1885年〜86年
1890年6月21日,アイゼナハ,シュトラウス指揮,ピアノ独奏 Eugen d'Albert
独奏ピアノ,ピッコロ,フルート2,オーボエ2,クラリネット2,ファゴット2,ホルン4,トランペット2,ティンパニ,弦5部
単一楽章のピアノ協奏曲の形式を取る。4分の3拍子。ソナタ形式。ピアノのみならずティンパニの活躍も著しいこの曲は、あたかも「ピアノとティンパニとオーケストラのための協奏曲」とでも呼びたくなるような様相を帯びる。シュトラウス自身も認めるように、ブラームスの影響下で作曲された初期作品の中でも代表的な曲。
曲は最初、俊敏に飛び跳ねるようなティンパニのソロで始まり、オーケストラの各パート同士の短かい掛け合いを経て、すぐにピアノソロの颯爽とした主題に引き継がれます。ピアノソロの主題は上下の跳躍を多く含んだスピード感に溢れた旋律で、それに各パートとのハイテンポな掛け合いが随所に絡み、僅かな隙もない緊迫感に溢れた演奏が展開されます。テンポを落とした部分で奏される哀愁を帯びた旋律も、 "Burleske" (おどけた、こっけいな、道化の) というタイトルに不釣り合いなほどに情感をたたえたものとなっています。
ところでブラームスの協奏曲はたまに「難曲なのにそう聞こえない、ピアニストの苦労をなかなかわかってもらえない曲」として言及されることがありますが、「難曲で、実際そう聞こえる曲」がこの曲だと言えばいいでしょうか...確かに高度な技巧をこれでもかという位にちりばめた曲という印象を受けます。実際難曲には違いなく、指揮者でありピアニストでもあったハンス・フォン・ビューローは、後にブラームスに宛てた手紙の中でこの曲について、「たしかに天才的な作品だが、また途方もない曲だ。」と述べています。 (『作曲家別名曲解説ライブラリー9 R. シュトラウス』 p.117) なお、当初シュトラウスは初演の際にビューローにピアノパートを担当してもらうつもりだったようですが、どういう思惑からなのかビューローはこの申し出を断り、その後もこの曲をソリストとして演奏することは一生なかったようです。なので初演の際にピアノパートを担当したのも実はビューローではなく、オイゲン・ダルベルト Eugen d'Albert (1864-1932) (正式名 Eugène Francis Charles d'Albert )という、シュトラウスとは同い年のスコットランド出身のピアニストでした。
ところで、シュトラウス自身はブラームスの影響を受けて作曲された曲として、『ブルレスケ』 (86年) と『さすらい人の嵐の歌 op.14 』 (84年) をあげているのですが、両者を聴き比べてみると、同じブラームスの影響下といってもその性格は正反対であることに気付きます。『さすらい人の嵐の歌』はオーケストラ伴奏付きの混声6部からなる合唱曲で、極めて緻密に練り上げられた和声と複音楽的な構造を持っているのですが、それと比べると『ブルレスケ』の方ははるかに自由で奔放に書かれています。技巧的な完成度の高さは聴いてみる限りでは2曲とも甲乙つけ難いのですが...同じく技巧といってもその使い方が正反対なのだ、とも言えるかもしれません。いずれにせよこれら2曲は本格的に交響詩の作曲時期に入る直前の、まさに転向点となる重要な時期に作曲されているわけですので、結果的にそれまでのブラームス的な作曲姿勢に区切りをつけることになる、いわば集大成的作品となったという見方もできるでしょう。 (ちなみにこの時期には他にも『ピアノ四重奏曲』 (85年) や『イタリアから』 (86年) などの曲が作曲されています。一方交響詩『ドン・ファン』の完成は88年のことになります。)