喫煙と非喫煙そして禁煙


 このページをたばこを止めることのできる情報が掲載されていると思い、訪問された方には、まずお詫びします。まだ、そのような情報はこのページにはありません。私の考える「禁煙」とは、喫煙者にたばこを吸うことを一時的に止めることを促すことです。喫煙者がたばこをやめて吸わなくなることは「絶煙」「断煙」とでも呼びましょうか。

 そして、煙草を吸う人は喫煙者ですが、煙草を吸わない人を禁煙者というのは、正しい表現ではないと私は考えます。正しくは、非喫煙者ではないでしょうか。喫煙者であるが、禁煙を求められたり、喫煙が出来ない場所であるからそれに従って禁煙をする人間を禁煙者と呼ぶべきなのではないでしょうか。

 喫煙をしない人は、喫煙に対してどのような感情を抱いているのでしょう。その感情がこのページでかなり紹介されることになると私は想います。しかし、「個人の自由だ」と喫煙者は主張することが多いようです。個人の自由は尊重されるべき事ですが、それが認められる場での主張でなければ、発言者の品位が下がってしまいます。煙草を吸うことをとがめられると、あやふやにしてみたり、開き直ったり、訳の分からない理屈を言い出すことも人格や人間性を疑われる要素と言っても差し支えなでしょう。

 では、煙草を吸うことが本当に罪悪なのでしょうか、私にはその答えがありません。身勝手な男性喫煙者は、自分の喫煙は棚に上げて、女性の喫煙に対しては、「許せない」と主張することも多いようですが、私は「?」疑問を感じます。男が良くて女がダメというその意見も、人格や人間性を疑いたくなります。

 「愛煙家」と言う言葉がありますが、その言葉の真意は何なのでしょうか、文字が示す内容を想像し善意に解釈した場合には、「煙草を愛して、酒肴品としての楽しみを味わう人」 それなら私は、愛煙家を認めても良いのではないかと思います。しかし、盲目にただ大量の煙草を必要として生きている人を「愛煙家」と呼ぶようなことになるのであれば、煙草の撲滅も必要ではないかと考えます。

 私は個人的に煙草の煙と共存共栄を望む者ではありません。しかし、煙草を必要としている人でも、煙草を上手に吸う人は友人としてつきあっていきたいと思っています。

 煙草を吸うという行為により、喫煙者は自分の人格の一部を露呈していると言っても過言ではないでしょう。歩きながら吸う、どこにでも灰を捨てる、吸い殻も捨てる。禁煙して居場所でもかまわず喫煙するなどの行為は、やはり品位のかなり低いレベルの人格や人間性と受け取られてもしかたないでしょう。しかし、煙草を吸わないからといって、高尚な人間であるわけではありません、空き缶やガムや紙屑をどこにでも捨てるようでは、レベルは同等と思われても仕方ないわけですが、喫煙者は目に付く事と、無意識にという潜在性を露呈しているが故にかなり根の深い問題でありそうです。

 現在私が考えている喫煙、非喫煙、禁煙について書いてみました。


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