた冬馬の耳元で、風が薙ぐ音がした。
銃声が、後を追うように耳に届く。
頬に掠った物がある。確かめるように、自らの手を伸ばしてみると、
何か液体のような物が手に纏わり付いた。
目に入れて初めて認識する。それが血液だという事を…。
「…さすが兄貴。撃鉄をおこす音だけで分かっちゃうんだもん。
 こりゃ、一筋縄じゃ無理だわな」
樹把の手に、瑛里の銃・COLT PYTHONがある。銃口からは微かな煙が
上がり、静かにくゆらいでいた。
「樹把…さん…っ」
珍しく怒りを面に出した冬馬が、樹把を睨み付けている。
「オレって優しいからさぁ。…兄貴のピストルで死ねるなら本望だろ、
 瀬口さん?」
「やめろ樹把っ!」
二度目の銃声が響く。
今度はわざと外したのであろう、冬馬の足から数ミリの床面を抉っていた。
「瀬口サンにお願いがあるんだけど。…いい加減、兄貴を解放して
 くれないかな」
銃口は冬馬に向けたまま、樹把は冬馬に問う。
もちろん、選択肢を与えてるつもりはない。
”YES”というアンサーしか認めることはないだろう。
「…瑛里さんが、それを望んだのですか…」
冬馬がポツリと呟く。
「瑛里さんがここから出たいと仰ったのですか? あなたはただ悔しかっただけなんでしょう?
 …瑛里さんの傍にいられない事が」
諭すようでもなく、説得でもない。樹把にとっては、嘲りでしかなかったかもしれない。
だけど、反論の余地を与えない絶対的な言葉の強さがあり、樹把は何も言えなかった。
「お前は何か勘違いしているが…組織を抜けないのは俺の意思だ。瀬口のせいじゃない」
瑛里が、静かに樹把を見据える。
「なんでだよっ! あんたみたいな人間が、仕事とは言え人を殺して平気なわけがないだろ?!
 強制じゃないなら何だって言うんだ…っ」
ピストルを握る手が僅かに下に角度を変える。迷いが生じてるのかもしれない。内での葛藤が。
何の為に時機を待っていたのか。今までの全ての意味を失うようで、怖ろしくてそんなことは
認められない。認められる筈がない。
「俺がやってるのは、人殺しじゃない。昔は確かに迷った事もあったけどな…今は違う」
「どんなに正当化しようったって、やってる事は同じだよ…。人殺しに違いないだろ?!」
「お前は解ってない…瀬口がそんな仕事は回さない」
瑛里は一度目を閉じ、再び開いた瞳で静かに樹把を見据える。
「俺は今、不幸じゃない。お前が不幸にしようとしてるだけなんだ…」
「…っ…」
ピストルを構える指先が少し震えている。怒りなんてものじゃなく。何と表現すべき感情だろう。
躊躇や戸惑いか。崩壊への畏怖か。
聞きたくて…聞きたくなかった言葉を聞いてしまった気がする。
「それは…愁一がいるから…? 兄貴がそんな表情(かお)するのはあいつがいるから…?」
「さぁ…どうだろうな……」
「…ったく…こんな時まで素直じゃないね、兄貴は―――」
瞬間。
踵を返し、冬馬の方に身体を向けた樹把は何かを決意したように冬馬を見据え――――。
直後、3発の銃声が連続で響く。
止める間などは寸分も無く、何が起きたかを理解した頃には部屋はシンと静まっていた。
「瀬口…!」
「…大丈夫です。大した傷じゃありません…」
冬馬が、微動だに出来ないでいる。左腕には裂けたシャツに赤い滲みが出来ていた。
「掠っただけですから…」
確かに血液量からして、直撃したわけではなさそうだった。
だけど、どんなに我慢しようとしても、痛みに顔が歪んでしまう。腕を伝って指先に到達した
血液が、床にポツリポツリと落ちていく。
「これで5発使った。銃弾はあと1発。最後はわざと外すようなことはしないぜ」
そう言うと同時に、樹把は冬馬の頭を狙い定め、安全装置を外し…。
「樹把ぁ…っ!」
止めに入れる距離じゃなかった。不可能な距離だった。
だけど――――。

…カチン。

確かに引き金は引かれた筈だった。
だけど、聞こえてきたのは予想していたよりもずっと微弱な音だった。
銃声ではなく、小さな金属音。
「…なぜ……」
無意識でポツリと呟いたのは冬馬だった。確かに、もう終わりだと思った。誰もが。
一歩踏み出したところで動けなくなっていた瑛里も、状況を理解出来るような状態じゃなく
ただ立ち竦むしかなかった。
時が刻まれなくなったかのように、ただ、部屋を静寂が包む。
「―――……最初から、このパイソンには5発しか弾は入ってなかったんだよ」
沈黙を破ったのは、樹把のそんな言葉だった。
「いざって時の為に弾を1発抜いてたんだ。ま、”いざ”って時がこういう状況だとは全く思って
 なかったけど…」
樹把は、ニッと笑って勝ち誇ったような顔を向ける。
「6発装弾式だからって6発入ってるとは限らないんだぜ、お兄チャン」
まだ呆然としていた瑛里は、ふと我に返る。が、弟の言葉に怒る気力さえも失う。
「お前…帰ったら絶対殺すからな…」
やっと口に出来たのは、そんな言葉だけだった。
「おお、こえ〜ッ。兄貴ホンキで怒らすと怖いからな。―――もっとも…」
周りには聞こえないくらいの小さな声で呟く。
「殺されても文句は言えないようなことをしてしまったけどな…」
俯いていたけれど、確かに小さく微笑んでいた。自嘲だったのか。安堵だったのか。
その真意は誰一人として知らない。
「兄貴、これ返すわ」
下に向けていた顔をおもむろに上げ、持っていたピストルを瑛里の方に投げて寄越す。
「まぁ、弾切れの銃なんて役立たずもいいとこだけど。それでこれからも愁チャン守ってやんだろ?
 大事に仕舞っとけよ」
「…人が気を失ってる間に勝手に奪っといてよく言うぜ…」
ニヤリと笑って言う樹把に、瑛里はうんざりした表情を向ける。
つい先ほどまでの緊張感が嘘のような、そんな軽い口調の弟につい自分もつられていることに、
きっと瑛里自身気付いていない。
「…あーあ、バカバカしい。オレ一人バカじゃん。……いや、もう一人いたっけ。同じバカ」
樹把はくるりと、身体の向きを変える。…北沢の方向に。
「…まぁそんなわけなんで、オレは目的を見失ってしまいマシタ。なので、アナタとの契約もここで
 終わりにしたいと思いマス。」
「樹把…」
「契約金は全額返すし。まぁ、依頼人のよしみで兄貴たちの味方にはならずにいてやるよ。
 ここからオレはただの傍観者にならせてもらうから。3対1なんて可哀想だしな?」
「…勝手なこと言ってくれるよね。君に哀れまれるなんて、俺もまだまだだな。まぁ始めから
 期待はしていなかったし? 愉しい余興を見せてもらっただけでも感謝するよ」
余裕を失う様子はない。やはり、優越を含んだような笑みを湛えている。

「これであの日と同じ状況になった訳だ。―――さぁ、始めようか?」


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