「本当の自分」とは何か

この作品では何度か「本当の自分」という言葉が登場する。

しかしこれは最近はやりの「自分さがし」、本当の自分がどこかにいると勝手に思い込み、現実を認識しないでいつまでも心をふらつかせているようなものとは違う。

奇しくも、「エヴァ」「ラブ&ポップ」と似ることになるのだが、本当の自分とは文字通りの正確なとか本物といういうことでなく、「自分で認められる自分のこと」、つまり「好きな自分」のことを言うのではないだろうか。

 人は自分で自分を作る。「自分」を定義するのも自分自身で行うのである。まさか、「ねぇ、これって本当の私だと思う?」と本気で他人に聞く人間もいないだろうし、その返答を鵜呑みにすることもないだろう。もちろん「私これでいいのかしら?」と他人の判断を仰ぐことはよくあることだし、他人に認めてもらうのも「自分」を作る上で大事な糧となるが、それだけに依存するのは危険である。まして他人の判断で自分を納得させている人間が「これが本当の自分だ」と言ったところで説得力はない。最終的に決めるのは自分自身であるし、自分で決めた、判断したものが自分の評価になるのだ。

 だから本当の自分とは、評価できる、満足できる自分のこと。当人にとって自分の好きな「自分」こそが、嘘偽りのない自分ということになる。有馬も宮沢も、相手に好意を持つと同時に、相手を想う自分が好きになれたのだ。

「本当の自分」とは、「自分で自分を好きになれること」
その状態のことを言うのである。


 

カレカノを語る時に

 今さら言うのもなんであるが、このカレカノは原作の漫画をアニメ化したものである。キャラクターもストーリーもセリフも、今のところみな原作通りである。そのためこの作品について語る場合、その点を考慮しなければならない。

 つまり、キャラクターの行動であるとかセリフなどを批評した場合、例えアニメを見てのものであってもそれは原作に対する批評になってしまうのである。アニメを見て「こんな事を言う主人公は嫌い」と思っても、それは原作通りなのだからそちらに言うべきことで、アニメに言われてもスタッフは困ってしまうであろう。

 アニメについて語る場合は、アニメにおける技術的なことや、何を取り上げ何を削ぎおとしたかなどの、方法論や原作に対する認識や受けとめ方についてのことなどであれば問題ない。そういうことは「原作をアニメ化する」という作業、仕事に対しての評価になるのだから。

 もちろんアニメしか知らない、見てない人間にとっては「アニメ版カレカノ」が全てであるから、そこに言葉がいくのは仕方ない。ただ言葉を投げかけた先が何かは意識した方がいい。単純にアニメに文句を言うのか、その向こうのスタッフに言うのか、原作に対する意見なのか。当たり前のことと思うかもしれないが、実際に作品に対して無知の状態では難しい場合もある。そういう場合は単純に自分の感覚でいいか悪いか等、評価するしかない。元々その作品に対して知識がないのだから、それで全て語ろうということ自体が間違いなのである。そういう場合において、キャラやストーリーについて論じてしまうのが、実は「原作の評価」になってしまうわけであり、それでアニメを語ってしまうのはまずい。

 だからこそ、先程述べた「自分の感覚での[作品]の評価」が大事なのである。それは直感的に生理的に、なおかつ公的な視野でありながら「面白いか否か」と評価することである。

原作物のアニメが面白かった場合、それは原作が面白いからなのか?

原作物のアニメがつまらない場合、それは原作がつまらないからか?

違う。

それはアニメが面白いからであり、アニメがつまらないからだ。
常に何を評価するのかと、どこを評価するのかは別物として考えなければならないのである。


 

監督という職業

庵野監督最新作のこの作品であるが、監督が脚本のみで絵コンテ、演出を担当せず、あまり関与してないのではないか?と思っている人がいるようだ。しかしそんな事はない。そもそもアニメの監督がどんな事をするのか、思いつく限りあげてみる。

・スタッフの決定  ・キャラクター、メカ、背景、舞台設定などあらゆる設定のデザイン、色指定などの傾向を決める ・同、最終的な決定の責任 ・音楽の発注(どのような曲調にするか等)・声優の決定 ・番組のシリーズ構成の決定 ・番組一話における内容の決定(アイキャッチなど) ・先の展開における必要なことの準備(新たなBGMやデザインの発注など)

などなど、上げればきりがない。もちろんこれを全部一人でこなす監督はアニメ業界でも数人しかいないだろうが、これだけあれば、さすがにその作品は監督のものといえるのではないだろうか。つまり、放送されるまでの下準備の期間が監督が一番腕を奮う時期といえるのである。実際に現場で働くだけでなく、現場を取り仕切るのが監督というものだ。

 実際、それとは別にカレカノでは庵野監督は音響監督という立場でもあり、アフレコ時に自ら指示をだし、音楽や効果音をフィルムに加えていくミックスダウンも自ら行っている。ほとんど全員素人でありながら、その場の雰囲気がちゃんと伝わる声優の演技や、細かいまでの効果音の付け方に私は庵野氏の監督としてのこだわりを見るのだが、いかがなものだろうか。


 

原作者、津田雅美さんのこと

 これはアニメとは関係ない話で少々脱線した内容の文である。

 まずはじめに、これは「嫌味を含んでいるのか?」という疑問を承知で言うが、
「津田雅美さんはハッピーエンドを描かせたら天下一品である」

 当然、それしか出来ないのでは?みたいな批判もくるだろうが、その「ハッピーエンドを描く」ということに関して語っておきたいことがある。

 カレカノの原作を読んで、まさかこの先有馬と雪野が別れるなんてことは想像しないだろう。それ以外の人物についても不幸になったり問題が解決しないのではないか? と心配することもまずない。つまり、もめ事が発生してもそれはきっかりと、誰が迷惑をこうむるでもなく収束していくとわかるのである。

ではそれがみえみえでつまらないか、といわれるとそんな事はない。そここそが津田雅美さんの真骨頂ともいえる部分である。まず、もめ事の原因と理由がわかりやすく導入に違和感がない。そしてそこから解決されていくまでの過程の、心理描写、人物の行動、事態の展開が非常に納得のいくものであるのだ。本来ハッピーエンドに向けて話を作ると、力量のない人間の場合「ご都合主義」のみの作品になってしまう。たとえ人間の作る創作物だとしても、「作り物」という感覚しかなければそれでは読者は満足しない。

 その点において重ね重ねいうようだが津田さんは非常にうまく、さも発生した時はそんな風に解決するとは予想だにしなかったのに、結果をみれば、まるでこの結末を迎えるために事件が起きたかのような気さえしてくる。

 カレカノで言えば、両想いになった有馬と雪野、真秀と芝姫と同時に仲直りした話、芝姫の父の再婚話の和解等がそうであろう。アニメ版が4月で終了しても、原作は続くと思われるので今後も期待するとともにがんばってほしいものである。


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