今日も雨は止まない。
空が低い。昼間だというのに薄暗く、その中にいくつもの色彩豊かな傘の花が咲いている。
(鬱陶しい…)
信号待ちで車を止めていた瑛里は、ガラス越しに横断歩道を渡る人々を眺める。
連日の雨は、陰鬱にさせる。決して雨が嫌いというわけではないのだが、鬱陶しさは否めない。
「何でこんな日に…」
煙草に火を点ける。誰に対しての怒りでもないが、苛立ちを抑え切れずに乱暴にジッポーを助手席に
投げ込んだ。
つい先ほど、冬馬から電話があったばかりだった。仕事が入ったから事務所に来るようにと。
時間も都合もお構いなしの仕事依頼は、この仕事の一番厄介な部分だ。
だからと言って、いちいち苦情を出すほど子供ではないつもりだが…。
煙を逃がす為に少しだけ隙間を開けた窓から、雨の匂いが入り込んでくる。
――匂いは、記憶を呼び戻す。
雨と汗の匂いの入り混じる中で抱き合ってから、どれだけの日々が過ぎたのだろうか。
ずっと昔の話のようにさえ感じる。
だけどこの連日の雨は、記憶を流してはくれない。執拗に記憶を掻き立てるばかりで。
そしてそれが、余計に苛立ちを増す原因となる。
そういう時は、決まって車を走らせていた。あの場所に。ほとんど無意識での行動だった。
そして―――決まって、あの声は聞こえていた。まるで雨と混ざり合うように透き通る声で。
触れることは叶わない…ただ透る声で――。

建物の前で車を止める。駐車場が無いわけではないのだが、セキュリティ部分が少し特殊であるこの
建物の駐車場は瑛里にとっては面倒で、いつも中に入らずに外に停めていた。
いつものように地下の部屋の扉を開けようとして…手が自然と止まった。
普段は冬馬しかいない筈の部屋から、会話が聞こえてきたからだ。
どちらの声も聞き覚えがある。が―――。
「…?!」
勢いで扉を開けると、やはり予想通りの人物がソファに座っていた。
一人は冬馬。そしてもう一人は…。
「しゅ…」
「ようこそ、瑛里さん。…そんなとこでボーっとしてないで座ったらいかがです?」
言葉を失くしていた瑛里に、にっこりと笑って愁一の横を冬馬が手で指し示した。
「由貴…」
愁一の声で我に返った瑛里が、何かを言いかけて、でも口には出さずに黙って愁一の横に腰を下ろす。
それを愁一が見ていた。
「…どういうつもりだ」
どちらに言ったとも取れない言葉が、瑛里の口から出る。苛立ちを隠そうともせずに。
「何がです?」
「…”何が”? この状況で仕事依頼が嘘だというのは分かる。それでどう思えと言うんだ?」
少しも動じないで問い返す冬馬に、ますます瑛里は不機嫌になる。
冬馬と愁一に面識があることは分かってるが、だからと言ってここに二人がいることの説明には
ならない。
「仕事依頼というのは嘘ではありませんよ。僕個人からの依頼です。今日からしばらくの間、この
 新堂愁一さんを預かっていただきます」
「…あぁ?」
不機嫌度がマックスに達した瑛里が、冬馬の方を睨み付ける。
猫の子じゃあるまいし、そうそう簡単に「預かれ」と言われて預かれるものじゃない。
それこそ、猫の子だろうと瀬口冬馬からの依頼じゃ御免こうむるが。
予想のつかない発言はいつものことで既に慣れてはいるが、それはあくまで仕事方面での話しだ。
どう考えても、今回の話には冬馬の個人的事情が絡んでいるとしか思えない。
「あくまで仕事ですよ。それとも何か都合の悪いことでも?」
大有りだ。全てに於いて。
だけど、決定打となるような断る理由が見つからない。
下手な言い訳では、簡単に切り返されてしまうのは目に見えている。
「…さっきから黙ってるが、お前も何か言えよ」
「え…? え……っと…よろしくお願いしますっ!」

瑛里は、かつてないくらいの頭痛を覚えて頭をかかえずにはいられなかった。





「預かると決めたわけじゃないからな…」
由貴瑛里宅。
このままではどうにもならないだろうと、とりあえず瑛里は愁一と二人で自宅へと戻ってきた。
冬馬相手では、いつまでも埒が開かない。
認めたくはないが、口ではこの義兄に勝つことは出来ないのだから。
「うん…。違うんだ、話が出来ればそれでいいんだ…」
そう言ってみた愁一だが、何から話して良いのか分からない。
「ドアを開けられるか」と冬馬は言った。だけどその賭けの内容はあまりにも漠然とし過ぎていて
愁一には何をどうすれば良いのか解からなかった。
ドアを開ける。つまりは今は扉が閉じられているということ。
その扉の在り処さえ分かりはしないのに。何から始めれば良いのだろうか?
「…話ってなんだ」
黙り込んでいた愁一に、瑛里が促す。一応話は聞いてくれる気らしいが。
「あ、えっと…あの日の朝、なんで黙っていなくなったりしたんだ? 探したんだ、オレ…」
「……」
今度は瑛里が黙す。
「公園で待ってたんだ…いつかあんたに会えるかと思って。だけどあんたに会える事はなかった」
「――…俺とお前とじゃ…」
やっと口を開いた瑛里が、視線を愁一に向けるでもなくぽつりぽつりと語り出す。
「見てるものが違い過ぎるんだ。…住んでる世界が違うんだ」
「なんで…? こんなにも近くにいるじゃん…。触れることだって出来るのに」
愁一が、瑛里の唇に自分のそれを触れさせる。拒否されることはなかった。
だけど、受け入れられてるわけでもないのは、何となく愁一には分かった。
「…お前は、歌でプロになるのが夢じゃないのか?」
「え…なんで知ってるんだ?」
…知っている。歌声はいつだって聞こえていたのだから。
それは稚拙で…だけど、あまりにストレートな想いのラブソング。
それが、声の質と相俟って心に直接流れ込んでくる優しい透明な歌になっていた。
「お前ならなれる…だから、そっちだけ追いかけてればいい」
「……なんで? なんでそんな事あんたが決めるの?」
歌を認められたのは、自分にとってはとても嬉しいことの筈なのに、そうは思えなかった。
それ以上に、瑛里の言葉が悲しかった。
歌は、歌手になることは確かに小さい頃からの夢だった。夢は今も続いているけど。
でも、それ以上のものを見つけてしまったとしたら…?
「なりたいものが有って、それを追いかけられる状況にあるなら追いかければいい。…出来ない人間も
 いるんだからな…」
「でも…オレは見つけたんだ。歌より大事な”夢”。それを追いかけるのを止める権利があんたに
 ある? あんた自身がオレの”夢”になったって言ったら、あんたはどう言うの?」
愁一が瑛里の目を見つめる。想いは確信になっていた。
歌に対する気持ちがその程度だったというわけじゃない。瑛里に対する気持ちがそれ以上だっただけ。
「…何も知らないからそういうことが言えるんだ。俺の仕事について何も知らないんだろ? そんなんで
 勝手な口ばかり叩くんじゃねぇよ…っ」
「じゃあ教えてよ! 分かんないままだよ今のままじゃ…!」
しばらく沈黙があった後、瑛里が口を開いた。
「…人を平気で殺せるんだよ、俺は。一人や二人じゃない。殺した人間の顔すら覚えていない。
 そしてそれが金になる。そういう仕事だ」
愁一は、初めて冬馬の言葉の意味を理解した気がした。
確かにドアがあった。そう簡単には壊せないような、厚い壁が立ちはだかっていた。
肌に触れるのなんてまるで意味を成さない。心に触れることは叶わない。
心の傷を治すどころか、触れる距離にさえいなかったのだ。
「解っただろ…だから帰れ。二度と俺に近寄るんじゃねえ」
「ゆ……っ」
「帰れと言ってる」
それ以上は言えなかった。愁一はゆっくりと部屋の扉に向かう。
そしてノブに手をかけて開こうとして、だけどどうしても言いたい言葉があって手を止めた。
目を合わせるのは怖かった。また、つらい言葉を聞かされるのが怖かった。
だけど、どうしても…。
「…それでもオレは由貴が好きだから……」
静かに扉を閉める。
部屋を静寂が支配した。





久々に青空が覗いていた。
だけどどうして、こんなにも憂鬱なのだろう。
もちろん、理由など考えるまでもなく分かってはいるのだが。
あの日から、雨の日は自分にとって特別になっていた。晴れた日の方がなんだか寂しい。
特等席と言えるほどにいつも使用するベンチに、愁一は腰を下ろす。
背もたれに頭を乗せて、空を仰いだ。
きっと瑛里は来ない。なのに、時間の許す限りはこの公園に来てしまう。
期待はしていない。…いや、しているから来てしまうのかもしれない。
最後に声を聞いてから、3日ほど経っていた。もちろんその間、瑛里には会っていない。
この公園に来ると決まって歌を歌っていたが、ここ数日はそんな気さえ起こらない。
歌を忘れてしまったようだった。
「どーしたのだ、しゅーいち〜。イー天気だぞ?」
聞き覚えのある声と共に、上から頬っぺたを両手で挟まれた。無邪気な顔が笑っている。
「あ、佐久間さん…」
ホッとする。顔を見るだけで少し気分が晴れるような、そんな力を竜一は持っていた。
「今日は歌わないのか? おれ、愁一の歌が好きだぞ。一緒に歌うのも好きだ」
そう、会うといつも竜一は愁一の歌を聞いてくれた。流行曲などは、一緒に歌うこともあった。
それは愁一にとって、最高に楽しいひと時だった。やはり歌は好きなのだ。
だけど、今日はそんな気分ではなかった。
「すみません、今日は…」
「なんだなんだ? 何かあったのか?」
しばらく考えて、愁一は口を開く。ずっと訊いてみたいことがあった。
「佐久間さんは、歌手になりたいって思ったことなかったんですか?」
唐突な質問に、竜一がきょとんとする。
竜一の声や歌唱力は、その辺の安いアーティストよりもよほどの価値があると愁一は知っていた。
そして、歌を歌うことが好きなことも。
だったら、どうしてその道を目指さなかったのかと何度も疑問に思った。
竜一ならきっと、本当にプロになることが出来たんではと。
「んー。歌はどこででも歌えるしなっ」
「え…?」
「おれは色んな人に会いたかったんだ。歌も楽しいけど今のしごとも楽しいのだ! でも歌も楽しいのだ。
 愁一と歌うのは楽しいのだ。しゅーいちは?」
「オレも佐久間さんと歌うの楽しいですっ。…でも、歌以上に大事なものが出来てしまって…」
少し俯き加減でつぶやく愁一を、竜一が、じっと見ていた。
「大事なものは大事のままでいいと思うぞ? 気持ちは変わるのだ。素直なのがいちばん! なのだっ」
竜一の手が背中をバンバンと叩く。竜一なりの励ましなのだろう。本人に自覚が有るかは別として。
でも、愁一にとっては威力絶大な励ましだった。
気持ちは変わっていく。本人の意思とは別に。
でも、それは悪いことじゃない。追いかけるものがあるうちは、走っていける。前に進める。
たとえそれが、最終的に掴むことが出来なかったとしても、今の気持ちを後悔するよりかはずっといい。
「…佐久間さんに教えて欲しいことがあるんです。佐久間さんは瀬口さんの会社がどんな仕事をしてるか
 知ってるんでしょう? 詳しく教えて欲しいんです…」
「しごと…?」
「はい…由貴について知りたいんです」
竜一はしばらく考えた顔をした後、口を開いた。
だけど、その声は愁一の知るトーンとは少し違っていた。無邪気さを欠いたような。大人のトーン。
「知って…後悔するなよ?」
「佐久間…さん?」
顔付きも少し違う気がする。同一人物なのは分かっているが、この違和感はなんだ…?
「あ。オレ仕事の話しだすと性格変わるから。まぁ、気にすんなって」
「き、気にするなと言われましても…」
性格変わると一言で片付くような変わり様じゃない。違う人間に入れ替わったと言われても納得しすると
思われるほどに、様変わりしてる竜一に、愁一は唖然とする。
「だーかーらー、気にするなって言ってるでショ? 話聞きたいんだろ?」
「はい…」
とりあえず、目前の問題には目を瞑るとして、本来の目的に頭を移す。
馴染めてはいないが、さっきまで目の前にいた人物と同じ人間なのは確かだ、と自分に言い聞かす。
「…俺らの仕事は、人から請けた依頼で成立する。その仕事内容は様々だけど、特に多い依頼は
 ボディガードや、ブツの運搬とかだな。頼まれて人を殺すのも少なくはない。もちろん冬馬も仕事は
 選んでるだろーけど」
なんとなく想像はしていたが、思っていた以上だった。それが日常なのだという。
他にも、会社の機密を盗み出したりと、一歩間違えば命を狙われかねない仕事もするらしい。
「命の危険とはいつも隣り合わせなんだ。特に由貴さんはトップクラスの腕を持ってるし、仕事量も半端じゃ
 ない。危険はいつも付きまとってる」
あまりに普通に喋るので、実感みたいなものはまだ薄い。一般人が頭で想像出来る域じゃない。
竜一にとっても、それが日常なのだろう。今まで普通に接していた昨日までが不思議に感じる。
「…オレ、甘かったのかもしれない。由貴、”見てるものが違う”って言ってた。ホントにその通りだ…」
「後悔するなって言っただろ」
「でも…」
竜一が、愁一の背中をバンバンと叩く。
「俺たちはそれでも普通の人間のつもりだよ。特別扱いされる方が残酷だ。ただまぁ…由貴さん繊細そう
 だしね。どうしても人と接するのは苦手だろーね。頑張れよ、愁一」
悪戯っぽく片目を瞑る。まるで共犯で何かを企むかのように。
「ありがとう、佐久間さん…」
満面の、とはいかなかったけれど、久々に少しだけ笑えたように愁一は思う。
なんて、不思議な力を持ってるのだろう、竜一という人間は。
一見幼い子供のように無邪気だが、それとは違う一面を持っている。いつも欲しい言葉をくれる。
「オレは、オレに出来ることを考えます」
「おう! 頑張るのだしゅーいち!」
「あ…佐久間さん元に戻ってるんすか?」
急に聞き慣れたトーンが聞こえてきた。変わるのも唐突なら戻るのも唐突だ。
どういう構造になってるのだろう、目の前の人は。
でも…そんなことはどうでもいい。色々と先のことを考えるヒントをくれた。
ここからは、自分で答えを出さなきゃいけない。
「オレ、頑張りますっ!」
「おう! じゃあ、ケイキづけに歌うぞしういち!」
「はいっ! 1番・新堂愁一! ”瀬戸の花嫁”いきます!」
無駄に明るい二つの歌声が、晴れ渡った青空のどこまでも響き渡っていた。


「追い出してしまったのですか。と言うことは、僕の依頼はふいにされたという事ですね」
「…元より受けたつもりもないがな」
ふう、とわざとらしいくらいの溜息をついた冬馬が、近くにあった椅子に腰を下ろす。
「それを確認しに、わざわざ会社ほったらかしでここまで来たのか?」
ここは、瑛里の自宅。多忙な筈の組織社長は、まったりとコーヒーを啜りながらくつろいでいる。
もちろん、歓迎してくれてるわけではない部屋の持ち主が淹れてくれるわけもなく、勝手に淹れて
勝手に飲んでるのだが。しっかりと瑛里の分も用意しつつ。
「言ったでしょう? これは仕事だと。依頼の経過を伺いにきて何が悪いんです? まぁ、依頼人から
 預かったものを放り出してしまったとなれば経過も何も無いでしょうけど」
「何度も言うが俺は引き受けたつもりは無い」
先ほどから話は前進を見せない。
瑛里の頑なな態度は、昔から変わらない。ずっと見てきた冬馬だから、今更それをどうとも思わない。
「まったく、頑固ですねぇ」
言葉とは裏腹に、それほど困った様子はない。予測した通りの展開が起きてるだけなのだから。
もちろん、瑛里がそう簡単に他人を受け入れないことは分かっていた。
だからこそ、余計なことだとは思いながらも冬馬が介入を見せたのだ。決して愁一の味方としてでは
なく、あくまで瑛里のことを想って。
「そこまで拒絶するなら、なぜ車を公園まで走らせたりするんです? なぜ声をかけないのですか?」
「…! なんで知って…」
「竜一さんが教えて下さったんですよ。瑛里さんを公園でよくお見掛けすると。でも、距離を置いて
 見てるだけで声をかける事はなかったと」
「……」
瑛里は黙り込む。
確かにそれは事実だった。だけど、自分の感情が自分で分からなかった。
分かりたくて行っていたのかもしれない。
拒絶したいのにし切れない、その明確な答えが欲しかったのかもしれない。
”埋めれるもの”だと思った。だけど、それを知るのは怖くてどこかで拒絶をしたかった。
壊れてしまうような気がした。…過去が? それとも現在(いま)が…?
「人間はね、一人で生きて行けるほど強くはないんですよ。どんなに心が麻痺しても、やっぱり求めて
 しまうんです」
本当は分かっていたのかもしれない。愁一を抱いたあの夜から。
気付かないフリをしていただけ…。
「失うのは誰だって怖いですよ。でも、得るものの喜びもあるんですよ。そう、僕に言ってくれたのは…
 それを教えてくれたのは美華さんだったんですけどね」
瑛里の目を見て冬馬は微笑む。
伴侶を持つ者が少ないこの世界。その上、一つの会社を全て取り締まる位置にいる冬馬が伴侶を得る
事は並大抵の覚悟じゃ出来ないことだっただろう。葛藤はあっただろうと思う。
でもそれを見せない、それが強さというものなのだろう。
「僕はあなたに壊れて欲しいんじゃない。生きて欲しいだけなんです」
「生きる…?」
「最近瑛里さんはあまり怪我をしなくなったと美華さんが言っていました。それは自分への執着が生まれて
 いるからじゃないですか? 死にたくないと思うのでしょう?」
意識したことはなかった。ただ、いつものように仕事をしているつもりだった。
だけど、思い返してみれば、姉の顔も最近はあまり見ていない気がする。
執着を自覚出来るほど明確な感情はまだ無いけれど。
「なぜそう思うのか考えてみて下さい。答えはきっと出ますよ」
そう冬馬が言ったと同時くらいに、玄関のチャイムが鳴った。
「やっと来ましたね」
「…?」
冬馬がインターホンで、外の相手に中に入るよう指示した。誰が来るか、まるで分かっていたように。
玄関のドアを開ける音が、部屋のドア越しに聞こえる。
そして扉を開けたのは…。
「…愁一…?」
二度と自分の前に現れることは無いと思っていた。突き放したのは自分なのだから。
だけど、何度も何度も愁一はついてくる。追いかけてくる。
「新堂さん、賭けの様子はどうですか? 僕の勝ちでしょう?」
「賭け…?」
冬馬の言葉に、瑛里が聞き返す。だけど、冬馬の返事より先に口を開いたのは愁一だった。
「瀬口さん…それについてお話があります。この賭け…オレ、下ります」
「それは…負けを認めるということでしょうか?」
特に表情を変えることなく、愁一に問う。俯いていた愁一だったが、何かを決意したように顔を上げた。
「違います。そうじゃなくてオレは…賭けとかそういうんじゃなくて、そういうのは関係無しで由貴を
 追いかけたいんです…っ! 由貴の傍にいたいんです…。だから…」
「…だ、そうですよ? 瑛里さん」
瑛里の方を向いて、冬馬が愉しげに笑って付け足す。それがやけに不快感を掻き立てる。
「……そういうことか…」
お節介め…と、瑛里が小さく付け足した言葉が冬馬に聞こえていたのかは分からない。
瑛里は大きく溜息をひとつこぼした。
「さーて、僕は邪魔みたいですしこの辺で帰りますねー」
言うなり、冬馬は置いていたジャケットを手に取り玄関へと向かっていく。
だが、一度部屋を出かけて、顔だけを再び部屋に戻した。
「あ、新堂さん。賭けはあなたの勝ちでしたよ」
「え…?」
にっこりと笑った冬馬の言葉の意味が理解出来なくて聞き返そうと思ったが、それよりも先に冬馬は
玄関を出て行ってしまっていた。
いわゆる、嵐が去った後の静けさみたいなものが部屋を包む。
「…ったく」
瑛里が、大きな音を立ててソファに倒れ込む。何も言わず、ただ目を瞑ってソファに身体を預けている。
愁一は、その傍らに膝をついた。
「あのね由貴…オレ、佐久間さんから由貴の仕事のこと聞いたんだ…」
瑛里が薄く目を開ける。そして、愁一の顔を見つめている。
「オレが考えてるような甘い話じゃなかった。もちろん、話を聞いただけで全てが理解出来るなんて
 思ってないけど…それでも、近くにいたいって思ったよ。由貴の傍にいたいって思った」
「…やっぱりお前はバカだ。好き好んで自分からこの世界に入るなんて……後悔しても知らねぇからな」
「佐久間さんにも同じこと言われた…。だけど後悔しない自信だけはあるよ。だって由貴がいるもん」
瑛里が、愁一の頬に手を伸ばす。そのまま頭に手をかけて唇を重ねた。
寂しさを埋める為じゃない。存在を確認する為の口付け。
失わない保証なんて無い。絶対なんてものはあるはずもない。
だけど、手に触れられなくても包んでくれるものがある。

「お前の声を…一人で独占するのも悪くはないかもな…」





「適性テストはまずまずの合格点ですね。視力・聴力が人並み以上の数値です。特に勘の良さは群を
 抜いていますよ。反射神経もそこそこ良いですしね」
数枚の束ねられた紙面を見ながら、冬馬が続ける。
「パートナーとしても不足は無いんじゃないでしょうか」
瑛里の方へと視線を移した冬馬が、瑛里の様子を伺う。
しかし瑛里は返事するでもなく、うんざり気味の顔でソファにもたれている。
「不足だらけだろ。頭の中身が何よりのマイナス点だ。こんなのが本当に使い物になるのか?」
「確かにその点はかなりの問題点ですが。使い物になるかどうかは、今後のあなたの教育次第ですよ」
ますます瑛里はうんざりとした顔を露呈する。
本人―――愁一を横にしての会話とは思えないほどの、酷い言われ様である。
「…なんか、すっげバカにされてる気がするんスけど…」
「分かるのか?」
「分からないわけないだろ! なんだよ二人してよってたかって好き勝手言ってー!」
激昂している愁一には構う様子もなく、二人の会話は続く。
愁一本人の話の筈なのだが、なぜか愁一だけが蚊帳の外である。
「こいつを教育するのも依頼のうちだってんなら考えても良いが? 仕事と割り切ればなんとかならん
 こともないだろう」
「なんとかってなんだ、なんとかって…」
 愁一のツッコミも先ほどから独りよがりである。
「いいですよ、じゃあこの報酬は"新堂さん一年分"でどうです? 二年分にしときますか?」
「…こんなもの、一生分貰ったって足りねぇよ…」
「え、え? え…? それって…」
愁一がドキドキしながらその真意を問う。もしやその意味って…。
「と言うか、要らん。」
「なんだとー!」
「…まったく、素直じゃないですねぇ」

まったく進歩を見せない義弟を、冬馬がくすくすと笑う。
きっと、これからも変わっていくことはないのだろう。
変わらぬ生活に、ひとつだけ咲いた小さな花。
それは、セピアの世界に色彩を入れて広がりゆく小さな小さな雫。

   本日は晴天。
   そして、物語はここから始まる―――。


[END]



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