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 ロシア文学を読もう 8号(2001年10月16日)

   「ロシア文学を読もう」は
   群像社を支援する愛読者が発行する
   オンライン版フリーペーパーです。
 
 
 
 

                                  【目次】
                               老婆たちのロシア
                         ラスプーチンとアブラーモフのまなざし
                                        
                              『マチョーラとの別れ』   尾崎英里 

                             | 『木馬』   目地史朗

               | M・カザケーヴィチ講演「ロシア文学と巡る世界周遊の旅」  尾家順子|

                               | 編集後記
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

-
 
 

老婆たちのロシア
  ――ラスプーチンとアブラーモフのまなざし――

 

 ふたりの男がいる。ともに子ども時代を村で送る。
  かたや北ロシア、もうひとりはシベリア。

  まわりにはいつも女たちがいた。全身全霊で生き、
  子を産み育て働いても女たちの暮らしは浮かばれない。
  それでも日々祈りのなかに生を紡ぎ老いてゆく。
  
 そして彼女たちを見つめるまなざしが
 ふたりの作家を創った。
 
 
 
 
 
 

 『マチョーラとの別れ』                              戻る↑

                          
                                                          ラスプーチン作
                            安岡治子訳
 
 

  あらすじ 

  バイカル湖から流れ出るアンガラ河のほとり、
  何代もの記憶を刻んだ村がダムの底に沈む。
  開発が世代の価値観の違いを露呈させ、人々がばらばらになっていく。
  
  「神様の決めてくれた居場所」と結ばれた魂を生き、
  いくつもの死を見てきた老婆は独りある覚悟を決める。

 

  

  【読者の感想

   この夏、ダ―リヤ・ワシーリエヴナという老農婦と出会った。
  ラスプーチン作『マチョーラとの別れ』の中で。
 

   たいへん多弁で、過去も未来もきっちり見たうえでの
  強い信念をもって生きている、すぐれた女性だ。
  私にとってはじつに久々のロシア文学。
  だが、文中交わされる会話の多くにロシアの寒村であることを忘れた。
  なぜなら、私のいるこの山里にも共通する時が流れるのを感じたのだ。

   
   日本には「山んば」というコトバがある。
  「百戦錬磨の老婆」といういい方もある。
  鬼ババもその類だ。
   この大地に真正面向かいあって生きつづけるもののもつ、
    すさまじいばかりの生命力に対し、
  畏れとともに名づけられたものだろう。
 

   なぜ婆か、と思う。
  しかし老の字を向けられる年代になった私は、
  漠然としたままわかる気がするのだ。
  山住みを始めた頃、私は山んば候補生と軽口をたたいた。
  それも年を追うごとその声が小さくなり、いつか消えた。
 

   ここの村には手ごわい老婆が多くいる。
  百姓はなんじゅうねんやっても一年生だ、と言ってのけ、
  こういってうれしそうに笑ってみせられるのは、たいてい老婆だ。
  顔もキツイが、時にしずかに、
  自分の足どりは、必ずはずさない。
  畑の帰り道は手ぶらであるくな、といい、
  ご自分も落ち枝数本たずさえている。
 

   太陽の傾きを米ひとつぶずつと数え、一刻の動きをよむ。
  しかし、やさしいのだ。
  お茶に誘い、お茶時のためにじゃがいもの皮をむき煮て、
  湯気のたちのぼるサラを置く。
  お茶に来い、話していけや、と声をかける。
  足が弱って、ふたつ折りの体を、
  這ってでもなにかひと役をこなす。
  家霊、木霊、水の霊… 婆たちは、
  それをひょいとつまんで見せてくれる。
  文字やコトバで学んだ子たちは、目に見えぬもの、
  手で触れられないものに対して懐疑的だ。
  人間ひとりの時間をこえる大きさ、長さに
  無感動といえる。
 

   マチョーラのひとびとは、小さな島にのっかる
  自分らの村をダムの水底に失うことになる。
  この大地と向き合い、
  ひとつひとつ自分の足と手と感性でつくりあげた暮らし。
  家霊=ドモヴォイとの別れをかわすいとまももたずに。
  ダーリヤの行動とコトバは、
  覚悟をもってこの大地に生きるものの、
  すぐれたる頑固だ。 
  マチョーラを去らねばならないと知った後、
  身辺のものたちが頼りにならないとみたとき、彼女は自力で行動する。
  自分のやり方で別れの儀式を行う。
  家への感謝であり、
  礼儀として捨て去る家の死装束を整える。
  老いたるダーリヤが河石を運び、焼いて、
  さらに砕いて粉にし、
  家中の漆喰壁をまっ白に塗りかえた。
 

   終章は暗示的だ。
  数人が島に残ってしまう。もともとの村人はなく、
  なぜかハンパ者、流れ者、子どもたちがダーリヤとともにいる。
  真夜中、迎えの船を出すハメになったダーリヤの息子たちは、
  深い霧にまかれ方向を失ってしまう。
 

   ダーリヤはここにいる。
  今日も陽向で足をなげだし、大豆をさばいている。
  立って歩く足はとうに失った。
  短くなった秋の日ざしを惜しんで、
  彼岸だんごのために洗い米を干している。
  「オレは、行きたいところに行けるだ」と歯を見せるが、
  ほとんど四つんばいなのだ。
       

                 (長野県 鬼無里村 尾崎英里)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

『木馬』           戻る↑
 
                       フョードル・アブラーモフ作
              宮澤俊一訳
 
 

  【読者の感想】

   フョードル・アブラーモフの『木馬』を読みながら考えた。
  いったい失われたものは何なのか。
  百年このかた、わたしたちは
  日々猛烈な勢いで産み出されるものに囲まれていきながら、
  ふいにどうしようもなく
  失われゆくものに心を寄せてきた。
  「農民の手のマメが擦り、磨きをかけた」
  「柄がつるつるになるまで使い込まれた」道具に
  「ロシア的に控えめな美」を見いだして喜ぶ
  「木馬」の中の「私」のように。
  それはかつて日本の優れた民俗学者が提唱した
  「民具学」をも思わせる。
  あるいは新しい学問として急成長した文化人類学や
  地域研究の名のもとに「遺物収集」に出かける外国の研究者にも
  「私」は似ているかもしれない。
  消えゆくものをすくいあげ、
  記憶や記録にとどめることも決して無駄ではない。
  それは今ならかろうじて可能かもしれない。
 

   ところが、
  そうした道具を実際に使う老女ミレンチエヴナのような存在は、
  いったんは「私」が
  おそれをなして逃げ出さざるをえなかった生身の存在は、
  確実に死を迎え日々この世から去っていく。
  「今じゃ年寄りも変わっちまった」、
  年寄りが「腹くちて」働かなくなってきたのであれば、なおさら。
  この作品が書かれた一九六九年、
  ソ連時代のロシアも
  労働の軽減と豊かさの保障が社会の目標となり、
  働く者から、
  朝から晩まで片時もじっとしていることなく
  手を動かしつづけるミレンチエヴナたちから、
  「誇り」を取り上げていった。
  働き者がばかをみる世の中で、
  使い込んだ道具を手にし、仕事に誇りをもつ人々に対して、
  社会が寄せる尊敬は急速に薄れていった。
  「名誉」は国家から与えられる勲章にすりかわっていった。
  ならば「昔はよかった」と
  ミレンチエヴナが言うのかといえば、
  「おらはそう言いたくねえ」という答えが
  きっぱりと返ってくる。
  それは自分で働いて働いて
  今の生活にたどりついた人間にしか言えない言葉だった。
 

   そのミレンチエヴナは
  トラックの荷台でひらひらとプラトークをふりながら
  「私」の前から去っていく。
  残された「私」はもう居ても立ってもいられず、
  体を動かして働きたくなった。
  老馬から立ち昇る汗の湯気をうらやましく思い、
  屋根の上に据えられた木彫りの馬が
  いななきをあげるのを夢想する。
  死にゆくもの、無生のものが、
  にわかに生気を発散しはじめる。
  もはや「私」は失われゆくものをただ惜しむだけではない。
  「無名の、だがその日常の行為において偉大な老農婦」のように
  自分もならなければという決意を胸に、
  自分自身の生活世界へとんぼ返りを打って、
  駆け戻って行く。
  実はそういう「私」のような存在こそが、
  今やすっかり失われ底をついてしまったのだと思うのは
  私だけだろうか。
                          (岐阜県 目地史朗)
 
 
 

  本について

  『木馬・ペラゲーヤ・アーリカ』
  作者が独立したそれぞれの作品を三部作のようにまとめたもの。
  黙々と手を動かし働く美しい老婆。
  働きづめの人生を終えた母。
  村と家を捨てた娘。
  近代化に侵食される北ロシアの農村と
  そこに生きた三世代の女の人生に静かに流れる底力が描かれる。
  社会主義下の農村でロシア正教の信仰が
  どういう形で生き残っていたかを垣間見ることができる。
 
 

        「木馬」はロシアの民家の屋根飾り。
                        異教の風の神であった馬が家の魔除けとなった。
 

  
 
 
 

 
 
 

  【作家紹介】                                                            戻る↑
  
  ワレンチン・ワラスプーチン(1937―)        
  ロシア古典文学のリアリズムの伝統にのっとり、
  人間の内面世界を深く凝視する作風。
  若い世代を描くよりも
  自分の書きたいのは老女であると言いきる彼は、
  老い、死を描いて秀逸。
  同世代で同志とも言えるシュクシーンが女性を毛嫌いし、醜く描いたのに対し、
  ラスプーチンの女主人公はいつも、
  救済の力を持った神々しい存在として描かれている。
  人間の内面世界を深く凝視する作風。
  若い世代を描くよりも
  自分の書きたいのは老女であると言いきる彼は、
  老い、死を描いて秀逸。
  同世代で同志とも言えるシュクシーンが女性を毛嫌いし、醜く描いたのに対し、
  ラスプーチンの女主人公はいつも、
  救済の力を持った神々しい存在として描かれている。
  
 
 

   

  邦訳に『マリアのための金』 『アンナ婆さんの末期』(群像社)。
  『フランス語の授業』(群像社ソヴェート文学75号)
  『生きよ、そして記憶せよ』(講談社)
  『カラスに何か言うことある?』(ソヴェート文学84号)
  『長く生き、長く愛せ』(ソヴェート文学89号)など。
 
 
 
 
 
 

  フョードル・アブラーモフ1920―1983)            
  アルハンゲリ州のヴェルコーラ村生まれ。
  最後の日々を生きながらえる古い農村で
  農業集団化が人間性を蝕む様子を目の当たりにする。
  四九年に文芸批評家として文壇に登場し、
  農村の繁栄を賛歌した作品を批判。
  出身の北ロシアの寒村に視点を据えた
  『ブリャースキン家の人々』(四部からなる長編)が有名。
  1989年来日のレニングラード・マールイ劇場の
  『兄弟姉妹』(宮澤俊一訳 岩波書店)は
  その第一部にあたる。
 
 
 
 

   【レクチャー聞きかじり】                                      戻る↑
 
 

   9月29日、大阪の日本ユーラシア協会で
  ロシア語講師マルガリータ・カザケーヴィチさんの
  「ロシア文学と巡る世界周遊の旅・
         ロシア文学が諸外国でどう感受されているか」
  という講演がありました。
  参加者からの報告です。
 
 

   ほぼ一世紀前にロシア文学があれほど世界を揺るがしたのはなぜか、
  そして、現代のロシア文学がかつてのように
  読者の心を震わせないのはなぜなのか、
  という大きなテーマで講義が始まった。
 

   ヨーロッパ諸国(独、仏、英)、そして日本での
  ロシア文学の受容は
  それぞれに国民性を反映したものだったが、
  中でも興味深かったのは、
  イギリスと日本での受け止め方の違いである。
  イギリスのある批評家は
  「偉大なるロシアの小説が19世紀末に我々に衝撃を与えて以来、
  我々自身も顔を赤らめることなく、
  作品のなかで「魂」の話ができるようになった」と言ったそうだし、
  ヴァージニア・ウルフは
  「魂――これこそがロシア文学の主要な登場人物」だと評したらしい。
 

   また、ヨーロッパの他の国々と違って、
  イギリスではゴーゴリが高く評価されたということも印象的だった。
  日本ではゴーゴリは
  その深みと尽きせぬ面白さにふさわしいだけの評価とファンを
  一般読者の間に得てこなかったし、
  残念ながら今も得ていないが、
  イギリスで彼が評価されたのは、
  イギリス人自身がユーモアと諧謔を好んだからだという。
  日本でも江戸時代など
  ユーモアと諧謔が広く好まれたように思うが、
  明治以降、日本人は深いところで
  何かがすっかり変わってしまったのかもしれない。
 

   日本で最初に評価された作家はトゥルゲーネフで、
  祖国では評価の低い半ば忘れられた作家が、
  日本で広く受け入れられたのは、
  何よりも自然描写が新鮮だったことと、
  『父と子』『ルージン』などの持つ社会性だった。
  日本の批評家たちは
  トゥルゲーネフの作品に漂う「東洋的なもの」
  つまり、控えめで落ちついて、
  感傷的かつ叙情的なところが気に入った。
  面白いことに西側の批評家もロシア文学が東洋的で、仏教的ですらあると言い、
  それはチェーホフとブーニンの評価で特に著しい。
  ぜひブーニン読んで、
  彼が果たして仏教的かどうか、自身の目で確かめて欲しいと言われた。
 

   また、トルストイやドストエフスキイ、チェーホフは
  かつて日本人の読書体験のひとつの核をなした。
  未だに、日本は世界で二番目にロシア文学の出版点数が多い国らしい。
  もっとも、トルストイにしても
  ロシアやヨーロッパとは違って『復活』の人気が高く、
  しかも、罪を犯した主人公の魂の復活ではなく、
  薄倖のヒロインのメロドラマ性に
  読者の関心が傾いているらしい。
  これを裏づけるように、
  いみじくも今日村のある読書家から
  「トルストイでは、わしは『復活』が一番良かった。
  カチューシャが可哀相で、可哀相で」という声を聞いた。
 

   このように、駆け足で各国を廻った講師は、結論として、
  今のロシア文学が世界の読者に訴えないのは、
  ロシア文学自体が「鉄のカーテン」に阻まれて
  世界の潮流から遅れをとったこと、同時に、
  読者の求めるものが「魂」に触れる深いものではなく、
  お手軽な哲学、お手軽なファンタジーであるというように、
  送り手と受け手の求めるものが
  完全にズレていることを挙げた。
  同じ問い、つまり、
  「19世紀ロシアの心理小説が西側で人気を博し、
  それに対して現代ロシアの散文にあまり人気がない」
  ということについて、ヨシフ・ブロツキイ『私人』のなかで
  西側ではまだある意味では19世紀が続いているが、
  ロシアでは19世紀はもう終わってしまったからだ
  と分析している。
 

   いずれにせよ、混迷の度を深めている世界で、
  いつまでもお手軽なファンタジーが読者を満足させ得るとは思えない。
  ラスプーチンシュクシーントリーフォノフら、
  「魂」に触れ、
  「何の為に生きるか」を鋭く問い続ける作家は今もいる、
  と講師は言う。
  「魂」には国境も民族もない。
  あるのは裸の人間そのものと言えよう。
 

   おそらく、これから
  ロシア文学味読のキーワードである「魂」について、
  「共に苦しむ」ということについて、
  考えざるを得ない時代が来るのではないか。
  そして、そのことを最も深く掘り下げているロシア文学が
  古典と現代ものとを問わず
  新たな読者を得るようになるのでないか。
 

   ロジェ・グルニエの『チェーホフの感じ』に
  心そそられる逸話があった。
  ある宇宙飛行士が無重力状態で
  チェーホンテ時代のチェーホフの短編を読んでこう語ったという。
  
  「何の気負いもないこれらの物語は(略)
  一瞬のうちに疲労を吹き飛ばしてくれるのです。
  記憶の中に知人のあの顔この顔を呼び醒ましてくれ、
  またさまざまなことを連想させてくれました。
  すると、自分はいま
  人類から切り離されているという
  息詰まるような不安感がすうっと消えていくのでした」。
 

            (和歌山県 尾家順子)
 
 
 

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  ◆ポクロフカ劇場来日にあわせ
  30年ぶりの新訳ゴーゴリが群像社より刊行。

     
      ニコライ・ゴーゴリ作  『検察官』 船木裕訳
                      『結婚』  堀江新二
     詳しくはそれぞれの本のページをごらんください。
      
 

  ◆本邦初『ブーニン作品集』(全5巻)は
       2002年2月より群像社から刊行開始。

  第一回配本は
  自伝的散文集「呪われた日々・チェーホフについて・他」(第5巻)と
  後期短編集「暗い並木道・他」(第3巻)。
  
  「ロシア文学を読もう」第2号に
  おなじくマルガリータ・カザケーヴィチさんの書いた
  「ブーニンの魅力」を掲載。 
 
 

  
 
 
 
 

   【編集後記】                                                戻る↑
  
 ◆「週間読書人」掲載『ブルガーコフ 作家の運命』書評より。

  「しばし解きがたい謎として映るミハイル・ブルガーコフの生涯と作品を
  一種の信仰告白にも似た敬虔な語り口と、
  卓越したトリックで綴った、簡便ながらも第一級の評伝」。
                                 (亀山郁夫氏)
 

 ◆『マチョーラとの別れ』に寄せられた声から。

  「強い心を持って、
  たとえどんなに正しい行いであるにしても
  周囲と異なることを続ける困難さは計り知れない。
  ダーリヤさんの静かなたくましさ、強さが私にも欲しい」
                              (大阪府 尾田佳代)

 ◆こんなにブロツキイ『私人』の声が胸に響く時代があったろうか。
 
  「歴史的必然性の宣伝者たちは
  人をそそのかしてこの同語反復に同意する気にさせておきながら、
  いっしょに棺桶に入ってくれるわけでもなく、
  『ありがとう』も言わないのです」。

  「自分は他者と違う存在であることを示すこと。
  そして同語反復を避ける、
  つまり『歴史の犠牲』という栄誉ある別名で知られる運命を避けること。
  人間のこういった営為を助けてくれる点にこそ、
  文学の功績のひとつがあります」。
 

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  「ロシア文学を読もう」の応援者としてご賛同いただけた方々

  阿部軍治 安宅りさ子 秋元里予 有賀祐子 
  安藤厚 井桁貞義 岩浅武久 岩田貴 宇多文雄
  浦雅春 大木照男 大平陽一 岡林茱萸 川崎浹
  北上光志 近藤昌男 島田陽 清水昭男 清水純子
  鈴木正美 田原祐子 塚本善也 津久井定雄 
  ナウカ神保町店 中村唯史 長縄光男 
  日本ロシア語情報図書館 沼野恭子 沼野充義 
  袴田茂樹 秦野一宏 早川眞理 原卓也 日野貴男 
  法木綾子 堀江新二 三浦みどり 村手義治 村山久美子
  藻利佳彦 望月恒子 望月哲男 矢沢英一 安岡治子 
  雪山香代子 吉原深和子 (五十音順、敬称略)  

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  編集部から  

     「ロシア文学を読もう」第8号をお読みになったご意見、ご感想を
  「読もう」編集部までどうぞお寄せください。
  また、群像社の本や好きな作家についての文も募集しております。
    「読もう」編集部 yomo@gunzosha.com
  
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  読者と出版社をつなぐ新しい形を模索していきたいと思っています。
 
                                                   
                                                                 戻る↑