雪はきっと…降り止まない

    だけど雪は積もらない―――




「正確に言うと同業者ではないけどね。でも裏事情にはそこそこ詳しいと思うよ。瑛里くんはまだ知らない
 んだろ? 俺が単なる依頼人でないこと」
「勿論です。――だから、今のうちに僕たちの前から消えてもらえませんか。別に僕はあなたを殺そうと
 思ってるわけじゃありませんから」
んー、と少し思案顔で北沢は上を見つめる。わざと緊張感の無さを作りながら、しかし眼光には疑いようの
ない鋭さを隠そうともしない。
「それは出来ない相談だなぁ。さっき言っただろう、目的があって近付いたんだって」
北沢が冬馬を見る。そんな簡単に引き下がれるものなら、最初から瀬口冬馬になど喧嘩は売らない。
道は一つしかなくて、その道は引き返すことを考えて作られたものではなかった。
「あなたが何もしないで消えてくれるのなら僕は何もしませんが、もしあなたがまだ何かをするつもりなら
 僕も遠慮はしませんよ」
特に北沢の表情が動くことはなかった。
冬馬の言葉がハッタリでないことは、勿論分かっている筈だ。だが、余裕さえ失う様子はない。
しかしその余裕は、勝算からではない。もっと他の場所にあるようだ。
「目的は3つあってね、どんな形になってもどれか一つは叶うから、君が何をしてくれても俺は構わないよ」
立場的に悪いのは冬馬の方なのだろうか。冬馬でさえも、計りかねている。
3つだという目的のうち、なんとなく予測のつくものもあったが、北沢の口から出たのは、予測していた
ものとはまた別のものだった。
「1つは確実に失敗。ある組織を潰して欲しかったんだけどね。でもこれは、可能性としては一番低いもの
 だったから、”あわよくば”って感じだった。期待はしてなかったからね」
「人身売買をしてる…あの組織ですか」
何かの手掛りになるのではと北沢が出してきた本には、ある組織でしか使われないナンバーが記されて
いた。北沢の話しでは、自分の物ではないということだったけれど、北沢の弟・良希がそこには捕まって
いないと分かった以上、その本はまた違う意味を持ってくる。
良希がそこにいるのではと思わせる為のものだったということだ。そしてそれを用意したのは…。
「あの本の持ち主は…北沢さん、あなただったのでしょう?」
しかし、あのナンバーは裏の世界で仕事をしている者でも、知っている人間はそう多くない。なぜなら、
知った人間はほとんどその組織に消されてきたからだ。余程の者でない限りは。
冬馬が知ってるのには、また別の理由があるのだが、それ以外では普通生きてはいられない。
特別な理由があるか、もしくはその組織自体の関係者でもない限りは―――。
「今…あなたが所持している改造ピストルも、その組織でもらったものなんでしょうね」
「……」
初めて、北沢に変化が出た。表情が変わったわけでもない。ただ、言葉が返ってこなかっただけだ。
しかし、一瞬の沈黙を冬馬が見逃す筈もない。核心に近付いた、もしくは触れた証拠だ。
「へぇ、そこまでバレてるんだ。ホントに侮れないなぁ、君は」
「あなたに褒めていただけるなんて、嬉しいですね。あなたも相当侮れない方だと思いますけど?」
普段は組織の者しか入れない医務室。その入り口には、センサーが付いている。その部屋に限ったこと
ではなく、建物内の部屋全てについているものではあるが、例えば銃器類などを所持していたならば、
すぐにでも反応するようになっている。その種類でさえも、ある程度の特定は出来る。
そしてもう一つ、事務所内全ての部屋に監視カメラが取り付けられている。北沢をあの部屋に通したのは
野放しにしておくより、手元に置いて監視する必要があると思ったからだった。そして、一人にしておく
よりかは、瑛里と会話をさせた方が何かしらの尻尾を出すのではと考えた。
だから冬馬は北沢をあの部屋へ通した。展開を急いでいた。急がざるをえなくなっていたのだ。
それを知ったらきっと、瑛里に軽蔑されるだろうと思いながらも…。
「…バレないって言ってたのにな。つまりは、あっちより瀬口社長の方が上ってことかな。…なんて、もし
 俺がキミに違う形で出会っていたなら、また違ってたんだろうね、色々と」
「…?」
北沢の言いたいことが冬馬には分からなかった。今までの会話ではどちらかと言うと、それが事実かは
別としても、言いたいことは明言することが多かったのに。言っていることの意図がはっきりしないのは
初めてだったのではないだろうか。
冬馬が、口を開こうとした瞬間、第三者の声にそれは遮られる。
「…”弟も自分もこんなことにはならなかったのに”――って? 可哀想な自分に酔ってンの? アンタ」
冬馬と北沢がそちらに目を向ける。冬馬にとっては見慣れた顔があった。
「竜一さん…どうして…」
「ン? 冬馬が心配だったから。お前だけ傷つくなんてシャクでしょ?」
少しだけ離れた、階下へと繋がる扉に手を掛けて、竜一がこちらを見ている。その顔は無表情である。
「…余計なことを言うのはやめてもらえないかな。君が何を知ってるのか知らないけど、君たちには
 関係の無いことだろう」
扉に掛けていた手を離して、竜一は冬馬の元へと歩み寄り、北沢と対峙した。
「まァね、依頼人に依頼されたことだけを遂行するのがこっちの役目なワケだしィ?」
「何の話を…」
冬馬だけが会話についていけない。竜一の口ぶりからするに、まだ冬馬でさえも聞かされていない
北沢の情報を、竜一が持っているようだった。しかも、北沢の表情を見るに、かなり重要なことだ。
竜一に気を取られてしまってはいたが、北沢の空気が明らかに変わっている。
笑っているけれど、だけど敵意は少しずつ目に見えて表れ始めている。それは勿論、冬馬だけではなく、
竜一も気付いている。
だけど、竜一と目が合っても、ただニッコリと笑っただけで、聞きたかった答えは返ってこなかった。
「オレはそっちの都合なんて知らない。冬馬だけがえーりクンに恨まれるのはオレ的に許せないワケで。
 だからアンタに悪者になってもらおうかなって思ったんだけどー」
「ああ…だからあそこに瑛里くんがいるんだ」
北沢の言葉で冬馬は気付く。先ほど竜一が立っていた扉のすぐ側に、瑛里が立っていた。
どこから話しを聞いていたのか分からないが、会話の内容は理解出来ていないようだ。ただそこにある
ただならぬ空気だけを敏感に察知している。
「なぜ…」
「傷付かなきゃいけない現実ってのもあるだろ。それは、この業界で生きてきたオレ達が一番よく知って
 ることだと思うが? ちなみにえーりクン連れてきたのはオレだからオレも同罪ね。お前は自分だけで
 全ての責任を負おうとばっかするから」
ニヤリと、悪ガキのような笑みを浮かべる。だけど冬馬は知っている。軽口のように見せてはいても、
それほどに軽い言葉ではないことを。
「…ふーん。じゃあ、リクエストにお応えして遠慮なく悪者にならせてもらおうかな」
ただ、何をどうしたら良いのか分からなくて、呆然と立ち尽くすだけの瑛里の方を向きながら、北沢が
ゆっくりと口を開く。口元に笑みを浮かべて。
何度も見てきた笑みに、瑛里は初めて拒否感を感じた。それは嫌悪感にも近かっただろう。
聞いちゃ、いけない気がした…―――。
「君に近付いたのは瀬口冬馬の腕を落とす為だったんだ、って言ったら怒るかな、瑛里くん」
いつもと変わらない表情で、いつもと変わらない口調で。当たり前のように発せられた言葉。
「2つ目の目的、瀬口冬馬を潰すこと―――。だけど真っ向から挑んで勝てるわけなんてなかったから、
 地道にパーツを壊そうと思った。だけど途中で気付いたんだ。瑛里くん、君は腕じゃなくて、瀬口君の
 心臓部だってことにね。恰好のの狙い目だったんだよね」
――痛さなんてなかった。言葉は、活字を読むように規則正しく機械的に頭に入ってくるのに。それの
意味を把握出来るほど脳は正しく稼動していない。
聞いてはいけない言葉なのだと、無意識で脳が拒絶する。
「聞かないで瑛里くん…聞かなくていいんだ…。違う、僕の責任なんだ全てが」
3つのうち、1つはきっと瑛里に関するものだろうと思っていた。でなければ、必要もないのに必要以上に
近付くことはなかった筈だ。
だが、北沢が敵愾心を持っているとするなら、瑛里にではなく自分に対してだとしか考えられなかった。
つまりは、瑛里を巻き込んでしまったのは自分に責任があると言える。
弱点が出来てしまったなら、それは何としてでも敵対する相手に知られてはいけない。何としてもだ。
あっさりと見抜かれ、そして付け込まれた。責任は全て自分にある。
「僕のせいなんです。だから、僕が君を守るから…」
「…違うだろ冬馬。瑛里はオマエの身体の一部じゃない。一人の人間だろ。オマエが育てたんだろ?」
「………」
「テメェの身ぐらい、自分で守れるように強くしてやったんじゃないのか? コイツはそんなに弱いのか?」
確かに、銃撃戦にでもなったら、瑛里はまず負けない。完璧な狙撃、知能的な戦術。それは叩き込んだし
考えていた以上の成長をした。だけど…メンタル面での弱さは…。
守ろうとして、逆に瑛里を弱くしてしまったのは自分だ。高い防波堤を突破されてしまったら、内部での
攻撃にはとても弱い。
しかし、内の強化の術も分からず、ただもっと高い防波堤を作ろうとする。同じことの繰り返しだ。
結局、覚悟なんて何の意味もないことが分かっただけだった。毒への耐性を付けようとしたって、分量を
間違えて死に至らしめてしまうんじゃないかという、それが怖くてやはり守りに入ってしまう。
だけど、それではいつまで経っても同じなんじゃないだろうか。
もう避けられないところまできてしまったのではないだろうか。だったら、自分が強くなるしかない。
賭けてみるしかなかった―――。
「瑛里くん、僕は君の後ろにいるから。…後ろからちゃんと支えていますから」
そんな言葉がどれほどの役に立つだろうか。だけど、少しでも意味があるならば…。
「…じゃあもう、始めていいかな。犯人は最後にちゃんと犯行を自ら暴いていかなきゃならないからさ。
 面倒な役回りだよね、悪役ってのも」
言っていることとは裏腹に、状況を愉しんでいる感さえある。
「犯人…?」
「だからね、君は俺に利用されていただけなんだよ、瑛里くん」
「…利…用……?」
言葉の断片だけが小さなガラスの欠片が刺さるように、食い込んでは血を流させる。
だけど避けられない。瑛里が、北沢の”声”の侵入を自ら阻止することなど出来るわけがない。
「そ。弟の居場所も最初から分かってたし、何より君らが調べてた組織の関係者なんだ、俺は」
竜一も冬馬も、黙って北沢の言葉を聞いている。
残酷だろうか。それでも、傷つかずに進むやり方など、二人とも知りはしない。それぞれが、生きてきた
分の傷だけは受けている。
だけど、死には至っていない。だから、傷は必ずいつか治ることを知っている。
「だけど…おかしくありませんか。…自分が在籍する組織を消して欲しいというのは」
少しだけ、何かを吹っ切ったような顔をして冬馬が北沢の方に目を向ける。
自分がしっかりしなければいけない。それこそ、北沢の思うままに動いてしまう。
「そこら辺の事情に関しては、答えるつもりはないかな。もっとも、そこにいる情報屋の彼は何かを
 知っているようだけど」
「安心しろよ、別に言うつもりはないから。オレはアンタ嫌いだし、かばうつもりもねーし」
「それは良かった。じゃ、とことん俺は悪者になれるわけだ」
北沢の言動を瑛里は違う次元での会話のように目に映す。
瑛里にとっての初めての依頼である今回の件は、初めから全て北沢が、自分たちを謀っていた出来事
だったというのだろうか?
利用、だと言った。
組織への依頼は、ある組織を潰す為のただの偽り。いいように使われた。それが第一の”利用”。
瑛里に近付いたのも、冬馬を切る為だった。それが第二の”利用”。
これまでの全ての言葉が、行動が――紙にインクで印刷されたような、シナリオ内の造り物。
感情など含まれていなかった。
「でもさ、瀬口社長相手に俺ごときが考えた作戦が通用する筈もなくてさ。だからもうこれは諦めるよ。
 だからね、君たちももう要らない」
北沢の目線が冬馬から移動して、瑛里に向けられて笑った。
「ねぇ瑛里くん―――もう君も、俺にとっては不要なんだ」
風がいっそう強く吹き、瑛里の細い髪を巻き上げて躍らせる。頬に冷たい感触が当たっては消える。
水になって、その存在を消す。
言葉も、届く前に融けて消えてくれれば良かった――――。
だけど、しっかりと聞いてしまった。誰よりも言われたくなかった人間に、言われたくなかった言葉を…。
「……ッ…」
息が出来なかった。
――感情など無ければ良いと思った。それが無ければ、こんなに痛くはなかった筈なのに。
――言葉など大嫌いだと思った。それは、刃物よりも鋭く切り裂いていく。
早く痛みの原因を絶たないと、自分は死んでしまう―――。
「…瑛里くんっ!!」
冬馬の叫ぶ声が聞こえた気がした。それと同時くらいに手に衝撃があった。
冬馬の言っていたことをぼんやりと思い出す。いつでも感情に流されてはいけない、冷静でいろと。
今の自分は感情的になどなっていない。なぜなら、こんなにも冷静に、目の前の標的に照準を合わせ
引き金を引いているのだから。
とても静かに―――北沢の太腿の辺りから流れ出る赤い液体を見ていた。
血に落ちる雪は、赤く染まり、その温度ですぐに融けていく。時間が経てば、血として再凝固していくの
だろう、とぼんやりと考える。
「…おかしいな、僕は頭を狙った筈なのになんで当たらないんだろう」
機械的に、的は外さない自信があったのに。外してしまった。
「…まだ、足りないんだ…っ」
痛みに少し顔を歪ませながら、足を引き摺りつつ北沢が瑛里の元へと歩み寄る。引き摺った後に、赤い
道筋が出来ていた。
ほとんどもう、足は機能を失いかけているのだろう。時間をかけて、瑛里の元へと辿り着く。
「瑛……っ」
北沢を近付かせまいと、冬馬は瑛里の元へ走ろうとしたが、竜一の手に止められた。黙ってその目は
行かせない、と語っている。
「竜一さん、なんで…っ」
「死なないよ」
「…?!」
「殺せない、彼は」
何を根拠に大丈夫だと言える? 目の前で起こることを、黙って見てろというのだろうか。
北沢が目の前に来ても、瑛里は微動だにしない。表情すらも変わらない。血の付いた北沢の手が、軽く
瑛里の頬に触れる。瑛里の頬に赤い筋が出来る。
既に外気で冷え切った身体は、温度も感じない。
『約束だ』と、交わした小指の温度はもう、どこにも残ってはいなかった。
「迷っちゃダメなんだ。…もっと本気でやらないと当たらない…よ」
耳元で、北沢が低く囁く。
「…全てが嘘だったんだ。僕に言ったことの全てが」
「そうだね、約束なんて何の保証もない。”もしも”なんて人生に於いては絶対に有り得ない。ただの
 妄想だよ、そんなものは」
言ってることは酷い筈なのに、声がなぜか温かかった。高くも低くもない北沢の声は、寒さの中で唯一
温度を感じられるものであり、そこだけが唯一のリアリティだった。
「ねぇ、聞いてる? 君の中に入るのはとても容易かったんだ。君が求めてるものはすぐに分かった。
 だから俺はそこに付け込んだ。ねぇ瑛里くん、俺は君の中でどの辺にいるのかな」
瑛里は何も答えない。
「入り口入ったすぐのとこ? それよりもっと奥? 瀬口くんとどっちの方が君の核に近いんだろう」
数分前だったらどう答えていただろうか。だけど、今はもう比べる次元が違い過ぎる。
「もう、あなたは僕の中にはいない…」
存在なんてもう、在りはしない。
比べようとする方が馬鹿だ。
「ウソばっかり。君は俺のこと好きだろう?」
「違う…そんな感情持ってない…っ」
北沢が、ふと笑った気がした。顔は見えなかったけれど。なんとなく、瑛里にはそんな気がした。
ふと耳に髪が掠って、北沢の顔が瑛里の首筋から離れる。
「だったらさ…その証拠を見せてよ。俺を消すことでさ」
北沢が、ジャケットの内ポケットから、小さな黒い塊を取り出し、慣れた手つきで組み立てていく。
ほんの数秒で形になったそれは、見たこともない型だったが、紛れもなく拳銃だと分かった。
裏でしか出回らないような改造銃。出逢った時からずっと、持っていたのだろうか。
「これはね、普通のと違って弾は絶対に貫通しない。身体に残って開き、粉々になった破片が内部で
 全てを傷付けて、出血多量で死ぬように出来てる。君のとは違って、”守る物”ではなく”殺す物”
 なんだ。これを俺はずっと使ってきた」
自分のピストルを握っていた瑛里の手に、北沢が改造ピストルを手渡す。
瑛里の所持していたものも、比較的小型の物だったが、北沢に渡されたそれは、更に小さく軽いもの
だった。これで、そんなにも簡単に人が殺せるのか。
「今日襲ってきた彼にしたみたいに、頭に撃てばいい。ちなみに今日の彼らは、俺が襲われたと君らに
 思わせる為に俺が雇った連中だった。…だからね、君が人殺しをしたのは俺の計画内だったんだ」

―――何かが音を立てて切れた。
  誰が…? 何を…?

「あんなに上手くいくとは思わなかったけどね、ねぇ? 瑛里くん」

  …名前を呼ぶな。
  嫌でも耳に入ってくる言葉。嫌でも耳に残る声。
  壊れたプレーヤーのように、不快な音を出すこれを
  音が出なくなるまで壊してしまいたい―――――

パンッ、パンッと、乾いた音が空に響く。サイレンサーでも付いてるのか、元々そういう風に作られて
いるのか、音はかなり小さく手に伝わる衝撃も少ない。
手応えもなく、人が殺せるピストルだ。
当たっただろうか、それすらも分からない。
目には赫。
したたる赤色。
空が一瞬だけ、赤くなったのは記憶にある。
下の、繁華街のネオンを受けた雲が赤く染まり、その中に違う赤が一瞬だけ混じった。
そしてそれはすぐに消えた。
「ま…だ……ッ」
北沢の苦しそうな声が聞こえる。
やっぱり当たらなかった。狙ったところには当たらなかった。
―――なんで…当たらないのだろう。
「…君は…やっぱり、俺を…っ殺…なかった……」
殺さなかった? 殺せなかった?
「…期待…ッ…しなければ、良かったな……」
立つのもやっとだろうという身体を、ほとんど引き摺るようにして北沢は、近くの手すりに手を掛ける。
もたれているだけで、立ってるのも既に自力ではないだろう。
「そこ…の彼も…アリガト…ね、言わないでくれて…ッ」
既に顔の向きを変えることさえも出来ないくらい、力無い声は、きっと竜一に向けられたものだろう。
「…え……ィ…ッ」
何かを言おうとしているのが分かったけれど、言葉になりきる前にそれはかき消された。
ぐらりと、北沢の身体が背面に傾いだ。腰より少し上にある程度の高さの柵では、受け止めることは
不可能だった。
「き…た……」
無意識に何を言おうとしたのだろうか。
そのまま、北沢の身体がゆっくりとスローモーションのように視界から落ちていく。
雪と一緒に、落ちていく。
闇に融けていく。
一瞬だけ目が合った…ような気がした。視線は自分に向いているような、気がした。
それをただ見ていた。動けなかった。
ただ、最後に一瞬見たその表情は…

―――ただ、幸せそうに笑っていた――――――


冬馬が、自分をこの件から外すと告げた時、最後に言った言葉を今、ようやく理解した。

『君が傷つく姿を、僕は見たくない…―――』

その頃からきっと、冬馬は気付いていた。
偽りだらけのこの依頼を。
嘘を。
涙は出ない。
…痛みは感じない。
身体の無い者に傷はつかない。
僕の周りの、僕自身の、全てが今失くなった――――――――



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