ベリャコーヴィッチの『かもめ』
 
 
 
 
楯岡 求美 

 

シェイクスピアの作品を上演するのに斬新な手法で演出することはあたりまえのことになった。最近でも、黒人を起用したピーター・ブルツクの『ハムレツト』や、ぺーター・シュテイン(ロシアの劇団を演出)のサックスを吹くハムレットが評判になった。しかし不思議なことに、ポストモダンさえ去ろうとしている現在において、近代演劇の古典、チェーホフはオーソドックスに演出されることが、ロシアにおいてもまだまだ一般的である。
 

そんななか、ユーゴ・ザーパド劇場の「かもめ」のオープニングには誰しも、驚樗させられるに違いない。掟破りなのである。
 

ベリャコーヴィッチお得意の半闇のなかで、スポットライトが光の道を斜めに薄っすらとつくりだす。そこをトレープレフが、上半身裸に黒いスパッツをはいて踊りながら登場するのだ。それだけでも異様な雰囲気なのに、トレープレフがなにやらブツブツと強迫症のように呟いている。よくよく耳を澄ませると、「わたしはカモメ、わたしはカモメ」と繰り返しているではないか! それはもちろん終幕で彼の元の恋人、哀れな二―ナが繰り返すはずの『かもめ』という戯曲の象徴となっている決り文句である。それはないだろう、と観客は見ながらおもわず口走ってしまう。
 

『かもめ』はしばしば『ハムレット』に擬せられる。ハムレットのセリフが引用されていたり、演劇論が展開されたりするだけでなく、作品の人間関係も似ている。アルカージナと成功した作家トリゴーリンに対するまだ無名の作家トレープレフは、ちょうど母と王位をクローディアスに取られたハムレットになぞらえることが出来る。
 

ハムレットのような凛々しさを持ち、芸術の新しい形式をいかなる妥協もすることなく真撃に探求する理知的な好青年、というこれまでのトレープレフのイメージに対し、ベリャコーヴィッチのトレープレフはどうもか細さ、か弱さが目立ってしまう。最初の半裸での登場も、セクシーさというよりは、弱さをまったく無防備にさらけ出してしまっている。怖いぐらいに感受性が強く傷つきやすそうな青年だ。
 

たいして二一ナはとてもアクティヴで上昇志向が強い。ひ弱なトレープレフなど最初から眼中にないといったふうなのだ。彼女は、既に名声を得たトリゴーリンを、トップヘ上る手がかりとみて、飛びつく。彼女にとってトリゴーリンさえ、自らの栄光へのステップでしかない。
 

純粋ゆえに傷つきやすく、暗い底の方へ落ちていく青年と、輝く世界をめざして大胆に、そして颯爽とステップを踏んでいく若い女性の対比は、好景気に沸くモスクワの隠された部分を剥き出しにしている。それは触れれば痛みを感じるほど柔らかな部分である。
 

本物の芸術家というものは時代に敏感に反応する。それは、時代を読むというのではなくて、眼に見えない、もっと深いところを流れる波動のようなものを感じとるということだ。ベリャコーヴイッチもそうしたひとりだが、彼はただ感じるだけではない。そこに人々が感知しない不安をもまた剥き出しにし、軽やかな時代のノリに拮抗し、立ち止まろうとする芸術家魂をもっている。圧倒的な力で押し寄せる時代にたいし、これほどまでに不安と無力感を隠さないハムレット的な『かもめ』があっただろうか。
 

『かもめ』のテクストを一見解体するかのような手法を用いながら、ベリャコーヴィッチは人々の弱さを見抜くチェーホフの冷徹な視線を現代に甦らせた。しかし原作同様、人を裁くことなく、最後の悲しみまでともに見届けるというやさしさもまたそこにあるのだ。

(たておか くみ・神戸大学助教授・ロシア演劇)

このページの掲載物は「ロシア演劇2002」(2002年11月1日発行)によります。

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ユーゴザーパド劇場「かもめ」

トレープレフ役(ザドーヒン)とニーナ役(ドウイモント)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ユーゴザーパド劇場「かもめ」

ニーナ役のドウイモント