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ロシア文学を読もう 第9号(2002年5月)

「ロシア文学を読もう」は
 群像社を支援する愛読者が発行する
 オンライン版フリーペーパーです。
 
 


【目次】

真の言葉の蘇る夜
ペトルシェフスカヤの『時は夜』

読者の感想  
女の話を女が読むと…  木村恭子
愛読者カードより
作者紹介 ペトルシェフスカヤ 
「語られる言葉」への信頼  
北川和美
『話の話』に見るペトルシェフスカヤ  
児島宏子

ゴーゴリ『結婚』(群像社刊)の翻訳者、
堀江新二氏に湯浅芳子賞
受賞にあたって  堀江新二
宮澤俊一『ロシアを友に』 演劇・文学・人 刊行案内
編集後記
来号はブロツキイです










真の言葉の蘇る夜
ペトルシェフスカヤの『時は夜』

                           

                             『時は夜』
                          ペトルシェフスカヤ著
                             吉岡ゆき訳
                              群像社

「読んだあとは首を吊って死にたくなる」と
ロシア人の批評家に言われるペトルシェフスカヤの『時は夜』。
子育てを放棄した娘に孫の世話を押し付けられ、
刑務所帰りの息子の粗暴に悩まされながら
老親を介護する母の手記が綿々とつづられる小説。

途切れることなく、
骨を砕くように紙の上に刻み込まれていく言葉を人は
過剰だ、重すぎると押しのけることができるだろうか。
のしかかってくる夜の言葉の堆積を逃れて昼の世界に身をおけば、
心地よさとはほど遠い、
言葉とすら呼べない一瞬の絶叫だけが飛び交っていないだろうか。
束の間の騒音に耳ふさがれる昼の時と、
いつまでも残りつづける言葉の重圧
(この作品は死んだ母の遺した手記ということになっている)。

どうせ堪えがたい現代なら、
人は書かれた言葉の方に身を寄せた方がいい。
「死にたくなる」ロシア人批評家は続けてこう書く。
「でも何日か経つと、私は彼女の本を再び開いている」。             ↑目次へ戻る
 


[『時は夜』読者の感想

女の話を女が読むと… 
                           木村恭子(大阪府)   ↑目次へ戻る

しみじみ人間って愛情と憎しみを
同じ分量だけ持っているんだな、と思うそんなお話。
誰かに強い愛着を抱く人は、それと同じ強さで
その人を憎むことができる。
それぞれうぬぼれが強く男にだらしない母と娘の愛憎を中心に、
破滅的な人生を送る家族の物語が
ここには綴られている。

主人公の売れない詩人である女性は、ボケた母親を養老院に置き、
娘の子供の一人と一緒に極貧の中で暮らしている。
自分の人生は終わりだ、などと言いながらも
「お嬢さん、いや失礼、奥さん…」と呼びかけられたと得意げに話し、
自分のことを「背の高い、まだまだ美しい女」と思っている
超うぬぼれの強い女。
もう孫のいる年だし、身なりを構うお金もないから、
多分ひどい外見をしているんだろう、
と文脈からは読み取れるのだが。

彼女は孫を溺愛しているが、それは
自分だけを愛する人間を作りたい、という自分勝手な愛情に過ぎない。
彼女の娘や息子もそんな束縛的な愛情にうんざりして、
ついには母親を憎むに至ったことに彼女は気がつかない。
理性と妄想の狭間を揺れ動く意識の中で
彼女は常に被害者であり、
常に肉親・友人らに裏切られ続けているのである。
とにかくすごいおばさんだ。
野村沙知代を髣髴とさせる。

主人公以外にも、魅力的なキャラクターというものがまったく登場しない。
刑務所上がりの自堕落な息子は
頻々と現れて金をせびっていく。
娘も男に弱く、次々と父無し子をこしらえていく。
主人公がかわいがっている孫も強情でしつけがなってなく、
かわいげのない子供である。

…とまぁ、ここまでくれば
「なんて救いようのない話だ!」ということになる。
この物語は主人公の女性が書いた手記という体裁をとっているので、
語り口は一人称だ。
それだけに読み手は主人公の心の醜悪さに、
直接触れることを余儀なくされる。
ゆがんだ愛情と家族関係のあまりのおぞましさは、
読後にビデオレンタルへ走って
織田裕二やキムタクの純愛ラブストーリーでも借りて
心を洗いたくなるほどである。

どうしてここまで嫌な奴なんだろう、と思うほどなのに
本人だけがそれに気づかない。
ここまで人間の心理の暗部を抉り出しておいて、
それでも文学にしてしまうのだから作者はすごい。
こんな女の手記など、
読み続けるだけでも作者との我慢比べのようなものだが、
なぜか主人公の行く末について気をもまずにはいられない。
最後まで一気に読ませてしまうのが作者の力量だ。
怖いもの見たさだろうか。

しかし、一番オソロシイのは、
これが自分の物語ではないかと思ってしまう点である。
若かった頃は私もご多分に漏れず、
自分が他人より綺麗で頭がいい、と自負していた。
自分には他の人より人生の可能性が少しばかり多いはず、と信じていた。
あれから十数年、
空想は現実にはならなかったけど、
さりとてこの物語の主人公のように、
過去の栄光しかすがるものがないほど何もかも失うことはなかった。

人は追い詰められたときにそのエゴを剥き出しにする。
普段は気づかなかった自分、
或いは考えたくなかった自分と直面する。
金も家族も友人も愛情も全てを失った時、
私はどうなるのだろう。
これはそんなことを考えさせる一篇でもある。
それだけに主人公が、
愛した者たちの名を呼んで涙を流すラストは
少し胸を突かれる。                                       ↑目次へ戻る


◆愛読者カードより

『時は夜』、一気に読ませていただきました。
私の母はペトルシェフスカヤと同年代(1939年生まれ)で、
義父母のめんどうを見ていたので、
少し自分の家族を重ねながら読みました
(もちろんここまで破壊的ではありませんが……)
                          東京・匿名女性     ↑目次へ戻る
 


作者の紹介
リュドミーラ・ペトルシェフスカヤ(1938年生まれ)

劇作家として文筆活動を開始するが、
ソ連時代は検閲も通らず戯曲のほとんどが国立劇場で上演拒否された。
幼い頃スターリン時代の悪夢を体験した作家は、
とくに女たちの悲惨な状況、
孤独や絶望を虚飾を廃した文体で描いた作品を多く書いてきた。
作品を評して重苦しさを強調されがちだが、
そこには救いがたい現代を表現する手段としての
言葉に寄せる作者の信頼がうかがえる。

邦訳に『時は夜』(吉岡ゆき訳 群像社)
『身内』(沼野恭子訳『魔女たちの饗宴』所収、新潮社」)。          ↑目次へ戻る
 


「語られる言葉」への信頼
                                                              北川和美                ↑目次へ戻る
 
 

ペトルシェフスカヤは、かなりエキセントリックな人だ。
深いしわに乱れ髪の魔女的風貌。
じっと見つめられると怖いほどの鋭いまなざし。
甲高いのに妙にどすの利いた声で
エネルギッシュにとめどなく続く喋り方は、
まさしく『時は夜』のアンナの手記のそれである。
『時は夜』はフィクションだ、
作家と主人公を同一視する愚は犯すまいと思っても、
つい二人を重ねてしまう。
それほど、どちらの「語り」も強烈な印象を与えるのだ。

『時は夜』に限らず、ペトルシェフスカヤの小説はどれも、
聞き手を想定した語り手による「語り」の要素を強く感じさせる。
読者は、主人公の「意識の流れ」そのものである「語り」のペースに巻き込まれ、
圧倒されつつページを繰り、
「こんな暗くて救いのない、人間をやめたくなるような小説、
読むんじゃなかった」と思いながらも、
ついつい最後まで読まされてしまう。

この独特の「語り」の文体を、
単なる「無修正のテープ録音」「速記録」と断じるには当たらない。
もとになっているのは、「台所の会話」と呼ばれる、
夜、女たちが台所で交わす私的なお喋りだ。
厳しい言論統制がしかれていたソ連で、
建前や嘘しか描いていなかった公式の言葉に対し、
記録されることのない口語による語りによって真実を伝えてきたのが
この「台所の会話」であり、
それを創作技法としての文体にまで高めたのが、
「決して嘘は書かない」ことを唯一の信条とする
ペトルシェフスカヤだった。
「書かれた言葉」(=文学作品や報道、政治演説などのあらゆる既存の公式的言説)への不信と、
「語られる言葉」(=非公式でパーソナルな言説)への信頼。
「口語は嘘をつかない」。

「夜」「女」「台所」「気のおけないお喋り=口語による語り」といった
この作家にとっておなじみの道具立ては、
「手記」という従来とは少し違った形をとる『時は夜』においても健在で、
アンナは毎夜、台所のテーブルの脇で手記を書く。
さらに、自ら最高傑作というこの作品でペトルシェフスカヤは、
従来の「語り」の文体をより豊かなものにすべく、
行為としての「語り」に様々な役割を与えている。

主人公アンナにとって、「語り」は何よりもまず、
したたかに世間を渡っていくための武器だ。
子供たちへの自作の詩や童話の語り聞かせを職業としていることに加え、
彼女は誰彼となく自らの不幸な境遇を「語る」ことで
周囲の同情を買って生き延びる。

一方、崩壊寸前の家庭を守ろうとする自らの孤軍奮闘を語るアンナだが、
そのモノローグはかなり独善的であり、
実は客観的な観察者を装う彼女こそが横暴なエゴイストで、
更には精神異常者ではないか、といった疑惑さえ
読む者に抱かせる。
語れば語るほど、彼女は孤立していく。
「語り」は語り手の孤独を浮き彫りにする。

「語り」には作品に隠された喜劇性を引き出す役割もある。
『時は夜』は1994年に一人芝居の喜劇として演出・上演され、
翌1995年には全ロシア演劇コンクールのモノローグ部門でグランプリを受賞しており、
上演中は観客の爆笑が絶えなかったそうだ。
作者自身の言葉を借りれば、
「読んだ時と生で演じられるものを観た時とでは大きな違いがあり、
読むだけでは喜劇性を感じることは難しい。
より深い読みが必要とされるからだ」。

しかし、「語り」という行為の役割でおそらく作者が最も重視しているのは、
語り手の得る救いだろう。
過酷で孤独な日常の中で唯一アンナを支えているのが
「書く」(=「語る」)という作業である。
アンナの語りの内容は、
母親の精神異常や息子の犯罪事件、
娘の予期せぬ妊娠をきっかけに家庭が徐々に崩壊していくという、
どうしようもなく悲劇的なものだ。
にもかかわらず、一定の時の経過と、
そして「語りを通して
自分はつらい体験や思いを誰かに伝えている」という、
いわば肩の荷をおろしたような安堵感によって、
彼女の語り口にはある種の落ち着きが感じられる。
「語り」という行為をフィルターにして、
語り手は過去のネガティブな体験を濾過し、
新たに未来へのエネルギーを得る、
まさにそこに「語り」の力があると言える。

このように、ペトルシェフスカヤは
「語らせる」ことによって語り手を救う。
しかし、それでは、読者の救いはどうなるのか。
語り手は「語った」ことにより救われても、
読者は存在の闇の中に取り残される。
まるで、次から次へと語り継がれてきた噂話を聞かされたか、
延々と書き継がれてきた不幸の手紙を受け取ったかのようで、
しかも次に語ったり手紙を書いたりする相手もいなければ、
重苦しい気持ちをおいて逃げ出すこともできない。
彼女の作品に救いがないといわれる原因は、
おそらくここにあるのだろう。

ペトルシェフスカヤの小説を読むのは、確かに気が重い。
しかし、単なる事実ではなく、
豊かな創造行為を経た
ーすなわち彼女が全幅の信頼をおく口語によって「語られた」―
真実の物語の持つ圧倒的な「語り」の力に身をゆだね、
自分なりにそれを受容すれば、
読者もある種のカタルシスを体験する。
それこそが、彼女の作品を読んで読者が受け取る
報酬なのではないだろうか。

 ところで、ペトルシェフスカヤは決して
『時は夜』のような作品ばかり書いているわけではない。
その作品世界は、
「悲喜劇」とでも名付けたくなるような多くの戯曲はもちろん、
ポスト・ユートピア的な近未来小説や怪談風の作品、
子供が読んでも楽しめる童話や詩など多彩で奥深い。
ぜひそういった作品にも触れてほしい。
そうして再び『時は夜』を読めば、きっと
最初の時とは少し違った読後感が得られるはずだ。

                         (東京都・ロシア文学)   ↑目次へ戻る
 
 
 


アニメション作家ノルシュテインの代表作、
灰色狼が主人公の『話の話』を
ご覧になった方も多いでしょう。
実はこの作品はノルシュテインとペトルシェフスカヤが
共に筆をふるって生まれた「話」なのです。
今回はノルシュテインの絵本『きりのなかの はりねずみ』(福音館書店)、
『アオサギとツル』(未知谷)を翻訳なさった
児島宏子さんに書いていただきました。                                          ↑目次へ戻る
 
 

 『話の話』に見るペトルシェフスカヤ
                                                    児島宏子 (東京都)

「ねんねんころり ねんねよ ねんね 
端っこには寝ないでね。
灰色狼の子がやってくる…」

ロシアの古い子守歌をうたう男性の声が聞こえてくる。
無心にお乳を飲む赤ん坊。
その瞼が重くなって、夜の帳のように閉じられていく。
だが、澄んだ瞳は狼の子をとらえる。
狼の子は子守歌によって呼び出されたのだ…。
 
森に雨が降り注ぐ。
リンゴに流れる雨滴。古い木造の建物が現れる。
樹木から黄色くなった葉が落ちては黒土を覆っていく。
白い光があふれ、牡牛がナワを回す。
少女が跳ぶ。海辺。 
木陰のテーブルに寝そべるネコ。                                                                       
テーブルに向かって詩作する詩人。
漁師の妻―少女の母は洗濯をしている。
乳母車の中で赤ん坊がなき始める。
やがて、お父さんが大きな魚を担いで漁から戻ってくる。
昼食、団らん、通りかかる旅人も食卓に招かれる。
ワインで乾杯。
バッハのプレリュードが流れる…。
何事も起こらない幸せ。永遠の静けさ、平安の訪れ…。

古い木造の建物は、小さな町の集合住宅。
そこの人々は夕暮れになると中庭にさまざまなテーブルを並べ、
一緒に食事をとった。
『疲れた太陽』というタンゴが流れる。
人々が、まさに苦楽の滲む日常生活を営んでいるときに、
戦争という人為の嵐がやって来る。
踊るペアーから男が消える。
硬直して動かない女たちの傍を、
兵士の一団がスクリーンの彼方―戦場へ向い、
多くが戻らなかった。 

一方狼の子は自由自在に、
人の思い出や意識のなかに入り込むように、
疎開で誰もいない中庭で焚き火をし、
ポテトを焼いて食べたり、
詩が綴られた紙片を詩人から盗んだりする。
その紙片から赤ん坊が生まれる。
子守歌の主人公は赤ん坊を必死にあやす。
やがて、戦争が終わり、また再び平安が訪れる。
新しい命が誕生し、新しい家族―世代が登場する。
だが、ダンスのカップルの片方は老いていき
孤独な面影で道をよぎる。
このように、記憶された一つの時代が、
脈絡がないような、あるような断片で、
詩のように、そのリフレーンのように蘇る。 

この作品は、アニメーションの概念を覆し、
新たな芸術ジャンルを生み出したと言われる。
史上、世界で作られたアニメ作品史上の頂点をなし、
毎年そのことが公式に確認されている。
シナリオは、ノルシュテインと監督と、                          
作家のペトルシェフスカヤが共同執筆している。                      
二人は、この作品の企画申請文に記している。                       

「これは記憶についての映画になるはずだ。
…主人公は詩人でなければならない。
主役としてスクリーンに必ず登場するというのではなく、
彼の詩作品に満たされるようなアニメーションになるという意味で…」

二人は文書をこう結ぶ。

「…私たちの子供時代は戦争の終わりにやって来た。
私たちは、幸せとは何かを永遠に記憶すべきなのだ。
それは、平和な日々の継続…」

幸福な〈記憶〉を私たちの心に刻み続けることが、
二人の創造行為の、豊かな源ではないか。
描かれるあらゆる状況のなかから、
自分たちの幸福が見えてくることだろう。                 ↑目次へ戻る                         
 
 
 


ゴーゴリ『結婚』(群像社刊)の翻訳者、
堀江新二氏に湯浅芳子賞                                              ↑目次へ戻る

日本における翻訳劇の上演、普及に功績のあった
劇団や翻訳家、脚色家に贈られる湯浅芳子賞の第9回翻訳脚色部門に
堀江新二氏が選ばれました。

昨年堀江氏は群像社からゴーゴリの『結婚』の翻訳を出版したほか、
モスクワ・エトセトラ劇場の来日公演
「人物たち」の台本翻訳の業績が評価されての受賞です。
 
 

受賞にあたって          
                                               堀江新二

 受賞はもちろん嬉しかったです、照れくさいけど…。
ただ格好つけるわけじゃあないけど、
これはロシア演劇関係の僕らに
「もっとしっかりロシア演劇を紹介せいや」という
励ましの意味でいただいたものだろうと考えています。

湯浅賞は今回で9年目、1993年が初回です。
もし25年前に出来ていれば当然
恩師野崎先生が受賞なさったでしょうし、
15年前でも群像社の前社長、
宮澤俊一さんが取っていたはずのものです。
このお二人なら当然の受賞でしょう。
お二人が敷かれたレールに僕なんか乗ってきただけです。

両氏の他にも、ロシア演劇を宮澤さんの代から呼び続けている
「同志」とも言うべきプロデューサーの阿部義弘さんや
各県の演劇鑑賞会、東京のアートスフィアやシアターX、
尼崎のピッコロシアター、
そしてロシア演劇の研究と紹介をしている
山之内重美さんや岩田貴さん、安達紀子さんなど
大勢の仲間たちがいます。
そしてもちろん、
赤字覚悟でロシア文化を紹介している
群像社の協力のおかげでもあります。

個人的には、青年座が1998年に上演した
ガーリンの「ジャンナ」の翻訳で受賞したかったという思いが
ないわけではありません。
東恵美子さんの素晴らしい演技と伊藤大さんの見事な演出がありましたから。
今回の授賞の対象が
「ゴーゴリの『結婚』とチェーホフの短編から『人物たち』の翻訳、            
その上演にあたっての文芸協力」となっていますが、
両方とも2001年にロシアの劇団が日本で公演したもので、                   
やはり日本の演劇の発展を考えると                              
ロシアのいい戯曲を翻訳して、
日本の俳優が上演するというのが理想でしょう。
もちろんロシアの優れた劇場を日本に招聘、
紹介する仕事も続けていきます。

当面は群像社から出す
チェーホフの「かもめ」の翻訳に全力をあげるつもりです。 

                                                                   (大阪外国語大学助教授)     ↑目次へ戻る
 


宮澤俊一遺稿集刊行案内

時代に変革に先駆けたソ連末期のロシア演劇を見続け、
  ロシア文学の力強い底流を肌で感じた演劇人・出版人の遺稿集!

宮澤俊一 ロシアを友に 演劇・文学・人
 本について詳しくは群像社のページをごらんください。

特別限定販売、予約受付中! 5月末刊行予定 四六判上製325頁(予定)定価2300円(税別)

目次より
T 演劇を友に
  モスクワ劇場通い
  モスクワ観劇ガイド
  ロシア演劇小史
  最近のチェーホフ劇―生誕120年にー
  リュビーモフ覚書
  ペレストロイカと演劇の関係

U 文学を友に
  わが心のヴァムピーロフ
  詩人・俳優ヴィソーツキイの死
  チェーホフ戯曲の細部をどう読むか
  オクジャワの歌       
  他

V 人と友に
  佐木隆三さんとのおつきあい
  チェーホフがとりもつ縁
  文化交流の心
  ソ連の友へ

ご予約は群像社まで                                             ↑目次へ戻る

          
 
 

  

【編集後記】

▼「読もう」に惜しみない協力を下さる堀江さん、心からお祝い申し上げます。
▼『時は夜』を読んで思う。
文字にすることで語り言葉は変容するのか。
書くという行為は浄化なのか、昇華なのか祈りなのか。
▼前号から間があいての発行となりましたことを深くお詫びいたします。

●「ロシア文学を読もう」の賛同者の方々。
 
阿部軍治 安宅りさ子 秋元里予 有賀祐子 安藤厚 
井桁貞義 岩浅武久 岩田貴 宇多文雄 浦雅春 
大木照男 大平陽一 岡林茱萸 川崎浹 北上光志 
近藤昌男 島田陽 清水昭男 清水純子 鈴木正美 
田原祐子 塚本善也 津久井定雄 ナウカ神保町店 
中村唯史 長縄光男 日本ロシア語情報図書館 
沼野恭子 沼野充義 袴田茂樹 秦野一宏 早川眞理
原卓也 日野貴夫 法木綾子 堀江新二 三浦みどり 
村手義治 村山久美子 藻利佳彦 望月恒子 望月哲男 
矢沢英一 安岡治子 雪山香代子 吉原深和子
(敬称略、五十音順)                                                      ↑目次へ戻る
 
 

●来号はブロツキイ特集を予定しております。
群像社刊のブロツキイは
『私人』(沼野充義訳)と『ローマ悲歌』(たなかあきみつ訳)で出ております。
どうぞご感想をお寄せください。

       
編集部から  

     「ロシア文学を読もう」第5号をお読みになったご意見、ご感想を
「読もう」編集部までどうぞお寄せください。
また、群像社の本や好きな作家についての文も募集しております。
    「読もう」編集部 yomo@gunzosha.com

「ロシア文学を読もう」は群像社の愛読者が
非営利目的で発行する電子フリーペーパーです。
読者と出版社をつなぐ新しい形を模索していきたいと思っています。
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