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ロシア文学を読もう 6号(2001年4月)

ロシア文学を読もう」は
群像社を支援する愛読者が発行する
フリーペーパーのオンライン版です。
 
 


【目次】
文学の魅力は辺境にあり!
アナトーリイ・キム 「リス」をめぐって
 ―詩人カザケーヴィチ氏に聞く― 聞き手 訳者・有賀祐子
もうひとつの辺境「オデッサ物語」
カフェ・イスタンブールとバーベリ・オデッサ物語のささやかな関係 町田まり子
読者の声  編集後記























  実にさまざまな民族のるつぼである「ロシア」。
 強烈に発散する多民族の体臭と、
 それを取り込んでなお「ロシア」たろうとする力とが
 互いに渦巻き、
 複雑で豊かな模様が生まれるのも
 ロシア文学のもうひとつの魅力。

   今回取り上げるのは
 朝鮮系作家アナトーリイ・キム
 黒海沿岸の町オデッサのユダヤ人作家バーベリ

   キムの新刊『リス』については、
 作家の友人で富山大学客員教授、
 詩人のヴェチェスラフ・カザケーヴィチ氏に
 お話していただきました。


 
 アナトーリイ・キム 『リ ス』をめぐって

      ――詩人カザケーヴィチ氏に聞く

             (聞き手 訳者・有賀祐子)        戻る↑

 
 ■ 『リス』はキムの最初の長編ですが、
 彼はその後たて続けに
 いくつもの長編を書き上げています。
 個人的には私は、
 極東を舞台にした彼の初期の
 短編・中編にもとても魅力を感じるのですが、
 キムはどうして長編に移行したと思われますか?
  しかもこれはただの長編ではなく、
 「長編おとぎ話」というサブタイトルになっていますよね。
 

 ――答えは簡単です。
 短・中編というのは若い作家にとっては
 自分にも書けそうに思える、
 比較的身近なジャンルなのです。
 もっとも、短編は実は一番難しいジャンルで、
 容易なのは中編でしょうね。
 私の考えでは散文には
 中編・短編・長編、
 そして沈黙という4つのジャンルがあって(笑)、
 4番目の沈黙が一番難しいけれど、
 でも結局人間は皆ここに行き着くのです。
 
  まあそれはともかく、
 若い作家がどのジャンルを選ぶかというのは、
 多分に偶然的な場合が多いのです。
 最初に試みたジャンルが自分に合うことが分かり、
 そこに自分の形式(フォルム)を見出した上で、
 一つのジャンルに止まる作家もいますが、
 キムが『リス』で思い切って長編に移行し、
 その後も次々に長編だけを書き続けているということは、
 つまり彼がついに
 自分の形式を見出したということなのです
 
  おっしゃるとおりキムの初期の短編には
 いいものがたくさんあります。しかし
 若い作家というものは、
 最初に選んだ形式で成功すると、
 それを自分の形式として定着させようと、
 何の進歩もなく同じ鋳型で
 次々と似たような作品ばかり書くようになる。
 作家は読者の好みによらず
 自分にとって一番しっくりくるジャンルで書くわけで、
 キムにはそれが長編だったわけです。
 
  プーシキンゴーゴリは皆
 自分の選んだ形式が成功を収め
 民衆の賞賛を得るたびに、
 あえて次なる形式に挑んできた。
 キムも短編で文壇に華々しくデビューしながらも、
 長編に移行することで
 評判の高い短・中編作家であり続ける誘惑に
 打ち勝ったといえるでしょう。
 
  では、なぜ単なる長編ではなく
 「長編おとぎ話」かという問題ですが、
 20世紀の初頭には
 ジャンルとしての長編の危機
 声高に叫ばれていました。
 ジョイス、フォークナー、ヘミングウェー、マルケス……
 みな何らかの形で
 旧来の長編の形式を打破しようとする
 新しい形の長編です。
 しかしこれは長編の危機というより、むしろ
 空想の危機なのです。

  晩年のブーニンがいみじくも
 「文学はなくなりドキュメントのみが残るであろう」
 と言っているように、
 20世紀は現実社会の方が
 ずっと波乱に富んでいたわけですから。

  ソ連で文学はスターリンによるランク付けで、
 長編作家は短編作家より格が上でした。
 『リス』が書かれたのは末期とはいえ
 ソ連の時代で、そうした中で
 長編をあえておとぎ話と結びつけることは、
 こうしたヒエラルキーからの脱却を意味する、
 ソ連社会の意表を突くものだったのです。
 
  長編というのは
 西欧文学の最高の形式であるのに、
 それをおとぎ話という
 とても古めかしい幻想的なジャンルと結びつけたのですから。
 この点に既に
 このサブタイトルの二義性があります。

  ソ連では余り出版されることのなかった
 プラトーノフやブルガーコフといった作家たちは皆、
 リアリズムではなく幻想的でおとぎ話的な作風です。
 キムももちろんこうした伝統を引き継いでいるわけです。
 
  ただし、キムは
 『リス』を「おとぎ話」と名付けてはいても、
 実際にこの作品にはおとぎ話的な要素はほとんどありません。
 例えばおとぎ話に特有の数字は3、
 しかしこの長編の主人公たちは4人ですよね。
 作家は細部にまで気を使って
 極力おとぎ話本来の要素は避けている。
 
  つまり、キムは
 長編をおとぎ話と結びつけることで
 ソ連文学の伝統を拒み、
 さらにおとぎ話の要素をも拒むことで、
 長編の古い伝統をも拒んだのです。
 そしてこのサブタイトルによって、
 この作品が全く新しいタイプのジャンルであることを
 知らしめようとしたのだと思います。
 
 

 アナトーリイ・キム

  それから確かにソ連に生まれ育ったとはいえ、
 やはりキムは根本的には東洋人であって、
 私は特にその点を強く感じます。
 
  西欧的な長編の観点からすれば
 日本の長編小説などはいわば「長編瞑想」であって、
 異質な雰囲気がありますが、
 東洋人としてキムも
 西欧的な長編には何かしっくりこないところがあって、
 それをより身近なものにしたかったのかも知れません。
 他の長編にも
 「長編寓話」とか「長編宗教劇」といった
 サブタイトルを付けていることからも頷けるでしょう。
 
  これから『リス』を読む読者には、
 この作品を「長編おとぎ話」というよりも、
 むしろ「長編音楽」とでも思って読んで欲しいですね
 作曲家と音楽の関係は
 この作品のエピローグで初めて出てきますが、
 この長編は音楽と大変深く結びついています。
 
  それはバフチンの言う
 「多声」のポリフォニーとはちがう。
 音楽にも造詣の深いキムの場合、
 作品のポリフォニーは
 バッハの音楽のそれなのです。
 だから「おとぎ話」というのは
 単なる記号にすぎません。
 

 ■キム自身が自分のことを
 「自らの側から書く作家」と言っているように、
 『リス』の語り手で主人公の××イ(リス)は、
 民族といい来歴といい
 作者であるキムによく似ていて、
 彼の分身のように思えます。
 果たして主人公はキムにどのくらい似ていて、
 どのくらい似ていないのでしょう?
 

  ――面白い質問ですね。
 確かに主人公が
 作家の分身ということはあり得ます。
 キムの名前もアナトーリイで
 やはり「イ」で終わっていますものね。
 でも問題はそんなに単純ではない。
 もちろん自伝的な面も外観も
 両者の共通点は多いのですが、
 しかし二人が近いのはそうした点ではなく、
 世界観とか自己認識においてなのです。

  『リス』が出た当時私はまだ若くて
 キムとは知己を得ていなかったのですが、
 今回読み返し改めてキムのことを考えてみて、
 ある類似点に思い至ったのです。
 
 キムと知り合ったのは
 文学関係の会合の席だったのですが、
 彼はモスクワの作家連中特有の
 鼻にかけたプライドとかかまびすしさとは全く無縁で、
 ロシア的であるようなないような
 優しさとか内面の静かさ、悲しみ、
 燃え尽きた灰の中の残り火のようなもの
 彼からは感じられました。
 ロシア文学界には希な
 東洋的な外観も魅力でした。
 
 そしてキムは高い木の梢から、
 森の上から周囲を見渡すリスのように、
 やはり周囲からは距離を置いていました。
 何か内に秘めた疎外感のようなものを
 キムには感じるのです。
 世界から、作家仲間から、
 住んでいる国からの疎外感を。

 先日の電話で彼の今後の計画を尋ねたら、
 メショーラで隠遁者になりたいと言っていました。
 リスにそっくりですよね。
 しかしそれを聞いても少しも驚きませんでした。
 
 私が思うに、
 キム自身のこれまでの来歴というものが
 リスをキムの分身にしているのです。
 ロシアで生まれた朝鮮人である彼にとって
 ロシア語は母国語となったけれど
 顔・血・祖先の記憶、
 そうした神秘から人間は成り立っているものなので、
 彼の疎外感はそういうところにあるのでしょう。
 一種のコンプレックスかも知れません。
 
  しかし文学では苦しむほど
 それが創作のエネルギーとなってゆきます。
 シャラーモフが、
 「芸術においては外国人たらねばならない」
 と言っているように、
 新鮮な目で世の中を見ることが必要なのです。
 
  だからキムには、
 ロシア文学を全く異なる目で見る大きなチャンスがあり、
 それを見事に生かしたというわけなのです。
 まあ、それは同時に彼の悲劇でもあるわけですが。

 
 ■主人公の××イ(リス)は
 結局最後に森でリスを殺して
 自己の動物性を捨て、
 変身やひょうい憑依の能力と引き替えに
 人間となることを選択します。
 個人的には、
 人間はそもそも動物的な存在だし、
 人面獣心であることも悪くないと思うのですが、
 主人公にこうした選択をさせたということは、
 やはりキムはこの作品で
 人間に対する限りない賛美を描きたかったのでしょうか?
 

 ――あるロシアの宇宙論哲学者が言っているように、
 確かに人間には
 動物的なものが共存しているが、
 それはあくまで生物学的な本質であり、
 やはり人間の内面には魂があって、
 そのことは最高に素晴らしい、
 奇跡中の奇跡なのです。
 動物には道徳的内面はありません。

  人間が動物であるという考え方には
 やはり私は嫌悪感を持ちます。
 人間が自分が何であるか分からずに悩むのは、
 魂を理解できないから悩むのです。
 
  キムは確かに人間への賛美を描いているけれど、
 それは20世紀という時代が
 そうさせているのです。
 ですがキムの人間賛美
 ゴーリキイその他のソ連作家にみられるほど
 単純ではありません。
 走り車の中のリスのように
 行き着くところはなく、
 人間の完成への道のりは遠いと
 彼は言っているのですから。

  キムが人間について書いているところで、
 私ならば魂のことを書いたかも知れません。
 結局キムがいかに才能ある作家であっても、
 やはりその時代の理念の虜なのです。

 しかし同時に、作家がある理念を語りながら
 小説の中では思わず
 別のことを描いてしまうことがある。
 
  キムは理念の上では
 人間を賞賛し愛しているわけですが、
 実際に彼の描いている人間は
 イヌやブタなど動物の姿で登場しますよね。
 つまり才能ある作家というのは
 常に理論家と矛盾するのです。

  キムには
 新しい人間というものを夢見ていた
 20世紀のソ連の楽観主義が生きているのです。
 その意味では私は正直なところ悲観主義者ですが、
 これはどちらが良いとか悪いとかの問題ではありません。

  ともかくも『リス』におけるキムの態度、
 人間への信頼、人間への愛
 誠実なものであるということ、
 それが芸術家にとっては最も大切なことなのです。
 

 『リス』には
 様々な運命の展開という物語としての
 筋書きのほかに、もう一つ重要な
 哲学的思索の流れがあります。
 フョードロフやヴェルナツキイ、
 テイヤール・ド・シャルダンの影響を
 受けているとしばしば指摘されますが……。
 
 

 ――確かに哲学的ですが、
 この作品では一つの流れというより、
 様々な哲学的思想が絡み合っています。
 父祖の復活というフョードロフの思想、
 ヴェルナツキイのノースフェーラ思想
 そして特にシャルダンの影響などなど。
 
 実際当時のキムは
 シャルダンに熱中していたそうです。
 しかしシャルダンもフョードロフもまず第一に
 キリスト教哲学者で、
 彼らの思想の根本にはキリスト教があります。

  しかし『リス』ではエピローグで
 ただ一度キリストが登場するだけで、
 それ以外のところで
 キリストについての言及はありません。
 この作品の哲学的基礎はまず第一に
 仏教だと思います。

  もちろんキムは仏教については
 一切触れてはいませんが、
 人間と動物の間の憑依や変身とか、
 完成を目指すための
 輪廻からの脱却とか、
 悟りの境地とか、
 これらはいずれも仏教に他なりません。
 しかもそれは
 仏教が宗教として成立する以前の
 人間の意識の根底にある仏教思想です。
 
  仏教徒の血を引きながら
 ロシアという西欧文化の土壌で
 生まれ育ったキムの
 仏教思想であるだけに、
 倍の興味が湧きますね。

                 (2000年3月6日)         戻る↑

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 「リス」 あらすじ  

 物語のはじまりは朝鮮戦争の時代。
 森に取り残されたみなし子を救ったリスは
 やがてモスクワの美術学校に通う
 四人の若者の魂に乗り移る。
 
 運命の糸にからみとられ、
 前途有望な四人の若者は
 その才能を開花させることなく、
 それぞれの終わりに向かってひた走る。
 
 みながみな獣の姿人間の顔で隠している世の中で、
 リスは生死の境界も、
 過去と未来、宇宙と地上の境界も
 自在に飛び越えながら、
 愛する人に四人の運命を語りつづける。

 これは理解するのではなく、
 ただひたすら耳を傾け、
 言葉に身をゆだねる物語
 

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  インタビューに先立ち、
 モスクワにいるキムに
 電話してくださったカザケーヴィチさん。
 
 「『最近なんだかやけに
 あなたのことを思い出すんですよ』と話したら、彼も
 『いや、実は私もちょうど
 君のことを考えていたところなんだ』と言われました。
 キムとは目に見えない魂の結びつきのようなものを感じます。
 彼は私にとって作家という以上の存在です」。

 縁ある貴重な方にお話をうかがえて、
 ほんとうに幸運でした。    (編集子)
 

 ●キム、フョードロフ、ヴェルナツキイについては、
  井桁貞義著
 「現代ロシアの文芸復興」(税別2300円、群像社刊)に説明があります。

 ●『リス』の書評は、

 沼野充義さんが
 小説の常識を根底から揺さぶると題し
 2月11日付毎日新聞に、

 法木綾子さんが
 「悪意に満ちた世界の中で苦悶する孤独な声」と題し
 3月2日付週間読書人にお寄せくださっています。                  戻る↑
 

 もうひとつの辺境「オデッサ物語

 
 群像社刊 オデッサ物語そのむかし、東京渋谷には
 ロシア愛好家の隠れた巣、
 幻のカフェ・オデッサ・イスタンブールがありました
 今回はその店主で、
 バーベリ(注)の「オデッサ物語」(群像社刊)に惚れこんで     
 店に本を置いてくださっていた町田まり子さんが           『オデッサ物語』関連の写真、地図を満載した
 その魅力を語ります。                                                          「ロシア文学を読もう」 オンライン版の
                                        ОдессаーオデッサーOdessa”こちらをクリック!

 カフェ・オデッサ・イスタンブールと
 バ―ベリ・オデッサ物語のささやかな関係        戻る↑
            

 東京・渋谷に
 オデッサ・イスタンブールという名のカフェを開いたのは
 1993年。

  なぜこんな名に? 
 
 それは、ロシア革命の国内戦のさ中に
 オデッサから黒海を渡り
 イスタンブールに亡命した
 ネコのヤンを店のキャラクターにしたから。
 つまり、ロシアやトルコを
 黒海を中心とした
  一つの文化圏として見るという提案であり、
 それをカフェという空間で
  楽しんでしまおうとしたわけだ。
 

  では、なぜネコのヤン? 

 たまたま家にネコのヤン
 がいたからだけど、
 ロシアなんて興味がないという人でも
 ネコにつられて入ってくるかも…という
 密かな企てがあったのも事実。
 
 ロシアの魅力、ロシアの文化の面白さを
 いくら声高に叫んでも、
 振り向いてくれない人が、この国では大多数。
 
  そんな人々の目をこちらに向けさせるために、
 まずはネコの看板、
 そしてカフェの空間が作り出す雰囲気。
 インテリア、メニュ―、音楽、商品が一体となって、
 今までとは違った切り口から見る
  ロシア、トルコ。

 暗い、古臭い、野暮ったいロシアというイメージを、
 最先端の文化を紹介しながら覆すために、
  たとえば、音楽の前衛
 セルゲイ・クリョーヒン
 レオニード・ソイベルマンをBGMに使う。
 すると不思議なことに、
 古いモノも新しい感覚で蘇ってくる。

 彼らにはロシア民謡をべースにした曲もあって、
 それを聴いた後では、
 ロシア民謡も昔の歌声喫茶のものとは
 違った響きで聞こえてくるし、
 ヴェルチンスキー
 レシチェンコのレトロな音もなかなか新鮮だ。
 
 ちょうど、オクジャワの「シーポフの冒険」を
 読んだあとでは、
 トルストイ像が変わると同時に
 トルストイの小説も
  白樺派的ではない読み方で読めるように。

 また、イリヤ・カバコフの作品を見た後では、
 陳腐な社会主義リアリズムの絵画でさえも
 キッチュな魅力を帯びてくるように。

 でも、当時は
 今以上に入ってくる情報も品物も少なかった。
 苦肉の策で、
 ロシア人の末裔が経営するパリの店から
 ロシアンブレンドの紅茶を取り寄せたり、
 アメリカ在住のロシア人から
 ファベルジュ・エッグを模したペンダントを
 仕入れたりしていた。そしてある時、
 群像社から「オデッサ物語」が刊行された。
 
 この面白さ、軽快さ、明るい哀しさ、
 あるいはポグロムを描く
  強烈な静謐さは、
 長大で重厚という
 従来のロシア文学のイメージとは全く違う。
 おまけに「オデッサ…」のタイトルは店にピッタリ。

 店に置きたいなと思い、恐る恐る問い合わせると、
 数日後、群像社の島田さんが
 本を抱えていらしてくれた。
 短い期間で大して売れはしなかったけれど、
 書店では買わないような人も買っていった。
 
 感情表現を排した短い文から
 躍り出てくるユダヤのギャング達。
 心に固い哀しみを抱えながら、
 彼らは陽気でパワフル。
 
 今「オデッサ物語」を読み返してみると、
 これはまさにクストリッツァ監督の
 「アンダーグラウンド
 そして「白猫・黒猫」のジプシー・ギャングのノリ。
 
 違うのは音楽だけかもしれない。
 ジプシー・ギャングの背後に流れるのは
 バルカン・ブラス
 ユダヤのギャングには、
 多分オデッサ・ブルガーなどのクレズマー音楽。
 
 頻出はしないけれど適切な比喩、
 オデッサの街に降り注ぐ光。
 比喩と光といえば、
 同じオデッサの作家オレーシャ(注)がいるが、
 バーベリの比喩は
 オレーシャほど自由自在ではないかわりに、
 短くて的確だ。

 草の香りのする風と
 昆虫の羽音に満ちたオレーシャの
 透明に輝く光に対して、
 モルダヴァンカのユダヤ人街に差す
 バーベリの陽光は
 イディッシュ語の響きと
 日々の営みの音を包んでいる。
 
 どちらの小説にも、
 当時有名だったという
 飛行家ウトチキンが出てくるのだが、
 別荘から自転車で走り出てきた
 オレーシャの少年は、
 昼日中のカフェの前で彼に出会い、
 一方、ダフ屋のバーベリの少年は
 夕暮れの劇場の中にいるウトチキンを見かける。

 ポーランド系ロシア人のオデッサと
 ユダヤ系ロシア人のオデッサの微妙な差異。

 さて、「オデッサ物語」を販売したのが
 短い期間だったと言ったのは、
 道路拡張計画のため
 1996年に閉店を余儀なくされたから。

 その後、ネコのヤンは、多分
 ロシアのどこかの町や
 ロシアを想わせる草原などを
 本の中で旅しているはず。
 
 著者(町田純)がロシア人でないので、
 残念ながら群像社からは出版できなかった。
 でも、カフェ・オデッサ・イスタンブールのヤンと同様に
 本の中のヤンも、
 ロシア文学に関心はなかったけれど
 ネコにつられてハマッてしまった人々の間で、
 深く静かにロシアのイメージを変えつつあるようだ。

 ロシアって、豊かで温かで深くて、
 そして洒落ていて面白いと気づき始めた人たちが、
 群像社の本を次々と手に取ることは
  間違いない。

               (東京都 町田まり子)  
                            
 ●カフェで流れていた
 ロシア音楽CDに関するお問い合わせは

(有)ゼアミ
http://hpmepage1.nifty.com/zeami/
(電話047‐342‐9658)、

   オベリウ
http://www.fortunecity.com/tinpan/capton/938/ or
http://oberiu4.8m.com/
(電話0543‐34‐2674)

 
 ●町田純さんの著書、ネコのヤン・シリーズは
 未知谷より刊行。
 「ヤンとカワカマス」新刊「小ネコちゃんて言ってみナ」等。
 未知谷のホームページ
 http://www.michitani.com には
 町田純さんの
 ヤンのシリーズの本の紹介と
 在りし日のカフェの様子が
 再現されています。
 町田まり子さんのカフェ、オリジナルレシピも
 ごらんいただけます。

 

 読者の声                       戻る↑

  「オデッサ物語」という題名にひかれて買いました。
 オデッサで少し前の昔話をきいているような感じで、
 とても気に入りました。   (愛知県 男性)
 

 「ロシア文学を読もう」6号に寄せられた読者の声

 応援しております。町田まり子さんの文章は
 とてもおもしろかったです。
                 (長野県 吉原深和子)

 いかにも魅力的な名前をもった
 カフェ「オデッサ・イスタンブール」の
 存在を初めて知りました。それがすでに
 閉店しているなんて、ぜひ行ってみたかったです。
                 (塚本 善也)
 
 


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 「ロシア文学を読もう」編集後記                         戻る↑

 「リス」は不思議な本だ。 
 最後の頁を閉じても、
 ロシア文学を読み終えたという気がしない。
 
 画家を志したキムの描写は色彩に溢れていたのに、
 浮かぶのは山水画のような静謐さ。
 複数の声が重なり、高みに上っていく音楽。

 こんな作品を書いてしまう人の
 深遠な孤独と理知。
 そして同時代を灯し、
 生きてくれることの有難さ。

 バーベリもまた
 孤高、疎外感の人であったろう。
 軽妙、洒脱、かつ民族の放つ体臭の
 なんとも濃厚たる語り口。
 熱狂的に迎えられた末の粛清。
 人生も作品もすべてが
 あまりにも「ユダヤ的」だった。
 

  編集部から  

     「ロシア文学を読もう」第6号をお読みになったご意見、ご感想を
「読もう」編集部までどうぞお寄せください。
また、群像社の本や好きな作家についての文も募集しております。
    「読もう」編集部 yomo@gunzosha.com

「ロシア文学を読もう」は群像社の愛読者が
非営利目的で発行する電子フリーペーパーです。
読者と出版社をつなぐ新しい形を模索していきたいと思っています。