太宰治のエピソード



その1 斜陽館
 太宰治の生家・津島家は県内屈指の資産家だったが、父親が新築した家は約600坪の宅地に1階11室154坪
 2階8室、100坪で、小作争議に備えて高さ4メートルのレンガ塀に囲まれていた。
 津島家の意向で、周囲には役場、警察署、銀行、郵便局、小学校、医院などが集まり、町の中心街を形成した。
 戦後この家は人手に渡り、太宰治の代表作『斜陽』から名前をとり「斜陽館」という旅館になった。
 その後、金木町が買い取り、平成10年に太宰治記念館「斜陽館」としてオープンした。

その2 思い出
 中学1年生の国語の時間、教師が突然「花子さん」という小説を皆に読んで聞かせた。生徒達は聴きほれ机をたた
 き涙を流して感動した。読み終えて教師は、その作者が同じ1年生の津島修治(太宰治の本名)であると告げた。
 同級生の思い出である。

その3 天性の才能
 高校時代、太宰治は創作活動と芸者遊びに熱中していたから、勉強はほとんどしなかった。          
 しかし、課題英作文だけは別で、天性の才能を発揮しイギリス人教師の絶賛を浴びた。
 その事について、太宰治は『猿面冠者』で書いている。

その4 短編の名手
 太宰治のペンネームで作品を発表した期間は、15年間。発表した作品は、随筆・評論を除き、連作ものの「新釈
 国噺」と「お伽草子」を各1作とすると141作もあり、意外に多い。
 作品数が多いのは、「短編の名手」とも呼ばれた太宰治であるから、そのほとんどが短編だからである。

その5 芥川賞
 太宰治は当時制定されたばかりの芥川賞を欲しくて欲しくて、仕様がなかった。第1回では「逆行」が第3回では
 「晩年」が候補にあがったが、結局受賞出来なかった。選考委員の川端康成と佐藤春夫に哀願したりなどの茶番ま
 で演じている。
 受賞したかった理由は、大学を卒業出来ず、就職に失敗したせめてのもの罪ほろぼしと考えた郷里へのおわびと当
 時太宰治はパビナール中毒のため、薬屋と友人などへの借金がかさんで首が回らない状態であったので、賞金の
 500円が欲しかった。

その6 金の卵を抱いている男
 太宰治が住み始めた頃の三鷹は、現在とまるっきり違い商店も近くになく、上下水道もないような田舎であり、家
 で使用する水を一日何度も運んだりしなければならなかった。一家の主ともなれば、そういった力仕事や大工仕事
 など、女手にあまる仕事がたくさんあったのに、太宰治は一切手を出さなかった。
 美知子夫人は、そういった太宰治に「金の卵を抱いている男」と心の中であだ名をつけていた。いつもいくつかの
 小説の構想を、めんどりが卵を暖めている時のように、じっと抱えて、家事には全く手を出さず小説を生み出す事
 ばかり考えていたからである。


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