管理者近況
2011年3月14日
今までのフレーム内表示をやめて素直に別ページにしました。正直今読み返してみると、明らかに稚拙な言い回しや意味不明な箇所が多数見受けられますし、更新が滞っていることへの言い訳があまりにもくどいという印象はぬぐい切れないところですが、恥をかくこと覚悟であえて修整などは極力加えずに公開してみました。(といっても今までの分も単にコメントアウトしてただけで、フレーム内のソースにはちゃんと残ってはいたのですが...)
これからも亀の歩みで一歩一歩進めるだけ進んでいこうと思います。
2010年12月11日
8月の引っ越しにともなうゴタゴタでここ半年ばかりほとんど手つかずの状態になっていたコンサート情報のページを、やっとこさ何とか最新の状態に更新することができました。といってもいつものように「音楽の友」付録のコンサートガイドの小冊子に載ってる情報をもとにしてるので、特に曲数の多い歌曲のリサイタルなどについてはほとんどザル状態でしょうけど、とりあえず目についたものは片っ端から記載してあります。別に誰かから頼まれたわけでもなし、見てる人もほとんどおらず、正直自分でも何でこんなこと続けてるのか分からなくなったりすることも多々ありますが、昔からこういう無駄なことを、無駄と分かっていながら続けるのが大好きな(というより途中で止められない)性格だったりしますので、これからも自分で満足し飽きるまでは続けるつもりでおります。
最近、支給金が下りたのを機会に本を2冊ほど買いました。岡田暁生著「音楽の聴き方」(中公新書)とアレグザンダー・ウォー著「ウィトゲンシュタイン家の人びと-戦う家族」です。1冊目の著者については、以前同じ中公新書で私家版音楽史のような本を買って読んだことがあるのですが、私の好きなシュトラウスとバルトークについてまともな記述があまり無く、(後者については名前すらほとんど言及されていない...)それだけで最低評価だったので、今回もあまり期待せずに読むことにします。2冊目の本には、シュトラウスにパレルゴンなどの作曲を委嘱したパウルについての記述が出てきますが、今回は弟の哲学者のルートウィヒの方にちょっとだけ興味があったので、懐的には決して安くはなかったのですが思い切って買ってみました。ここで感想を書くかどうかは分かりませんが、気長に時間を見つけて読んでみることにします。
2010年10月20日
今週末の10月24日に静岡で開催される、シュトラウス青年期の作品を取り上げた室内楽コンサート「特集 R・シュトラウスの室内楽作品」について再度情報をいただきました。場所は静岡の浜松アクトシティ音楽工房ホール、プログラムは今年の5月29日に行われたコンサートの再演で、演目は全てシュトラウスの青年期に作られた室内楽作品のみで構成されています。5月のコンサートを聴き逃した方は(聴いた方も)、この機会にぜひ足を運んでみてください。会場の座席数は60で、チケットぴあのページでは残席わずかとなっています。(20日早朝現在)
(なお、情報は1ヶ月ほど前にいただいていたのですが、諸般の事情でずっとページを更新することができない環境にいたため、情報の掲載が今日まで遅れてしまいました。本当に申し訳ありません m(_ _)m 。コンサートまで日がありませんが、少しでも多くの人の目に触れるよう、当日までこのスペースでも掲載しておこうと思います。)
2010年8月3日
先日6月の下旬に行ってきた第300回広響定期の会場で、帰りしなにアンケート用紙にちょっとばかし感想など記入して提出しておいたのですが、そしたら何と、今頃になって指揮者の秋山和慶氏の色紙が当たってしまいましたっ! ヽ(゚∀゚)ノ
そういえば今にして思えば用紙の端っこに抽選のこと等々書いてあったような気もしなくもないのですが、まさか当たるなんて思いもしませんし、きれいさっぱりまるっとごりっと忘れておりました。思えば子供の頃から抽選とかくじとかいったものには全く縁がなく、雑誌とかの景品も応募者全員プレゼントしか当たった記憶がない、年賀状くじなんか6等の切手セットすら当たったためしがない(てか年賀状自体毎年数通しか来ないのですが)くらいですから、これは素直にうれしゅうございます。こういうのは受け取った旨事務局とかに返事とか礼状とか出したりするもんなんでしょうか?よく分からないのでとりあえずこの場で感謝の意味も込めて御報告させていただきますた。
(携帯もデジカメも持ってないので実物の画像は御容赦... (´・ω・`))
2010年6月28日
25日に広島交響楽団の第300回記念定期演奏会を聴きに行って参りました。 (`・ω・´) ゞ
曲目は R. シュトラウス作曲、交響詩『ツァラトゥストラはこう語った』と『アルプス交響曲』の2曲のみ。今回は第300回という節目となる記念演奏会ということで、演目もそれにふさわしい重量級の2曲が選ばれました。結果的に最後が消え入るような弱音で終わる曲だけで組まれたプログラムということになってしまい、中にはちょっととまどった観客も若干いたようですが、まあこれはしょうがないというか... (´・ω・`) むしろ今回のコンサートを単なる祝祭に終わらせず、あくまでもハイレベルの技術と表現力が要求される難曲で勝負しようとした広響の意欲の表れとして、積極的に評価すべきだと個人的には思ってたりします。
1曲目のツァラは、一つの楽器がいくつものパートに分割されていたり、ソロパートも多い上、個々のパートのリズムの取り方がとても複雑で、流れに合わせていくのが大層困難だったりもするのですが、今回は指揮者の秋山氏があまりテンポを劇的に変化させなかったせいもあってか、曲の流れは非常になめらかで、時にあっさり過ぎるくらいスムースだったと思います。ヴァイオリンや管楽器のソロも大きなミスはなく、要所要所をよく締めていました。
2曲目のアルプス交響曲も同様で、テンポはどちらかというとゆっくり目、パート間での破綻が起きないよう流れはよく制御されていたと思います。後半、疲れてきたのか金管のアンサンブルが若干大雑把になった感もありましたが、上り坂でのホルンのアンサンブルは圧倒的でしたし、チェロや山頂でのオーボエソロをはじめとして、各ソロパートもよく健闘していました。一部の木管に、特に強奏部分でほんの少しだけノイズがかかっており、時にそれが耳障りだったりというようなこともあったといえばあったのですが、これはホールの音響特性の面での限界を考慮すると、果たしてどこまで言っていいものなのやら...今回の会場のようにあまり立体的な奥行きの感じられない平板な音響のホールの場合、強弱のメリハリをどう付けるかは結構難しい問題だと思うのですが、今回も、ここはもう少し柔らかい音色が欲しいところなのに、ここはもっと弱音で、ここはもっと各パートの細部を際立たせて欲しい、という箇所が何ヶ所かあったのは事実です。
とはいえ演奏自体は総じて300回という節目にふさわしい、大変満足できる充実したコンサートだったと思います。ただその一方で、聴きに来た観客側のマナーとしては、果たしてどうなんだろう、という思いは今回も残念ながらぬぐえませんでした。冒頭、ラジオ収録があるから、とのアナウンスがあったにも関わらず終始ガサゴソ音を立て続けている人もいましたし(特に2階席左手後方)、とにかく1曲目から客席のノイズが多過ぎて少々辟易させられました。私の隣に座っていたおっさんは1曲目の開始早々うつむいて半分寝てましたし...(その人は結局1曲目を聴いただけで帰ってしまいました。)もっとも、今回マナー向上を呼びかけるちらしがプログラムに挟んであり、そのおかげもあってかフライングのブラボーや拍手は幸いにもありませんでした。こういう試みはもっと徹底してやっていいと思います。
2010年3月3日
2月26日の記事の続きです。今回は眞鍋圭子著『素顔のカラヤン』(幻冬舎新書・2009年)を読んだ感想などなど、あくまでも手短に書いてみようかと思います。(諸般の事情により今回もシュトラウスとはほとんど関係のない文章になってしまってますが、どうかこらえて下さいませ。)
この本の著者の眞鍋圭子氏は音楽系のジャーナリストです。カラヤンとの交流は1973年の同氏への(移動中の車中での)長時間インタビューに始まり、その後は来日するたびに通訳から家族の世話に至るまで、公私に渡って同氏を影から支える私設秘書のような役割を永く果たしてこられた方のようです。私自身が著者の文章に初めて触れたのはもう25年以上前、カラヤン/ベルリンフィルによるブルックナー交響曲第8番(75年録音)のレコードのライナーノートを読んだ時ですが、その時には、人や音楽とのちょっとした出会いや触れ合いについて、こうまでヴィヴィッドに語れる人っているんだなあ、という感想を漠然と持ちました。(その後、氏の「アリーチェ・シュトラウスを訪ねて」(シュトラウス協会年誌1986より『リヒャルトシュトラウスの「実像」』への転載)という一文も読みましたが、同様の印象をより強くしました。)そんな著者の特性はこの新書でも遺憾なく発揮されています。
本書はベルリンのフィルハーモニー・ホールでのカラヤンとの唐突な「出会い」の描写から始まり、73年のインタビュー、幾度かの来日の際のエピソード、サントリーホール建築秘話などのいくつかのイヴェントを中心として、著者とカラヤン一家との交流を、主として時間軸に沿った形で描いています。題名のとおり公の仮面をはずした素のカラヤンを、女性ならではの細やかな視点から記述している点において、これまでのどの類書とも異なる独特な内容を持っていると思います。
もちろん↓の2月26日の記事の表現を借りれば、この本の内容にも著者のバイアスはある程度はかかっているのでしょうが、それでも本書はカラヤンファンのみならず、アンチとまではいかなくてもカラヤンの芸術にあまり共感できないという人からも十分歓迎されうる内容を持っているように思います。著者は本書において、単純な礼賛でも批判でもなく、ただひたすらカラヤンという一人の人間の強い部分、弱い部分をすべて舞台裏から白日の元にさらけ出そうとしているからです。(この「舞台裏から」というのが特に重要。)本書を読むと、ちょっと視点が変わるだけで同じ人間に対する印象がこうも変わるものだろうかと驚かずにはいられない部分が多々あります。例えば、明らかに無理な要求をしたカラヤンに対して著者がさりげなく意見を試みる場面がありますが、その時のカラヤンはそれをあっさりと聞き入れ、主張を撤回しています。まわりの意見を聞かない帝王(=暴君)としてのイメージが虚像に過ぎないことは、この一件だけからも十分に分かると思います。実際、カラヤンの人格に関して、↓の2月26日の記事で取り上げた中広全延氏の著書とはまさに正反対と言っていいくらいに異なる見解を述べている箇所が少なからずあり、一つの視点のみから個人の人格を語ることの危うさが、両者を並べて読んだことによって図らずも浮き彫りになった感がありました。長年に渡って醸成されてきた様々な誤解や偏見を解くという観点からは、こちらの方がより多くの人に読んでほしい内容と言えると思います。
[もうちょっと書きたいこともあるのですが、今回は手短にしてみました。ただ↓の文章と合わせると、やはりこの小さなウインドウで表示するには結構な文字数になってしまってます。やっぱり掲載の仕方を変えた方がいいでしょうか?]
2010年2月26日
いきなりでアレですが、先日カラヤン関係の本を2冊買いました。眞鍋圭子著『素顔のカラヤン』(幻冬舎新書・2009年)と、中広全延著『カラヤンはなぜ目を閉じるのか 精神医学から診た”自己愛”』(新潮社・2008年)です。前者については、もっと早くに読みたかった、というか出版自体もっと早くにされていてしかるべき内容だったのですが、後者については...正直読むのに費やした貴重な時間を返せや ゴルァ!! ヽ(`Д´)ノ と心底叫べる内容でした。まあ本屋で手に取ってページをパラパラとめくってみた時点でかなりの地雷臭が漂っていたので、最後まで全部読んだ私がバカだったと言われればそれまでなのですが。
読んだのは『素顔のカラヤン』の方が先だったのですが、ここではまずは『~自己愛』の方から。この本を書いたのは精神医学が専門の先生のようなのですが、内容自体は以前からあるカラヤン批判の新たな焼き直しという感じです。カラヤンについては昔から「帝王として音楽界に君臨」とか、「過剰なまでの美しさ」とか、「完璧主義」などのようなお決まりの文句が、特に批判的な言説においては(多少表現の違いこそあれ)常套句のように用いられてきました。この先生はそれを精神医学の立場から、特に病跡学 Pathographie と DSM という2つの武器を用いて行っているところが新しいとは思います。ここでいう病跡学というのはありていに言えば、なんらかの創造的活動を行った人物について、その作品や伝記などの出版された資料を用いてその創造過程や病理のあり方などを論じる学問、と考えてもいいでしょう。彼はアメリカ精神医学会の『精神障害の診断と統計の手引き』 (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, DSM) において定義されている「自己愛性人格障害」の診断基準を用い、カラヤンがいかにその診断基準に合致している(と著者は主張する)か、を出版されている伝記などの資料をもとに一つ一つ論じています。
といっても結論的には、カラヤンの事例は「障害 disorder 」とまでは呼べず、せいぜい自己愛性人格を持った人物、と呼べる程度なのだそうです。なんじゃそりゃ、という感じですが、実際 amazon.co.jp の紹介ページにも、この本における「論理と結論のショボさ」を指摘するレビューが載っていました。しかし、私にはこの本の問題はもっと別のところにあるように思えます。
確かに著者も述べているとおり、指揮者というのは演奏者と聴衆の注目を一身に浴びる位置に立たなければならないわけで、そういう職業を自らの意志で目指すことができる性格というのはある程度限られてくるとは思います。ほとんどの指揮者の方々には多かれ少なかれそういう傾向はあると思いますし、そういう人でないと指揮者というのは勤まらないでしょう。しかし、この本が読者に植え付けようとしているカラヤン像というのは、そういうものを越えた一種病的なものですらあるように感じられます。(例えば日本の政治家というのは、自分の名前を街じゅうで連呼されたり、顔写真をべたべた貼られまくったり、先生先生とおべっか使われても平気で、むしろ嬉々として人前に立てるような性格でなければ勤まらない職業ですが、この本の中のカラヤン像というのはまさにそんな感じです。)何の先入観も持たずにこの本を読む人は、読み終える頃にはどこに出しても恥ずかしい立派なアンチ・カラヤンとなっていることでしょう。
人格という高度に内面的なことがらを扱う本である割に、個人的エピソードがほとんど取り上げられていないことも非常に気になります。著者は、カラヤンの経歴、肩書、指揮法、レコードの編集手法のような、伝記でなくとも普通に書かれているような情報をもとに個人の人格を論じていますが、これは非常に危険なことだと思います。すべての人間は公的、私的、その他様々な側面(「顔」と言ってもいい)を同時に持っており、それを時と状況に応じて巧みに使い分けています。公的な側面に内面の顔がすべて表れているとみなすことはできません。(ただでさえ社会的地位が高い上に、アンチも多いとなればなおさらのことです。)公の姿を見ただけで内面がすべて分かるというのは傲慢というものです。
伝記などのデータにおける、資料としての価値についてももっと詳細な検討が必要です。公開されている伝記などは、いずれにおいても好意的な立場、アンチの立場、中立的な立場等々、様々なスタンスからの書き手の見方が反映されています。言い換えれば、すべての資料には書いた人間のバイアスがかかっています。それは生前にカラヤンの校閲を経ていようがいまいが同じことです。アンチの人間が私見を交えずに事実だけを客観的に伝えていることなど誰も期待できないでしょう。しかし、この本ではそういう資料の性質についてあまりにも無頓着過ぎます。それは病跡学の関心事ではない、などとうそぶいてみたところで誰一人納得はしないでしょう。おそらく著者にとっては最初から「カラヤン=自己愛」という結論は既に出ており、それを補強するデータであれば何でもよかったのではないでしょうか。このような恣意的な議論の進め方は、この本が内包する最も大きな問題であるように思えます。小澤征爾をはじめ、著者とは全く異なる見解を述べている関係者が少なからずいることについても、自己愛の表れ方は対人的状況に応じてそれぞれ異なるから、として軽く受け流しています。これを見る限り著者の先入観は相当強固なものであるようです。
断っておきますが、私は病跡学の手法そのものを否定しているわけではありません。病跡学の対象となる人物は既に故人であることの方が多く、研究者が直接会ったこともない人物を研究するのはこの分野では当たり前のことです。しかし、それゆえにこそ、研究者は情報ソースの性質に敏感でなければならないと思いますし、他人の書いた資料の中に研究対象の「人となり」がすべて表れているなどとはゆめゆめ考えるべきでないと思います。結論ありきの誘導などもってのほかです。著者はかなりの博識のようですが、中島義道、仲正昌樹、ベルグソン、アウグスティヌスなどのような哲学者の「時間」哲学まで持ち出して、カラヤンの録音の際の編集作業を批判している箇所は正直笑ってしまいました。これは一体なんのギャグなんだろうと。当然ながらオチはありませんでしたが。
『素顔のカラヤン』について書く時間がなくなってしまいました。続きはいずれ書きますが、↑とはまさに対照的な本です。こちらはおすすめ。
2010年2月5日
↓の1月25日の記事で取り上げた地元オケの話題ですが、リンクを張った公式ページには今日の時点でもまだ正式な発表がされていないようです。一応地元の新聞の文化欄でも取り上げられてた話題なんでデマではないだろうと思うんですが...なお、その新聞記事内では『アルプス交響曲』には広響初演とあるのに、『ツァラ』については何故か何も言及がなく、いやいや『ツァラ』も今まで演奏したことは特になかったはず、と思ってよく確認してみたら、序奏の部分だけ今年の年明けコンサートで既に取り上げられておりました。いやあそこだけやっても曲そのものを演奏したことにはならないから...っていうのは執筆した記者さんにはどーでも良かったんでしょう、多分。
それはそうと、先日もちょっと紹介した本、広瀬大介著『リヒャルト・シュトラウス 自画像としてのオペラ』(2009年/アルテス・パブリッシング)をやっとこさ読み終えました。途中何度か読むのを中断してたもんでかなりを取り上げ、その成立の過程を、作曲者を取り巻く政治的背景、往復書簡に見る台本作家ツヴァイクとの共同作業、調性やライトモチーフを中心とした楽曲構造の分析等々、様々な側面から読み解き、作品中に投影された作曲家本人の自画像的性格を浮き彫りにしようとした意欲的な研究書、といった感じです。(て全然一言じゃないですが...)
この歌劇については、山田由美子氏も『第三帝国の R. シュトラウス』(2004年/世界思想社)の中で重点的に取り上げており、帝政時代から2つの大戦を経て戦後に至るまで、永く時代に翻弄され続けた作曲家の創作活動の変遷を、めまぐるしく変わる政治・社会情勢、さらには作品の背景となった文学史、芸術史などとも絡めて鮮やかに描き出しています。作曲者に対する深い共感が行間からひしひしと伝わってくる良書ですが、一方で広瀬氏の著作も、基本的には彼女と共通するスタンスを取りつつも、それでいて楽曲構造などのテクニカルな分析の比重はより高く、その分内容的にも中立的というか、より客観的であろうと努めている感覚が読み取れる気がしました。共感しつつ、それでいて過度の耽溺、賞賛、批判に陥ることがないよう、自らを律しようとしている感じでしょうか。といってもウェブ上でよく見かけるような、突き放した、ドライで皮肉めいた文言とかは一切なく、むしろ逆に作曲家の業績を正当に評価した(特に日本語での)研究・批評があまりに少ないことを嘆き、その状況の改善を強く訴えかける趣旨が読み取れます。あまり店頭で普通に見かけるような本ではないと思いますが、シュトラウスの作品論、楽曲分析に興味のある人には是非とも一読をお勧めしたい一冊です。
2010年1月25日
ローカルネタで恐縮ですが、先日私の地元のプロオケ・広島交響楽団が新年度の定期演奏会のプログラムを発表しました。それによると、今年は6月の第300回記念定期演奏会で『ツァラトゥストラ』と『アルプス交響曲』の2作品を演目に取り上げるのだそうです(指揮は秋山和慶氏)。広響はこれまでにも時々シュトラウスを中心に据えた演目を組んでましたが、数年前の第250回の定演(この時もオールシュトラウスプログラムでした)の時も、3曲中2曲が外部からソリストを迎えた協奏曲スタイルの曲で、今回のように完全にオケが主役となる曲だけでシュトラウスプログラムを組むのはこれが実質初めての取り組みかも。特に『ツァラ』はオーケストラにとってはかなりの難易度を誇る複雑なスコアを持つ曲ですし、これを広響がどう料理してくれるのか、『アルプス交響曲』ともども興味が尽きませぬ、ということで期待を込めてあえてここで取り上げてみました。あと、その次の第301回定期での『4つの最後の歌』にも期待。
2010年1月19日
シュトラウス作品を取り上げた室内楽コンサートについて情報をいただきました。(竹内様情報ありがとうございました。m(_ _)m)
プログラムは全曲シュトラウスの青年期に作られた室内楽作品で構成されています。場所は埼玉県のさいたま市、開催日はちょっと先になりますが5月29日(土)です。皆様ご検討の程よろしくお願い致します。
このページとその管理者について(おさらい)。
このページの管理人は Nekomata なる人物です。(但しそのうち改ハンドルするかも。)本文を読んでいただければ分かるとは思いますが、音楽理論に関して専門的な教育を受けた訳ではありませんので、基本的な情報は文献でおさえつつも、総体としては曲を聴いた印象や、聴いていて気づいたこと、ふと考えたことなど、感覚、感性に気ままに従ったゆる~い楽曲鑑賞に重点を置き、あくまでも個人の主観に基づいた解説記述を目指しております。
10年前にこのページを立ち上げた時には、まだまだシュトラウスに関してインターネット上から得られる日本語の情報の量は非常に限られておりましたので、その状況の改善に少しでも貢献できれば、という高い(もしくは無謀な)志を抱いてとにかくページ数をがんばって増やしておりましたが、最近ではその状況も大きく変化し、特に wikipedia 等を筆頭としたより「正確を期した」情報源も増え、情報自体のバラエティも大変豊富になりました。
正直私は、このページ以外にも、その多岐に渡る楽曲分野(オペラなど)ごとにディープな解説を施した個人ページがもっとたくさん出来てきて、私のページなどはそういったページと連携を取りながら少しずつその後方に埋没し、目立たなくなっていけばいい、という未来像を漠然と思い描いていたのですが、そこには一つの大きな落とし穴がありました。
そもそも私は他の方と連携を取る方法を全く知りません... (´;ω;`)
てかそもそもネットサーフィン(死語)とかもしませんから他にどんなページがあるのかすら良く分かってません...私は、引きこもり能力にかけては誰にも引けを取らない自信がありますが、自分から他者に働きかけて共同で研究作業するとかいうようなことがあまり得意ではなかったりします。(人から働きかけられてであれば何とか可能。)加えて貧乏のせいで書籍や CD の購入が思うに任せず新たなネタの仕入れが出来ない、という現実的な問題もあったりなかったり... やっぱりあったり。
というのは置いといて...そんなわけですので、このページではちょっとした思考や単なる思いつきを文字化してる箇所がちょくちょくあったりします。なので、このページのコンテンツは直接何かに引用するというよりは、むしろさらなる文献調査を行う上での足がかり、もしくは新たな調査研究のネタの提供元としてご利用いただくのが正しい活用法だと思われます。内容については必ずいろんな文献で元を取るようにしてください。将来的には、このページでのちょっとした記述がきっかけとなってこんな研究ができた、論文が書けた、などという報告が研究者の方々からいただけるような、充実したネタ元の宝庫としてのページに育てていければなあと思っておりますし、そうでなくても、研究の結果○×のページの記述は誤りと思われますので訂正をお願いします、というような内容の反響でも管理人にとっては大いにありがたかったりします。
今も心の中に多少引っかかっているネタがいくつかあるのですが、文章力のなさ故産みの苦しみを味わっている最中です。なので、もうしばらくはこのフレームページのみをごくたまに更新するだけ、という更新状況が続くことになると思われます。ちなみに、いままでこのフレームの中で書いていた『近況』のバックナンバーは、今までフレーム内表示のために使ってきた2つのファイル RSiframe.html と RSiframe2.html のソースの中にそのまま放ってありますので、リンク先を別タブなりウィンドウなりで開いてから右クリックしてソースを表示させれば読めると思います。(今書いてるこのファイルは3代目 (RSiframe3.html) です。)上で書いたこのページの基本コンセプトを理解した上でお読みいただければこれ幸いです。
2009年11月22日
「東京音楽大学シンフォニーオーケストラ」広島公演に行ってきました。曲はラヴェル『古風なメヌエット』、 R. シュトラウス『オーボエ協奏曲』、ベルリオーズ『幻想交響曲』の3曲でした。
1曲目のラヴェルについては初めて聴く曲でしたけど、最初のつかみとしてはとても良い選曲でした。弦も管も特にばらつきはなくのびのびと鳴らせていたような印象。2曲目のシュトラウスは、とにかくソリストの鷹栖美恵子氏の力演が光っており、音量も十分、テクニックも安定していたように思われました。カデンツァ部分など、もう少したっぷりと情感豊かに、かつ繊細に歌わせてもよかったのでは、と思える部分もありましたが、これは本人の力量云々というよりは、むしろ伴奏オケ(学生オーケストラ)との相性の問題という側面が大きかったかもしれません。とにかくあのコンビによる演奏ではあの演奏法が最善だと演奏者が判断したということなのでしょう。実際、両端楽章でのソリストと伴奏管楽器との掛け合いにはかなり聴かせるものがありました。指揮者は全曲通してかなり速めに曲を進めていましたが、手の振り方を見る限り、テンポだけでなく旋律や音の強弱の自然な流れにもかなり気を使った指揮をしていた印象です。実際、曲の要所要所でフレーズとフレーズの合間にふっと休止が訪れる瞬間など、オケとソリストが息を合わせるかのようにぴったりとタイミングを合わせていたのがとても印象的でした。
プログラム後半の『幻想』も全体を通してかなりの熱演でした。第3楽章の聞かせ所で一部の管楽器が多少もたついたのも、まあ許容範囲でしょう。前半2曲であまり出番の無かった打楽器奏者が特に生き生きとしているように見えました。
以下、私的メモ帳。ソリストの鷹栖恵美子氏の衣装は明るめの赤のロングスカート。とても映えてましたが、すぐそばの指揮台の赤絨毯が永年の使用のためかうす汚れた色になっていたため、それが丸見えになる2階席からはちょっと残念な配色に。コンクール受賞歴や、数々のオケとの共演も既にかなり経験済の方のようなので、演奏自体はとても落ち着いてこなしているように見えました。ただ、曲の終了後、オケの団員さんたちに何度もぺこぺこ頭を下げてお辞儀をしまくってる姿はやっぱり学部生でした。
ヽ(゚∀゚)ノ ソレモマタヨシ!
『幻想』については1、4両楽章とも繰り返しは一切無し。2楽章もコルネットは登場せず。5楽章の鐘はチューブタイプのものではなく、下部の広がった本物の鐘を叩いているように見えました。(目が悪いので自信なし。)アンコールは2曲。(曲名は終演後、印刷された紙が出口付近に掲示されます。)全体としては、これで1000円は安いだろう、という大満足の演目でした。ロビーには募金箱も置かれていますので、これから公演のある地方の方は払い足りないと思える分を募金してみるのもいいかもしれません。
舞台も会場もかなり狭く、最後の幻想などは奏者が窮屈そうで申し訳ない感じ。もっと広々とした音響の良いホールで演奏させてあげたかったところです。あと、前半2曲の最中終始咳払いし続けていた観客が2階席左手後方にいたのが一番残念でした。カデンツァの途中でもお構いなしにゴホゴホし続けるとか、完全に意味不明。まあ自分は楽章間の咳払いですら気になる方なので気にしすぎなのかも分かりませんが。
2009年11月15日
生まれて初めてコンビニの端末を通してコンサートのチケットを買いました。モノは今月の22日に開かれる東京音大オーケストラの広島公演です。いつも同行してもらってた知人は最近忙しそうなので、今回はあえて誘わず一人で聴きに行く予定。ちゃんとした服持ってないけど、普段着で大丈夫だろうか...
あと、街へでかけた折にたまたま入った YAMAHA の店頭で本を1冊購入。タイトルは広瀬大介著『リヒャルト・シュトラウス 「自画像」としてのオペラ』。少々高かったのですが、あまり他所の本屋ではそうそう置いてなさそげな感じの本だったので、この機会にと思い切って衝動買いしました。かなり読み応えのありそうな本なので時間をかけてゆっくり読むつもりです。
いきなりですが、「カプリッチョ」のマドレーヌは、「伯爵未亡人」よりは「伯爵令嬢」の方がいいですよね、やっぱり...以前から、伯爵夫人よりはいいかなと思ってずっと伯爵未亡人と書いてきたんですけど、やっぱり本文の方も含めて令嬢に直しておこうと思います、そのうち。
それはそうと、こんど地元広島のコンサートで久方ぶりにオーボエ協奏曲が取り上げられるそうな。といっても地元オケの定演の話ではなく、東京音楽大学シンフォニーオーケストラ(リンクはプログラムの PDF 書類)の特別演奏会における上演とのこと。同曲は以前地元広島響の定演でも、フランソワ・ルルーをソリストに迎えて、とても精緻な演奏で聴かせてくれたことがあったので、今回もその時の演奏を思い出しつつ比較しながら聴いてみるのも良...くはないですね、さすがにそれは若手のソリストに対して失礼か。(←よく考えたらこういう考え方の方が失礼でした。深夜に導眠剤でラリった頭で書いちゃったものなので許して。)でも後半の幻想も含めて期待できそうな演目なのは確かだし、チケット代も1000円ならなんとか工面できそう(←ここ重要!広響は最低でも4000円するので滅多に行けない。)なので、本当に久しぶりですがチケット予約などしてみようかなと思います。
2009年10月21日
調子に乗って昨日の記事の続き。土曜日の放送でも取り上げられた「カプリッチョ」について。
このオペラは、よく知られているように芸術における音楽と言葉の問題を主題として取り上げていますが、内容はそれのみにとどまらず、特に後半では新作オペラの製作にまで話題が及んでいます。類似の題材を扱った作品としては「ナクソス島のアリアドネ」がありますが、最近両者を比較してみるとなかなか面白い問題を含んでいるように思えてきました。
「ナクソス島のアリアドネ」は、もともとは「町人貴族」の劇中劇として構想されたものに「序幕 Vorspiel 」を付けて独立したオペラ作品としてまとめ上げたものですが、今の形に落ち着くまでにはちょっと複雑な経緯を経ているため、オペラ本編とそれを上演する楽屋裏との関係については、消化不良というか説明不足というか、若干投げっ放しなところがあるような気がします。演奏時間的には序幕と本編とはわりと拮抗していますが、内容的には両者の関係は一方通行的であり、オペラ本編中においては楽屋裏(つまり序幕)のやりとりについて明示的に言及されることはほとんどありません。まあ上演されるのは古代ギリシャの神話劇ですから、あまり楽屋裏の話を持ち出されても困るわけですが。そのためオペラ本編の役者は、序幕の登場人物(特に裏方)からはあくまでも一方的に見守られるだけの存在に過ぎず、オペラ本編は、本編にもかかわらず、実際にはあくまでも序幕に埋め込まれた劇中劇に過ぎないことになります。
(ちょうど英語やドイツ語の複文("He said, that ..." のような)における主節と従属節の関係を思い浮かべていただければ分かりやすいのではないでしょうか。通常主節の後に置かれる従属節は、しばしば実質的な内容を担うものであるにもかかわらず、主節の文法項目を補う要素として、文法的にはあくまでも主節よりも下位の位置に置かれます。このような構造はしばしば「埋め込み」構文とも呼ばれています。)
一方の序幕は、上演終了後のことについての言及があることからも分かる通り、実際にはオペラ本編を前後から包み込むような時間軸上の関係に立っているという考え方もできるでしょう。
それに対して「カプリッチョ」ですが、こちらは筋の大部分が芸術論や新作オペラの内容についての登場人物たちの気軽な、時に騒々しいやりとりで占められ、そこに伯爵未亡人に対する芸術家たちの愛の告白が同時進行で絡んでくるという内容になっています。しかし最後だけは「月光の音楽」と、続く伯爵未亡人のモノローグによって叙情的に締め括られます。なのでこのオペラは、一見すると、(非常に乱暴な言い方をすれば)全体の八割方を「アリアドネ」の序幕だけで構成してしまった作品、という見方も出来るかもしれません。ただ、両者には質的に大きな相違があります。まず、雰囲気としては「月光の音楽」以降は明らかに「アリアドネ」のオペラ本編と対応していますが、「カプリッチョ」の場合には実際にオペラが上演されるわけではなく、かわりに決断を迫られた伯爵未亡人のパーソナルな苦悩が、鏡に映った自分自身の姿への問いかけとして語られることになります。(しかも最後にはその伯爵未亡人すらも退場してしまい、結局彼女がどちらに心を決めたのか、あるいは決めなかったのか、は不明なまま幕が下ります。)
加えて、より重要な点として、「アリアドネ」では序幕扱いだった楽屋話が、「カプリッチョ」では一見して(少なくとも分量的には)本編へと格上げになっているように見えますが、実際には最後の伯爵未亡人の回想に埋め込まれる要素として従属的な位置に格下げになっていることがあげられます。主要な登場人物は「月光の音楽」の直前までに伯爵未亡人を除いて全て退場し、誰一人として伯爵未亡人のモノローグを見守る者はいなくなります。「アリアドネ」では、後半の本編の登場人物はあくまでも見守られる側でしかなく、見守る楽屋裏に対して語りかけることは絶対にありませんでしたが、「カプリッチョ」では、逆に伯爵未亡人の方が問いかける側に回り、他の登場人物は、そのような問いかけがなされていることにすら気が付きません。実際に問いかけるのは、鏡に映った自分(昼間のやりとりに関わっていた主要人物の一人でもある)に対してではありますが、少なくとも[見守る側<ーーー>見守られる側]の関係は「アリアドネ」の時とは完全に逆転していることが見て取れます。ここでは昼間のやりとりは全て後から回想されるものとして客体化されてしまっています。
かなり乱暴な論ではありますが、そのように考えた時、オペラ冒頭に本編の雰囲気とは明らかに異なる弦楽六重奏が置かれていることの意味についても、また勘ぐってみたい衝動にかられます。このオペラの本当の本編が実は最後の伯爵未亡人のモノローグであり、その前の長大な「本編」はその中に包摂される一回想要素に過ぎないことが、この弦楽六重奏との挟み込みによってさりげなく示唆されていたのだとしたら...
と、ここまで書いてきて最後にこんなことを言うのも何ですが、上の内容は全て、土曜日の放送で「カプリッチョ」を聴いた後、風呂に入りながら何となく考えたことを文字化したものです。細かな事実関係をちゃんと資料にあたって確かめた上で書いているわけではありませんので、そこんとこ何卒よろしゅう。ヽ(゚∀゚)ノ
2009年10月20日
上司でもなんでもない同僚のおばさんパートからのいじめに堪えきれず、逃げるように仕事を辞めてからこの10月でめでたく1周年!と相成りました orz 。いつしかハロワにも足が向かなくなり、今は季節性の喘息を置き薬の去痰薬でなんとかしのぎつつ、一向に湧かない再就職への意欲をなんとか再び焚きつけようと無駄なあがきを不定期継続中の毎日です。 どなたか仕事くだちい m(_ _)m 。
というわけで(どんなわけだ)、17日の土曜日にN響定期の模様をラジオで聴きました。曲目は前半にリームの「厳粛な歌」、シュトラウスの「カプリッチョ」から月光の音楽と最終場の音楽、後半に「家庭交響曲」の計3演目。リームについては、ごめんなさい、初めて聴く曲ですし正直何と書いていいものなのやら。「カプリッチョ」については、フェリシティ・ロットの芯の太い歌唱を楽しませていただきました。ホルンをはじめとする伴奏も納得の出来。以前の定演ではプログラムの冒頭にいきなり「月光の音楽」を持ってきて、ひやひやしながら聴いたこともありましたが、やはりこの曲は奏者の肩の力が抜けてくる2曲目以降の方が聴く方もリラックスして聴ける気がしました。ただ後半の「家庭交響曲」については、休憩明けにいきなり、というせいもあったのでしょうか、どうしたN響、というくらいに出だしがもたついた印象。その後も細かなところでのタイミングのずれは終始気になりました。
これはおそらく曲自身のせいもあったのでしょう。シュトラウスの音楽はモーツァルトやベートーヴェン、さらにはブラームスなどの他のドイツ系音楽と比べて、各パートの旋律としての独立性が高い半面、音楽進行の要となるような単純なリズムを刻むセクションは不在であることが多く、そのため奏者はみな頭の中でそのリズムを各自補いながら演奏する必要に迫られます。言い換えると、演奏者は自分のパートがうまく弾けるだけではダメで、他のパートも含めた曲全体の流れを正確に把握しつつ、タイミングよく自分のパートを指揮者の指示に合わせて曲に絡ませていかなければならない、ということであり、それが出来ないと、特にこの手の曲では粗の目立つ、推進力の弱い演奏になり易い...って、そんなことこの曲に限らずあらゆる曲について言えることではあるのですが。しかしその当たり前のことが、この手の曲の、それもライヴ演奏では実は意外と大変なことなのだな、ということを当日の放送では再認識させられました。プレヴィンの指揮は手堅く安定していて、変に曲の細部をいじくるようなことはしていませんでしたから、余計にその印象を強くしたのかもしれません。
2009年5月23日
なんかよく見たら前回の書き込みから既に半年が経過してました。更新するすると言いつつ実質全く放置したままになっているのがただただひたすら申し訳ない...実際コメントアウトした昔の書き込み読んでたら、昔は結構音楽ネタをこのウィンドウに書き込んでたんだなあということに改めて気付かされました。早く本文の方も書き込み再開できればええな〜、と心の底では本当に思ってます、一応。(と言いつつこっちは分量も多くなってきたのでそろそろ削るか...)
それはともかくとして、今、音楽と精神医学とのかかわりについてちょっとだけ興味を持っています。たとえば楽曲の構造(あらゆる意味での)について心理学的に分析している研究、とか、作曲家本人あるいはその作曲行動について精神病理学的な側面からアプローチしているような研究、とか、音楽の好みと性格との関わりについての(以下略)などなど。本でも論文でも、何かおすすめの研究などあれば教えていただければ感謝感激雨霰。
2008年12月9日
1ヶ月半ほど前に一文無しの無職になって、今までずっと家とハローワークの間を往復する以外は家でフテ寝するだけの毎日が続いておりましたが、さすがにそれもここまで長期にわたると、人間としてもちょっとヤバい精神状態に足を踏み込み始めたというか、ついひもが吊るせる鴨居がないか探してしまったりとかいうようなシャレにならない弊害が生じ始めたため、やはりたとえお金にはならずとも最低限何かしらの活動だけはしといた方が精神の健康にもよろしいのではなかろうか、という結論に思いが至りました。で、とりあえず今の自分に何が出来るか、について考えてみた結果、出た結論は...中断していた『音楽の友』誌からのコンサート情報の抜き書きページを復活させる。...以上。これだけ。
本当はもっと内容にからんだページの更新ができたら1番いいんでしょうけど、とにかく楽譜や CD を買う金がない。加えて、自分で書いた文章でさえ後で読み直すと体の震えと首の緊張が止まらなくなるという神経症的症状は以前から相変わらずの状態なので、とりあえずデータのみを扱うページから始めることにしました。
スタイルは以前載せてたページそのまんま、単に来年1月以降のコンサート情報の抜き書きをまとめただけの昔ながらのページです。利用する人がいるとも思えませんし、基本的に需要のないページですが、自分の入力訓練と、書いた文章の読み返しに馴れる、という目的のためにしばらく続けようと思います。入力ミス、内容の間違いなど気づかれた方はご教示いただければ感謝感激雨霰。
→ コンサート情報のページ
2008年4月26日
『ブルレスケ』の項目で、初演を担当したピアニストの名前の日本語表記を「ユージン・ダルバート」から「オイゲン・ダルベルト」に変更しました。この人はとにかく頭が痛くなるほどに複雑な出自を背負っていて、名前についても何語で表記すればいいものなのやらずっと気にはなっていたのですが、とりあえずスコットランド出身であることや、とある英語辞書( Webster のなんちゃらいう本)で英語風の発音が書いてあったことから、今まで英語風の読み方で名前を書いていました。
しかし最近 Wikipedia で偶然読んだところによると、この人はあまり英語が流暢に話せず、自分のこともドイツ人と考えていて、自分のファーストネームもあえてドイツ語風の綴りで表記していたのだそうです。ややこしいのは、その Wikipedia もミドルネームを含めた正式名称としては Eugène Francis Charles d'Albert というフランス語風の表記を採用していることで、確かにそれを見る限りファミリーネームもそれに合わせてフランス語風に「ダルベール」と仮名表記することも十分ありかとは思います。(日本ではむしろそちらの表記の方が多いように思います。)ただ少なくとも上記の事実から本人がファーストネームをドイツ語風に発音していたことはほぼ確実なので、少なくともミドルネーム抜きでドイツ語風のファーストネームに続けて書く場合 (Eugen d'Albert) には、ファミリーネームもそれに合わせてとりあえずドイツ語読みに変更することにしたわけです。(あと、 Random House のとある英語辞書の d'Albert の項目で、英・独・仏の読み方が併記されていることも勘案しました。)もちろんファミリーネームをあえてフランス語読みにして、自ら独仏のちゃんぽんの名前を名乗っていた可能性も否定はできません。このあたり、ご存知の方がおられましたらご教示いただければ幸いです。
2008年4月18日
とりあえず『ドン・ファン』の項目をもうちょっとだけいじくりました。具体的には、最初の方に「献呈」の項目を加えたのと、最後に参考文献の項目を加えたのと、あとレーナウの詩の和訳もちょこっとだけいじくりました。あとは明らかな誤りとかが見つからない限りできるだけこのままで行こうと思っています。
それと、このページは Firefox と Konqueror という2つのブラウザでの表示確認を行っています。この2つではなんとかきれいに表示されているようなのですが、 Windows 上の Internet Explorer (及びそれに類するブラウザ)では詩の部分の表示が乱れるというか、レイアウトが正しく表示されない部分があるようです。詩の部分に付けた脚注の数字の上がり方が不十分だったり、詩の左側の余白がちゃんと空いてなかったり、などなど。他にも表示の不具合などございましたら、メールか掲示板にてご教示よろしくお願いします。
2008年4月7日
そうだった...「モノクローム」。なんでこの単語が出て来なかったのか... orz
mono- には「単一の」って意味があるし tone にも「色調」って意味があるから、多分これでいいよね、って見切り発車的に使ってしまって結果的に1週間近くも恥をさらしてしまった...もうちょっと調べてればちゃんと「モノクロ(ーム)」まで絶対たどり着けてたのに...なんか違う気もしたから一応辞書で下調べもしてたのに...なんでもうちょっと調べ続けなかったのか... orz
2008年4月4日
詩の和訳の分かりにくい部分をちょっとだけ書き換え。あと綴りの間違いも1ヶ所修正。特に誰にも事前チェックをしてもらってないんで、もしかしたら恥ずかしい間違いとか他にもしてるかもしんない...
2008年4月1日
とりあえず「メモ」欄も含めて『ドン・ファン』のページを正式 up しました。いまんとこうちにあるスコアが『ドン・ファン』だけなんで、とりあえず解説文の更新はこれでしばらく打ち止めにして、以後しばらくは仕事探しとコンサート情報ページの更新再会に向けた準備とでお茶を濁そうかと考えております。次にスコアが買えるのは一体いつの日か...
感想その他なんかありましたら掲示板の方にでもどうかよろしくお願い申し上げ。
2008年3月31日
とりあえず『ドン・ファン』の解説ページを up しときました。個人的な感想を書く「メモ」の欄は空白のまんまですが、正直解説文だけで燃え尽きてしまったんで、とりあえず暇ができたらなんか書きます。誤りや表示の不都合などありましたら、感想とかと共にメールか掲示板でお教えいただければこれ幸い。
あと、文字コードをこれまでの euc-jp から utf-8 に変えてみました。もし文字化けとかありましたら、ブラウザの表示メニューの文字コードのとこをほにゃららしてみてください。
疲れた.......あと、仕事ほしー!(唐突に本音)
2008年3月27日
『ドン・ファン』のページを作成するにあたり、レーナウの詩の翻訳をとあるスコアから引用させてもらおうと思ってたら、よく見ると1行だけ訳出されてない行があり、どうもそのままでは使えそうにないことが分かってきました。で、どうしたもんじゃろか、と考えた末、結局引用は諦めて最初から全部自分で訳し直すことにしたのですが、正直自分には詩文の翻訳の才は全くないので、ちょっと困ってます。文法構造の正確な把握には自信があるのですが...どっちにしろ訳文は完全なる駄文にしかなりそうにありません...それでもよろしければ、どうか更新はもうちょっとだけお待ちいただけるならばこれ幸いです。(てかこんなことしてる暇あったらはよ仕事探せや自分... orz )
2008年3月11日
そろそろ本気でこのページの更新再開すんべ、ということで、ここの所ずっと音楽之友社の『ドン・ファン』ミニチュア版スコアの解説とか Norman del Mar の解説本の 'Don Juan' の項目とかを読んでいます。曲の内容は既に最初から最後までしっかり頭の中に叩き込んであるので、それを脳内再生しつつ楽譜の音符とつきあわせて、それと同時進行でスコアの解説を読み進めていくという作業は、新しい発見が随所にあって、本当に楽しいものなのだと改めて気付かされました。
ほんとはコンサートスケジュールのページの方を先に更新再開しようかと思ってたのですが、先日、ひょんなことから海外の某音楽系サイトのページを見ていた所、何気にそこからうちの楽曲解説ページへのリンクがしっかり貼られていることに気がつき、「えー、こんなとこにまでうちのページのリンク貼られてたんか!」とびっくりして、大慌てで予定変更して解説ページの方をがんばって先に書こうとしているところです。(てか元々うちはリンクフリーなのでびっくりする方が本来はおかしいのですが、まあそれは置いといて...)主要交響詩のページがこういつまでも開店休業状態ではさすがにやる気の無さが疑われるというか...まあ一旦貼ってもらえたリンクが後で抹消されてるのを見るのは自分としてもやっぱり悲しいですから。
で、久しぶりにいろいろ読んでて思ったのですが、やっぱり欧文の音楽解説文は読みづらいですね。(これはCDのライナーノートとかについて特に言えることだと思うのですが、)日本語の解説文は割とテクニカルな側面に重点を置いた内容になっていたりするので、ある意味とても分かりやすいというか、客観的に把握しやすい内容になっているのですが、欧文の方は逆に楽曲構造の分析とかは随分とあっさりとしていて、むしろ解説者の美的感覚を、いろんな美学的、哲学的ワードを駆使しつつ前面に押し出そうとしている感じです。それに音楽史的な内容とかがからむともう、自分が今何の曲の解説を読んでるんだったかそれすら分からなくなってくることもしばしば...
del Mar の本はまだそこまではいっていないというか、むしろ読みやすい部類に入ると思うのですが、でも用語の基本を押さえずに漫然と読んでいるとだんだんとわけわかめなことに...(例えば motif, figure, theme, subject, melody, passage, etc. etc. などなど、これらの意味の違いは音楽畑の人間にとっては常識の範疇なのでしょうが、専門外の人間にとってはちゃんと最初に意味の違いを把握してから訳し進んでいかないとどんどんこんがらがってきます。(特に最初の4つ))こういうことを聞ける人が身近にいればいいんですが...やっぱりこういうのは読書会とかでみんなで読んでいくという過程を取ることも一つの方法かもですね。(誰かやりませんか?)
とりあえず、『ドン・ファン』の項目を今月中、できれば次の仕事が見つかる前に up することを目標にしばらくがんばってみようかと思います。(あくまでも目標です一応...)
2008年2月28日
昨年末あたりからずっと読んでいた本をやっとこさ読み終えました。タイトルは『グールドのシェーンベルク』(グレン・グールド著、ギレーヌ・ゲルタン編、筑摩書房、本体価格4000円也)で、昨年11月末に買ってから昨日読み切るまでにおよそ3ヶ月ほどもかかってしまいました。(途中個人的事情で本を全く開けなかった期間がかなり長かったので、読書そのものにかかった時間は実は結構短かったりもするのですが...)
内容については、シュトラウスについて言及された部分は意外に少なく、(シェーンベルクについての本ですからそれは当たり前なのですが、)むしろ広く中世教会音楽から始まり、後期ロマン派のワーグナー、マーラー、シュトラウスを経て現代のジョン・ケージ、メシアン、シュトックハウゼンらにまで至る西洋音楽の長大な系譜の中におけるシェーンベルクの位置づけ(直接であれ間接であれ影響を受けた作曲家、また逆に影響を与えた同時代の作曲家・演奏者、等々)、当時の時代精神(ツァイトガイスト)との関わり(それを認めるべきか否かも含めて)、生涯を通じたその音楽語法の変遷(和声法や対位法などの技術的問題、十二音技法の成立・発展、等々)、などの問題について、グレン・グールドと相方のケン・ハズラムによるラジオの対談を通じて、また特別ゲストとの録音インタビューを通して明かされていきます。全体として、グレン・グールドという人の作曲家シェーンベルクへの共感、そして少しでも多くの人にシェーンベルクという人を理解してもらいたい、作品を楽しんでもらいたいというグールドの熱い思いが伝わってくる良書となっていると言えるのではなかろうかと思われます。
本自体は、シェーンベルクの芸術について、もしくは少なくとも無調や十二音技法についてある程度知っている人であれば難なく読んでいける程度の難易度かと思われます。(私はそれらの素養が一切無いためかなり苦労しましたが... orz )ただこれから読まれる方は、後半にまとめられている注を極力参照しつつ、本文と同時進行で読んで行くことをおすすめしたいと思います。原書の注に加えて日本版オリジナルの注も多く書き加えられており、議論をより深く読み込んでいくための興味深い指摘や背景説明が随所に盛り込まれています。
ただ、この本の中でグールドは、一般向けのラジオ番組であるという点を考慮してか会話の端々にいろいろと言葉遊びやユーモア溢れるやりとりをはさんでいるのですが、この中には日本人の読者には笑えるものがほとんどないことが残念といえば残念です。これは訳者の責任ではなく、もともとがグールドの台本通りのやりとりでありアドリブではないこと、当時の流行や社会通念を我々と共有していないということ、そして何よりも西欧の「ユーモア」「ウィット」「ジョーク」などというものをただ言葉だけ移し変えただけではそのまま日本語で笑えるものにはならない、という、異文化間翻訳の難しさの実例をたまたま示してしまっただけのことに過ぎないのではなかろうかという気がしています。
2008年1月23日
皆様、寒中お見舞い申し上げます。
近況といってもここ1年くらいは全く更新できていませんでしたし、いっそのことこのままひっそりと閉鎖するってのもまあありかな〜、という気もちょっとしてるのですが、とりあえず今日のところは久方ぶりの挨拶書き込みです。
書きたいことはまだいくつか残ってるし、余裕ができたら更新を再開したいという気持ちも多少はあるのですが、いかんせんネタの仕入れが思うようにはかどらない上、更新する予定、とか書けば書くほどに更新スピードが落ちるという悪循環に去年は陥ってましたから、今年は、書きます、とは書かずにひっそりと更新、という形を念のため取ろうかと思っております。果たしていつのことになるやら。(って、これは書きます、って言ってるのと同じか?)
2007年11月29日
職場の本棚に半年以上並んだままになっていた本をとうとう私費で買ってしまいました。(本体価格で4000円也。)タイトルは『グールドのシェーンベルク』(グレン・グールド著、ギレーヌ・ゲルタン編、筑摩書房)で、グールド自身が台本を書いた10回シリーズのラジオ番組の対談の内容を相手の合づちなども含めて忠実に再現し、後半に詳細な注を付したものです。職場で仕事の合間にパラパラめくってみた限りでは、内容はグールドのシェーンベルク論に留まらず、作曲論、演奏論、さらにはマーラーやリヒャルト・シュトラウス等の作曲家への言及など多岐に及び、全編のおよそ半分にも及ぶ(文字数では多分本文よりもはるかに多い)詳細な脚注も含め、後期ロマン派以降の音楽の潮流を考える上ではまたとない格好の書となりそうな感じです。読んだら感想等ここで書くかも。
2007年9月21日
朝、いつもより多少早めに起きたのでちいと FM でも聴くべーと思ってラジオのスイッチ点けたら、ちょうどケンペ指揮で『ヨゼフ伝説』の短縮版 (交響的断章) をやってるところでした。高2か高3の頃に聴いて以来だったんで、「うわ懐かしー」と思って、出勤前にもかかわらずついつい最後まで聴いてしまったのですが、聴いていると、あれ、なんか自分の記憶と違う...? そもそもこんな曲だったっけ? という疑問がふつふつと湧いてきました。そういえばこの曲、最近は専らシノーポリ指揮の全曲盤でのみ聴いてたんで、最初は単にそのせいかと思ってたんですが... (そりゃあ多少は省略もあるだろうし、オーケストレーションも変更が加えられてるはずだから...) しかしよくよく思い出してみると、この手の長さの曲だったら普通は何度も聴いてるうちにたいていは全て頭の中に入ってしまうのに、この曲だけは当時からいくら聴き返してもなかなか覚えることができなくて、なぜなんだろうとずっと不思議に思ってたのでした。で、今日、あらためてこの短縮版をウン十年ぶりに聴き直してみたわけですが、そうするとこの短縮版がオリジナルの全曲版と比べていかにドラマティックなシーンを省略しまくって作られていたのかがよく分かって、聴いてて軽いショック状態に陥ってしまいました...えーこんなにつぎはぎだらけだったんかいなこの曲...こんなに飛びまくってりゃそりゃー覚えられん訳だわ、と、長年の疑問がまさに氷解した瞬間だったのでした。まさに交響的「断章」 (fragments) ...
2007年8月27日
JR の車中、例によって頭の中で適当ーに音楽かけてて (私はこれを脳内 iPod と勝手に呼んでいます...) なんとなく気付いたのですが、なんかベートーヴェンの序曲『献堂式』 Die Weihe des Hauses って、第9交響曲の第4楽章の歓喜の主題が出てから以降のミニチュア版みたいな楽曲構成になってないでしょうか。いや別に作品番号が隣り合ってるから、とかいうようなベタな理由から言ってるわけでは決してなく、ただ曲がアレグロの主部に入る前に主題らしきものが数回提示されるところとか、主部が一旦静まった後展開部 (と呼べるとすれば、ですが) をはさんで再現部 (同左) が短く現れるところ、それが終わってからもいくつかのまとまりが次々に提示されるところなんかが大雑把に見るとそれっぽいかな〜、と思えただけのことなんですけど。 (もちろんどこまでが展開部でどこからどこまでが再現部なのか、については人によって意見が分かれると思います。個人的には短調の動機を多く含む部分が展開部、一旦収束して曲調が長調に戻ってからが再現部、だと思っています。) どちらにしろ単純なソナタ形式ではないし、かといって3部形式でもない、ロンドというわけでもない、一体何なんだろうこの曲は、と、以前からずっと気にはなっていたのでした。まああえて乱暴な言い方をすれば、コーダがやたらと肥大化したソナタ形式、という見方もできるんではないでしょうか。確か第8番の終楽章もそんな感じだったような気がします。
ついでに言うと、シュトラウスの『英雄の生涯』なんかにもそんなところがあったようななかったような。 (と、強引にサイトの趣旨に結びつけ。)
2007年4月17日
病院へ行った帰りに町に出て、ちょっと前にとある電器店の店頭で見掛けて気になっていた、315円という破格の値段の CD を1枚買いました。曲は『ツァラ』『ドン・ファン』『ティル』の定番3曲、演奏も決して無名ではない演奏家 (特に名は秘す) によるデジタルレコーディング (つまり DDD の) CD だったのですが、にしてはちょっち価格が安過ぎのような...なんとなくイヤな予感を抱きつつ帰宅して早速聴いてみました。
演奏は多少テンポいじり過ぎで、時々オケがついていけてない所もありましたが決して悪いとは思いませんでした。ただ、1曲目の最後の盛り上がりの所で、おそらくはマスターテープに起因すると思われるド派手な音飛びが。うそーん、いくら価格が安いからってこんなんリリースしてええんかー? と一瞬は思いましたが、まあ安いからこそのこの出来なんでしょう。にしても、オケ名に比べて指揮者名表示が小さすぎる、録音年月とホールのデータがどこにも載ってない、解説ノートがちゃっち過ぎ、等々、多分お金けちれる所は徹底してけちってんだろうなー、と思わずにはいられない出来の CD ではありました。まあ、それでも以前「きのこ」を意味するドイツ語名のレーベルから出ていた2枚組880円のトンデモ CD シリーズには足元にも及びませんが。 (確かあれも全て DDD だったはずですが、のわりには録音データも解説文も限りなくいいかげん (例えば70年代半ばで死んだはずの演奏家がデジタルレコーディングしたことになっている) 、印刷と収録曲順が違う、出だしの何秒かが欠落した演奏も平気でリリースしてる、等々、本当にやりたい放題のひどいレーベルでした...)
そういえば、以前某ダイソーで買ったシュトラウスの100円 CD は指揮者名表示すら無かったっけ。あれは結局誰が振ってたんだろう...
2007年4月13日
N 響定期公演の模様をラジオで聴きました。 (曲はブラームス『悲劇的序曲』、 R. シュトラウス『4つの最後の歌』、同『献呈』、ブラームス/シェーンベルク『ピアノ四重奏曲第1番』。) 本来ならここでは歌曲の感想を書くべきなんでしょうけど、今日はむしろ最後のピアノ四重奏曲のオケ編曲版をおもしろく聴きました。普通この手の編曲って、『展覧会』然り、『ハゲ山』然り、原曲をより色彩豊かに生まれ変わらせるために行われるものですけど、この曲に限っては、楽器数は格段に増えているにもかかわらず、色彩感がその分向上しているとまでは必ずしも言えない気がしました。あるいはもしかしたら原曲の持つ交響曲的な持ち味をより生かそうとした、ということなのかもしれませんけど、どちらにしろ派手に打ち鳴らされる打楽器の音にはどうも違和感を感じてしまって...果して本当にそこまでする必要があったのかどうか、疑問に感じずにはいられませんでした。シェーンベルクの編曲の意図は一体どこにあったのでしょうか?
ちなみに R. シュトラウスにもクープランのクラヴサン曲をもとにしたオーケストラ編曲があります。ある程度の創作を交えているので上記のシェーンベルクの編曲とは厳密には比較できませんが、それでも原曲を音符の密度の様々に異なる各声部へと分解して再結合する方法がとても巧みで、 (例えば『ディヴェルティメント』第3曲 "Le Tic-Toc-Choc" など。) これらの曲を聴くと、曲の色彩感は楽器編成の大きさとは必ずしもマッチするとは限らないのだということがよく分かります。
2007年4月7日
NHK-FM の「名曲のたのしみ」で、↓でも触れたファンファーレがまたかかりました。でも、番組表にあった「ショルティス編曲」というのがなんかひっかかる...先週の「気まクラ」でかかったのとはちょっと違うような同じような...シュトラウスの祝典曲は似たような題名のものが多いし自分では音源持ってないし資料もないしで、ちょいと混乱気味...多少気を入れて調べてみようかと思います。 (いつになるか分からんけど...)
2007年4月1日
NHK-FM の「気ままにクラシック」を何気なく聴いてたらいきなり『ウィーン市音楽週間のためのファンファーレ』という曲が流れました。初めて聴くものだったのでちょっと興奮。『ウィーン市の祝典曲』を若干短めにしたもの、という知識だけはありましたけど、聴いてみたら本当にかなりの短さでした。てか端折り過ぎだろ...いやもちろんいい曲なのはいい曲なんですけど。
2007年3月10日
NHK-FM の「名曲のたのしみ」で『ダフネ』を初めて聴きました。副題にある「叙情的悲劇」の文句から控え目な音楽を想像してたのですが、実際に聴いてみたら意外なほど大胆な音楽でした...同じくギリシャ神話に材を取った『エレクトラ』や『エジプトのヘレナ』にも通じるものがあって、久しぶりに新しい発見でした。先日の日本初演も好評だったそうなんで、もしも地上波でやるんなら是非とも録画しようと思います。 (多分無いだろ〜けど...)
2007年2月12日
すみません半年以上このフレームの更新が滞っておりました。 (決して普段トップページに自分で来ないもんだからこのフレームページの存在自体忘れていたとか、そういうことでは多分ありません...)
久しぶりなのでネタとも何ともつかないような微妙な話題を1点ほど。先月の下旬 (1月24〜5日くらい?) でしたか、 NHK-FM で Metamorphosen の演奏会での模様が録音で流されていたのですが、そのラスト、ベートーヴェンの英雄の葬送の主題が一瞬顔を出した直後の所が普段耳にする演奏とはほんのちょっとだけ違っていたような気がしました。単に普段あまり強調されない音を前面に出して演奏していただけだったのか、それとも小節数自体をちょっとだけ増やして新たな音符を挿入して演奏していたのか、自分で録音していなかったもので今となっては確かめようがありません。他に同様の疑問を感じた方、いらっしゃいませんでしょうか?
2006年5月15日
「独断と偏見に基づく R. シュトラウス音楽の魅力」のページを新規 up しました。まだ半分も書いていませんが、とりあえず見切り発車的に決行したアップロードです。御感想などいただけるならば幸いです。
2006年3月22日
2ちゃんねるのクラシック音楽掲示板で面白いスレッドを見つけました。タイトルはシンプルに「家庭交響曲」と付けられています。スレ主さんの、楽しいけれどどこまで本当なのかよく分からないちょっと H なおしゃべりに混じって、どなたかがこの曲の真面目な解説を投稿されています。少なくともうちのページの解説などよりははるかに詳しくて分かり易い内容のようですので、興味ある方は是非一度捜して読んでみるといいのではないかと思います。 (まあ初期の2曲の交響曲について「ワーグナーやリストの影響を受け過ぎている」とするなど、中には「えっ?」と思える突っ込み所も何箇所かあるにはあるようですが...そういう部分も含めて色々な意味で興味深い内容です。)
↑ 上記「家庭交響曲」スレッドは、5月15日の時点で既に消えていました。残念。 (2006.5.15 記。)
2005年12月10日
ラジオで北ドイツ放送交響楽団演奏会の生中継の模様を聴きました。 (曲はブラームスのヴァイオリン協奏曲、シュトラウスの交響詩『ドン・ファン』、歌劇『ばらの騎士』組曲。3曲とも熱演でした。)
1曲目での庄司紗矢香のヴァイオリンソロも見事でしたが、特に興味深かったのは3曲目の『ばらの騎士』組曲で、通常よく演奏されるロジンスキー版に大筋で依拠しつつ、ラストの部分のみをほぼオペラの第3幕ラストからの引用に置き換えた演奏でした。今日初めて聴いたのですが、いつもの騒々しい終り方でなかったのがかえって新鮮で、むしろこっちの方がいいような気がしました。といっても、正直この組曲は通常よく演奏されるロジンスキー編曲版でしか聴いたことがないので、既に出版されている他の編曲版 (ドラティ版とかあった気がする...) がどうなっているのか詳しくは知らないのですが...あと、通常版と比べて曲内の各要素のバランスが崩れている (第3幕ラストからの引用が不釣合に長く感じられる) のが気になったという人も中にはいるかもしれません。 (私は全く気になりませんでしたが...まあどっちにしろ馴れの問題だと思います。)
それはそうと、多分気のせいだとは思うのですが、 NHK ホールからの生中継にしてはいつもと響きのハリとツヤが違っていたような...あれが北ドイツのサウンドというやつだったのでしょうか? (多分違う...)
2005年10月9日
ど〜でもいい話&言い訳のページを up 。管理者のヘタレぶりを今こそ余す所なく皆様に御披露したいと思います...orz
2005年7月10日
家庭交響曲の記述にちょっとだけ書き足し。一人よがり感全開の文章にもますます磨きがかかってきました....._| ̄|○
2005年6月12日
広島交響楽団の第250回定期演奏会を聴きに行ってきました。 (6月10日、於広島厚生年金会館。) 指揮は秋山和慶氏、ソリストは三舩優子氏 (ピアノ) 、堤剛氏 (チェロ) 、店村眞積氏 (ヴィオラ) の各氏。曲目はオール R. シュトラウス・プログラムで、交響詩『ドン・ファン』、『ピアノとオーケストラのためのブルレスケ』、交響詩『ドン・キホーテ』の3曲でした。
演奏はソリストもオーケストラもともに大変な熱演でした。こう言っては失礼ですけど、ここまですごい演奏が聴けるとは正直思っていませんでした。 (まあ、もともと私はよっぽどのことがない限りけなすことをしない人間ですけど、それを差し引いても今回は文句のつけようがない名演だったと思います。) 『ドン・ファン』は3年前の第219回定演で下野竜也氏の指揮でも演奏された曲で、そちらも良演だったのですが、今回の方が弦セクションに厚みがあって全体とのバランスがよく取れていたように思います。『ブルレスケ』は、ソリストの三舩優子氏の演奏にとにかく圧倒されました。ティンパニ奏者ともども、聴いていてまるでこの曲が大した難曲ではないかのような錯覚に陥りそうなくらいにミスもなく颯爽と、それでいて情感たっぷりに弾き切ってしまったのはとにかく見事だったとしか言いようがありません...この曲はテンポ良く流れるように進める部分と、ゆったりと落ち着いて歌わせる場面とが目まぐるしく入れ替わり、ソリストにとってもオーケストラにとっても合わせるのがとにかく難しい曲ですけど、秋山氏も決してオケを急がせず、それでいて要所を占める名リードぶりだったと思います。
『ドン・キホーテ』も同様で、チェロの堤剛氏、ヴィオラの店村眞積氏の熱演を堪能させてもらえました。秋山氏の指揮もとにかく拙速を避け、ソリストの演奏を引き立てつつ場面場面の情景を盛り上げることに成功していたと思います。全体的に聴きどころ満載でしたが、とりわけ最後の第10変奏から終曲へと向かう場面、正気に返るドン・キホーテの描写とその後の臨終の場面は特筆すべき出来だったように感じました。
ボキャブラリー貧困なもので今回も陳腐な表現ばかりになってしまいほんに申し訳ないです...あと、次は同じコンビでシュトラウスの晩年の作品を、それもできれば Metamorphosen をお願いしたいと切に思います。少なくとも、理解はできなくもないもののコンセプト的にはどうしても牽強付会の印象のぬぐい切れない (失礼!) 恒例のマーラー『復活』特別演奏会よりは、はるかに強力に広島ならではのメッセージを発信することができる曲だと思うのですが...
(念のためちょっと補足しますが、言うまでもなく私は ↑ のようなメッセージを演奏に盛り込もうとする行為を積極的に支持しているわけではありません...曲が本来的に持っているメッセージ性を大事にしながら、あくまでも謙虚な姿勢で演奏者は演奏に臨むべきだ、と思っています。) (2005.8.3 追記。)
2005年2月18日
ラジオで N 響定期を聴きました。曲は前半がシュトラウスの歌劇『カプリッチョ』から「月光の音楽」と歌劇『インテルメッツォ』から交響的間奏曲、後半がシェックの『ホルン協奏曲』とブラームスの『ハイドンの主題による変奏曲』でした。正直、『月光の音楽』をいきなり第1曲目に持ってくるとはまた随分と大胆な...というのがプログラムを知った時の第1印象だったのですが、案の定、本調子になる前にいきなり第1曲の冒頭から難しいソロを演奏させられたホルン奏者も大変だったとは思いますけど、会場で直接聴いてた聴衆の側もいきなりコンサートの出だしから相当な緊張を強いられたのではなかろうかと想像されます。確かにコンサートの冒頭には若干短めの曲を置くものではありますけど、それにしても何もこんなに「深い」曲でなくても、という気はしました。演奏はどの曲もよくまとめられていていい演奏だったと思います。 (ラジオを聴いただけではこれくらいしか言えません...)
ところで、今日のプログラムの基本コンセプトって一体何だったんでしょうか? ホルンをフィーチャーしてる、って訳でもなさそうだし、前半をオペラから、後半を古典的形式の曲から、っていう風に分けてるわけでもなさそうだし...普段あまり作曲家の代表作とは見なされていない曲をあえてメインに据えたプログラム、って感じなのでしょうか? (シェックについてはよ〜分からんのですが...でもそういうコンセプトでもないと「ハイドン〜」をあえてラストに持って来るコンサートってあんまりないような気はします。 (あるかな?))
2005年2月15日
交響詩についてのページを、中身は置いといてとりあえず形だけ作りました。 (こうでもしないと多分これから先も絶対書きそうにない気がするんで...) 解説についてはもうちょっと経ってから追い追い書き足していこうと思います。初演や楽器編成等々のデータは音楽之友社の「作曲家別名曲解説ライブラリー9 R.シュトラウス」の記述を丸々参考にしました。誤記や記入洩れなどありましたら御教示よろしくお願いします。
2005年1月16日
Parergon の記述をほんのちょっとだけ書き直し。 C.A. 様、情報どうもありがとうございました。
2004年10月30日
楽曲解説の書き直しを始めました。とりあえず『オリンピック賛歌』の解説文の不自然さをほんの少しだけ改善してあります。あと、原文にどうしても分からない部分が何箇所かあるため、ドイツ語の専門家の方、正確な日本語訳をお持ちの方、正しい訳について御教示いただけるならば大変ありがたいです。
2004年10月16日
ラジオでウラディーミル・アシュケナージ指揮の NHK 交響楽団による『アルプス交響曲』を聴きました。アシュケナージの音楽監督就任記念演奏会だったからということもあったのでしょうか、オーケストラもいつにも増して気合いの入ったレベルの高い演奏を聴かせていたように思います。 (って、めっちゃ偉そうですけど...) アシュケナージの指揮は、聴く限りではどちらかというとあまりテンポをいじくらず、表現ももったいぶったりドラマティックに過ぎたりすることもないスレンダーなものでしたが、とにかく曲自体が本来持っている自然な流れを極力妨げない、逆にそれに身をまかせるような指揮をしている印象を受けました。 (もちろん私の主観的な感想です。うまく書けなくてもどかしいのですが...)
それはそうと、デュトワのラストコンサートでの『エレクトラ』を聴いた時も思ったのですが、ラジオでしか聴けない人間にとってはこれが NHK ホールでの収録だったことがかえすがえすも (以下略)
2004年10月3日
ただいま諸般の事情* で書籍や CD が買えないため、ネタ切れで更新が出来ない状態です。もうしばらくお待ちを。
* ぶっちゃけ無職
2004年8月13日
以前このページで up していた文章を多少修正の上別ページに up し直してみました。読みにくい文章で済みません。 (先に謝っときます。)
2004年7月18日
『祝典前奏曲』を久しぶりにラジオで聴きました。しかも作曲時に想定されていた本来の会場と、想定されていた本来のオーケストラ (といっても当時のメンバーはもう一人もいませんが。) による演奏ということで、期待しつつ聴いたのですが、これが想像以上でした。録音も秀逸。金管の生々しく芳醇な響きを堪能しました。90年前にもこういう音響がホールに溢れていたのかも、と思うと、是非とも会場で直接生で聴きたかった気がします。
そういえば、初演時にはウィーン・フィルだけでは人数が足りなかったためウィーン交響楽団との合同演奏という形を取った、というのを以前聞いた記憶があるのですが、今回はどうだったのでしょうか?
2004年5月10日
『奉祝楽曲』のページに載せておいた楽器編成の内容が一部不正確だったため、修正しました。これから ↓ の本も使いながら文章の修正や付け足しを少しづつやっていこうと思います。
2004年5月9日
4月30日の近況に書いた2冊の本のうち、後者の『第三帝国の R. シュトラウス - 音楽家の<喜劇的>闘争 -』 (山田由美子 著) という本を今朝、読み終えました。ユダヤ人作家シュテファン・ツヴァイクを台本作家とする3幕ものの喜劇オペラ『無口な女』の上演を、ナチス政権下のドイツにおいて4回もやってのけるという前代未聞の「奇跡」を実現させた経緯を主軸として、その前後の政治史的、音楽史的状況、さらには台本作者との共同作業の実態にまで踏み込んで論じた研究書です。これまでともすれば無思想、無責任という否定的評価を下され、戦後しばらくはナチ協力者というレッテルを貼られることすらあったシュトラウスが、実は狂気に満ちた時代にあって表層では協力を取り繕いつつ、水面下では芸術のために自分に出来得る最大限の抵抗を実践していた真の「芸術家」であったこと、さらには時代に飲み込まれることなく常に冷静で超然とした態度を取り続け、未来を先取りすらしていたコスモポリタン (とあえて言いますが、) であったこと、等々について多くの資料を駆使して説得力豊かに述べられていきます。かといって作曲家の政治的活動のみにスポットを当てた内容というわけではなく、よく知られた交響詩やオペラなどの成立事情や、ワーグナーなど関係の深い他の芸術家についての説明にも多くの紙幅が割かれています。特に『ドン・キホーテ』についての記述には、作者の専門に近いこともあってかかなりの力点が置かれています。
内容は楽曲そのものにとどまらず西洋文学史、近現代の政治・社会思想史、音楽史などにも及んでいるため、そっち方面が極端に苦手な私には必ずしも読みやすい本ではありませんでしたが、少なくともシュトラウスについての、政治と関わりを持たずユダヤ人虐殺にも無関心を装い、自分と家族の幸福にしか関心のなかった世俗的な一音楽家に過ぎないという、 (巷ではどうも未だに信じている人がいるらしい) 否定的評価がいかに誤りと偏見に満ちた俗説であるのかは、この本を読めば十分すぎるほど分かるのではないかと思います。シュトラウスファンならずとも必読の書と言えそうです。
『リヒャルト・シュトラウスの「実像」』という本も、数日前に読み終えました。多くの筆者 (シュトラウス本人も含めて) による短篇を集めた評論集もしくはエッセイ集的な内容ですが、 ↓ の内容の他、真鍋圭子氏によるシュトラウス・ヴィラ訪問記など読みごたえのある文章もあってなかなかに充実した構成の本です。もちろんこちらもおすすめ。
2004年4月30日
シュトラウス関係の本を2冊、買ってきました。『リヒャルト・シュトラウスの「実像」』と、『第三帝国の R. シュトラウス』という本です。まだ移動中の電車の中で前者の本の最初の60ページほどを読んだだけですけど、それだけでも色々と教えられる箇所は多かったです。特にびっくりしたのは、 W. サヴァリッシュ氏が講演の中で『カプリッチョ』の調性について解説した部分で、中でも、伯爵夫人が心の中で音楽家を選んだことがさりげなく調性によって暗示されている、と述べられた部分です。もちろんこの論自体は多分にサヴァリッシュ氏の私見としての性格が強いのですが、それでももしシュトラウス自身がそのような動機から意識的に調性選択を行ったのだとすれば、『カプリッチョ』に託したシュトラウスのメッセージについてももう少し考え直してみる必要があるかもしれません。日頃私は、 (自分が専門でないこともあって、) 特に CD の楽曲解説などでやたら詳しく調性のことばかり記述されていたりすることに疑問を持っていて、鑑賞する側にとっては調性の知識など必ずしも必須ではないのではと思っていたのですが、この本を読む限り、やはり鑑賞する側にも調性に限らず楽典についての基礎知識はそれなりに要求されているのかも、と思わざるを得なくなってきました。 (もっともサヴァリッシュ氏自身、やたら細かく分析して調性ごとに分類するようなマネはしないでほしい、とは言っているのですが。)
それから、シュトラウスが実際に作曲に取り組む際の姿勢について記述した部分も興味深く読めました。彼にとって作曲作業は若いころから既に日毎の習慣の一部となっており、我々が時に想像しがちな苦行などでは決してなかったのだそうです。むしろ (台本の遅れなどによって) 作曲の中断期間が生じることの方を極端に恐れ、舞台作品の作曲が終わりに近付くと、もう次の作品の台本を求めてあれこれと思いを巡らすのが常だったのだとか。作曲中も、例えユーモラスな作品であってもその作曲態度は極めて真剣そのものだったそうです。先日『オリンピック賛歌』のページで私は「単なる暇潰しとして作曲した」などということを書いてしまっていたのですが、どうもこの下りは修正しなければならなくなりそうです...