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ロシア文学を読もう 5号(2001年2月)

ロシア文学を読もう」は
群像社を支援する愛読者が発行する
オンライン版フリーペーパーです。
 
 

【目次】

追悼 オクジャワと宮澤俊一さん
ぼくの知っている宮沢さん   沼野充義
B・オクジャワ 「シーポフの冒険 あるいは今は昔のボードビル」(沼野充義訳)のこと
熱い吐息 ―「ディレッタントの旅」― (読者からのおたより) 石川智仁
群像社 12月の新刊 「リス
編集後記
















今回はオクジャワの「シーポフの冒険」の訳者であり、
昨年二月亡くなった群像社の前代表、宮沢俊一さんとも親しかった
沼野充義んに
おふたりをめぐる思い出話を語っていただきました。
               (1月18日東大研究室にて、聞き手 島田進矢)                戻る↑
 

沼野充義 「ぼくの知っているオクジャワと宮沢さん」

  宮沢さんとの出会いにはオクジャワも入っていました。

ぼくが最初に宮沢さんに知り合ったのは、たしか
宮沢さんがソ連から帰ってきて比較的
間もない時期だったと思います。
いま北海道大学の教授をしている安藤厚さんが
一年間モスクワに留学したときに宮沢さんに知り合って、
その安藤さんに誘われて宮沢さんのところに行ったのは
僕がまだ大学院に入りたての頃ですね。
まだ宮沢さんも日本に帰りたてで
「モスクワが懐かしい」という感じでいました。

その頃もう僕はオクジャワが好きで読んでいましたから、
そこでオクジャワの話をした記憶がありますね。
そのときの宮沢さんは、
自分がソ連のどんな作家たちと親しいかということは
ほとんど匂わせなかったですね。
まあ、こちらがあまりにも若造だから
そんなこと自慢してもしょうがないと思ったのかもしれないでしょうけど。

ただ、覚えているのは当時、70年代の後半は
まだオクジャワの本がそんなに手に入らなくて、
西側でポセフなどの亡命系の出版社から出てはいましたけど、
ロシア国内で出た詩集などはほとんどなかった頃でしたが、
宮沢さんがオクジャワの薄い詩集を一冊くれました。
それが最初に知り合ったときのことですね。
僕と宮沢さんの付き合いには
最初からオクジャワが入っていたわけです。

そのことはいまもはっきり思い出せるし、
その詩集は今でも大事にとってありますよ。
本を上げたりもらったりということはたくさんありますけど、
あのときはよほどうれしかったのか、
「○年○月○日、宮沢俊一さんよりいただく」と
メモを詩集に貼ってとってあります。
 

   度量の大きいところは宮沢さんらしさだった

宮沢さんの家に行った二度目は、
これも八〇年前後だと思うんですけど、
群像社で
現代のロシア文学」シリーズを立ち上げる前のときで、
たぶん宮沢さんの方から声をかけられて
浦(雅春)さんと僕がシリーズの相談に乗ってほしい
ということで呼ばれて行ったんですね。

いま思うとそれはとんでもないことですよ、
ロシアにも長くいてロシア語だってこちらよりはるかにできる人が
二〇代半ばの人間を呼んで
相談に乗ってほしいというんですから。

農村派の文学、アブラーモフや                               
アスターフィエフシュクシーンをやろうということは                   
既に決まっていたようですけど、                                   
浦さんや僕の感覚はそのあたりの文学とはちょっと違っていて、                
宮沢さんはそういう                                       
若い人の感覚というものに非常に敏感で、                           
こいつはちょっと面白そうなものを持っているぞとなると、                     
それを聞き取ろうとしましたね。                                    
 

それで、そのときにイスカンデール                             
やオクジャワの小説を                                         
シリーズに入れましょうという意見をかなり強く言いました。                   
宮沢さんもイスカンデールについては
まだそれほど認識していなかったようでしたし、
オクジャワについても詩や歌はよく知っていましたけど、                    
小説についてはまだ                                           
それほど強い関心はなかったようでした。                              

僕はそこでオクジャワだったら『シーポフの冒険』をやりたいと言って、
浦さんはイスカンデールをやりましょうと、
その場でほぼ決まりました。

たしかに、その頃には
もうぼくはスタニスワフ・レムや                                
アレクサンドル・グリーン                                    
の翻訳本を出してはいましたから、                                  
それに目を留めてくれたということはあったかもしれませんけど、                      
それにしてもまだ若い人間に、
「じゃあ、オクジャワをやってください」というんですから、
そこが宮沢さんらしさだと思いますね。

ただ、そのときも
宮沢さんがオクジャワとどれほど親しいかという話は
聞かなかったですね。
もちろん自分で出版社をやって
十数冊の大きなシリーズをやろうというんですから、
自分で全部翻訳するわけにはいかないんですけど、
それにしても
きっと自分でやりたかったオクジャワを
沼野にやらせようというのは
宮沢さんの度量の大きさですね。
 

ところが、そのあとで八一年の九月から
僕がアメリカに留学することが決まって、
結局一行も訳せないまま群像社に挨拶に行きました。
「ほんとうに申し訳ないんですけど、
こういう事情なんで翻訳はいつできるか分からないから
降ろさせてほしい」とお願いしたら、宮沢さんは
「まあ、いいから。待ってますから」と、
普通の商業出版ではなかなか許されないことですけど、
そう言ってくれました。
それでもあれほど長くかかるとは
思っていなかったでしょうけど。

案の定、八五年にアメリカから帰ってくるまで
翻訳はあまりできなくて、
その間は共訳者がノートに下訳をしてました。
ところが日本に帰ってきたらきたで忙しくて
また数年たってしまった。

八九年の秋に
オクジャワが来日するということが本決まりになって
それで何とか間に合わせようということになって、
たしか最後の原稿を渡したのがその年の夏頃でした。
それでようやく綱渡りで来日のときに本になって、
訳者としてオクジャワと宮沢さんと
一緒に行動したことはいまでもよく覚えていますね。
わたしと宮沢さんと群像社との関わりには
つねにオクジャワがいたわけです。
 

  オクジャワとヴァムピーロフは精神的に連帯しているんです

そういえば、もうひとつ
宮沢さんとオクジャワをめぐる話を思い出しました。

野村タチアーナ先生に指導していただいて
東京大学と東京外語大と早稲田大学にときどき上智大学が加わる
「コンツェルト」というロシア語劇サークルがあって、
そこである年わたしは演出家と称して、
稽古に行ってただただうなずくだけの役をしていたんです。
そのときの演目が、
宮沢さんが後に訳を出した
ヴァムピーロフ『六月の別れ』でした。

七八年の十二月だったですかね。
公演の後、打ち上げの席に宮沢さんも同席して、
求められて立ち上がってロシア語であいさつしたときの姿は
今でも目に浮かびます。
まだこちらの聞き取り能力があまりなかったころですから、
「ロシア語のうまい人がどうやら誉めてくれているようだな」
という程度の理解しかできなかったんですけど。

以前書いたことですけど、
ヴァムピーロフのような作家にも
当時のソ連では多少検閲のようなことがあったのか、
テキストによって台詞が微妙に変わるんです。

『六月の別れ』でも学生たちが集まっているシーンで
「さあ、歌でもうたおうじゃないか、オクジャワでもうたおうか」
という台詞が、
出ている版と出ていない版があるんです。

七〇年代に若者たちが集まってオクジャワをうたうということは、
おそらく権力側にとってはあまり好ましいことではなかったんでしょう。
その台詞に検閲がはいったという推測もできるわけです。

もちろん時代の流行り歌を固有名詞で入れることが
十年二十年後の作品の上演では意味がなくなる
ということもありうるというので、
作者が意図的に名前を消したのかもしれませんが。

ぼくはオクジャワが好きだったから、
そこが気になったということはよく覚えています。
いずれにしろ、
ヴァムピーロフのような作家とオクジャワとの
精神的な連帯はまちがいなくあるわけで、
そこに宮沢さんはぼくなどよりは
はるかに深く接触しているわけですよね。
 

  オクジャワは細かい気配りの人でした

ぼくは八九年に訳者として
オクジャワにはじめて会って、
その後三回くらい会っていますかね。

オクジャワは普通のロシアの人なら
会うだけでも舞い上がってしまうような人なのに、
本人はとても気配りのこまやかな人ですよね。
たいてい誰でもあれくらい見上げられるようになってしまうと
どこか傲慢になるし、
忙しいから会う人のことを
いちいち慮ってなんかいられないものなんですけど、
オクジャワにはまったくそういうことがなかった。

ロシアの作家にも相手が日本の翻訳家だときくとやってきて、
挨拶もそこそこに自分の作品を出してきて
翻訳をしてもらおうとする人はたくさんいます。
そういう人はこちらがどういう人間で
何に興味をもっているかなんてことには興味がなくて、
ある意味では
一人の人間という扱いをしていないわけですよ。
これまでたくさんの作家たちに会ってきましたが、
かなり有名な作家でも結構そういう人が多かったですね。

反対にこちらのことをいろいろ聞いてきたのは
二人だけでした。
オクジャワとチェスワフ・ミウォシュ。
ノーベル賞を取ったポーランドの亡命詩人ミウォシュですね。
オクジャワは一切自分の売り込みをしなかったし、
同席している人にも細やかな気配りがあって、
それでいて他人のことは滅多に手放しで誉めなくて
(例外はポーランドの伝説的な歌手エヴァ・デマルチクでした)、
やさしいけれどもどこかアイロニカルなところがありました。

宮沢さんとオクジャワの最初の出会いのことは
ずいぶん後になってぼくも聞いたことですけど、
モスクワの誰かの家で突然
「さあ、オクジャワだよ、話して」と受話器を差し出されて
話したのが最初だというんですよね。

オクジャワにしてもリュビーモフにしても
当時は普通の人から見たらとてもすごい人で、
会って友達のように話をするということは
ロシアの普通の市民にはとても考えられないことですよね。

でも宮沢さんは「日本人だから会ってもらえる」
ということがよく分かっていたし、
自分でもそう言っていました。
それは日本人だからではなく、
一人の人間として会って
関係をつくるのでなければいけないと
言っているようでしたね。


オクジャワ、ブラート・シャルヴォヴィチ                戻る↑

 1924年モスクワ生れ 1997年パリにて没。
 詩人、小説家、脚本家。

 両親は熱心な党員であったが1937年の粛清で父親は銃殺、
母親は収容所に送られた。母親は56年に収容所から戻った。

1942年、在学中に志願兵として戦線に赴く(17歳)。
戦後、トビリシ大学文学部を卒業。
カルーガ地方でロシア語、文学教師として勤務。
処女詩集「抒情詩」はカルーガで出版された(1956年)。
 
詩集、小説のほか、
シンガーソングライターの潮流のはしりの一人とされる。

翻訳書は『シーポフの冒険』、『ディレッタントの旅』(ともに群像社)、
『わが夢の女』(『ペレストロイカを読む』(御茶ノ水書房)に所収)。

また、CD『紙の兵隊』(新星堂)も発売されている。
ロシア国家賞受賞(1996)。モスクワのワガニコフ墓地に眠る。
(「20世紀のロシア詞華集」より)

両親の受難にも、
スターリンをそれ以上に尊敬していた自分には
それほど悲しくなかった、と苦汁の表情を見せ、
56年に母親が戻っても
「もう、僕と母とのあいだには、言葉も心も通わなくなっていた」という
痛ましい悲劇を
わが事として生きたオクジャワの静かな歌声は、
名もない小さな人たちの心に「私の歌」として響き渡った。
 

  『シーポフの冒険 あるいは今は昔のボードビル』

  【あらすじ】
 時は帝政ロシアの一八六二年。
のちに文豪として知られるかのトルストイ伯爵が、
思想問題で大学を追われた学生を集めて、
政府転覆計画を立てている
という情報をキャッチした皇帝直属官房第三課(秘密警察)は、
実情を探るべく、トルストイ邸に密偵を差し向けることとなった。

 ところが差し向けられたはスリ専門のしがない刑事シーポフ君、
酒場に入りびたり美女の尻を追っかけては、
次々と嘘の報告書をでっちあげ、
トルストイの謀反を匂わせては当局から金をせしめるのだった。

 だが、憲兵隊が捜査にのりだすと事態は急転直下。
シーポフ君の嘘の皮もついにはがされ、
哀れシベリア送りの身に、と思いきや…。

 史実をもとに、軽妙な語り口とユーモアで、
時代の渦に巻き込まれては消えていく
「ちっぽけな人間」を鮮やかに飛翔させた、
抱腹絶倒、痛快無比のエンターテイメント。                 戻る↑
 


 <読者からのおたより>

 熱い吐息   『ディレッタントの旅』   

               石川智仁

 本を手に取った瞬間から、見知らぬ土地、
時代の年齢も性格も、
性別さえも違う人々との対話が始まる。
そして、そんな異郷に入ったからこそ、
その地で、自分に似た、あるいは
親近感を持てる人物の姿を見出し、
感情を共有できたときは格別である。
その時、活字は大波となって押し寄せ、
読者をわしづかみにして離さない。
波に洗われ尽くすまで、読者は、
そこにどっぷりつかっている他ない。

 『ディレッタントの旅』は、ひさしぶりに、
そんな読書体験をさせてくれた一冊である。
本書の主人公、セルゲイ・ミャトレフは
公爵という、
まことやんごとなき地位にある人物である。
だが、その地位は、決して彼に幸福をもたらしはしない。
それどころか、むしろ手枷足枷となって、
行く先々で彼に苦悶と挫折を味わせる。

 軍隊時代の親友、詩人レールモントフの、
当局による仕組まれた決闘による暗殺を目の当たりにしても、
口を開くことが出来ない。
恋人、アニェータは恋敵の下へ去って行くが、
恋敵とは時の皇帝。
残された彼にできることといえば、
教会の懺悔の場で、司祭に悪態をつくことくらい。

 次に出逢った恋人は、流刑に処せられたデカブリストの娘、
アレクサンドリナ。
病魔に冒された彼女への献身も、
周囲には「酒場から娘を強奪してきた破廉恥な行為」
としか映らない。

 彼の行動の一切、否存在そのものが、
閉鎖的な貴族社会のモラルの中では、
嫌悪と侮蔑と嘲笑の対象となってしまう。
だが、彼には、周囲の無理解を受け流すほどの勇気、
かのレールモントフの如き強さを持ち合わせてはいない。

 友と恋人を奪った皇帝の面前では、
一刻も早く、その場から退散することだけを願う。
「この世の生は束の間の苦しみ」と、
本意でもない、
伯爵令嬢ナターリャとの結婚を強要されるがままである。
「妬み、悪意、力で制圧したいという要求―― 
われわれが持っているものは、
はたしてこれだけなのであろうか?」と、
本書の語り手アミランは、
蹉跌を味わい続けるミャトレフの姿を見ては、
しばしば嘆声を発する。
その声は、いつの間にか、
ミャトレフを焦点として
僕等の心へ放射される。
時とところは変わっても、妬みと悪意にさいなまれ、
弱気、臆病、優柔不断を
「優しさ」という言葉で隠れ蓑にしている僕らと彼と
どこが違うというのであろう。
「自信のなさ」の一点に関しては一緒なのだ。

 そんなミャトレフが、唯一、確信をもてたもの、
それはかつてヴァン・ショーンホーヴェンという
少年の姿で現れた友人であり、
今は人妻となってしまったラヴィニヤの愛。

 そして、それさえもが、
皇帝に奪われかねないと知った彼は、
今までのすべてを棄て、
頼りない自分を信じてくれたラヴィニヤに報いるため、
初めて主体的な行動に出る。

「たとえそこが地獄であろうとも、
あなたと一緒ならばそこは天国なのだ。」
 
ミャトレフが、駆け落ちの途中、
そんな台詞を吐いたかどうかは分からないが、
作者は言外に、そう主張しているように思えてならない。
 この作品は、作者の妻オーリャに捧げられているのだから。

 愛する者の前では、
人は皇帝に反逆することさえ厭わない、
英雄になるのだ、と。

 この、ラブ・レターは熱い吐息を吹きかける。                戻る↑
 


  編集後記にかえて

 宮沢さんのこと

 群像社の代表だった
私たちの宮沢俊一さんが亡くなって
一年がたとうとしています。

学生時代、演劇に目覚め、
自らも演出家であった彼は、
モスクワのプログレス出版に翻訳者として勤めた七十年代に、
検閲をかいくぐって新鋭の芝居を上演するロシア演劇や、
困難の中でも作品を書き続ける
強い意志を秘めた作家たちと交わり、
その時代の熱い空気を呼吸しました。

帰国後八〇年に群像社を設立。
当時の日本には紹介される
可能性すらなかった文学作品の翻訳を
精力的に出版し続けたことは、驚嘆に値します。

また脚本の翻訳もてがけ、 「ロシア文学を読もう」第6号をお読みになったご意見、ご感想を
「読もう」編集部までどうぞお寄せください。
また、群像社の本や好きな作家についての文も募集しております。
    「読もう」編集部 yomo@gunzosha.com

「ロシア文学を読もう」は群像社の愛読者が
非営利目的で発行する電子フリーペーパーです。
読者と出版社をつなぐ新しい形を模索していきたいと思っています。
エーフロスなど精鋭演出家らを招待し、
日本の劇団がロシアの新しい芝居を上演する
橋渡しもなさいました。

ドージン演出のレニングラード・マールイ劇場の日本公演、
オクジャワの初の来日コンサートや
名優ユールスキイの詩の夕べに、
彼は文字どおり骨をくだき身を粉にする情熱を傾けました。

ロシア語教師、ロシア演劇専門家として
後に続く者たちを育てることにも
大変熱心でした。
私たちが言葉の壁に阻まれることなくロシアの魂に触れ、
愛情を育むことができたのも
彼のおかげです。

沼野さんのいうオクジャワのアイロニーと優しさは、
それとそっくりのものが宮沢さんにもありました。
名もなき小さな者にむけるふたりの視線の温かさ。
だからこそこんなにも引き合ったのでしょう。
今ごろあちらで再会の杯を上げておられることでしょう。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

そして、あなたが灯してくださった群像社の火を、
それを愛し感謝する私たちの手で
守っていきます。

ありがとう。                       戻る↑
 

 ◆宮澤俊一氏の生前の文章は20世紀後半のソ連(ロシア)の
  文化状況を振り返るうえで、いまなお意味深い貴重な時代の
  証言であるといえます。
  群像社では遺文集「宮澤俊一 仕事の軌跡」(仮題)の刊行にむけて
  準備を進めておりましたが、
  2002年5月末に「ロシアを友に」という題で刊行となりました。
  本の詳細は群像社の本のページで、
  宮澤俊一の略歴に関しては宮澤俊一 「ロシアを友に」でごらんください。
 
 
 

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