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ロシア文学を読もう 第10号(2002年7月)

「ロシア文学を読もう」は
 群像社を支援する愛読者が発行する
 オンライン版フリーペーパーです。
 
 



【目次】

特集 ブロツキイ『私人』を読む

「私とブロツキー」 キム ヒョンヨン

『私人』という本について
作家案内 ヨシフ・ブロツキイ
  
「『私人』と言葉」   熊野 勉
「詩が見せる原風景」 石川 智仁

ブロツキイ『私人』によせて
吉増剛造氏 加藤典洋氏 荒川洋治氏の書評から
須賀敦子とブロツキイの意外な接点

「書き手の対話と読み手の対話」 増田 良介

ブロツキイ唯一の邦訳詩集『ローマ悲歌』
池澤夏樹氏の書評から

愛読者カードより

宮澤俊一『ロシアを友に』 演劇・文学・人 刊行案内
編集後記

来号もひき続きブロツキイをとりあげ
マンデリシュタームへとつなぎます
















 特集 ブロツキイ『私人』を読む
 

 「私とブロツキー」
 
 

                                                      キム ヒョンヨン (在モスクワ、ロシア文学)    目次へ戻る↑

 何年という長い時間をかけて
 ある一人の詩人の詩を読み続けていると、
 今まで見えなかった部分がふと見えてきたり、
 あるいは見逃していた細かな感情の機微、
 すっと流してしまっていた軽いタッチの表現などが、
 突然大きな波となって
 心の奥に流れ込んでくることがある。
 ブロツキーがどういう詩人なのかと誰かが今の私に訊くのなら、
 私はこう答えよう。
 彼はとても「孤独な私人」だと。
 

 ブロツキーの詩の世界を語るに当たって
 まず最初に浮かんでくるのは、
 「空間」、「時間」、「言語」に対する
 彼特有の形而上学的な詩的思考である。
 ブロツキーにとって「空間」とは
 常にわれわれ人間を取り巻いており、
 人間存在を拘束するものである。
 ブロツキーによれば、
 人間は自分の体という一つの「空間」に、
 さらに「帝国」という「空間」に、
 そして自分がいる部屋(建物、通り)といったように、
 何重にも重なって「空間」に囲まれており、
 その中での移動は「水平的な同語反復」に過ぎず、
 その「空間」自体から脱出するのは不可能だという。
 このような詩的思考は一九七二年の
 アメリカへの亡命によってさらに深まったと思われる。
 彼にとって亡命とは
 ソ連という「帝国」からアメリカというもう一つの「帝国」への
 空間的移動に過ぎなかった。
 そのことに絶望したブロツキーは、
 人間の存在さえも一つの「空間」、つまり檻と感じ、
 そこから逃れるために
 四次元的な存在である「時間」との融合を試みる。
 そしてその「時間」と融合する方法が
 他ならぬ詩を作る行為そのものなのだ。
 

 ブロツキーによれば、詩とは
 「時間」を使った芸術である。
 というのも、言葉は
 それを発するための時間を必要とするもので、
 その言葉をつむぎ合わせて
 美しい響き、リズムを創り上げたものが詩であるがゆえに、
 時間は詩の構成要素として不可欠なものだからだ。
 また同じリズムを繰り返し続けている詩の韻律こそまさに
 単調に流れる「時間」のリズムに一番近いものなのだ。
 だから詩人は詩を創ることで、単調な「時間」のリズムに溶け入り、
 「時間」と融合することができる。
 それはブロツキーにとって第二の亡命ともいえよう。
 そのメタフィジックでかつ死活的な試みは、
 まさに「空間」、「時間」を超え
 「言語」という終着点に至るのだ。
 このように常に公分母から分子へ、
 個人であることへ、私的な存在であることへ、
 さらには自分の存在からも逃走しつづけるブロツキーの、
 完全なる「私人」であるための唯一の方法は、
 詩を書く行為そのものであった。
 詩を書いていると詩人は言語と直接接触している。
 そこには自分自身と自分の言語だけで、
 誰も、何ものも介在しない。
 そして詩人は全てのものから解放され
 完全なる「私人」になるのだが、
 その絶対的な自由を与えてくれた彼の詩を読む時私を虜にするのは、
 他ならぬ心が裂けるほどの孤独感だ。
 彼の詩は感情が極度に抑えられておりかつその内容が形而上学的だが、
 それにもかかわらず
 その根底に絶えず流れ続けているブロツキーのせつない孤独感に
 今の私は浸っている。
 

 人はみな孤独だ。
 そして人はみなこの世の中で「異邦人」だ。
 だが特に外国に長い間暮らしている人にとって、
 ブロツキーを常に取り巻いていた「異邦人」の感覚は
 また身近なものだろう。
 「異邦人」として孤独に生き続けなければならなかったブロツキー。
 詩を通して存在の救援を得たブロツキー。
 そして全てから解き放たれ、
 完全なる「私人」であるがゆえにさらに孤独なブロツキー。
 今、私は彼の詩を媒介としてそのブロツキーと向かい合っている。        目次へ戻る↑    
 

                           

                             
 『私人』という本について                                                                目次へ戻る↑
 
 

1987年にブロツキイが
 ノーベル文学賞を受賞したときの記念講演。
 邦訳としては『中央公論文芸特集』の
 「特集ヨシフ・ブロツキー」(1991年春季号)に掲載されたものを、
 群像社がこのタイトルをつけて
 単行本の形で出版した。

 訳者の解説を加えても全体にして六十二頁という、
 普通なら本にはならないはずの分量。
 それが敢えて本の形をとったことで
 読みなおされ、読み継がれている。

   ヨシフ・ブロツキイ
      『私人』
    沼野充義 訳


◇作家案内 ヨシフ・ブロツキイ                                                     目次へ戻る↑
 

                   ヨシフ・ブロツキイ(1940―1996)
      ロシアのレニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)の
   ユダヤ系の家庭に生まれる。
   15歳で学校を去り、
   さまざまな職業を転々としながら独学で詩の翻訳と詩作を始め、
   詩人アフマートヴァなどから高く評価された。
   ソ連体制下では定職にもつかない「徒食者」として
   1963年に逮捕された。
   裁判でのやりとりで、
   「あなたの職業は何ですか?」と聞かれ、
   「詩人です」と答えたエピソードは有名。
   国内流刑となるが、国内外の支持者の抗議により減刑される。
   しかし1972年には亡命を余儀なくされ、
   アメリカに渡り大学で教授職を得て詩やエッセイなどを書き続けた。
   心臓病により55歳で没。                
        80年代のブロツキイ
          ポートレート                                       目次へ戻る↑
 
 

 ◇詩集、エッセイ集 

                                                          目次へ戻る↑

 詩はほとんどロシア語で書いているが、多くが英訳されている。
 詩集に『荒野の停留所』、『語りの部分』、
 『ローマ悲歌』(邦訳あり)、『洪水風景』など。
 他に邦訳もされ、話題になった『ウォーター・マーク』
 (ロシア語では『治癒の見込みのない人の河岸通り』、邦題『ヴェネツィア』
 のような詩的エッセイも書いている。
 エッセイは英語でもロシア語でも執筆している。
 自伝的な内容の「レス・ザン・ワン」、
 「僭主政治について」、「オーデンに寄す」、
 「ツヴェターエヴァについて」、
 「プラトーノフの『土台穴』によせて」、
 欧米でのマンデリシュターム評価を引き上げた「文明の子」などがある。
 

 ◇ブロツキイのその他の邦訳

 戯曲『大理石』 沼野充義訳 白水社、1991年。
 『ヴェネツィア――水の迷宮の夢』 金関寿夫訳、集英社、1996年。
 詩集『ローマ悲歌』たなかあきみつ訳、群像社、1999年。
 
 


 「『私人』と言葉」       
                                            目次へ戻る↑
 

                                熊野 勉 (和歌山県)
 

 私人であるということの意味を、
 私個人の言葉を持ち、
 またそれらと出会うための感性と思考の土壌を自身の手で耕すことであるというように、
 言葉の領域に限定して考えてみても、
 その困難さは少しも減ることはない。
 私人としての言葉は、
 社会と自己という二つの湿地の間を抜ける隘路を歩き続ける行為者だけが、
 はじめて手にするものであると思えるからである。
 

 ブロツキイが暗に指摘しているように、
 おおよその同じ意味を着せられて
 おおよその使い方で話されている道具としてだけの言葉には、
 『未来』を予感させる力はなく、
 その種の言葉だけに満ち足りた世界に訪れるものは、
 『未来』のようなふりをした物理的時間の経過に過ぎない。
 そしてその中では何の矛盾も逡巡もなく過去がなぞられる、
 それもしばしば恋意的に。
 

 いつのまにか人間は、
 あまりにも言葉を現実に縛り付けてきたのかもしれない。
 そしてその縛られた言葉は、
 次に人間を縛り付ける。
 言葉を解放すること。
 それはとりもなおさず、私自身を
 特定の国や特定の時代から解放する作業に繋がっている。
 そうすれば、言葉はもっと多くのことを抽象し、
 その中に、今の私たちには見えないもの、
 より内省的に言えば、
 見落としてきたものの影を見出すことができるかもしれない。
 そしてその内の幾つかは、
 ブロツキイの言う『膨大な遠心力』によって
 どこか遠くへ繋がっていくのだろう。
 古代の哲人が
 『世界に在る火と土と水は常に一定量でなければならない』と言明したとき、
 果たして彼の脳裏にあったのは、
 現前する火や土や水のことだけだったのか。
 仮にそうとするなら、その言葉の内に、
 深遠な信仰、言い換えれば
 希望や美の意識に裏打ちされた
 自然界の秩序に満ちた法則への彼の直感を感じ取ることは、
 誰にも出来なかっただろう。
 

 『私人』全文を通して感じられる言葉と詩、
 そして個であり続ける事への確信に満ちたブロツキイの思念。
 その中を動脈のように流れる人間への愛情。
 『世界を救うことはもうできないでしょうが、
 個々の人間ならいつでも救うことができます』という彼のつぶやき。
 古びた世界の概念やシステムの崩壊と
 個々の人間の崩壊とを簡単に
 等号で結びつける過ちを繰り返さないためにも、
 私たちは『私人』であることの意味を
 深く問い直さなくてはいけない。              
                                                目次へ戻る↑
            
 
  
  
 
 「詩が見せる原風景」
                                                 目次へ戻る↑
 

                          石川 智仁 (新潟県
 
 

 私事から書き起こすことをお許しいただければ幸いである。

 

   約束を信じながら 信じた
   約束のとおりになることが
   いたましくないか           
                「夜がやってくる」より
 

 先日、高校二年生の授業で扱った詩の結句である。
 作者は石原吉郎。
 この詩人を、シベリア抑留体験を原体験としていることを含め、
 ご存知の方も多いと思われる。
 

 だが、彼についての予備知識を何も持たない読者
 (僕の場合は生徒たちだったが)は、
、『約束のとおりになること=いたましい』という、
 この詩の命題に対して、
 しばし当惑するのではないだろうか。
 実際、音読した際、つい眠気を誘ってしまう僕の授業にありながら、
 奇跡的に起きていた生徒の多くも、目を点にしていた。
 
 
 少なくとも彼等にとっては、
 『約束のとおりになること』は『当然』であり、
 また『うれしい』ことなのである。
 そして、『約束』とは
 『人と人とが互いに相手を信じあうことを前提とした行為』なのである。
 それが『いたましい』のは、
 それらの前提が存在しない人間関係の中で残された、
 唯一の人間性を証明するものだからであろう。
 普段相手をしていて、疲れることが圧倒的に多い彼等ではあるが、
 そんな話をしているうちに心なしか、
 いつもより顔を上げている者が増えたような気がした。
 
 石原の極限体験から搾り出された言葉は
 (逆説的ではあるが)
 日頃、何気なしに身の回りの人たちと交わされる約束や
 言葉の幸福を照射したのである。
 それは『アウシュヴィッツ以降詩を作るのは野蛮である』という
 アドルノの言葉への反証である。
 そして、「道徳的体系の保証として、
 文学はどんな信仰の体系や哲学の教義よりも
 はるか効果的なのです」というブロツキイ自身の宣言を
 証明するものでもあろう。
 そればかりか、
 文学(殊に詩)の言葉が描けるものは一体何かという問いに対する
 答えでもあるように思われる。
 
 
 ブロツキイが自身の光源として名を挙げた
 アフマートヴァ、マンデリシュタームなどにせよ、
 また石原にせよ
 彼らは『幸福そのもの』を描いた、あるいは描けただろうか? 
 彼等が描いたのは、『幸福そのもの』の残照か反響、
 あるいは現実世界には存在しないそれを
 追求する姿のような気がしてならない。
 そう考えるならば、文学の歴史とは、
 『幸福そのもの』を言葉で描くという不可能かもしれないテーマの、
 永遠に続く変奏なのではないだろうか。 
                                                   目次へ戻る↑
                
  
 
  ブロツキイ『私人』に寄せて
 
                                                   目次へ戻る↑
 
 ▽吉増剛造氏 
 
 「…ブロツキイの本(『私人』)を送っていただいて、
 それが豆本の少し大きなの、
 ……市村さんの直感でしょうね。
 それにね
 ロシアの書物を感じさせる本でした。
 本の姿が小さくて、
 ポケットへ入れて歩けて、
 初めてブロツキイの世界に
 親身に触れることができたんですね」
 
 (『この時代の縁で』、対座 吉増剛造×市村弘正、平凡社)
 
 
 ▽加藤典洋氏
 
 「ここ数年の間に手にした中で、
 最もチャーミングな書物だと思った。
 人類を救う水晶宮なんて、糞喰らえ! とドストエフスキーは言ったが、
 かの国には、しっかりその後裔が生きている」
 
 (リテレール別冊「いち押しガイド98」)
 
 
 ▽荒川洋治氏 
 
 「たった六十二ページという薄さのなかに、
 個人と社会を圧縮した『大きな』書物。
 『私人とは言語が存在していくための手段』。
 『大衆のほうが文学の言葉で話すべき』。
 ときにはらはらさせられるほどに、人間の言葉が流れ出る」 
 
 朝日新聞1996年12月22日)                               目次へ戻る↑
 

 
 須賀敦子とブロツキイの意外な接点

  ヴェネツィアを逍遥した須賀さんのエッセイ「ザッテレの河岸で」の作中。
 ある日彼女は《治癒の見込みのない病人》という名の通りに突きあたる。
 頭から離れないその名の謎解きをするうちに、
 ブロツキイが同じ通りの名を冠した本を書いていることを知る
 (邦題『ヴェネツィア』)。
 エッセイに引用された『私人』の一節。
 専制国家における殉教者や精神の支配者となるよりは、
 民主主義における最低の落伍者になったほうがいいと考えて、
 ついに祖国からも遠くはなれてしまった」。
 「移住者の作家や詩人にいつも私はのめりこんでしまう」という須賀さんにとって、
 ブロツキイは「惹かれ」る詩人だった。

 (「ザッテレの河岸で」、『ヴェネツィア案内』所収、新潮社)                     目次へ戻る↑
 
 
 

 
「書き手の対話と読み手の対話」
 
 

                         増田 良介(大阪府)              目次へ戻る↑
 
 

 この講演は三つの部分にわかれている。
 仮に題をつけると
 T―序、
 U―読むことについて、
 V―書くことについて、となろうか。
 興味深いのは、UとVの内容が全く対称でないことだ。
 

  ブロツキイはUで、
 「小説や詩は独り言ではなく、作者と読者の会話で」あると言う。
 読むことが、
 作者との「対等」で「相互厭人的」な会話であるというこの性質は、
 Uで表明される重要な考えの一つである。
 ところが,Vに入り、書くことについて語り始めると、
 読者という存在はすっかり忘れられる。
 詩を書くという行為を
 「言語が次の行をこっそり耳打ちしたり、
 あるいは書き取ってしまえと命ずるから」だと彼は言う。
 ここに「読者」の入る余地はない。
 彼にとって、読むことは会話だが、
 書くことは会話ではないようだ。
 この食い違いをどう捉えたらよいのだろうか。 
 
 
 作者が読者と対話するつもりがないとすれば、
 われわれが読むときに対話する相手は、
 自分しかいない。
 正確には、自分の中に仮構された作者だ。
 文学を読むとき、自分は作者と会話しているつもりで、
 実は自分との会話を重ね、
 自分を問いなおし、
 自分を純粋にしていく。
 「極めて私的な会話」とはそういうことではないだろうか。
 
 
 Uで彼の説く読書の効用は、専ら政治に対抗するためで、
 しかも非常に実用的だ。
 彼の説くところでは、「良い」「悪い」は何より審美的な概念である。
 そして文学は個人の美的体験を豊かにするから、
 より明確な道徳的選択を可能にする。
 外から押し付けられたものではない自分自身の人生を生きるというのは
 そういうことだ、と彼はいう。
 彼の生きたソヴィエト・ロシアの社会で、
 国家の論理や政治的煽動に対抗し得るほど
 強靭な倫理を獲得するために必要であった「私的な会話」について、
 彼が「相互厭人的」という時、
 その言葉の重さは
 見逃すべきでないと思う。               
                                               目次へ戻る↑
 
 

 
ブロツキイ唯一の邦訳詩集

       

          『ローマ悲歌』 
          たなかあきみつ訳  

         ロシア語の原文付き                                     目次へ戻る↑
 

 カバーのコピーより

 白い紙の真ん中におかれた垂直な言葉の塊は、
    人に世界での自分の位置を、その身体に対する空間の比率を、思い出させる――
 そしてここに〈永遠〉と〈一瞬〉が、〈古代〉と〈いま〉が、
    詩の言葉によって停止しかつ存続するために定着される。
                
 

 『ローマ悲歌』より抜粋
 

 世界は裸形と襞から成る。
 相貌よりはむしろこれら襞にこそひときわゆたかな愛が息づくもの。
 たとえばオペラのテノールがこんなに甘く響くのも、
 とこしえにその歌声が楽屋で消え続けているから。
   

            *        *       *
 

 わたしはローマに滞在した。ひかりにずぶ濡れになって。 
 


▽書評 池澤夏樹氏                                  目次へ戻る↑

 「美しいのはイメージである。
 言葉を省くのではなく性急に重ねることで
 奥行きのある情景が作られる。
 半透明の遠近法」  

           (「週刊文春」、1999年4月8日号)


読者の声より                                     目次へ戻る↑

 すばらしい!
 ブロツキイの親友だったウォルコットとの呼応がはっきり感じられて、
 非常に興味深く読めました。
 ロシア語がまったくわからなくて残念ですが、
 馥郁たる日本語訳を十分に楽しませていただきました。           
                                 (東京都 男性)
 

 硬質で独特の光を放つ詩篇です。
 ものすごいスピードで一気に読まされてしまいました。
 訳の日本語も屹立しています。
 装丁も心惹かれました。           (東京都 男性)
 
 

 


宮澤俊一遺稿集刊行案内                                目次へ戻る↑
 

時代に変革に先駆けたソ連末期のロシア演劇を見続け、
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宮澤俊一 ロシアを友に 演劇・文学・人
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特別限定販売、 四六判上製325頁(予定)定価2300円(税別)

  目次より
T 演劇を友に
  モスクワ劇場通い
  モスクワ観劇ガイド
  ロシア演劇小史
  最近のチェーホフ劇―生誕120年にー
  リュビーモフ覚書
  ペレストロイカと演劇の関係

U 文学を友に
  わが心のヴァムピーロフ
  詩人・俳優ヴィソーツキイの死
  チェーホフ戯曲の細部をどう読むか
  オクジャワの歌       
  他

V 人と友に
  佐木隆三さんとのおつきあい
  チェーホフがとりもつ縁
  文化交流の心
  ソ連の友へ

ご予約は群像社まで                                          目次へ戻る↑

          

  

 【編集後記】                                       目次へ戻る↑

 ▼ブロツキイの『私人』は静かに手渡され、広がってゆく本らしい。
 言葉の力を信じる相手に贈りたいと思わせる本なのだ。
 そんな人は決して声高には語らない。

 ▼毎回深い読みの感想をくださる読者の方々に心より感謝いたします。

 ▼宮澤俊一氏の遺稿集が出ました。
 幾度となく氏の言葉を受け取ることができ、幸せです。

 ●「ロシア文学を読もう」の賛同者の方々。
 
 阿部軍治 安宅りさ子 秋元里予 有賀祐子 安藤厚 
 井桁貞義 岩浅武久 岩田貴 宇多文雄 浦雅春 
 大木照男 大平陽一 岡林茱萸 川崎浹 北上光志 
 近藤昌男 島田陽 清水昭男 清水純子 鈴木正美 
 田原祐子 塚本善也 津久井定雄 ナウカ神保町店 
 中村唯史 長縄光男 日本ロシア語情報図書館 
 沼野恭子 沼野充義 袴田茂樹 秦野一宏 早川眞理
 原卓也 日野貴夫 法木綾子 堀江新二 三浦みどり 
 村手義治 村山久美子 藻利佳彦 望月恒子 望月哲男 
 矢沢英一 安岡治子 雪山香代子 吉原深和子
                      (敬称略、五十音順)
 
 

来号も引き続きブロツキイを取り上げ
詩人と読者との対話のかたちを見つめるために
マンデリシュタームへと
橋を渡します。
群像社刊のブロツキイは
『私人』(沼野充義訳)『ローマ悲歌』(たなかあきみつ訳)
マンデリシュタームは
『石』 + エッセイ 対話者について(早川眞理訳)
マンデリシュタームについての本は
中平 耀著 『マンデリシュターム読本』
鈴木 正美著 『言葉の建築術』
があります。

どうぞご感想をお寄せください。

       
編集部から 

この通信は、ロシア文学の群像社を愛読者が本の感想を語りあうことで支援するものです。 

     「ロシア文学を読もう」第10号をお読みになったご意見、ご感想を
「読もう」編集部までどうぞお寄せください。
また、群像社の本や好きな作家についての文も募集しております。
    「読もう」編集部 yomo@gunzosha.com

「ロシア文学を読もう」は群像社の愛読者が
非営利目的で発行する電子フリーペーパーです。
読者と出版社をつなぐ新しい形を模索していきたいと思っています。
 

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