―――梅雨の隙間を見付けて微笑んだ、太陽がくれた青天だった。

     どこまでも、どこまでも続く天(そら)を、ただ愛しく思った―――


「なーんか…不思議って言うか…」
ごろんとシーツに体重を預け、愁一が、天井を仰ぎながらふと呟いた。
知らない天井。いつもとは違うシーツの匂い。
だけど、”居心地の悪い”場所にならないのは、やはり傍に彼の存在が在るからだろうか。
愁一の言葉に対し、何が、とは瑛里は訊かない。
訊かなくとも、愁一が自分から話を続けるのは分かっていることだったから。
案の定愁一は、相手の反応などを確認する様子もなく、再び口を開く。
「ずっと…オレが許せなかったのは誰だったのかな…。追い掛けても届かないと思ってたのは…。
 北沢さんのお墓見たらなんかさ、なんつーかオレってバカみたいだって思ったんだ…」
初めて対面した北沢の姿は、墓石でしかなかった。
何を言うでもなく、ただ、そこに存在していた。
「バカは、前から分かってたことだろ」
「由貴ひどー…」
身体を半回転させて愁一は、隣のベッドの枕元に背を預けて煙草の先端に出来た灰を皿に落とす
恋人の姿を視界に入れる。
むくれた顔で文句を述べる愁一を、瑛里は一瞥もしない。だけど愁一は、その横顔を見ているだけで
得も言われぬ幸福感を味わえる。そういうとこが「単純(バカ)」と言われる所以だろうか。
冷めた言葉と共に吐き出された息が、煙草の煙を吐き出す音だったのか、呆れの溜息だったのか。
愁一には判断は出来ないが。
「オレさ、北沢さんのお墓参り来れてホント良かった! 心の底からそう思った」
「……」
昼間、初めて瑛里は愁一と北沢の墓を訪れた。
何か理由があったわけではないけれど、その行為はとても意味があるように思われた。
”終わり”でもあり、そして”始まり”でもあったかもしれない…。
「由貴が欲しくて、あの人に嫉妬して、死んでるのズルイってそんなことばっかり考えてた。だけど
 なんかもう、そんなことどうでも良くなった。オレ、ちょっとは成長したかな」
クシャ…と小さく、煙草が潰される音がする。白煙が、細くたゆたうように上へと上っていく。
まだ半分以上の長さを残すアルファメンソールは、灰皿の中で静かに光を消していく。
「俺が縛られるから…お前も縛られてしまったんだろうな、過去に」
顔の向きは変わることはなく―――だけど確かに瑛里の視線は愁一の方に向けられる。
視界の端に愁一の姿を捉えながら、瑛里は静かに口を開いた。
「死んだ人間が、何をするわけでもないのにな」
自分への言霊のように、瑛里は呟く。
「でも、北沢さんは亡くなってるけど、由貴は生きてるから囚われるんだ。どんどんと距離が
 出来ていくのが悲しかったんでしょう?」
いつの間にか、北沢が死んだ年齢をも超えている。生きているものは、歳をとって、老いていく。
しかし、記憶の中の北沢はあの頃のままで何も変わらない。
前を行くのは自分の筈なのに、なぜか取り残されたような気持ちになる。寂しくなる。
「俺も…死んでいたんだと思う。…お前に会うまではな…」
ギッ…と小さくスプリングが軋む。ふと影が落ちてきて、今度は愁一の居たベッドが音を立てる。
微かに、愁一の鼻先を煙の残り香が掠める。上を見上げると、そこには茶金の双眸が在った。
ゆっくりと降りてくるそれは、今まで見たどの瞳よりも優しい色を湛えていた。
唇が重なる。急くことはなく、やんわりと唇を唇が覆いほぐしてゆく。
「…ぅ…ん…っ」
洩れる吐息さえも勿体ぶるように、隙間もなく繋がれた唇は離れずに互いを食む。
「ゆき…好きなんだ、由貴のことがどうしようもないくらい…っ」
「知ってるさ…」
どれくらいの時間をそうしていただろう。少し息の上がった愁一が、瑛里の背中に強く腕を回し、
どれだけ口に出しても言い足りない言葉を吐露する。
少しだけ汗ばんだ額にかかる愁一の髪を、瑛里の手が軽く梳いていく。何度も、何度も。
「もっとして…由貴…」
心を言葉に変換することもなく、瑛里は愁一の言葉に口付けで応える。
トサ、と乾いた音を立てて、愁一の背中がシーツに沈む。

―――北沢のことは確かに好きだった。
だけど、今ここに在る気持ちとはまた別物だろうと、瑛里は思う。
確かにあの時、”あの”言葉さえ無ければ黙って抱かれていたのかもしれないけれど。
それで、その後に何が生まれたのか、何を育めていたのかと考えると答えは出ない。
種類をどう分けて良いのかは分からないけれど、でも好きな気持ちに間違いだけはなかった。
ただ、”愛していた”のかは分からないけれど…。
そして愁一は、それでも良いと言った。自分が他のものを好きでも。
”それごと愛する”と言ってのけた。
そこまでの強い気持ちを、どうしたら持てるのだろうかと思う。
その気持ちを、どうすれば受け止めて同じだけ返せるのかと思う―――。

「ん…っ」
吐息が孕む熱さと反比例するかのように、少し冷めた瑛里の左手が愁一の脇腹を掠めていく。
強く握る瑛里の右手に嵌められた指輪で、きっと痕が残るだろうと、ぼんやり愁一は思ったけれど
そんな痛みさえも、加熱を促す要因にしかならなかった。
「はな…さないからな…っ」
指輪をくれた時、瑛里はその意味を言いはしなかった。だけどそれが、愁一には余計に嬉しかった。
言葉など、何の約束にもならないだろう。
だけど、気持ちというものは嘘がない。感情というものを、自分で操作出来るほど人は器用じゃない。
籠められた気持ちは、不変だと信じたい。
―――輪廻の指環。
人が死んで、また次の世で生まれ変わるように、気持ちを次々に受け継いでいくような。
北沢と繋がっていた瑛里有するリングが、次に愁一と繋がっていくように。
そして、その輪は外れることのないように―――。
そんな…想いを、”それ”に望んではいけないだろうか。
愁一の左手の指輪に、瑛里が口付ける。それの意味を確認するかのように。
シャツのボタンが全て外され、露になった肌が外気に晒されて少し寒い。
身震いする愁一を少しだけ引き寄せて、瑛里は自分の胸に匿うように抱く。
「どうせすぐ暑くなるだろうけどな。今だけひっついてろ…」
「ゆき、あったかい〜……」
そんな小さな行為で、満面に喜びを表す愁一を、愛しいと思う。抱き寄せた首筋に這わすように
唇を添えていく。
愁一の背中に回された手が、ゆっくりと下降し滑り込んでいく。
「あ…」
少しずつ、肌が外気に触れる度に熱を増す。寒い筈なのに、にわかに汗ばんでいく。
悲しいわけではない涙が、生理的な反応を示して目尻に溜まる。
瑛里の柔らかい髪が、愁一の胸や鎖骨を撫でる。それすらも極上の愛撫だ。
「は…ぁ…ゆきぃ…っ!」
加速をしていく。この、何も生み出さない行為は。
思えば何度、こんな行為を繰り返してきただろう。
それらにどれほどの意味があったのかは、瑛里にはまだ分からない。
どれだけ身体を繋げても、分からなかったことも沢山あったのだから。
愁一の、たった一つの言葉で、何年もかかった問題に終止符を打つこともあった。
結局、全ての行為には意味があり、意味が無いのだろう。
だからやっぱり、これからも繰り返していくのだろうと、瑛里は思う。
見付けていない答えは、まだまだ数え切れないほどあるのだから…。

「ゆき、えい…り…」
「…なんなんだよ、いきなり」
んー、などと少し考えた顔をしながら、瑛里の横で愁一が身じろぎする。
瑛里の肩口を、愁一の前髪が微かに撫でていく。
「”えいり”……って、あー!ダメっ!下の名前で呼んでみたかったけどなんか照れる!」
一人でのた打ち回ってる愁一を、バカを見る目で一瞥しながら、瑛里は大きな溜息を一つ零す。
久々に歩き回って少し疲れていたので、無視して寝てしまおうかとも思ったが。
とりあえず、適当にあしらって話題に決着をつけてやらないと、安眠すらも出来そうにない。
「んなもん何だっていいじゃねーか。誰だか分かれば何だっていいだろうが」
「違うぞぅ! 由貴の名前は北沢さんの名前だもん。昔のオトコの名前なんだから! でも、やっぱり
 ”えいり”だと照れるしぃ〜…」
言葉の一部に納得いかない点もあったが、これ以上相手してると疲労が蓄積されていくだけのような
気がする。瑛里は、これ以上聞く気はないというように、頭までシーツを被った。
「あ! ちょっと聞いてるか由貴?! ……んー、うん。やっぱ”ゆき”ってのが一番自然だな。よし!
 やっぱ”ゆき”で!」
勝手に悩んで、勝手に答えを出していく。口に出さずに、それが出来ないのだろうかこの人間は。
「これからは、オレも北沢さんの名前を一緒に呼ぶから、3人いつも一緒だな!」
”昔のオトコ”呼ばわりした男の名前を一緒に呼んで何が楽しいんだか。嬉しそうに笑みを浮かべる
愁一を、瑛里は理解することは出来ないけれど。
そして、自分のことを好きだったかも分からない北沢が、ここで名前を呼ばれることを喜ぶかなんて
分かることじゃないけれど(むしろ、10ドルの価値しかなかったのだから)。
それでも、愁一が北沢の存在を認めてくれるのは少なからず、嬉しい気がする。
そんな自分は、愁一にも負けない”勝手”な人間だろう。
「…早く寝ろっ」
「う…わっ!」
上体を起こしていた愁一の首に腕をかけ、半ば強引に愁一をシーツに沈める。
腕はそのまま外されることもなく、愁一の身体に覆いかぶさっている。
「やっぱ由貴はあったかいな〜」
顔を見なくても表情は分かる。また、いつものバカ面で、今この瞬間だけが幸せだというように
その瞬間が永遠であることを願うような、顔をしているのだろう。
そんな時、自分自身も、同じ顔をしているのだろうか?

答えなんて、人生に於いて明確に出せるものは一握りも無い。誰にしてもそうだ。
だけど、確かに今分かることがある。人生に於いてのその”一握り”でもあるのは…

―――新堂愁一を愛してるらしい―――ということ。(言ってて物凄く恥ずかしいが…)

とりあえず、この”バカ”にそんな感情を抱いてるうちは、人生退屈しなくて済みそうだ。
意思とは別次元にある、何かしらの力に翻弄されていくのだろう、これからも。
愁一の寝顔を見ながら、瑛里はそんなことを思った。



「なぁなぁ! 今からハリウッド行こうよ! 売り込み早速始めないとな!」
「…一人で行け。俺は日本に帰る」
ホテルのチェックアウトを済まし、外に出た途端愁一が食いついた。
だが、無論瑛里にはそんなものに付き合ってやる義理はない。無視してスタスタと歩き始める。
「なんだよー、アンタいつからそんな日本好きになったんだよっ?」
瑛里に追い付こうと慌てて走り出した愁一は、突然足を止めた瑛里の背中で、見事なまでに顔面を
強打する。
「いっ…てぇ…」
「…別に日本が好きになったわけじゃねぇよ」
「え…?」
「ここには…」
鼻をさする愁一の頭上から、静かに声が降ってくる。
「ここにもう未練が無いだけだ…」
独り言のようにも思えた。
その言葉は、日本とも繋がるどこまでも広い空に、吸い込まれて消えていった。

雲の上には、いつだって青空が広がっている。
梅雨が明ければ、夏が来る。
強い、可視光線が地上に舞い降りる。

その光を、ただ全身で浴びたいと思った―――。
Fin.