劇作家としてのブルガーコフ 
 
 
 
 
 
 
川端香男里


  死後刊行された大作『巨匠とマルガリータ』で20世紀ロシアを代表する小説家の一人と考えられているミハイル・ブルガーコフは生前ソ連では主として劇作家として知られていた。医学部を卒業し、医者としてのキャリアーもあるが、ロシア革命後の混乱の中で、文筆の世界に入る。ジャーナリスティックな仕事から入り、やがて『悪魔物譜』など幻想的なSF的要素をたっぷり含んだいくつかの風刺小説や長編『白衛軍』の一部を1920年代に発表する。ところがいずれもソビエトの現実に対する「露骨な敵意を表明している」と批判され、反ソ的傾向の作家という烙印をおされる結果となった。
 

しかしゴーリキイを初めとしてブルガーコフの才能を評価する人は多く、『白衛軍』を基に書かれた戯曲『トゥルビン家の日々』が1926年モスクワ芸術座で上演されて、芸術座の歴史上『かもめ』に次ぐ大当たりをとった。
 

私事にわたるが、私のロシア語の最大の師であった野崎詔夫先生に、手をとるようにして教えていただいた最初の文学作品がこの戯曲であった。若き日にソ連に留学され、モスクワ芸術座の人々と親交を結ばれた先生にとっては、思い出のたっぷりこもった作品だったにちがいない。もっともこのソ連の芸術家との交友が、後にシベリアに抑留された時スパイ罪に当たるとされ、モスクワ芸術座関連の資料を全部没収されてしまったとのことであった。ソ連の秘密警察はそれらの資料を見ながら「こんなに内部に食い込んでいたのか」と言ったそうである。当時の日本の青年のソ連芸術に対する憧れについて説明しても、まったく聞く耳をもたなかったと先生は嘆いておられた。そのような辛い経験をされたが、野崎先生は戦前戦後を通じてまさに文化の面でのロシアと日本の架け橋になられた方であり、ロシアの演劇やバレエの日本における普及に最大限に貢献されたのである。
 

「トゥルビン家の日々」の評価は高かったが、公式筋からは反革命陣営に同情的であるとみなされ、続けて書いた戯曲も次々と上演禁止になるという憂き目に会う。思い余ったブルガーコフはスターリンに手紙を書いた。今風に言えば、金成日そっくりの自己流芸術愛好者であったスターリンはブルガーコフに直々に電話をかけてきて、その結果1930年から1936年までモスクワ芸術座で仕事ができるようになる。この間芸術座でゴーゴリの『死せる魂』の上演台本を書いたが、このアダプテーションは大成功で、1932年に再演された『トゥルビン家の日々』とともに、劇作家としてのブルガーコフの名はこの時期に頂点に達した。
 

ついでに言えばこの『死せる魂』のブルガーコフ台本は世界的にも高い評価を受けており、日本でも大分前のことになるが、東野英治郎や永井智雄などが演じて評判になったことがある。まだ私が学生だった頃の話である。
 

1936年に終止符を打ったモスクワ芸術座との関係を、ブルガーコフは物語『劇場』で一種の悲毒劇として描いている。この間劇作そのものは允実していて、『モリエール』(1930)や『アレクサンドル・プーシキン』(1935、のちに『最後の日々』と改題、死後1943年芸術座で上演)などを書いている。芸術座を去ったのち、ボリショイ・オペラの台木を書いたり、ヴァフタンゴフ劇場のためにセルバンテスの『ドン・キホーテ』を脚色(死後の1941年上演)したりしたが、最晩年は『巨匠とマルガリータ』の完成に全力を捧げた。
 

最初にも書いたように、この長編小説でブルガーコフは文学史上不朽の位置を得たのであるが、その作品が劇化され上演されることになった。もともとこの小説は小説としても形破りの作品で、劇的な要素がふんだんにとりいれられているから、舞台上でこそブルガーコフの書きたかったことが表現でき、彼のメッセージが観客に伝わるかも知れない。
 

(東大名誉教授・川村学園女子大学副学長・ロシア文学)

このページの掲載物は「ロシア演劇2002」(2002年11月1日発行)によります。

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ユーゴザーパド劇場「巨匠とマルガリータ」