人間失格



  私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
  一葉はその男の幼年時代、とでもいうべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女
 のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから従姉妹たちかと想像される)庭園の池のほとりに、
 荒い縞の袴をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く?けれども、鈍い人たち(つまり、
 美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
 「可愛い坊ちゃんですね」
 といい加減なお世辞を言っても、まんざら空お世辞に聞こえないくらいの、謂わば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその
 子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ
 「なんて、いやな子供だ」
 と頗る不快に呟き、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。

 
  ○新潮文庫のロングセラーでも1位ですから、一番有名な作品ですね。太宰治の自叙伝的な小説と言われており、太宰治
   の遺書と感じた読者も多いのではないのでしょうか。
   写真を見たという男のはしがきから、主人公である大庭葉蔵の手記という形で構成されています。
   太宰治文学の総決算とも言われており、奥野健男氏は「不朽の傑作」「太宰治の全作品が消えても、『人間失格』だけ
   は人々にながく繰返し読まれ、感動を与え続ける、文学を超えた魂の告白と言えよう。」とまで評しているほどです。
   また『斜陽』を痛烈に批判した、志賀直哉でさえ『人間失格』は否定していないそうです。
   何年か前、赤井英和主演の「人間失格」というテレビドラマが、太宰治の妻、美知子夫人からの抗議により、タイトル
   を「人間・失格」と変更したのは記憶に新しいところです。
   最近、美知子夫人の遺品から『人間失格』の未発表の草稿が発見され、創作過程を示す第一級の資料と指摘されており、
   これからの更なる研究が望まれます。

 
  ○『人間失格』の中で印象に残った言葉。
   恥の多い生涯を送って来ました。

     めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞こえませんでした。
     つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、という事になりそうです。
     自分には、禍いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が背負ったら、その一個だけでも十分に隣人の命取    りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。
     そこで考え出したのは、道化でした。    それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。
     人間は、お互いの不信の中で、エホバも何も念頭におかず、平気で生きているではありませんか。
     自分には、人間の女性のほうが、男性よりも数倍難解でした。
   何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意、二度と来ないかもしれぬひとへの好意、自分には、その白痴か狂人の淫    売婦たちに、マリアの円光を現実にさえ見た夜もあったのです。
   世間とは、いったい何の事でしょう。人間の複数でしょうか。
   神に問う。信頼は罪なりや。
   果たして、無垢の信頼心は、罪の源泉なりや。 
   神に問う。無抵抗は罪なりや?
   いまは自分には、幸福も不幸もありません。    ただ、一さいは過ぎて行きます。
 
  ○私は『人間失格』を今までに5回読みました。読めば読むほど良い作品に感じられます。
   一番最初に読んだのは、高校生の頃でしたから、もう20年くらい前の事です。当時の印象は「何て変な作品だろう」
   です。この作品にはよく「暗い」イメージを抱くようですが、私は明るい学生生活を送っていたせいか(それなりに悩
   みはありましたが、楽観的な性格なのかもしれません)、暗さは全く感じませんでした。
   最後の方の「カルモチンじゃない。ヘノモチン」という部分だけ、妙に印象的で、頭の中にずっと残りました。

   その後社会人になって、それなりに辛酸をなめ、生死の瀬戸際に立った際に読んだ『人間失格』は効きました。私こそ
   人間失格ではないかと思いました。『人間失格』に限らず、太宰治の作品の言葉一つ一つが、心の中に刺さるようでし
   た。太宰治は、どうして自分の気持ちをわかるのだろうと思いました。太宰治にハマる誰もが思うように「太宰治を理
   解出来るのは、自分だけだ」とさえ思いました。

   しかし、その後太宰治及び解説本を読み進めていくうちに、「自分しか理解できない」という誤解は誰しも抱くものだ
   と悟り、また「太宰治は決して暗くない」と確信するようになりました。平成10年に『人間失格』の草稿が発見され、
   太宰治がいかにして『人間失格』の中で「大庭葉三」の人格を作ろうとしていたかを知り、『人間失格』は太宰治の一
   生と重ね合わせて読むから「暗く」感じるのであって、そうでなければ、面白い小説ではないかと思っています。

   最近思うのですが、主人公の大庭葉三は「人間失格」というほどひどい人間ではないような気がしますし、太宰治が何
   故、大庭葉三が退院したところで話を終わらせたのか、不思議です。
   過去の自分に対する決別みたいな意識があったのでしょうか。


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