書評 「ロシアを友に」
 
 
 
 
関 きよし

 
 
 

宮沢俊一くんが亡くなったのは、2000年2月24日であった。だからその約半年前のこと、「悲劇喜劇」誌九九年7月号は「いま、チェーホフは」というタイトルの特集を組んだ。執筆者のひとりに宮沢の名が予告されていたはず。なのに掲載されていない。体調がよくないことを察してはいた、がその時は彼がチェーホフを、いまどうとらえ最近の演劇をどうみているか、ぜひ知りたかったぼくは拍子抜けした。そしてそれはずっと続いた。
 

さて、この六月に刊行された遺文集『ロシアを友に』の、編集後記を島田進矢さんが書いている。その一節には「生きている間にチェーホフ短篇集が出ていれば、この遺稿集に『広津和郎はチェーホフをどう読んだか』という文章が加わっていたことは確かです」とあるのに、ぼくはハッとした。広津は「私はこの作家を『臨終に思い出す作家だ』と云ったことがある。いよいよ死ぬ時になって、若し人生の総経験、総体の姿が、一瞬の間に思い出されるものであったら、その時、太陽・月光、空気、青空、それから肉親や愛人などと共に、チェーホフの蒼白き笑いが浮んで来るかも知れないと思う。その位、私の心にこびりついてしまっている」と書いた。宮沢を広津と重ねて見るのは早計であろうが、ぼくがやっぱりと思ったのも事実だ。島田さんは「宮沢氏はおそらく広津和郎の読み方、付きあい方を、今一度わたしたちの前に呼び戻そうとしたかったのではないでしょうか」と書きとめて、宮沢への深い理解と愛情をしめす。
 

宮沢俊一は東京生まれ、戦後間もなく早稲田大学文学部でロシア文学・演劇を学び、劇国民藝研究所で久保栄らに師事、1963年に十人で劇団群像座を創立、演出家として本格的に活動を始めた。ぼくはその頃知りあう。1970年からモスクワの出版社に勤務。
 

1976年12月帰国。六七歳で亡くなるまで、ロシア文学の教師・翻訳刊行の傍ら、上演台本の翻訳から演劇人の交流に尽力した。
 

彼自らの著書がこれまでになかったのはふしぎだが、それは三〇年にわたる彼の仕事が、業蹟を目的とした研究者の論文発表や外国文化の探訪観察記録ではなく、その時どきの人・作品・劇場との出会いそのものを、かけがえのない大事なものとしたからであろう。巻末に劇作家ゲーリマンはいう、「彼はその生涯をロシア文学の最良の作品を日本の人々に紹介することに捧げ、ロシアの多くの演劇人が日本を訪れ、芝居を上演するのに力を貸した」と。
 

三五〇頁のこの本の最初の頁をひらくとモスクワ略図があり、主な劇場のある通りや広場が描かれる。それは彼が何百回と歩いた所であり、日本からの訪問者が通った道である。そして、一九七七年の『モスクワ劇場通い』――「モスクワの人たちは、実に芝居好きだ。誰とでも芝居の話題に花を咲かせることができる。市民の文化生活の中に、劇場というものがしっかりと根をおろしているのだ」とはじまる。七七年のソ連はブレジネフ書記長が国家元首を兼ねたきびしい検閲の時代、その中で表現の拡大のためにたたかう四つの劇場とリユビーモフや工ーフロスら演出家との出逢いを書く。タガンカで「舞台的構造とは、美術、音楽、効果、演技(声と動き)とによって構成される象徴的な環境である」と演出家としての目と耳で新しい発見におどろきをかくさない。
 

そして「工ーフロス劇の緊迫感は、他の劇場には見られない不思議な強さと魅力を持っている」と注目する。工ーフロスとは生涯交流をつづけ、とくにチェーホフ劇の見方に強い刺激をうけ、のち『桜の園』日本上演を実現させた。
八○年の『ロシア演劇小史』は三〇頁ほどの簡略なものだが、ぼくには“目からうろこ”であった。十八世紀半ばからのロシア演劇の歴史は短い、「わずか一世紀半ほどの間のたくましい創造力の秘密はどこにあるのか?」と著者は自らに問いかけ、十九世紀末チェーホフは「それまでにないスタイルで人間の微妙な内面生活を描く作家」として現れ、「まったく新しい芸術観、演劇観に立つ劇場によって、初めて正しくその本質を観客の前に見せることが出来た」と書き、そこに現代ロシア演劇の源流があることを確認させる。
 

やはり、いま宮沢がチェーホフをどうよむかがいちばん気にかかる。この本をよむことで想像がいっぱいにひろがるようだ。

(演出家)

このページの掲載物は「ロシア演劇2002」(2002年11月1日発行)によります。


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宮澤俊一遺文集
『ロシアを友に』