長雨。
霧雨の降る中、透るような歌声が響く。
まるで不要なものは全て雨に流されたかのように。
その声だけが届く。
手の届く距離にあるけれど触れることは叶わなくて、絶対的な聖域のように存在する。
ふと、消え入るようにその声が途絶えた。
瑛里は、少しだけ開いていた窓を閉め、アクセルを踏み込んだ―――。





「―――以上だ」
瑛里は広げていたノートパソコンを閉じた後、派手な音を立ててソファの背もたれに体重を預けた。
「今回はいつになく迅速な解決でしたね。ご苦労様でした」
それまで黙って瑛里の話を聞いていた冬馬が、にっこり笑って労う。
華やいだ都会の真ん中にあるその場に不似合いなグレイの建物…ここは瀬口冬馬の事務所だ。
いつものごとく瑛里は仕事が終了した報告の為にここを訪れていた。そして今、報告が終わったところ
だった。
「そう言えば…」
冬馬が思い出したように切り出す。
「最近、あまり無茶をしなくなりましたよね。瑛里さん」
「あ?」
意味が解らずに反問する。仕事の仕方を変えた覚えはない。いつもと同じように、ただ依頼通りに任務を
遂行しているだけだ。
「もちろん、こちらとしては嬉しいんですけれどね…なんだか最近の瑛里さんを見ていると、無理をなさって
 いるんじゃないかと思えて。あまりに仕事を難なくこなされてて…」
「…いつも通りだ。ミスの無い仕事に何の問題がある」
瑛里は煙草を一本取り出し火を点ける。ゆっくりと大きく息を吐き出した。
何も変わることはない。いつもと同じだ。
「何も無ければいいんです…」
それ以上、冬馬も問うことは無かった。無理に問いただそうとすれば、余計に口を閉ざしてしまうのは
分かっている。だからそれ以上続けることは無かった。
吸い終わった煙草を灰皿で潰し、瑛里が腰を上げた。
「用件は以上だな。俺はこれで帰る」
「はい、ご苦労様でした。また仕事が入ればご連絡しますので」
素っ気無いと言えば素っ気無いが、それがいつものことだった。報告を終えたら特に居座る理由は無い。
瑛里は、ノートパソコンを仕舞い込み、部屋をあとにした。


静かになった部屋に、ドアを叩く音が響く。
「はい?」
冬馬の返事と同時くらいに開かれたドアから、その人物は顔を覗かせた。
客もなく、部屋に冬馬しかいないのを確認すると嬉しそうな顔をして入ってくる。
「竜一さん? 珍しいですね、こちらに顔を出されるなんて」
「うん、とーまに話があって」
情報屋である彼――佐久間竜一は、かなり冬馬とは縁の深い人物だった。
だが、冬馬の組織に属してるわけではなく、得たい情報がある時にだけ会うような関係だったのだが
たまに事務所に顔を出すこともあった。
そういう場合は、大抵冬馬から呼び出すことが多いが、今回に関しては約束の覚えが無い。
竜一の方から話がある、ということ自体が珍しいことだった。
「話とは? なんでしょうか?」
「あのね、ユキさんのこと。さっきここに来てたよな?」
「瑛里さんの…?」
竜一の口から出た意外な人物の名に、冬馬は驚く。
竜一と瑛里の間にはほとんど交流など無かった筈だ。仕事でたまに顔を合わすことはあってもそれ以上の
関わりなど無い筈なのに。
冬馬の思考に気付く様子もなく、竜一は続ける。
「おれね、よく公園行くの」
「ああ、はい。よく待ち合わせに利用するあの公園ですね」
「そうなのだ。それで――」
竜一が語り始めた話は、冬馬の想像していたようなものではなかった。
だけど、非常に疑問の多い話だった。
最近公園で、瑛里の姿をよく見掛けるらしい。
それ自体には何の問題もないのだが、気になるのは別のこと。
そして、もう一人の人間の名前…。
だけど、最近の瑛里の様子が少しいつもと違うことは気付いていたわけで、その理由のヒントを
得たような気がした。
「…それはきっと……」
頭の中で一つの仮定をまとめた冬馬が、小さく苦笑した。
「不器用な方ですね、本当に…」
「ん? 何か言ったかとーま?」
「いえ…わざわざ有難うございます、竜一さん」
竜一の方に微笑み返す。
不器用さは昔から変わらない。一つのものに執着することを怖れる、その精神は…。
それはきっと、”彼”が唯一瑛里に遺したもの。
再び失うことがあれば、きっと今度こそ壊れてしまうだろう―――。
だけど、それを怖れているのはきっと、瑛里以上に自分。二度と、あんなことは二度と…。
「僕は…勝手なんでしょうね…」
独り言のように冬馬が言葉を零す。それを、竜一は大きな目できょとんと見つめていた。
「そんなことないぞっ、とーまはいつも人のことばかり考えてるのだ。とーまがとーまのために動いても
 いいと思うぞ、おれは」
いつも変わらない無邪気な顔で竜一は笑う。そして自分は…。
「僕は…」
自分は何を願うだろうか。
それでもそれはやはりエゴで、本当に瑛里の為になるのか分からない。
分からないけれど…。
「竜一さん、少しだけ協力をお願いしてもよろしいですか?」


「しーいち!」
がばっと後ろから首に巻きついたものがある。
「さ、佐久間さんっ?」
唯一動かせる頭の向きを変え、愁一はその無邪気な声の主を確認する。
たまに顔を合わすこの佐久間竜一という人間。職業も知らなければ、素性など一切知るところはない。
しかし、ノリや性格が非常に似ている為に、数回会っただけで既に打ち解けていた。
「どうしたんすかー? いつも来る時間と違いますね」
「今日はしゅーいちに会いにきたのだ!」
「オレにですか…?」
顔を合わせると言っても普段は約束をするわけでもなく、偶然会うということが多かった。
だから愁一は、単純に竜一はこの場所が好きで遊びに来てるのだろうと思っていたが、意外なことに
今回は自分に会いに来たのだという。単純に嬉しいとは思うのだが。
「えっと、何か用事…とか…?」
「あのなっ、とーまからのでんごんなのだ。”ボクと「かけ」をしませんか?”。いじょー。おわりっ」
来た時から変わらない無邪気さでそんな言葉を吐く竜一を凝視しながら、頭がフリーズする。
これらの言葉だけで答えを導ける人間などそうそういないだろう。
瑛里にも認められた頭の悪さ、だけが要因ではない…と思いたい。
なんとか思考回路をまとめようとするが、何から考えて良いのかすら分からない。
「ち、ちょーっと待って下さい佐久間さん…。えっと、一から話を進めましょう。えーと、”とーま”さんって
 どなたっスか…」
「とーまはしゃちょおなのだ。せぐちとうま。」
「せぐち…?」
記憶を辿ってみても、思い当たる人物がいない。
「…僕ですよ。覚えて下さってますか?」
唐突に聞こえてきた声に確かに覚えがあり、愁一は反射的にそちらに顔を向けた。
「え、ええ…?」
前方から歩み寄ってきた人物がにっこりと笑って会釈した。
その仕草に覚えがある。柔らかい物腰。そして印象的な金の髪。
「由貴を、迎えにきてた…」
「覚えててくださったんですね。だったら話が早いです」
変わらぬ笑顔で「せぐちとうま」は話を続ける。
「瑛里さんとは最近いつお会いになりました?」
「え……1ヶ月くらいは、会ってないですけど…」
「…会いたくはないですか?」
「え…?」
冬馬の言葉に動きが止まる。
それはもちろん、この1ヶ月間ずっと願ってやまなかったことだ。
瑛里にまた会いたい――その気持ちは日ごとに増していくばかりだった。あの朝から。
忘れようとしても忘れられるわけもなく、想いは一層つのるばかりだったのだ。
「そ…それはもちろん会いたいです、けど……」
「ずっと一緒にいたいと思います?」
「もちろん……」
「何かを犠牲にしてでも?」
「…はい」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、愁一は迷うことなく答える。
考えるまでもなく、そんなことが実際に叶うならば何を犠牲にしたっていい。
…そう、考えて愁一は、ふと自分の思考に気付く。
会ったのはたった2回だけだというのに。それほどに瑛里という人間は自分の中で大きくなっていた…?
思っていた以上の自分の気持ちの大きさに自分で驚いていると、先ほど聞いた言葉が再び聞こえた。
「じゃあ、僕と賭けをしましょう」
先ほど竜一から聞かされた言葉が、当の本人―――冬馬の口から出る。
―――賭け…?
再び頭がフリーズする。先ほどから頭は思考の糸がこんがらかってばかりだ。
つまりは、瑛里と一緒にいたければ賭けに勝てということなのだろうか…?
「賭けって、どんな…」
何を犠牲にしても良いと言った。言ったけれど、やはり不安はある。
瑛里について、何も知らない。それこそ職業すらも。
自分がそれを受け止められるか、不安ばかりが胸を埋めるけど。
それでも、それ以上に欲しいものがある―――。
「教えてください、その内容を」
見つめる目を、冬馬が見つめ返して口を開いた。

「…瑛里さんの中にあるドアを、開けられるかどうか…もし駄目だった場合は、二度と瑛里さんの前には
 現れないで下さい―――」




[Page2] [Page4]