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(2002年11月30日更新)
日本に住んだロシア人画家
コジェーヴニコワ著 『ブブノワさんというひと』 群像社刊

「極東ロシアのモダニズム 1918−1928」
ロシア・アヴァンギャルドと出会った日本

NEWS!  おめでとうございます
町田市国際版画美術館の滝沢恭司さんが「極東モダニズム 1918-1928」展の企画と関連論文により
倫雅賞を受賞されました!
心よりお喜び申し上げます。

[
「読もう!」編集部によせられた滝沢さんのコメントはココをクリック!
目次

「極東ロシアのモダニズム 1918-1928」展 終了

今回の極東ロシアのモダニズムとブブノワ

画家ブブノワのこと

ブブノワ略年譜

ブブノワの作品より

展覧会の感想 「極東ロシアのモダニズム 1918-1928」展によせて (東京都 沼野恭子)

本の紹介 『ブブノワさんというひと』 群像社刊

訳者からひとこと

読者の感想 その1 (大阪府 女性)
読者の感想 その2 (東京都 女性)
読者の感想 その3 (埼玉県 岡本祥子さん)
ジュンク堂のカリスマ店員 田口久美子さんの弁






「極東ロシアのモダニズム」展のご案内(展覧会は終了いたしました。資料として掲載を続けます。)   
                        ↑目次に戻る
                                       

【展覧会の構成と出品作家】
T プロローグ:ロシア・アヴァンギャルド
   マレーヴィチ、カンディンスキー、リシツキー、マヤコフスキー、タトリン、ロトチェンコ他
U 極東ロシア― 未来派と革命のプロパガンダ
   P・リュバルスキー、N・ナウモフ、P・リヴォフ、Zh・ブラッセ、D・ブルリューク、V・バリモフ、V・フィアラ、I・ヴィジン他
V 極東ロシアのモダニズム
   V・パノフスキー、K・カーリ、A・ルシュニコフ、V・ヴェリャーエフ他
W 日本の近代美術
   1 ロシア人作家と日本
     D・ブルリューク、V・バリモフ他
    2 ロシア未来派の衝撃−大正期の前衛
     木下秀一郎、東郷青児、普門暁、尾竹竹坡、柳瀬正夢他
    3 ロシア未来派への関心
     石井柏亭、有馬生馬、牧野虎雄、竹久夢二他
    4 ロシア未来派と日本の版画・図案
     岡田龍夫、矢橋公麿、村山知義、高見沢路直他
    5 日本の漫画
     望月桂、柳瀬正夢、山田みのる他
 


今回の極東ロシアのモダニズムとブブノワ

(以下の太字で表記された画家の作品、
イヴェントのポスターが展覧会で見ることができます)    ↑目次に戻る 

今、町田国際版画美術館(←町田市のサイトから入れます)で 
「極東ロシアのモダニズム1918ー1928」展が
5月19日まで開かれました。
以後この展覧会は宇都宮美術館北海道立函館美術館と各地を巡回します。

日本の大正新興美術に大きな影響を与えたダヴィド・ブルリューク
パリモフらロシアの画家たちの作品の他、
その受け手であった日本の画家たちの作品を見ることができる。 

残念ながら、今回
この展覧会のテーマに重なる
ワルワーラ・ブブノワの唯一の作品は展示できなかったそうだが 
彼女が36歳で日本に来た頃の1922年の 
日本の美術界の様子を感じることができる。

ブブノワが来日したその年の秋に
三科インデイペンデント展が開かれた。
日本未来派を宣言した「未来派美術協会」の画家
木下秀一郎、 尾形亀之助、住谷磐根らと知り合ったブブノワは
展覧会のあとの合評会で 
ペテルブルグの 美術アカデミーで学んだ学生時代や
ロシア革命直後、
モスクワの芸術文化研究所で
熱狂的に新しい創造を求めた熱い論争を思い出す。 
ブブノワは ロシアで
フィローノフ、ラリオーノフ、 ゴンチャローワ、 
マレーヴィチ、 タートリン、マチューシンなどと
同時期に美術アカデミーで学んでおり、
「青年同盟」の結成者の一人であったマートヴェイ(マールコフ)は
もっとも信頼できる美術の先輩であり
ブブノワを創作上の行き詰まりから救った人で
最初の夫だった(1914年に急逝してしまったが)。

来日したその年の秋には
「現代におけるロシア絵画の帰趨について」という論文をのせ、
ロシアで別れてきたロトチェンコステパーノワ、ポポワらの活動を含め
ロシアの現代美術について書き、かなりの反響があった。
ドイツから戻った村山知義から
ドイツ表現派についての新鮮な刺激を受けた尾形、住谷らは
しきりにそのことをブブノワに話し 
その後 村山と知り合ったブブノワは 
ドイツの芸術家たちについて、
村山はロシアの構成主義について 
おたがいを質問責めにした。 

翌年1923年7月には「MAVO」の展覧会が開かれた。 
村山知義柳瀬正夢渋谷修住谷磐根
大川周蔵、矢部友衛岡本唐貴神原泰、 
浅野孟府、吉田謙吉らの
美術家集団「三科」が結成されたが、
1925年(来日して3年目)の秋に
その第2回展覧会に 
ブブノワは「版画」(グラフィクス)を出品。
当時、彼女は東京工芸高等学校で写真の勉強をしており
それを生かしたこの作品は
若い画家たちの注目を浴びたという。

ブブノワは柳瀬正夢
ドイツの版画家ケーテ・コルヴィツや
ゲオルゲ・グロッスなどについて意気投合。 
日本のプロレタリア芸術の先駆者となった矢部友衛
岡本唐貴とともに 
画家の団体「アクション」と「グループ造型」を組織したが、
新生ソヴィエト連邦の画家たちに夢中になっており 
ソ連の画家たちについて 
ブブノワを質問責めにした。

1925年の春に作られた日ロ芸術協会には 
作家の秋田雨雀、
作曲家で指揮者の山田耕筰、
演劇研究家の小山内薫、演出家の土方与志、 
ブブノワの妹小野アンナの夫小野俊一も入っており、
この協会の、ことに 矢部友衛の音頭で、
新生ソヴィエトロシアの美術展「新ロシア展」が開かれた。
このとき展示作品の輸送に随行してきたのが
詩人アンナ・アフマートワの夫のニコライ・プーニンで、
ブブノワはその時の展示を任されている。

芸術文化研究所時代の同僚ドレーヴィンの自画像、
ヴォートキンが描いたアンナ・アフマートヴァの肖像画の他 
ロシアで交流のあった画家たちの作品を異国で迎え
ブブノワは一生懸命働いた。
プーニンもブブノワの夫であったマートヴェイを尊敬していた。
 
 
 
 

展示作品(チラシより)

 1  2   3                                    ↑目次に戻る

1ーウラジーミル・マヤコフスキイ 〈なのになぜ君は苦しんでいる人を見て何もしないのか『ロスタの窓』〉 1920年頃 川崎市市民ミュージーアム
2−城山吐峰 〈『青美』1号《夢幻の響》〉 1921年4月 町田市国際版画美術館
3−ニクトポリオン・ナウモフ〈『カベル将軍の軍隊よ、誰を守っているのだ。目隠しを取り外し、よく見ろ!』ポスター〉 1922年 ハバロフスク地方郷土誌博物館
 
 

 
 

 
画家ブブノワのこと

                             滝沢恭司(町田国際版画美術館学芸員)  ↑目次に戻る
 
 

ブブノワが日本滞在中に達成した仕事はあくまでも、
ロシア人画家ブブノワの視線から生まれたものだ。

ワルワーラ・ブブノワは帝政ロシア時代の1886年、
ペテルブルグで貴族出身の母と官吏の父の間に生まれた。
母は音楽や語学に長じ、
文化的素養を身につけた人で、
ブブノワが美術の世界に手をそめるようになったのも
日々の教えのなかにその理由があったらしい。

1907―1914年、美術アカデミーで
アカデミックな教育を受けていたブブノワは、
教授らの推進するリアリズム絵画に対して
次第に疑念を深めていく。
当時いち早く新しい美術のあり方を模索していた
ラトヴィア出身の在学生マトヴェイと知りあったことで、
彼から色や形式といった様々な美術の問題について学ぶ。
そして「青年同盟」という左翼芸術家のグループに参加し、
その「ロバのしっぽ展」に出品。

1910年前後のロシア芸術界では
ブルリューク兄弟やマヤコフスキー、
フレーブニコフ、クルチョヌィフといった未来派詩人が
言語による創造的実験を行い、
ラリオーノフ、ゴンチャローワ、タトリンや
マレーヴィチら画家が
ヨーロッパの芸術動向や絵画を
ルボーク(17世紀に現われたロシア民衆版画)など、
ロシア民衆芸術
あるいは東洋美術に結びつけようとする
絵画的実験をおこなっていた。
その延長線上にフォルマリズム文学や
シュプレマティズム絵画が誕生し、
構成主義が芽生えた。
ブブノワもそのなかにあった。

1917年の二月革命を
ペテルブルグで体験したブブノワは
5月にモスクワに移り住み、
ソヴィエト政権の樹立を目の当たりにする。
1920年よりインフク(芸術文化研究所)の一員として活動。
インフクはロシア構成主義理論形成と
実践の拠点になった。
ブブノワはカンディンスキーが所長だった頃、
記念碑芸術部門の研究会に参加、
アフリカ彫刻とルボークに関する発表を行う。
その後、カンディンスキーの作品分析が
主観的すぎるとするロトチェンコらの
客観的分析作業グループに加わり、
構成とコンポジションの
概念と相違に関する分析に携わった。

激動の政治状況を背景に展開した、
芸術における実験の場に身を置き、
理論や造形スタイルの形成を試みていたことが
理解できよう。

1922年に来日したブブノワは、二科展への出品を足がかりとして
本格的な美術活動に入る。とくに
出品作の一つ版画(グラフィカ)〈失われたまま〉は、
当時の日本では新しい作風として注目され、
ブブノワにとっては、
新興美術運動に参入してゆく最初の作品となった。
その後は美術協会第三回展にあたる
三科インデペンデント展への抽象画の出品、
雑誌「思想」への構成主義の紹介論文の掲載によって
構成主義者であることを表明する。
産業発達の時代に即した
実用性のある工業製品としての美術作品、
「ヴィシチ(織物)」を作り出すという構成主義の理論に沿って、
印刷と美術とに接点を持つ
石版画という地平にたどりつく。
その後しばらくして三科造形美術協会の会員として 
二点の石版画を出品する。

ブブノワ来日直後の日本美術界には、
下地として一部の急進的な作家たちがフランスのキュビスムや
イタリアの未来派、ドイツの表現主義などのスタイルや
概念を作品に取り込み、
画壇化しつつある二科に抵抗を企てるといった動きがあった。
この動きはロシア未来派の詩人で画家のブルリュークの来日で
加速度を増し、
左翼芸術家たちによって新興美術運動へと進展した。
新興美術という流れのなかで
ブブノワの論文や作品に刺激された作家たちは、
構成主義の一部をつぎはぎして制作をおこない、
概念を打ち出していく。
特に未来派美術協会やマヴォの作家たちからは
構成主義ブブノワの影響がうかがえる。
写真やデザインの分野への構成主義の影響を考えても
その紹介者としてのブブノワの意義は小さくない。

アヴァンギャルド時代のブブノワの活動を例証する作品はといえば、
残念ながらほとんど失なわれたままである。
実見できるのは ロシア時代の銅版画二点のみ。
来日後制作された油彩画、石版画だけである。
1925年を境に新興美術が急激に収束しはじめたのと同時に、
ブブノワの名前はその表からほとんど姿を消してしまう。
その後1932年に最初の個展、1958年の帰国までは
国画会展や日本版画協会展を主要な発表の場にしていた。
ブブノワの色彩に対する問題意識は、
美術アカデミー在学中にフランス近代絵画や古代美術と接したときに目覚め、
その後、色彩は画面の中心的構成物として、
内容そのものとして価値づけられてきた。
ブブノワは石版術と印刷術を有効に活用し、
純粋美術と印刷美術との境界にあるともいえる作品を制作。
その石版画は現代の民衆芸術として、
生活のなかに普及すべき存在としてあったように思われる。

1930年代以後ブブノワは、
美術の理想を絵の内容の中に実現していった。
形式における実験は全く影を潜め、
身辺世界を描き出す純粋美術としての石版画が登場する。
日本の風土や風景、戦争体験などをつづった作品は
時にやさしく、振幅が大きく、
そのときどきのブブノワの視線が読みとれる。
ブブノワの描いたのは身辺にいた人々であり、
庶民の生活、変哲のない風景である。
戦争を扱った作品でも、
彼女は必要以上に声高には問題提起していない。
あくまでも低い次元からまっすぐ、
自分がおかれた状況をありのままに描き出しているのである。 
ブブノワの視線は写真家の視線のようでもある。
彼女の作品では戦前、戦時、戦後の日本の風景や風土、生活が
まるで写真のように記録されているのである。
ロシア人ブブノワの視線によって、
そしてまたそこにはロシア文学の世界も写しだされている。
現代、神話、文学など二重三重のイメージがブブノワの作品には宿っている。

リアリズム絵画を嫌い、
プリミチヴな美術や東方の美術やルボークに惹かれたブブノワ、
絵画を捨て、石版画によって足場をかためようとしたのは幸福の始まりだった。
彼女の作品は人を見下ろさない。見上げもしない。

1958年ブブノワは故国に帰り、黒海沿岸の町スフミに暮らした。
描かれた水彩画やパステル画は色彩が加わったことにもよるが、
日本時代の石版画に比べて非常に感性的である。
この時年齢は70歳を超えていた。
しかし視線の力、表現の力は衰えていない。
 

*この原稿は滝沢さんの許可を得て、1995年4月に町田市立国際版画美術館で行われた
「ブブノワ展 −革命ロシア発モダニズム日本、戦塵と復興の中で描きつづけた女性画家」        ↑目次に戻る
のカタログ序文より抜粋いたしました。


ブブノワの略年譜は群像社の『ブブノワさんというひと』の本のページに載っています。
本の目次をクリックしてブブノワ略年譜の窓を開けてください。


ブブノワの作品より                                ↑目次に戻る

        
ワルワーラ・ブブノワ 『葬儀屋』(プーシキン)挿絵 1934年 リトグラフ、紙
 

                                               ↑目次に戻る
 
 


「極東ロシアのモダニズム 1918-1928」展によせて

     

                 沼野恭子(ロシア文学・文化研究者)                ↑目次に戻る
 

2002年5月19日まで町田市立国際版画美術館で開かれていた
「極東ロシアのモダニズム 1918-1928」展
(このあと宇都宮美術館、北海道立函館美術館を巡回する予定)は、
構成も内容もカタログも
たいへん力のこもった素晴らしい展覧会でした。
5月11日にはパネルディスカッションにも参加しましたが、
この展覧会の生みの親である研究者の方々の興味深いお話をうかがい、
その情熱に触れて深い感動をおぼえました。
 

以下に、この展覧会が担った
3つの大きな意義について記したいと思います。
まず第一に、モスクワやペテルブルグといったロシア「中央」が
華やかにアヴァンギャルド運動を展開していたのとほぼおなじ時期に、
極東という「周縁」の地が、中央と連携をとりながらも、
独自に力強くモダニズムの花を開かせていたという事実が、
具体的かつ詳細に紹介されていることです
(ここで大きく影響しているのは、
最近まで秘密のベールに包まれていた軍港ウラジオストクが開放されて、
資料の収集や作品の確認などが
自由にできるようになったというロシア側の事情でしょう)。
ウラジオストクでアーティストたちが
賑やかにつどったといわれる見世物小屋やキャバレーの雰囲気。
ダヴィト・ブルリュークらが持ちこんだモスクワやヨーロッパの息吹。
イワン・ヴィジンのポスターや
ニクトポリオン・ナウモフの風刺画に見られる革命への熱い共感。
ハバロフスクにおける神秘的で革新的なグループ「緑の猫」の活動。
パーヴェル・リュバルスキーのリノカットによる連作『娼婦』の衝撃性…。
こうした熱気が会場にたちこめ、渦を巻いて、
作品の圧倒的な印象とともに迫ってきます。
全体が4部構成になっているうちの第2部にあたるこの
「極東ロシアの未来派と革命のプロパガンダ」が、
やはり私にとっては最も興味深く新鮮でした。

第二に、ブルリュークとヴィクトル・パリモフが1920年に来日した前後の
日本の美術界の動向を第4部「日本の近代美術」で同時紹介することで、
この展覧会が比較文化的な広がりを持ったことです。
これは単に筆者が無知だっただけですが、
1910年代にすでに東郷青児らが
こんなに未来派的な作品を描いていたというのが驚きであるとともに、
こうした「受け皿」があったからこそ、
まことにタイミングよくやってきたロシア未来派のふたりが
大きな影響力を持ち得たのだ、と納得できる仕組みになっています。
ヨーロッパから見れば、日本は周縁のさらに周縁ということになりますが、
こと未来派に関しては、
ヨーロッパやモスクワと日本とのタイムラグは最小限だったのではないか、
ブルリュークの日本滞在のおかげで
それはさらに縮まったのではないか、そんな思いを抱きました。
 

第三に、この展覧会の企画そのものが、
大正期新興美術研究の第一人者、五十殿利治筑波大学教授、
神奈川県立近代美術館専門学芸員の水沢勉氏、
町田市立国際版画美術館の滝沢恭司氏のお三方による、
長年の調査・研究の結実したものだということです。
いろいろなご苦労もあったことと思いますが、
じっさいに極東に行かれて、
知られざる宝庫に「宝の山」を掘りあてたときの感動は
いかばかりだっただろうと推察されます。
日本人研究者の発意が、ロシア人研究者の協力を得て、
より実りある成果を結ぶことができたのだとしたら、
これほど素晴らしい比較文化研究はないでしょう。
その意味では、ロシアでこの展覧会が開催されないのはなんとも残念ですが、
経済的な理由によるとのことで、いたしかたありません。
 

このように、極東モダニズムについての
おおいなる突破口をひらいた展覧会だっただけに、
今後への期待は非常に大きいと思います。
目下、私が何よりも知りたいと思っているのは、
モスクワやペテルブルグのアヴァンギャルドと極東のアヴァンギャルドは
どこがどう違っていたのか、
あるいはどのような共通項があったのか、ということです
(たとえば「緑の猫」による版画集『三人』(1919‐1920)は、
フレーブニコフ、クルチョーヌィフ、グローによる『三人』
(装丁はマレーヴィチ、1913)と同じタイトルですが、
どの程度、それを意識していたのかとか、
極東ではキュビズムや構成主義のどれくらい発展を見たのかなど)。
この展覧会をきっかけにして、
今後ますます極東文化の研究が進むことを、
心から願っております。
                                                                                                      ↑目次に戻る
 
 


訳者からひとこと

                        三浦みどり               ↑目次に戻る
 

ブブノワさんに教わったこともなく、
日本にいらっしゃった頃を知っているわけでもないのにこの本を訳した私だが、
本ができあがる過程でブブノワさんには
二回お目にかかっている。

ブブノワさんについてのこの本がソ連で出版されたことを知ったのは、
中部ロシアの地方都市で働いていたときだった。
その頃の私は、ロシアの人たちの中にはどうしても入り込めず、
外国人として透明な壁の中にいるような疎外感に苦しんで居た。
本のことを教えてくれたのはロシア人の友人だが 
彼女も勤め先の大学図書館流通網でやっと一冊手に入れただけ
私が買うことなどとても無理だった。
半年後、帰国した私は日本でこの本を探し始めた。
ところが、東京のナウカでも日ソ図書でも既に売り切れ。
しかたなく既に買って持っていた友人に借りて
ようやく私はブブノワさんのことを読み始めた。

ブブノワさんと言う名前はそれまで何度か耳にしていたのに 
何故か、その実際はまったく知らなかった。
そこには日本で暮らすようになる前の
ブブノワさんの姿が生き生きと書かれていた。 
文学や芸術を愛する両親に育てられた彼女の生い立ちや
プーシキンゆかりのトヴェリで過ごした楽しい少女時代、
フィローノフ他後にロシア・アヴァンギャルドの美術家たちとして
知られるようになった人たちと同じ時期に
ペテルブルグの美術アカデミーで学んだ日々、
新しい創作の道を模索した学生時代があったこと。
ロシア革命直後のモスクワで
変革の情熱に燃える芸術家たちとともに
芸術文化研究所でも活動していたことを知った。
革命後の混乱の中でも血気にはやる仲間たちに流されないで、
自分らしさを失わず声高でないながら反対の意見も述べ、
自分の美を求め続けたブブノワさん。
彼女を通じて 
「あ この人もブブノワさんの横に居た人だ」と言う感じで、
ロシア・アヴァンギャルドの画家たちも身近に感じられるようになった。

でも、この本に出てくる日本人の名前は、
当然のことながらすべてロシア語表記。
その人たちのことを知るためにはまず
日本人の名前を元の漢字表記に直さねばならず、
日本の美術史、農民美術運動 プロレタリア芸術史、
大正期新興美術運動、日本の版画美術などの本を片端からめくり、
その名前を捜した。
こうして、来日後のブブノワさんの美術活動についてを読み 
大正期美術運動の
それまで名前だけ知っていたような美術家たちが
私の中でつながっていった。
これはとても楽しい作業だったが、
美術出版社(当時)の森清凉子氏やナウカの宮本立江氏が
絶大な支援を送ってくださらなかったら解決しきれないことだった
そして監修者である江川卓先生のご尽力と群像社のご厚意で
出版と言うことになった。

この作業もやっと終わったのは、訳し始めて2年目も終わる頃、
最後の難関が後書きだった。
「えー?そんなことも私がやるの?」と、私は焦りまくった。
悶々と書けないでいた時 ブブノワさんが夢に出てきた。
何をお話したかは覚えていない。
目覚めたとき、お目にかかったことだけを記憶していた。
後書きを書き終わったそのあと、
今度は夢ではなく、現実に杉並の自宅近くで、信号が青に変わるのを待っていると、
遠くからブブノワさんが歩いて来るのが見えた。
「まさか?!」 
もちろん 信号の所まで来た時その人はブブノワさんではなかった。 
ただそれほどに 翻訳や資料調べをしていた時は 
ブブノワさんのことばかり思っている、そんな至福の時だった。 

この本ではロシア人読者のための日本紹介の部分も多く、
水墨画、南画、浮世絵、その他 
日本の美を理解しようとしてじっと見入り、
その中に入り込んでいくブブノワさんの姿勢に共感しつつ、
ブブノワさんの後について日本版画や水墨画の世界に触れていくうち、
改めて日本の美しさを理解しなおすことになった。
そんなこともあって、海外に居る日本人には
日本を見つめ直す視座を与えたりもするらしい。

日本語訳を読んだイタリア在住のある日本人デザイナーは、
ブブノワさんの日本美の見方
(「日本人は絹やワシに触れるにしても、
焼き物の壺を両手で持つにしても、どんなにいとおしげであるか、
墨で漢字を書くのに
どんなにていねいに筆を運ぶかに惹かれている」とあるが 
まさにこれこそ海外暮らしで疲れた心が欲する「美」ではないだろうか)
大いにヒントを得ているし、
外国で日本語を教えておられる方も
「言葉を理解するには、その文学を充分味わい、
話し言葉を理解できるまで究めなければならない。
それに比べれば、美術の方が理解しやすいかもしれないが、
そのためには、まずそれを研究しようとする者が広い心と、
他の民族の創造力に対する信頼感を持っていなければならない」
と言うブブノワさんの言葉を
教師としてのあり方として指針にしているという。

今、私がもっとも信頼しているロシア文化の道案内
A.Yu女史にも、ブブノワさんのおかげで出会えた。 
Yu女史はモスクワ東洋美術館の学芸員で専門は日本の浮世絵だが、
ブブノワさんが日本で制作した作品と日本の浮世絵を 
比較して論じるという講演をされ、
その通訳をさせて頂いたのだ。
後から分かったのだが 
Yu女史は東洋美術館でブブノワ没後の最初の大きな回顧展
「ワルワーラ・ブブノワー日本で暮らしたロシアの女流画家」開催の担当者だったという。

また、こんなこともあった。
私の友人が仕事で訪問した先でこの本のことを持ち出すと 相手の方が
「外国人であるブブノワさんが軽井沢へ強制疎開させられる時、
見送りの汽車の中で警察官に
『日本人は乗っていってはいけない!』とつまみだされそうになって
『これは中国人です』とかばってもらった本郷香織です」
とおっしゃられたというのだ。
本に登場される方々からご連絡をいただいたり、
あとで人物関係がもっと詳しく分かったり、
ブブノワさんが早稲田大学でエヴゲーニン・オネーギンの講義をしたとき、
当時としては最新式のオープンリールのテープレコーダー(デンスケといったそうな)
を担いでいって録音していた方から
カセットに写し直したものをいただいたり、
本がでたあとでまだまだブブノワさんを通じての新たな出会いが続いている。

バイオリニストであり日本の音楽家を育てるのに
大きな役割を果たした妹の小野アンナさんに比べて
なぜかワルワーラ・ブブノワのことは
ブブノワの弟子であられる安井亮平先生が自費出版で出された
『ブブノワさんの手紙』(編者、発行者 安井亮平、求龍堂製作、1996年)があるほかは
あまり知られてはいない。
この本を 色々なブブノワ関係者が読んで下さって、
ブブノワが等身大で立体的な人物像として
もっともっとに広く知られるようになってほしい。 
 
 

                                             ↑目次に戻る

 読者の感想から
コジェーヴニコワ著 三浦みどり訳
『ブブノワさんというひと』  群像社                            ↑目次に戻る

感想その1

外国との行き来が増え、
異国の言葉がいつしか自分の持ち言語のひとつとなれば
日本を見ていた自分の視座が微妙にずれてゆく。
それは建築や絵画を見るとき、音楽を聴くときなど
なにかをとらえようとするときの
目の高さ、
眺める角度が変わるということかもれない。

美の紹介者 ブブノワ

この『ブブノワさんというひと』を読んで、
この女性の果たした役どころの多さに驚嘆した。
時代がこういう運命を彼女に負わせたともいえるだろう。
一言で言えば、彼女は多才な
美の紹介者であったのだ。
日本人にとってブブノワは
絵画では、自分のうちに流れるロシアの伝統と新しいアヴァンギャルドの息吹を
文学では、ロシア語の奏でる旋律を、その世界の奥深さを伝える
師だった。
そして、同時代の日本人はこれに気づいていたかどうかわからないが、
彼女は日本流の美のとらえかた、日本の美の世界をも
自分の仕事を通して伝えていたような気がする。
彼女の版画に表現される日本の風景は
たんに情緒的な美しい情景ではない。

「目に見えない客人の群れが…」

水墨画の世界に触れた彼女は
「心を激しく震撼させられ」、そこに詩を
音楽を聞き取っている。
至高の芸術に触れるときの
ブブノワ内部におこる反応は興味深い。
「まず心が打ち震え、高鳴り」
その後に初めて
「目に見えないその他の客人の群れがやってくる」。

ブブノワという人間の土壌はあまりに豊かであった。
音楽、文学、建築、画壇と
多彩な分野で知り合った人々をこうも感嘆させ、
それぞれに滋養高い世界を開いてやり、
ロシア語教師として立派な弟子たちを育てたということは
芸術家として鍛えてきた
美の探究者が
いかに自分の感性を多面的に磨きつづける人であったかを
物語っている。
厳しいひとであったろう。

豊かな孤独

異国の地で、自己確認の旅をつづけることは並大抵ではない。
それは日本という媒体を通し、自分の美を
何度も修正し、深め、確認しつづける旅でもあったのではないか、と
想像する。
ものを創る人間は常に孤独だ。
ブブノワもそうであったに違いない。
しかし、彼女の孤独は閉じた世界のものではなかったろう。

タウトとブブノワ

ブルーノ・タウトが桂離宮を評した有名なあの名文は
画家ブブノワの同行で生まれたものとは!
やはり日本の美の扉を開いてやる最高の紹介者が、
タウトには寄り添っていたのだ。
小説でも書けそうな話だと思ったら、なんと
石川淳が「白描」に書いていた。
ブブノワにとっての墨の世界への導き手、
棟方志功との交歓では、志功の独特の人間味
プロ意識をじっと観察し、うまくすくいとる描写から
ブブノワの繊細さが感じられる。ほほえましい。

日本ではあまりに有名なヴァイオリン教師の
小野アンナはブブノワの妹であるし、
ページをめくるごとに飛び込んでくる人名の多さ多様さは
ブブノワを囲む世界の広さと奥行きを
感じさせ、ため息ばかりだ。
この『ブブノワさんというひと』とともに
日本を訪れたいち異邦人の目で
独特の美の深淵に降りてゆける、
それは思いがけない収穫だった。

人間どおしの距離が、情報の伝わり方が今とは決定的に違う。
時代、であることはまちがいない。
しかし、それだけが理由とも
思えない。

(大阪府、女性)                                 ↑目次に戻る
 
 
 


『ブブノワさんというひと』読者の感想 その2

「ブブノワさんというひと」のなかで 
彼女がどうように日本を感じとっていったかということが印象的でした。 
この本の価値(邦訳版のこと)はますます
たかまっていると思います。

(東京都 女性)                                  ↑目次に戻る


『ブブノワさんというひと』読者の感想 その3

                       岡本 祥子さん (ロシア語通訳・翻訳業)
  
在庫があるうちに…
                                          ↑目次に戻る
『ブブノワさんというひと 日本に住んだロシア人画家』
この本が群像社から出版されたのは1988年。
そして私がこれを読み終わった今は2002年5月。
この本の出版についてうすうす知っていたにもかかわらず、
16年もたってからはじめて手にとるなんて、なんという間抜けでしょう! 
今、読了後の私は声を大にして言いたいです。
これこそは驚くべき魅力的な書物だ、と! 
(これほど長い年月、品切れにしないできてくださった群像社さん、ありがとう。)
まだ読んでいない方、在庫があるうちにお急ぎを!

顔立ち 自然な強さを秘めたブブノワ

この本を手にし、本文を読み始めるその前から私を強い力で惹きつけ、
この女性の生涯についてどうしても知りたい、という思いにさせたのは、
表表紙のデザインに組み込まれた「ブブノワさんというひと」の写真でした。
1923年、彼女が30台後半のときのもの。
絶世の美女とは言えない容貌なのに、どうしても見入ってしまう。
なんと静謐で、自然で、調和のとれた表情。
犯し難い気品と、「近づいていったら受け入れてもらえる」と確信させられるような温かみ、
親しみやすさが同居している。
背筋はすっと伸びているけれど、傲慢に反り返ってはいない。
何の自負も矜持も誇示されていないけれど、
芯の通った強さと精神の力がそこはかとなく感じられる。
日本、という、その当時は地の果てのように遠い異国に来て間もないというのに、
この自然さはどこからくるのでしょう。
ほかにも、本書に載っているさまざまな年齢のブブノワさんの写真
(それと、彼女自身の作品である自画像)はみな魅力的です。
これらを見るためだけでもこの本を手にとる価値がある ? 
私って大げさ?!

「哀しみに効く薬 それは仕事」

この本は、まず第一に、才能あふれる芸術家にして
第一級の知識人であったロシア女性の波乱に富んだ一代記、
として読むことができるでしょう。
彼女の人生行路をたどるだけでもひき込まれずにはいられません。
きわめて深い教養、広い学識と知性、芸術家としての感性に恵まれていたブブノワさんの人生は、
とはいえ、個人的な不幸にも事欠かなかったようです。
画家としての道を歩み始めたばかりで、
芸術上の導き手でもあった恋人マートヴェイが急逝。
直後に父も他界してしまう。
日本人留学生と結婚して日本に渡った妹
(後年ヴァイオリン教師として数々の日本人ヴァイオリニストを育てた小野アンナさんがその人)を
母とともにたずねてのち、36年もの長きにわたって日本にとどまります。
不慣れな生活の中で関東大震災を経験。
その後、在日のロシア人男性と結婚して20年余を仲睦まじく暮らすものの、
子供のない夫妻がこよなく愛した甥が亡くなってしまう。
終戦から2年後には、ともに故国に帰るつもりであった年下の夫の
早すぎる死という悲劇にみまわれます。
暗くなってゆくいっぽうの政局、そして戦争。
敵国の出身で外国人であるブブノワさんがなめた辛酸は想像に余りあります。
軽井沢に強制移住させられ、財産も蔵書もすべて戦災で失うのです。
ところが、こんなにさまざまな不幸にもめげずに仕事にうち込むブブノワさんの姿はまったく感動的です。
画家としてのたゆまぬ探究、
深い洞察力に裏付けられた日本美術の研究、
ロシア文学とロシア語の教育者としての献身的な仕事、
祖国を知らない在日の若者たちにロシア文化を紹介する活動、
詳しくは本書を読んでいただくしかありませんが、
著者であるイリーナ・コジェーヴニコワさんはこう言っています。
「彼女には分かっていた。運命がもたらすどんな哀しみにも効く薬はただ一つしかない、
それは仕事である、と」  

妹 小野アンナのこと

少し横道にそれますが、妹の小野アンナさんの運命にも、
心を揺さぶられずにはいられませんね。
一途な愛ゆえに遠い夫の国に赴くものの、
天才少年と謳われた最愛の一人息子に先立たれ、夫とも離別。
それらの悲しみに負けずに音楽の仕事に打ち込み、
教育者として前人未到の業績を残し、姉とともに今も多くの人の心に生きているひと。
この人の生涯についてももっと知りたい、と思わずにはいられないのですが、
音楽之友社刊の「回想の小野アンナ」は残念ながら品切れなのでありました
(また印刷してくださーい!)。

本に広がる 豊穣な世界 

『ブブノワさんというひと 日本に住んだロシア人画家』は、とはいえ、
「一女性の感動的な運命」にとどまるものではありません。
この書物の魅力はそれだけではない。
この一冊が読者に広げて見せてくれるのは、驚くほど範囲の広い、実に豊穣な世界なのです。
ブブノワさんの人生をたどりながら、そこここできわめて広範な分野のさまざまな資料が提示されています。
そこには多岐にわたる深い示唆がちりばめられており、
読む者は、次から次へと新しい事物への興味がかきたてられて尽きることがありません。
革命前の地主屋敷での田園生活、
帝政末期の美術アカデミー、革命の勃発、芸術文化研究所(通称インフク)での論争や
「描写」を葬り去ろうとする構成主義者たち。
そして、日本への長い旅ののちに場面は日本に移ります。
ブブノワさんと大正・昭和の日本人画家たちの交流、
日本でのロシア・ソビエト文化の受容やロシア文学の翻訳、
それらの分野でのブブノワさんの尽力。
ブブノワさんが日本で果たした役割の多さと大きさはたいへんなものだったのですね。
こんなに「お世話になった」なんて、ぜーーんぜん知らなかった!  

少女ブブノワと画家レヴィタンをつなぐ糸 

ブブノワさんの母方の実家ブリフ家の人々がプーシキンと深い親交を結んでいたことは、
多くの人の関心をひくことでしょう。
でも、私にとってとりわけ感動的だったのは、
ブリフ家の領地ベルノーヴォ村と画家レヴィタンとのつながりでした。
チェーホフの女友だちリジヤ・ミジーノワの助言でベルノーヴォを訪れたレヴィタンは
この地の自然に魅了され、そして、傑作「淵のほとり」を描く...
この一節を読んだ私はすぐさまレヴィタンの画集に飛びついて「淵のほとり」を探しました。
あった! レヴィタンがその美しさに感動したチマ川のほとりを、
少女時代のワルワーラもまた物思いにふけりつつ歩いたのでしょうか... 
母に連れられて見に行った美術アカデミーの展覧会で、
15歳の彼女が最も気に入ったのもレヴィタンの絵でした。

日本の画壇とブブノワ

「大正期新興美術運動」の画家たちとブブノワさんの交流のようすも
生き生きと描かれています。
東郷青児、村山知義、柳瀬正夢...
名前の挙がっているたくさんの日本人画家たちの作品も見てみたい気持ちにかられます
(この夢を一部かなえてくれるのが、
「極東ロシアのモダニズム  ロシア・アヴァンギャルドと出会った日本」という展覧会です。
東京都下、町田市立国際版画美術館における会期は
残念ながら終わってしまいましたが、今後、宇都宮、函館を巡回するそうです。

ブブノワが明かす 日本美術の世界

そして、私が個人的にこの本の「白眉」と感じたのは、
「日本美術の世界」の章です。
ブブノワさんの温かく鋭い目で解き明かされるさまざまな時代の日本美術の
なんと魅力的なこと! 
ブブノワさんはとりわけ足利時代の水墨画に魅力されます。
著者コジェーヴニコワさんも、
完全にブブノワさんと一体になって日本の美を語っているかのようです。
(ついこの間まで、東京国立博物館で「雪舟」展が開催されていたのですよね。
生活の雑事にまぎれて見逃してしまった私はやっぱりまぬけ。
次の機会はいつやってくるのでしょう)。

本の著者へ 訳者へ

この素晴らしい女性についてたくさんのことを教えてくれた
コジェーヴニコワさん、ありがとう。
ブブノワさんの人生と芸術を情熱を傾けて探求し、
生き生きとした筆致で描きつくした著者には、
心から敬意を表します。
まるまる1世紀にも及ぶ時代のロシアと日本の歴史、
社会情勢、諸芸術の動向、日ソ文化交流史など、
ブブノワさん自身に劣らぬ博識の持ち主でなければやり遂げられない仕事だと思いました。
そしてまた、この長い物語を一貫して快いリズムとトーンで訳しきった訳者の力量にも、
驚嘆せずにはいられません。
膨大な人名、作品名などをひとつひとつ確認し、
日本のものについては正しい漢字をつきとめていくだけでも、膨大な作業量ですよね。
何より、翻訳されたものであることを感じさせない文章が心地よい。
迷ったり考えたりせずに日本語として自然に読みすすめられることで、
読書の楽しみにどっぷりつかることができます。
本書を広くお薦めするゆえんです。
 

                          (埼玉県 ロシア語通訳・翻訳業)   ↑目次に戻る 

☆こんなに詳しく力強い推薦文をいただきまして
 ありがとうございました(「ロシア文学を読もう」編集部)。

以前にアナトーリイ・キムの『リス』に
「現代文学の剛速球党首が描破した『大いなる悲哀の物語』」と題し
秀逸な、とても心のこもったオンライン書評をかいてくださった(群像社文化通信『群』18号に掲載)
ジュンク堂書店 池袋店 副店長 田口久美子さんが
同書店のHP,池袋風雲録に『ブブノワさんというひと』について書いてくださっていました。
「しかしダサいタイトル!」とこれがまた、たいへん正直な弁でして… 
                                               ↑目次に戻る
 

池袋風雲録 第1回 (抜粋)

『石神井書林日録』(内堀博 晶文社)を読んでいたら、
『ブブノワさんというひとー日本に住んだロシア人画家』(コジェーブニコワ 群像社)について
ふれている。「ん?このタイトルに覚えあり、しかもこの本を手にして困った記憶が……」と頭をたたいた。
『石神井日録』によれば、ブブノワ女子は日本の大正期芸術運動に関わったロシア女性ということだ。
彼女も参画した『マヴォ』という前衛芸術雑誌は今ではマニア垂涎の的のようだ。

ここまでくると思い出す、福岡店(01年11月オープン)の開店応援で
美術書の棚づくりを手伝いにいった時のことだ。
なにしろ美術書は年々出版点数が激減し、しかも品切れ続出の、
一言でいえば「出版界の衰退王」ともいえる地位にある。ざっと見渡して案の定、
発注した本のうちかなりが品切れのようで、ほとんどの棚はがらすき状態であった。
日本美術評論だけは追加発注や他ジャンルからの入れ込みをしなくても開店に持っていけそうな
商品量がかつかつあった。ああよかった、楽なところが一箇所でもあって。
思わず肩の力が抜けた。私は評論の棚をいつも年代順に作っていく。
ついでだが、日本美術評論の棚をみると
明治維新がいかに衝撃だったかが、深くうなずける。
明治の画家たちは
怒涛のように流入する「西洋」と戦ったのだろう。

そして、そこに「ブブノワさん」はいた。「誰、このひと? えー、ロシア女性?
しかしダサいタイトル!」…   
                     この続きはジュンク堂の田口さんのページ
 

「読もう!」編集部に寄せられた滝沢さんのメールより

ありがとうございます。
思いがけず賞など頂いて、我が身を疑いつつも、
実はうれしさを噛みしめている感じです。
何よりこの賞を喜んでいただける人に対して、
感激しています。
これからもあまり実績や世俗の評価に頓着せず、
自分の関心のあるテーマを地道に研究していきたいと考えています。
ブブノワについても、自分の中では何となく中途半端な感じになっている気がして、
あらためて資料の見直しと、探索をして、もう一度、文章に
まとめたいと思っています。
ロシアと日本の近代美術の関係についても、
得にロシアでのリアリズムの復活と、
日本のプロレタリア美術の関係など、今後の大きなテーマのひとつです。

取り急ぎ、お礼のみ失礼します。

滝沢恭司

                                                 ↑目次に戻る
 
 

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