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Одесса ― オデッサ ― ODESSA
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オデッサ、そして黒海へ
               

 
オデッサをめぐって一つの伝説がある。この街の空はけっして曇ることがなく、永遠に濃く青いという伝説。かつてこの街に生まれ育った文学青年たちはこの伝説を信じ、あるいは信じようとした。伝説は彼らの作品をとおして、いまでも人々のなかに息づいている。

プーシキンは、オデッサに流刑されていた当時、この新興の街の総督夫人ヴォロンツォヴァと親しい関係にあったらしい*1。オデッサからミハイロフスコエ村に追放されるときに夫人から贈られた宝石指輪を、詩人がお守りとして、終生、大切にしていたという証言もある。1825年に書かれた詩のなかで、「私を守っておくれ」と詩人が呼びかけている「お守り」こそ、ほかでもない、オデッサで贈られたこの指輪だという。

総督夫人とプーシキンとの関係が実際にどの程度のものであったのかは、はっきりとはしていない。だがオデッサの人々は、詩人と総督夫人とのあいだに、道ならぬ、激しい恋があったことを、断固として信じていた。
そのような情熱的な恋の象徴ともいうべき指輪は、霧につつまれた北方の地にあるべきではない。詩のなかでプーシキンが眼前の指輪に呼びかけている以上、どう考えても指輪は詩人によってロシアに持ち帰られたとしか思えないのだが、オデッサの伝承では、現在に至るまで、指輪はこの街にあることになっている。それが何よりもまず情熱の「お守り」であるからには、指輪は、陽光の降り注ぐオデッサにこそふさわしいのだ。

カターエフの短編『鉄の指輪』(1920)は、この伝承を題材にしている。プーシキンの指輪は、実はひょんなことから人手に渡り、その後も数奇な運命をたどって、次々と所有者を変えていくが、しかしオデッサから離れることはない。この指輪があるかぎり、オデッサの空はけっして曇ることがなく、果実はたわわに熟している……

「それから多くの歳月が流れたが、街の頭上に広がる空はいつもあの時と同じように青く潤っていた。八月の市場のスモモは、いつもあの時と同じくすばらしいトルコ色の埃に覆われていた。ということは、つまり、あの鉄の指輪は、今にいたるまでこの街に住む誰かの指にはめられているに違いない」。

こうして、オデッサは、太陽と情熱と豊穣の代名詞である。

  *    *    *

旧ソ連圏や欧米では、現在でも、オデッサは観光地としてよく知られている。市街地と港とをつなぐ通称ポチョムキンの階段や、瀟洒な建物がまっすぐに立ち並び、マロニエの並木が生い茂って緑の回廊のようになっている旧市街プーシキン通りなどでは、国内外からの訪問者が、いつでも、のんびりとそぞろ歩いている。黒海に面したこの街に観光客の姿がとくに目立つようになるのは夏だ。8月のオデッサは、海水浴や日光浴などのバカンスに来た人々、ギリシャやトルコとパックになった黒海クルーズのツアー客といった陽気な人々で溢れている。

オデッサはその美しさを称えてよく「黒海の真珠」と呼ばれるけれども、じつは、玉虫色を基調に光を受けて微妙な色が交錯するこの宝石には、あまり似ていない。濃く青い空のした、強い陽光に照らされて、石畳の敷き詰められたまっすぐな街路が碁盤の目状に配置されたこの街は、むしろくっきりとした明確な印象をひとに与える。マロニエのあかるい緑が、青、赤、黄、紫ほかさまざまな色に塗られた建物の壁に照り映えている様子は、どちらかというと真珠などよりも孔雀に似ている。いや、この街の人々が概して驚異的に多弁であることを思えば、熱帯圏に住む極彩色のオウムにたとえた方が良いだろうか。

海に面し、計画的な街並で、「西欧への窓」としての使命を帯びた国際都市であるという点で、オデッサはしばしばペテルブルグに比べられる。だがペテルブルグがその成り立ちからつねに強権の直接の監督下にあり、北方というその位置のために美しい街並が雨や雪、霧に覆われることが多いのに対して、オデッサにはまぎれもなく、中心を遠く離れた国境の街、地中海に近い南方性という特徴が刻印されている。いってみれば、それは健康な猥雑さ・雑駁さだ。瀟洒な街路を散歩していて、ふと裏小路をのぞきこめば、そこには、洗濯されてずらりと干されたシーツや下着が、乾いた風に翻っている。

*    *    *

整然とした街並からもうかがえるように、オデッサの歴史はそう古くない。オスマン・トルコから割譲されてロシアの版図に組み入れられたのは、エカテリーナ2世統治の末期、1791年のことだ。最初は少数のトルコ人、ギリシャ人、タタール人漁民が住んでいるに過ぎなかったこの土地は、しかし19世紀の初めから急速な発展を遂げている。天然の良港で、黒海を経て地中海にも近く、ウクライナの黒土地帯でとれる小麦の輸出基地となったからだ。ヨーロッパ諸国も対ロシア、トルコ、ペルシャの貿易の一大拠点としてこの街を選んだ。ロシア海軍の対トルコ最前線基地でもあったため、工業も発展して、オデッサは19世紀末にはロシア第三の都市へと急成長していた。*2

1920年代にオデッサから輩出した作家たちは、バーベリバグリツキイ、イリフはユダヤ人、オレーシャはポーランド人といったふうに、その多くがロシア人以外の出自である。国民性や民族性といった概念はあやしい代物だし、作家の文学性を決めるのはもちろん血統などではないけれども、彼らが必ずしもロシア語を母語としていなかったことは重要だ。
バーベリは両親とはイディッシュ語で話していたというし、オレーシャの母語はポーランド語だった。彼らは必然的にロシア語で書いたのではなく、この言葉を選択したのである。ロシア語で書くことによって、ロシア文学のなかに身を置くととともに、その本流に対して自分たちを辺境や周縁として位置づけてゆく――彼らの戦略は、現代風にいうと、おおむねそういうことになるだろうか。すばやい展開、諧謔、異国情緒や幻想性を特徴とするバーベリオレーシャイリフ=ペトロフグリーンらの作品は、思惟と苦悩に満ちたロシア文学に、ときにナンセンスなまでに軽やかな風を吹き込んだ。

他民族性、国際性、そして誇り高き辺境としての意識は、作家にかぎらずオデッサの人々の際立った特徴だ。この特徴は、ソ連体制の下でもあまり変わらなかったようだ。私がオデッサに暮らしたときに世話になった外事課の女性は、父親が軍事独裁体制下のギリシャから逃れてきた亡命者(アンゲロブロス監督『シテール島への船出』の主人公を思い出す)、母親はオデッサ生まれのトルコ系。そして彼女の自己定義は「オデシスト(オデッサっ子)」だった。

1990年に出たバーベリ2巻選集の挿絵を描き、群像社刊の『オデッサ物語』の表紙も飾ってくれたユダヤ人画家ヴィターリィ・ヴェクスレルの奥さんは、日本人と朝鮮人とロシア人とウクライナ人との混血だった。彼女の祖父母は日本統治下の朝鮮半島で恋に落ち、それが許されぬ恋であったために国境を越えてソ連に逃れたらしい。私がよく訪ねていた当時、ヴィターリィは港に程近い建物の屋根裏にあるアトリエで、奥さんが子どもの頃におばあさんから聞き覚えたという朝鮮の古いお伽話を版画化する仕事に取り組んでいた。

*    *    *

5月のオデッサは早朝には霧におおわれることが多かった。私が一月ほど泊まっていた学生寮の裏手はなだらかな傾斜を持つ公園になっていたが、傾斜が尽きるとわずかな砂浜の向こうには黒海が広がっていて、霧はその方角から流れてくるのだった。けれどもこの海霧は始発電車の音が響く頃にはどこかへ消えてしまい、あとにはまっすぐな石畳の街路と、さまざまに彩られた石造りの瀟洒な建物がくっきりとした輪郭で現れた。だから人々がマロニエの街路を行き交い、中庭で洗濯物を数珠つなぎに干す時刻には、オデッサはいつも青い空と鋭い陽光の下にあった――いま思い返すと、そんな気がする。

霧の晴れない日もあったろうに、そんな気がするのは、たぶん私自身がオデッサの情景に魅了されているせいだ。だが太陽と情熱と豊穣のオデッサ――もちろん、これは神話である。
 

オデッサでは上流階級や新興ブルジョアジーの住居や別荘は、海に面した北東域に集中していた。現在、観光地として有名なのはこの地域だが、その南西部に広がっている旧スラム街まで足をのばす旅行者はそう多くはない。

この旧スラム街こそ、かつて「モルダヴァンカ」と呼ばれ、革命前まではロシア中にその名の鳴り響いていた暗黒街だった場所だ。主にユダヤ人難民がひしめき、極度の貧困に喘いでいたこの地区は、たとえばジャン・ギャバン主演の映画『望郷』の舞台アルジェの暗黒街カスバと同様、警察にとっては立ち入ることさえ危険な無法地帯で、まして北東域の人々はけっしてモルダヴァンカには足を踏み入れなかったらしい。

この地域を根城にしたミーシャ・ヤポンチク(ベーニャ・クリクのモデルと言われる)を首領とするユダヤ・ギャングは、街の地下に広がるカタコンベの跡なども巧みに用いて、夜ごと警戒線の裏をかき、北東域に出没しては強奪をくり返していたという。オデッサの現実は、けっして『オデッサ物語』に描かれているような、陽気で祝祭的なものだけではなかったはずだ。後にトロツキイと名乗ることになるユダヤ人少年が、社会の矛盾に目覚め、変革を志すようになったのは、他ならぬ19世紀末のこの街でのことだった。*3

オデッサという街は、はっきりと3つの地区に分かれていた。美しい街並を誇る北東域。外国からの人や物資の集結地であると同時に、工場が立ち並び、難民や流浪者を日雇い労働者としてたえず吸収していた港湾地区。ゴーリキイが沖仲仕として働いていたのはこの地区だ。そして公権力から逃れてきた盗賊たちの根城であり、革命家たちの潜伏先でもあった無法地帯モルダヴァンカ。

19世紀末から革命前夜のオデッサは、おそらく戦前の中国における上海のような位置を、ロシアにおいて担っていたのだと思う。多様な民族や階級が行き交う国境の街。さまざまな言葉や物資が流通するエキゾチシズム溢れる街、陰謀と欲望が渦巻くアウト・ロウの街。光と影が交錯する街。ゴーリキイクプリーンを惹きつけ、後にネップ期に活躍することになる作家たちを育み、彼らが愛惜してやまなかったのは、オデッサのこのような風土であった。

*    *    *

ゴーリキイの短編『チェルカッシ』やバグリツキイの詩『密輸業者』では、アイバゾフスキイの絵のようなロマンティックな嵐と霧をはらむ荒々しい海が、またバーベリ『オデッサ物語』では、生命力と情熱に満ちたモルダヴァンカが、瀟洒なブルジョア街に対峙している。革命は、オデッサのトポロジーに即していえば、北東域の上流階級の場を、労働者の住む港湾地区と貧民の住むモルダヴァンカが、それこそ洪水のように飲み込んでいくプロセスだったとでもいえるだろうか。

もっともバーベリはモルダヴァンカの暗黒を、強引に、太陽の讃歌へと転化したようなところがある。モスクワの一部の批評家が『オデッサ物語』を「小児的」と呼んだのはそのためだが、オデッサのコンテクストに立脚するなら、太陽も暴風雨も、等しく情熱と反抗精神の象徴なのだ。バーベリは『オデッサ物語』において、モルダヴァンカの悲惨さを反映することよりも、この地区の人々の不屈の生命力を昇華することの方に賭けたのである。

*    *    *

バーベリはモスクワに移ってからも、オデッサへの郷愁にさいなまれ続けた。1936年に死んだバグリツキイへの追悼文で、彼はこう書いている。
「私たちの最後の会話を思い出す。そろそろ俺たちはもう見知らない街を離れるべきだ。故郷へ、オデッサへ帰って、小さな家を借り、そこでお話を書いて、老いていってもいい頃合だ・・・私たちは老人になった自分たちを考えた。ずるがしこくて脂ぎった老人になった自分たちを。海辺の散歩道でオデッサの太陽にぬくまりながら、立ち去っていく女たちのうしろ姿をいつまでも見送っている年寄りになった自分たちの姿を」。
 夭折したバグリツキイはもちろん、バーベリもまた、オデッサの脂ぎって好色な老人になることなく死んだ。彼が粛静されたのは、この文章が書かれてから、わずか4年後のことだった。

ネップ期を中心としてロシア文学に軽やかな新風を吹き込んだオデッサ出身の作家たちの、その後の運命は暗い。バーベリオレーシャバグリツキイイリフ=ペトロフグリーンらを待ち受けていたのは、夭折、処刑、戦死、転向といった苛酷な末路だった。

オデッサを散歩していると、この街の光と影にめくるめく思いがする。オデッサの人々が代々担い、作家たちが昇華した、太陽と情熱と豊穣の街という神話と、彼らを待ち受けていた悲惨な運命と――

ただしオデッサ市文学館の各作家の展示室は、彼らの悲劇的な末路にはあまり重点を置いていない。どの部屋も赤と幾何学形を基調に立体的に展示されていて、乾いて前衛的な印象である。そしてそのような展示のしかたこそが、何よりも明晰と具体性と形而下的世界における情熱のドラマを愛した「南西派」の作家たちにはふさわしいのかもしれない。どこまでも現世的なこの街に育まれた作家たちは、あるいは私たちが彼らの運命ではなく、彼らが残した作品だけを思い出すことを、望んでいるのかもしれないのだ。
 

中村唯史(ロシア文学/山形大学)
                                                          
   

*1池田健太郎『プーシキン伝(上)』 中公文庫、1980年。
*2中村喜和「オデッサの誕生」、『遠景のロシア:歴史と民俗の旅』彩流社、1996年。
*3 トロツキー『わが生涯(上・下)』 岩波文庫、2000―2001年)。



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オデッサの文学館のプーシキン・コーナー
 
 
 
 


石畳のひかれたマロニエの並木道
 
 


エイゼンシテインの映画でお馴染みの
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