地面に点々と残る足跡は何を語るのだろう
    自分の後ろにはあっても、前にありはしない
    だけど、自分のものでない気がするのはどうして?     

―――人生を狂わすほどの”特別”は
    自分を狂わすほどの”恋”に発展することはなかった…



優しげな目が、心配そうに覗き込んでいた。何の違和感もなく、当たり前のように目の前にある。
その後ろ、少し離れたところに瀬口冬馬の姿が映った。酷く安堵した表情でこちらを見守っている。
こんな顔の冬馬を見るのは初めてのことだった。
「ここ…は…」
知っている景色だ。――瀬口冬馬の事務所のどこか。
この部屋に入るのは初めてではあるが、建物内の部屋は大抵似たような雰囲気を持している。
医務室だろう、と、瑛里はゆっくりと考える。しかし、まだ頭の中ぼんやりとしていたが、今は
そんなことはどうでも良いと、漠然と思った。なぜここにいるか、その答えは明白であった為に。
「気付いたね、瑛里くん。良かった…」
目を開けて一番最初に目に映った顔、北沢有希の声が聞こえ、少しずつ瑛里は脳を覚醒させていく。
「北沢さん…と、冬馬さんも…」
「無事で良かった…」
かつて聞いたことも無い、冬馬の弱い呟きは、心を締め付けるようだった。
自分は、どれだけの人に迷惑をかけてしまったのだろう。
「ごめ…なさ…っ」
自分でも泣いてしまうかと思った。だが、そうしてしまう事はあまりに自分で情けなくて、瑛里は
すんでの所でそれを止めた。せめてものプライドだった。
「君が謝ることじゃないよ。俺は助けてもらったんだから。そうだろ? 瀬口くん」
「…そうですね。結果的にあなたの身が無事で良かったです」
先ほどとは打って変わって、事務的な声音が事務的な言葉を紡ぐ。肯定はしていても、それはあくまで
クライアントの前だからだろうと瑛里は思う。
瀬口冬馬というこの組織を仕切る人間は、決して甘い人間ではない。仕事面ならなおさら。
自分の感情もコントロール出来ないような出来損ないの人間は、すぐにでも切れる。
簡単に切ることが出来る…。
今度こそ、依頼を外される程度のことでは済まない。組織にさえ、いられなくなるだろう―――。
「…瑛里くん」
黙っていた瑛里の傍に、冬馬が歩み寄る。そっと、静かに口を開いた。
「僕は今回の件から君を外す、と君に言いました。北沢さんの家へ行った明確な理由を、僕に説明
 することが出来ますか」
「…っ……」
瑛里は何も言えない。それは自分が一番、知りたかったことだったのだから。
無意識で自分は何の為に、そこへ行ってしまったのだろう。瑛里自身も不明瞭なこの感情は…。
「…俺が無事だという、それが理由にはなりませんか?」
言葉に詰まっていた瑛里の間に入ったのは、北沢だった。
いつもと変わらない、柔らかい笑みを浮かべて。真っ直ぐ冬馬を見つめる。
「俺は瑛里くんのお陰で、助かったんだ。あの時、瑛里くんがあそこにいなかったらもしかしたら俺は
 死んでいたかもしれないのに」
「だけどそれは――」
言い掛けた冬馬の言葉を遮るように、部屋の中に小さな電子音が響き渡った。外部からの呼び出し
音だ。渋々、冬馬は音の元へ歩み寄り、受話器を取る。会話の仕方からして、どうも相手は美華の
ようだった。
「――分かりました。すぐそちらに行きます」
ガチャリと受話器を下ろす。そしてそのまま視線をこちらに向けた。
「すみません、少しの間だけ待ってていただいてもよろしいですか」
「ああ、俺は構わないですよ」
北沢の返事を聞くなり、軽く会釈して冬馬は部屋を出ていく。会話の内容からして、誰かが冬馬に
会いにきたのだろうと想像出来た。誰なのかまでは分からなかったが。
些か急いでいるようにも見えた。今、組織が携わっている何かの依頼に関係する人物なのだろう。
そして、二人だけが部屋に残された。
そしてふと気付く。この建物の中には、組織の者しか入れないフロアが幾つか存在する。そして、
この医務室のある階も、その立ち入り禁止区域ではなかったかと。
だとしたら、なぜ冬馬は北沢をこの部屋に通したのだろうか。信頼なのか、それとも他に理由でも
あるのだろうか。
何にしろ、目覚めた時に他の誰でもない、北沢の顔があったことは少なからず感謝だ。
得も言われぬ安心感は、彼にしか成し得ないものであっただろう。
「うーん、瀬口くんはどうも硬いなぁ。…って、当たり前か、社長さんなんだし」
考えに没頭していた瑛里は、北沢の声で我に返る。わざとらしくポーズを作って、北沢が悩んでいる
ような顔をしている。それが、傍から見てて少し可笑しかった。
「…ぷっ、瀬口さんのこと、そんな風に言うの北沢さんが初めてですよ」
「だってさ、俺が助かったって言ってるんだよ? 依頼人が感謝してるんだから、それで良いと
 思わない?」
今まで持っていたイメージとは少し違う、子供っぽい一面を北沢が見せる。それも”フリ”で
あるのだろうが、瑛里にとってはそんな北沢が新鮮だった。
「…それでも僕が身勝手な行動を起こしたことには変わりないんです。きっと僕はもう、依頼を
 受け持つこともないと思います。始めからきっと…僕に向いてる仕事ではなかったんです」
「でも君がこの仕事をしていなかったら俺と君は出逢うことはなかった。だから、俺は君がこの
 仕事をしてくれてて良かったと思ってるけどね。俺の勝手な意見で申し訳ないけれど」
「……」
瑛里は黙り込んでしまう。それは…瑛里にとっても同じ気持ちだったろう。だけどそれを口に出す
わけにはいかなかった。もうすぐ終わるにしても、そこまでプロ意識の無い人間に成り下がりたくは
なかった。
依頼人に対して、特別な感情を持つことは厳禁だと、冬馬にも繰り返し諭されていたことだった。
「君は…好きでこの仕事をしているわけではなかったのかな」
―――…どうだっただろうか。
好きか嫌いかだなんて、そんな考えには及びもしなかった。
選択肢はあっただろうか。自分で作ってきた道だったろうか。
決して後悔してきたわけではなかったけれど、だけど一つだけ…諦めたものがある――。
いや、”諦める”という表現が出来るほどひたすらに追い掛けたものだっただろうか…。
「…小説を、書きたかったんだ…」
ぼそりと、瑛里は言葉を零していた。意識的に出た言葉ではなかった。
聞かせようと思って出た言葉でもないかもしれない。それは独白だったのかもしれない。
「小説…?」
静かに、興味本位などではなく、答えを強要するようでもなく、やんわりと北沢が反復する。
瑛里が自ら語るのを待っているかのように。
「本が好きで…好きでしょうがなくて、僕は自分でも書いてみたいと思った」
自分でも何かを作ってみたいと思った。そして、一番”自分”を表現出来るのは、小説という
媒体しかないと思っていたのだ。ないと思っていたのだけれど…。
だけどそれは、”夢”になり切る前に選択肢から外された。だから一度も追い掛けたことは
なかった。
「でもじゃあ…だったら、俺のさっきの発言は間違いかもしれないな」
「え…?」
「だって、君がこの仕事をしていなかったら俺たち出逢わなかったかもしれないと言っただろう?
 だけどもし君が小説家になっていたなら、その小説を俺はどこかで読んでいたのかもしれない。
 君が俺を知らなくても、俺は君を知っていて、毎回新刊を楽しみにしてたりするんだ」
―――それは途方もなく、遠くの想像上の話だとしても。
そんな”もしも”の話しも、悪くないと思っている自分がいる。馬鹿馬鹿しいと、思う人がいたと
しても、有り得ないと分かっているものを想像するのは楽しいことなのかもしれない。
「あ、でもそれって結局僕は北沢さんのことを知らないままなわけだから、北沢さんだけ狡い」
「ズルいときたか。じゃあ、俺は君にファンレターを送ろう。それも熱烈なね。これでフェアかな?」
北沢が笑って言う。
フェアもアンフェアもあったものじゃない。やっぱり北沢は狡い…と瑛里は思う。
こんなにも―――。
「でもね瑛里くん、プロにならなくたって小説は書けるんだよ。君が書きたいと思えばね」
考えたこともなかった。出来るわけがないと思い込んでいた。そんなことは、赦されぬことだと…。
もし書いていたとしても、読む者も無いそれには何の存在意義もなかっただろう。
「もしいつか君が小説を書くようなことがあれば、最初の読者は俺にならせて欲しい。推理ものでも
 恋愛ものでも、君が書くものを俺は読んでみたいと思う。…ダメかな?」
「………」
瑛里は目を伏せる。
夢が叶ったわけではないにしろ、自分は幸せな人間だと思う。全ての人間が、欲しいと思うものを
手に入れられるわけじゃない。だけど今の自分には、形は違うにしろ、叶えてくれる協力者がいる。
「だめ…じゃ、ない……」
今は…目の前に読んでくれる人がいる。それだけで書く意味が出来る。
約束だ、と言って北沢が小指を出した。そういう接し方に慣れていない瑛里にとっては、少し
照れくさくもあったけれど、差し出された手を自分で遠ざけたくはなかった。
ゆっくりと、瑛里は北沢の指に自分の指を絡ませる。
約束…だ―――。

たとえそれが、不確かな未来だったとしても…。





「そんな場所に…」
「ちゃんと確認もしてる。間違いない。ただ、時間の余裕があまり無かったから、調べられたのは
 ”そこにいる”というただそれだけだけどネ」
「いえ、それだけ分かれば十分です」
美華から連絡があり、冬馬は医務室を出、上階の部屋へと来ていた。そこで待っていたのは
佐久間竜一だった。
典子に竜一の呼び出しを頼み、竜一に会って冬馬はある依頼をした。そしてその答えが今、手元に
届いたところなのだが、その答えは、考えていた仮定を肯定するものだった。
最悪の状況を突き進むばかりだ。今までで一番最悪の依頼と言ってもいい。
「つまりは、根本的なところから間違ってるってことだろうな。被害者ヅラも全て演技だろ?」
「…だとしたら、狙われたっていうのも狂言でしょうか。話しを聞く限りでは、プロの仕事とは
 どうしても思えなかったんです。僕が収容した人間も、捨て駒に雇われた程度の人間なのかも
 知れません」
しばらく沈黙が続く。予想していた範囲内の答えで、もちろん対応についても色々と考えていたこと
だった。だけど、相手に対しての対処法は幾つか考えていたけれど、今回の依頼には厄介な点が
ある。
瑛里が、必要以上に感情移入してしまう相手であったこと―――。
「ありがとうございました、竜一さん。とりあえずもう一度、依頼人と会ってきます」
「…冬馬、大丈夫か」
ほんの刹那だが、立ち上がりかけた冬馬の動きが止まる。だけど、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「大丈夫ですよ、すぐにこの依頼も片付きますから」
そう残して、部屋を出ていく。相変わらず、感情は面には出さない。
その笑みは、全ての感情のカムフラージュになる。
「大丈夫ってツラか…」
一人残された部屋に、竜一の静かな溜息が木霊した。


(嘘は…つけないな…、竜一さんには)
部屋を出て数歩歩いたところで、冬馬は立ち止まっていた。先ほどの竜一の言葉が重くのし掛かる。
今までにも何度も仕事を共にしてきたのに、心配されたことはこれが初めてだ。
参っていることは否定出来ない。だけど、他の人間にならそれを絶対に悟られない自信がある。
しかし竜一には…。
「冬馬!」
再び、歩き出そうとしたところで、美華に呼び止められた。廊下を、少し早歩きで近付いてくる。
「瑛里が、目を覚ましたようね。安心したわ」
「ごめんなさい、美華さん…。怪我をさせないと誓ったのに…」
一つ小さな息を吐いて、美華は冬馬の目を見つめる。
「今回のことは、瑛里が勝手に行動した結果なんでしょ? 叱られるべきは瑛里の方よ」
「だけど…」
瑛里が、悪いわけではないと思う。分かっていて未然に防がなかったのは自分の責任なのだから。
冷静に考えれば、容易く考え付くことだったのに。自分すらも冷静さを欠いている。
私情を挟むなと、人に説教出来る立場の人間ではないのだ、自分自身も。
「僕は残酷な人間なんでしょうね…」
中途半端な私情の介入は、余計な傷を増やす結果を導いてしまった。
「瑛里くんは…綺麗だけど、綺麗なままでは弱過ぎるんです。それじゃダメなんです…」
毒への耐性を付けるなら、少しずつ、致死量に達しない毒を摂取して慣らしていくしかない。
傷の一つも無い人生なんて歩める筈もない。勿論、少ない方が良いのは分かっているけれど。
一度は離そうと思ったけれど、それは既に無理なことだと分かってしまったから。
だったら、最小限の痛みに抑えることが自分のやるべきこと―――。
全ての罪は己に。堕ちていくのなら、自分が下になって衝撃を受け止めよう…。
だけど、きっと癒される時は来ると思うから。…癒せるのは、たとえ自分じゃないにしても。
癒せないにしても、護ることは出来ると思うから。
これは一種の賭け。
負けることは絶対に許されない賭け。

「ごめんね、瑛里くん。だけど僕は…」



「二人とも、ここにいらっしゃったのですね。探しました」
薄明かりの中で、冬馬の顔がゆっくりと浮かび上がる。
下から届くネオンや、ここより高いビルの明かりは、色とりどりに今いる場所を照らす。日は
とうに深く沈んでいるというのにここの住人には何の関係もないことだ。ここは夜に動く街――。
そして今いる場所は、それを一望出来る場所だ。冬馬の事務所の屋上。
特に何があるわけでもないし、決して綺麗な夜景が見えるというわけでもない。
だけど、何時の時も人の存在を感じることが出来る。ここは瑛里にとって何か心の落ち着く場所
だった。手に届きそうで、でも触れない距離でいられるこの場所は。
ここに、他人を連れてきたのは初めてだったのではないだろうか。
まだ、少しフラ付く瑛里を心配しながらも、北沢は黙ってついてきてくれた。
「北沢さん、少しお話があるのですがよろしいでしょうか」
ゆっくりと、冬馬が二人の元へと近付いてくる。だけど瑛里の方には目もくれず、北沢だけを
見つめていた。…かと思うと、不意に視線がずれて瑛里と目が合う。
「瑛里くん。申し訳ないのですが、下に下りていてもらえませんか」
「え…あ、はい…」
思った以上にショックは無かった。既に、もう自分は外された依頼だと分かっていたからだろう。
近いうちに、組織を離脱するよう宣告されるだろうが、それが今じゃなくて良かった。
北沢の前でなくて良かった―――。
「じゃあ僕は、下の階で待ってます」
「ごめんね、瑛里くん」
「いえ…」
謝られることに何か違和感を感じた。
だが、何に対してなのかの答えは、瑛里にはこの時はまだ分からなかったが…。
瑛里の姿が見えなくなり、再び北沢と冬馬が向かい合う。
先に口を開いたのは北沢だった。
「大事なのに、なんで大事にしないのかな」
「何のことですか」
特に表情も変えず、冬馬は北沢を見る。
「ま、分からないならイイんだけどね」
軽く微笑みを浮かべながら、北沢はフェンス越しに景色を見渡した。
冷たい風が下から吹き上げる。寒い筈だ、上からは白い雪がパラつき始めていた。
派手なネオン街に落ちて行く雪は、きっと地面に触れる前に融けてしまうのだろう。
きっと、積もりはしない。
「それで、瑛里くんには聞かせられない話っていうのは?」
手を伸ばし、掌に落ちては消えていく雪を見つめながら北沢は、冬馬を見ることなく問う。
「…あなたの弟さんが見付かりました」
「本当に…?」
目を見開き、冬馬を見る。冬馬もその目を見返す。
何の不自然もない反応だろう。それはシナリオ通りのような。
「それでどこに…」
「ニューヨークです。…ニューヨークに行ったまま、3年間一度も日本には帰ってきていません」
淡々とした口調で語る。先ほど竜一が持ってきた情報だ。
そして全て悟った。依頼人が持ってきた情報は、元から全て偽物だと。
「へぇ?」
少し―――北沢の口の端が上がったように見えたのは気のせいではなかっただろう。
慌てる様子はない。愉しそう…にすら見えるのはなぜだろうか。
3年間日本にすらいなかった人間が、北沢有希と同じアパートに住んでいたわけがない。
北沢の部屋に行った時に感じた、”あまりに違和感の無さ過ぎる違和感”はこういうことだった
のだ。ドールハウスのような、作られた生活感。
そこに生きてる者は居なかったのに。
「依頼人が請負人に対して偽装工作をすることがタブーに触れるものだということを、あなたは
 知っている筈でしょう」
「…そこまでバレてるんだ。やっぱりさすが瀬口サンだね。これでも俺なりに色々と小細工を
 頑張ってみたつもりだったんだけど」
元から、依頼人として出会う前から、北沢は瀬口冬馬の存在を知っていた。そしてとある目的の
為に、依頼人として近付いた。
「まぁ、まさか社長直々に依頼に携わるとは思わなかったしね。そこは計算外だったな」
顔に薄笑いを浮かべる。嫌な笑みだ。初めて会った時と同じ表情の筈なのだが、今は全く異物の
ようにさえ感じる。
そこに、彼が自身で気付いてくれると良かったのだが――。
「同じ業界で働く者…として、僕はあなたのやり方が気に入りませんね」

風が、更に強く髪を揺らす。
異空間の様な都会の喧騒が、風に乗ってここまで聞こえていた―――。




To Be Continued...

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