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バーベリと父。
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バーベリという作家
バーベリ、イサーク・エンマヌイーロヴィチ(1894-1940) オデッサ生まれだが、「オデッサ物語」の舞台であるユダヤ人街モルダヴァンカ出身ではない。ユダヤ人商人の父の教育方針で16歳までヘブライ語、聖書、タルムード(生活、宗教、道徳などに関するユダヤ教の律法)や様々な学問を強制される。 本人いわくむしろ息抜きの場であった商業学校に通い始めると、フランス人教師の影響をうけオデッサのフランス人コロニーにしばしば出入りし、モーパッサンに傾倒するようになる。15歳で書いた初の短編はフランス語であったし、作品「ギイド・モーパッサン」(群像社刊『オデッサ物語』所収)にその片鱗ががうかがえる。卒業後キエフ時代を経て1915年ペテルブルグで出版社をめぐるが、どこでもけんもほろろに突き返される。 1916年ゴーリキイの編む雑誌「年代記」に小説を発表。これが作家としての創作活動の開始となる。初期の作品においてすでにバーベリの創作の重要な特徴、個々の人間の性格やその運命を通して世の中を眺める視点が現れている。「世の中へ」出て経験を豊富にし、筆を再びとれというゴーリキイの助言に従い、1917年から7年の間赤軍や秘密警察(チェカー)など様々な職を転々とし、そのうちのひとつ、騎兵隊の経験が1923年小説『騎兵隊』、『オデッサ物語』として見事に結実する。雑誌、新聞に連載されたこの小説は好評を博し、バーベリの名を揺るぎないものとする。 バーベリの作品には血色のよい黒海特有の陽気さと聖書の原典の持つ影が合わさっていると評される。「アネクドート(巷の小噺)や卑猥な話などどうでもいいようなものを手にとる。そしてそれから書き始める。と、我ながらのめりこんでしまうようなものができてしまう。それはきらきらと光り、海岸の小石のように丸い。まちまちな断片がくっつきあって成り立っているのだが、その結合力の密度たるや雷さえも歯の立たたぬほどなのだ」。 バーベリの魅力はその荒唐無稽なまでの比喩と語りの手法にある。これがジイド、ヘミングウェイなど第一次世界大戦後のヨーロッパの「失われた世代」に強く影響を与え、またニーチェやジョイスに共通する世界として高く評価されている。 『騎兵隊』、『オデッサ物語』で絶頂を迎えた後、自伝的作品以外にあまり作品は生まれていない。家族が亡命しようともバーベリはひとりソビエトに残りつづけ、1939年粛静の対象となってしまう。ソビエト政権への期待を禁じえなかったとされるバーベリ。そのバーベリへの批判を呼び、銃口をむけられる原因となった作品が「フロイム・グラチ」(群像社刊『オデッサ物語』所収)である。「オデッサ物語」に終止符を打つつもりで書いたであろうこの作品は、「犯罪の巣窟」モルダヴァンカに「権力」の大なたを振うチェカーとそれに丸腰でむかったモルダヴァンカの首領フロイム・グラチの最後の話である。が、浮び上ってくるのはバーベリ自身の内なる葛藤、つまりソビエト政権への信頼と消えゆくモルダヴァンカへの愛惜とに板ばさみとなった彼の苦悩だ。批判の嵐に対しバーベリは沈黙を守ったままこの世から消えた。「フロイム・グラチ」が発表されたのは1964年のことである。 その他の邦訳
参考 群像社刊『オデッサ物語』解説 中村唯史。
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