ゴーゴリはポクロフカ劇場にあり! モスクワ、劇場通いの日々

                         「結婚」 「検察官」 



 沼野充義モスクワは演劇の都だ。こればかりは、日本に暮らしているうちはいくら頭でわかっていても、実感できるものではない。昨年5月から半年ほどモスクワに滞在して、つくづくそう思った。特に芝居好きでもなく、もちろん、演劇通でもなく、むしろ芝居がかったことが嫌いだというぼくのような人間でも、半年の間に結局二十本近い芝居を見ることになった。もちろんその中には出来不出来もあったし、好感の持てるもの持てないもの、と色々だったが、ともかく俳優たちの層の厚みと演出の「力」には驚かされっぱなしだった。なにしろ、モスクワでは『劇場のスケジュールを掲載した『テアトラリナヤ・アフィーシャ』(月刊)なるものまで出ていて、そのページ数は百ページを超えるため、慣れない者にはどこをどう捜したらいいかも見当がつかないほどである。

どんなものを見ることができたか、記憶の糸をたぐりながら、いくつか具体的な例を挙げてみよう。現代ロシアを代表する女性作家で劇作家でもあるニーナ・サドゥールとは個人的な縁があって、彼女自ら自分の芝居に二度も招待してくれ、『ミスティフィカーッィア』(レンコム劇場、演出ザハーロフ)と『ペチョーリンと呼んでくれ』(プーシキン劇場、演出モケーエフ)を見る機会に恵まれた。前者はゴーゴリの『死せる魂』、後者はレールモントフの『現代の英雄』を素材にしてサドゥールが現代的な戯曲に仕立てたものだが、古典が生きながら前衛的なレパートリーになるというロシアのすごさをまざまさと見せつけられた。また、若手で(まだそれほど有名ではないが)活躍し始めているセルゲイ・ヴィノグラートフの劇団にも呼ばれて、ナボコフ原作の『マーシェンカ』を見られたのも幸運だった。亡命ロシア作家のノスタルジックな世界が現代モスクワに甦ることの不思議さを感じさせる芝居だった。それから、モスクワ留学中の若い友人たちの案内で、マヤコフスキー劇場では定評あるフォメンコ演出のトルストイ『文明の果実』を、またタガン力劇場ではあのリュビーモフ演出の新作『エヴゲニー・オネーギン』を見ることもできた。

というわけで、様々な縁と導きのおかげで、ぼくのモスクワ劇場通いはなかなか充実したものになったのだが、その中でも白眉はなんといっても、ここまでまだ名を挙げないでとっておいたポクロフ力劇場である。これまた、この劇場の熱烈な支援者かつ宣伝者である山之内重美さんの勧めのおかげで見ることができたのだが(なにしろこの劇場は座席が六〇くらいしかないので、たとえモスクワに暮らしていても切符を普通のルートで手に入れることは絶望的に難しいらしい)、ぼくにとってはモスクワ生活のもたらしてくれた大きな発見の一つだったと言ってもいい。
 

ポクロフ力劇場の芝居は、じつは六月に阿部義弘さん率いる観劇グループの皆さんとごいっしょに見させていただいてゴーゴリの『結婚』に強い印象を受け、できればもっと見たいと思っていたのだが、機会がなかなかなかった。その後、秋の演劇シーズンが始まってからやっと『検察官』を見ることができ、これには『結婚』以上にびっくりしたのだった。正直なところ、見に行く前には、ゴーゴリのあまりに有名な作品だけに、いくらアルツィバーシェフといえどもそんなに目新しいことはできまい、とたかを括るような気持ちも少々あったのだが、これは予想を越えて新鮮な演出だった。
 

ポクロフ力劇場の『検察官』は、古典のテクストを尊重しながらも(アルツィバーシエフは現代の前衛的な演出家にありがちな、恣意的なテクスト改変はしない)、ゴーゴリの時代と現代ロシアの混乱した世相を重ね合わせ(しかし、まあ、それだけだったら、これまた古典の現代的解釈ということで、それほど珍しくはないのかも知れないが)、斬新で大胆な趣向を随所に凝らしながらも、無意味な実験のための実験には走らず、なんといってもそのすべてを底力のある俳優たちの演技が支えている―そんな愉快で手応えのある芝居に仕上がっていた。特に市長役を演ずるアルツィバーシェフの生臭いまでの人間的手応えが並大抵のものではなく、この芝居の唯一の「欠点」と言えば、アルツィバーシェフの存在感が際立ちすぎて、フレスタコフ役に影が少し薄くなってしまうことかも知れない、と思えたほどだった。
 

そして、大団円の趣向がまた意表をつく。『検察官』の最後は、あまりに有名な「だんまり」の場面。これを実際にどう演出するか、歴代の演出家たちが頭を悩まし、技を競いあってきた。メイエルホリドなどは俳優を人形にすりかえるなどというトリックまで案出したほどだが、アルツィバーシエフはそれに勝るとも劣らない、あっと驚くような解決法を編み出したのだ。それは…… いや、ここで説明してしまっては興ざめなので、日本公演を見てのお楽しみ、ということにしておきましょう。『検察官』を見たロシアの観客の感想の中には、「ゴーゴリここにあり!」というものがあり、それに応じて別の一人が「そして私は彼を見た!」と書き加えているのが面白かった。この感想はぼくもポクロフカ劇場の『検察官』を見て、ゴーゴリという作家に初めて出会ったように感じられたからだ。

(東京大学助教授 ロシア・東欧文学)
  
このページの掲載物は「ロシア演劇2002」(2001年2月22日発行)によります。
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2001年ポクロフカ劇場来日公演プログラムより
ポクロフカ劇場「結婚」の一場面
  
 
 
 
 
 

           2001年ポクロフカ劇場超来日公演プログラムより

ポクロフカ劇場「検察官」より