大地監督よりも庵野監督向きの理由

 『りりかSOS』や『こどものおもちゃ』(以下『こどちゃ』)を監督した大地丙太郎という人がいる。明らかに『こどちゃ』に近いということで、この『カレカノ』は「大地監督の方が向いているのではないか」という意見をよく耳にする。かくいう私も、原作を初読している最中に「大地さんでもいいなぁ」と思った身であるからこの意見が出てくるのは非常によくわかる。しかし、原作をしっかり読むうちに「これは庵野監督でないとダメだ」と思い直し、今ではきっぱりとそう思っている。

 まず第一に、「少女漫画テイストは大地監督向きか」ということがある。『カレカノ』の原作は学園内のテンションの高いギャグやアクションが多く、確かに『こどちゃ』と類似しているが、『カレカノ』ははるかに心理描写を重視している純然たる少女漫画である。バックに花びらが敷き詰められる世界である。そういう世界を大地監督がテレもなく真剣に描けるかというと、「できる」と自信を持って言えない。『こどちゃ』でも中学生編から恋愛面がクローズアップされ確かにストーリーは少女漫画になったが、では少女漫画のフィルムにしあがっていたかというと、そう感じた回は2話程しかない。庵野監督向きかどうかともかく、大地監督向きではないと思ったのはまずそれがあるからである。

 庵野監督向きの理由というのは、過去の『ナディア』『エヴァ』という作品と同じく、「自分探し」「自分を認め、好きになること」がテーマになっているからである。

 最後に、作品作りのスタンスの点。先の「自分探し」のテーマであるため、明らかに自己の内面を探究する作風、つまり「一人称」の庵野監督に合っていると思わざるを得ない。大地監督は「いついかなる時も前向きに」が心情であり、どんな時でもとりあえず行動してみようといった作風である。そのため主人公が落ち込むことはそうなく、落ち込んだ人を主人公の元気が励ますといったシチュエーションが多い。そういう意味では「二人称」である。また、主人公が落ち込んだ時にしてもかろうじてのラインがあり、とことんまで深刻になることもなく、またそう見えるような表現も「前向き」という心情のため、しないのである。

 以上のように、「個人の心理描写を追っていく少女漫画のアニメ化」というわけで、私は庵野監督で大正解だと思うのである。きっと見ていくうちにわかってもらえることだろう。


 

原作モノではなくアニメとして

 この『カレカノ』の原作は少女漫画でありながら男性でもすんなり読める内容で、原作が面白いということもあり、ファンは多いようだ。そうすると当然読み手一人一人が、『カレカノ』に対しての個人のイメージを持つようになる。原作モノのアニメ化というと、やはり原作ファンに向けてという印象が強く、原作をいかにそのままアニメに置き換えるかという感じで、当たり触りのないように作られてきたという印象がある。いわゆる没個性のものである。

ところが庵野監督は自分なりのアプローチを模索しつつ、自分なりの表現方法で真剣に『カレカノ』を作り始めてしまった。個性豊かに仕上げてしまったのである。

それが理由の全てではないだろうが、放送が始まってからやれ「原作と比べてどうのこうの。原作の感覚と違う」だのの意見を聞くようになった。もちろんこれは原作の面白さも手伝ってそう言われてしまうのだろうが、しかし何かぜいたくなような気がする。没個性の原作モノでは「アニメ作品としてどうか」というよりも「アニメ化する際に、うまいかヘタか」という部分で見られるのみであろう。実際、過去の…といってもここ数年は大量にある原作モノのアニメ化作品で、「原作と比べてうんぬん」とはほとんど言われてこなかったろう。最低限ちゃんとやっているかどうかだけで、あとは「原作のキャラが動く。喋る」という部分で付加価値を見い出していただけではなかったか。

そういうわけで個性的にしてしまった場合、「うまいヘタ」に加え「フィーリング」が合うかの感性の部分まで問われてしまうので、いろいろ言われてしまうのはある意味しょうがないのだろうが、大事なのは原作と比べてどうこうよりも「アニメ作品としてどうなのか」ということではないだろうか。それこそ原作を知らない人間が見た時に、「このアニメ面白いよ!」と思ってもらえるか、そこがアニメ作品としては重要であろう。

考えてみれば、名のある個性的な監督が、まだ連載中の人気漫画に目をつけてTVアニメ化するというのは初めてのことである。(確認はとっていないがたぶんそうだろう)そんなわけで、原作ファンにしてもかつてない状況にあるのだから、そのフィーバーぶりやアニメに対する接し方などもまだ未知のものであるだろう。しかしどんなに原作に思い入れがあろうとも、アニメはアニメで単独で評価する視点をどうか持ち続けてほしい。


 

エヴァをふまえ、そしてその先へ−

 この作品、特に第1話は『エヴァ』を意識した、もしくは類似したカットが多い。明らかにパロディ的、お遊び的なカットに関してはそうであるのだろうし、度を越したものでなければ楽しんでもいいだろう。実際、自分で自分の作品のパロディを盛り込むなんてよっぽどの自信と余裕がなければできないことだ。

あとは、文字を活用したり、挿入される短い風景のカットだとか、何もない背景での人物描写であるとか、そういう『エヴァ』的部分である。これはまぁ、同じ人間が作るのだから手法的な部分で似てくるのは仕方のない面もあるだろう。大事なのは、そういう部分は真剣にやっているのであり、パロディ的部分と同じ感覚で『エヴァ』っぽくなっているわけではないということ。ガイナックス作品ではパロディ部分はあくまで付加価値やおまけだったわけで、「ガイナックスのやること」=「パロディ」などとは絶対に思わないでほしい。

 

もう一つ大事なことがある。これは『カレカノ』のテーマ部分が『エヴァ』と似ていることもあるのだが、エヴァで培った技術、手法、経験が、しっかりと反映され、実を結んでいるということだ。人間なんてそう変わったり、そういろんなことができるわけではない。作品が変わるたびにやることが変わるなんて普通に考えればないのである。だいたい名のある人が次回作を作ると、「今度はここが新しい」といったことを宣伝したり見られがちだが、前回の経験の成果というのも吟味してみるべきではないだろうか。

エヴァは終わったが、エヴァでの経験が庵野監督やスタッフから消えたわけではない。もしそういう状態ならば、長い目でみれば「エヴァは無駄だった」ということになりかねないのだ。しかしそうではなく、確実にエヴァをふまえ、それで得たことを次回作で活用できているというのは感心すべきことであり、一ファンとしてはとても嬉しいことである。

そしてその手法を研ぎ澄まし、模索し、作品を作り続けるなかで新たな手法が身についていけば、ファンとして多いに歓迎すべきことであるはずだ。


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