家庭交響曲
Sinfonia Domestica op.53


◎ 作曲年

1902〜03年

◎ 初演

1904年3月21日,ニューヨーク,シュトラウス指揮,ニューヨーク交響楽団

◎ 楽器編成

ピッコロ,フルート3,オーボエ2,オーボエ・ダモーレ,イングリッシュ・ホルン,小クラリネット,クラリネット3,バス・クラリネット,ファゴット4,コントラファゴット,サクソフォーン4 (ソプラノ,アルト,バリトン,バス.バスの使用はやむを得ない場合は任意) ,ホルン8,トランペット4,トロンボーン3,テューバ,ティンパニ,大太鼓,タンブリン,シンバル,トライアングル,グロッケンシュピール,ハープ2,弦5部 (16-16-12-10-6)

◎ 内容

シュトラウスが自分自身の家庭をモデルとして、夫婦+息子一人の幸福な家庭生活を描写した作品。全体は切れ目なく演奏されるが便宜上3つ、もしくは4つの部分に分けることができる。第1部は諸主題の提示部にあたり、夫、妻、息子の旋律が一通り描かれる。伯父や伯母も登場する。その後のスケルツォでは子供が中心となって描かれる。次第に落ち着いてきて子守歌となり、時計が静かに7回時を打つ。緩徐楽章に相当する第3部では夫の創作風景が主となり、それに妻が静かに寄り添う。その後夫婦による愛の情景が情熱的に描かれる。最後に夢見がちな気分の中時計が再び7時を告げ、朝を迎える。第4部は終曲に相当し、夫の旋律と妻の旋律が口げんかをするようにからみあい、子供の旋律も加わって複雑な二重フーガが形成される。やがて騒ぎは収まり、子供の主題を基にした新たな主題が歌われ、コーダでは再びクライマックスが形成される。

Thema 1. Bewegt - Thema 2. Sehr lebhaft - Thema 3. Ruhig - Scherzo. Munter - Maessig langsam (Wiegenlied) - Maessig langsam und sehr ruhig - Adagio. Langsam - Finale. Sehr lebhaft

◎ メモ

第1部で登場する夫、妻、息子の旋律はみな単一のものではなく、実際にはそれぞれがいくつかのより短い旋律の組み合わせから成り立っています。そのため全曲は大まかに3つの旋律からというより、もっと多くのより短い素材が極めて自由に分解、結合することによって構成されています。

最初に登場する夫の主題は時に朴突、時に夢見がち、時に情熱的と、夫の持つ性格を多面的に描写しています。妻の主題も同様に活発、おしとやか、両様の側面を持った女性としての性格付けを持ち、その輪郭線も非常に明瞭です。続く子供の主題は、最初は若干おとなし目ですが、続くスケルツォ主題や終曲の大騒ぎの後に奏される新たな主題の素材としても用いられるなど、全曲通して重要な役目を担っています。三者三様の性格付けの違いをここでは楽しむことができます。

スケルツォ部分は子供の遊びの描写がメインですが、夫と妻の素材も頻繁に登場します。後半では日も暮れて子供を寝かしつける子守歌になりますが、そこでは母親の歌う子守歌と子供の旋律とが同時進行し、そこに夫の旋律も絡んでくるなど意外に複雑な構成を取っているのが目を引きます。最後に時計が7回時を打ち、導入部分は静かに締めくくられます。

続く緩徐部では創作活動に打ち込む夫とその傍らに寄り添う妻とのふれ合いが、あくまで美しく、しかし情熱的に描かれます。続く部分では母親の不安な気分が強調され、子供の旋律も徐々に顔を出してきます。時計の7時の時報とともに曲はいつのまにか朝を迎え、鳥の声らしきものもかすかに聴こえてきます。

終曲では複雑なフーガの技巧がまず目を引きますが、夫と妻のユーモラスな言い争いの合間に不安げに顔を出す息子の旋律も意外といい味出してると思います。以前とある音楽番組 (司会は確か武田鉄矢だった...) でこの曲が取り上げられた時も、このいかにも不安げな節回しが会場の笑いを誘っていました。

騒ぎは最高潮に達した後一旦収束します。それまでの交響詩では、コーダで新たな旋律が導入されてもそのまま静かに曲を結ぶことが多かったのですが、この曲ではここで導入される新たな主題が再びクライマックスを形成する重要な素材となります。

◎ タイトル

最後に題名についてですが、解説書や CD の表記には 'Sinfonia' となっているものと 'Symphonia' となっているものが双方存在するようです。前者は言うまでもなくイタリア語表記ですが、後者についてはよくわかりません。おそらくはラテン語表記なのではないかと思われます。最近では後者の綴りをよくみかけるような気がします。以前から、なぜイタリック系の言語でタイトルが付けられているのか疑問に思っていたのですが、最近以下のように考えるようになりました。

ここで話はいきなり横道にそれるのですが、最近、ベートーヴェンの第3交響曲が同じくイタリア語表記で "Sinfonia Eroica" と名付けられていたことを何かの本で知りました。 (世間では常識なのかもしれませんが、不勉強な私は後半の『エロイカ』の部分しか知りませんでした...) この題名、しばしば「交響曲第3番『英雄』」のように表記されますが、本来 'eroica' は 'sinfonia' を後ろから修飾する女性形の形容詞ですから、このタイトルは、正確には『英雄的な交響曲』とでも訳すべき構造を持っていることになります。で、仮にここで 'eroica' という形容詞を 'domestica' (家庭的な) という形容詞に置き換えてみれば、これはそのままシュトラウスの『家庭交響曲』の題名に他ならないわけです。

シュトラウスがこの曲のタイトルを付けた時、もしかしたらベートーヴェンの "Sinfonia Eroica" にちなんで付けたか、少なくとも意識はしていた、ということは考えられないでしょうか。

もちろん、たとえそうだとしても実際にそのような対立をどれだけ意識していたのか、というかそもそもこれら2つの形容詞を対立的なものとしてとらえていたのかどうかさえ実際のところはよくわからないのですが...しかし少なくとも、もしも『家庭交響曲』の側にもベートーヴェンの『エロイカ』との接点を見出すことができるとしたら、これを軸としてあえて『英雄の生涯』と『家庭交響曲』を一対のものとして見倣す見方も同様に可能になるのではないでしょうか。

図にするとこんな感じでしょうか。この図式においては、『英雄の生涯』と『家庭交響曲』は、それぞれ英雄の対外的側面と私的側面を描写したものとしてお互いに相補的関係に置かれることになります。

(もしくは、『英雄の生涯』は芸術家としての創作活動、批評家との戦いと勝利、引退等々、多分に「英雄的」に描写された作曲家の活動を、『家庭交響曲』はそれに対して「家庭的」に描写された作曲家の活動を、それぞれ描写したものとしてお互いに表裏一体の関係性を持っている、とでも言った方がまだ分かり易いでしょうか。)

実際、シュトラウスが『英雄の生涯』において自分をモデルとして「英雄」を描写したとされていることについてはもはや疑問の余地もない所のようですが、同様に『家庭交響曲』においても、注意深く聴いているとベートーヴェン『英雄』の第1楽章や第4楽章に類似した主題を聴き取ることができます。例えば終曲での子供の旋律などは『英雄』第1楽章第1主題と音形や雰囲気がそっくりですし、構成上も、特に終曲などは『英雄』第4楽章をベースにして書かれているように私には思われてなりません。 (もちろん他人のそら似程度の類似ではあるのですが...でも『アルプス交響曲』にもベートーヴェンの『田園』を意識して書かれたとしか思えない部分があることから考えても、あながちあり得ない話ではないように思います。) このことと、わざわざイタリア語表記にしていることを考え合わせてみると、これらはどれもみなベートーヴェンの "Sinfonia Eroica" との関係性をほのめかしているように私には感じられてならないのです。

作曲家の諸井誠氏は、著書『名曲の条件』 (中公新書) の中で「英雄の条件」という1章を当てて、ベートーヴェンの『英雄』とそのパロディーとしての『英雄の生涯』との比較検討を行っています。私は、『家庭交響曲』についても同様の見地から『英雄』のパロディーとしての意味合いを考えることが可能なのではないかと考えています。

ところで、『英雄の生涯』と『家庭交響曲』との決定的な違いは、前者ではあくまで作曲者本人が主人公であり、家族は脇役に過ぎなかったのに対して、後者では家族、特に子供の存在がクローズアップされていることです。ちょうどワーグナーが楽劇中の英雄の名前を自分の息子に付けたように、シュトラウスもここで自分の息子に「英雄」の姿を重ね合わせて見ていたのかもしれません。そう考えてみると、この曲はもはやベートーヴェンの単なるパロディにとどまらず、あらゆる意味でワーグナー『ジークフリート牧歌』のシュトラウス版でもあるかのように私には感じられてきます。



補足1:
『ジークフリート牧歌』に添えられたワーグナーの献辞は以下のようになっているそうです。 (諸井誠「名曲の条件」 p.90 より孫引き。)

「私に作品をはぐくむ場を与えてくれたのは、他ならぬおまえの献身的な働きだった。おまえのもたらした安らぎに包まれて、作品が生まれ、力強く成長した。英雄の世界は美しい牧歌となり、大昔の遠い場所がなつかしい故郷になった。折しもあがった喜びの声 - 『息子が生まれた!』。われらが息子の名はジークフリート。息子とおまえに感謝を捧げるには、音楽の贈りものが最上の感謝のしるし。家庭のなかで静かにはぐくんだ喜びを、今ここに音楽にしてみたよ。私たちには変わらぬ友情を示し、息子ジークフリートを暖かく見守ってくれた人たちに、今こそおまえと私が静かに味わった、幸せのしらべを聞いてもらおうではないか」

文中の「おまえ」とは、言うまでもなく妻コージマのことです。

一方のシュトラウスの家庭交響曲も、「いとしき妻と我らが子に」 ('Meiner lieben Frau und unserm Jungen') 捧げられています。



補足2 (2005.7.10 追記) :
横道ついでに。1928年11月1日付のシュトラウスの手紙には、自作の歌劇『インテルメッツォ』について以下のように書かれた部分があります。 (『インテルメッツォ』における筋書きの不在を指摘したホーフマンスタールに対する反論の手紙。山田由美子著「第三帝国の R. シュトラウス」 p.81-82 より孫引き。ただし [ ] 内は Nekomata による補足。)

もちろん、あそこ [『インテルメッツォ』のこと] に筋はほとんどありません。その逆です。 (男爵の人物像を的確に観察されたように) 筋は最初から最小限に抑え、アイロニーを交えています。それに、いわゆる劇の「筋」とは何なのでしょう。二千年前から何の変化もありません。殺人、破壊、卑劣な人間が英雄に仕掛ける陰謀、障害を乗り越えたあとの婚約または別離 - こうしたものは大して面白くもない上に、数え切れないほど見せられています。これに対して - ゲーテは誰もが回想録を書くべきだと勧めていますが - それぞれの個人こそが、かけがえのない一度きりの存在で、同じものが二度と現れることはないのです。それゆえ私は、《インテルメッツォ》の魅力的で一貫性のある性格描写のほうが、いわゆる筋などより、ずっと面白いと思うのです。 [後略]

この部分を読んで、シュトラウスの『家庭交響曲』にベートーヴェンの Sinfonia Eroica を想起させるイタリア語タイトルが付けられている理由がちょっとだけ分かったような気がしました。 (もちろん『家庭交響曲』は『インテルメッツォ』よりも20年も前の作品なので、同じ考え方が直接あてはまると考えるのはちょっと無理かもしれませんが、あえてそれを承知で言うならば、) やはり『家庭交響曲』は、ベートーヴェンの「英雄」交響曲のパロディであると同時に、自作の『英雄の生涯』とも表裏一体の関係にあると思います。『英雄の生涯』が明確なプロットを持ち、文字通り一人の英雄 (それが誰であるかはとりあえず置くとして) の半生を描写した、いわば「筋」中心の作品であるのに対して、『家庭交響曲』ではそのような時間軸に沿った物語性をあえて最小限にとどめ、むしろ主人公と彼を取り巻く人々の性格描写を中心に据えた構成になっています。 (ちなみに関係ない話ですが、物語の談話構造を言語学的に分析する際、よく物語を骨組みの部分と肉付けの部分に分解することがあります。骨組みとは出来事を起こった順序に従って述べる、いわば話の筋のことであり、肉付けとは話の筋に説明を加える補足的説明部分のことです。この作品では、話の筋の展開 (骨組み) を最小限にとどめ、本来は物語において脇役的機能を担う肉付けの部分をあえて前面に打ち出した構成が取られている訳です。)

『英雄の生涯』では、後半部の英雄の回想と引退の部分の描写に非常に力点が置かれていますが、それだけでは『英雄の生涯』での英雄性の骨抜きの仕方がまだまだ生ぬるい、とシュトラウス自身も感じていたのではないでしょうか。 (『英雄の生涯』を含むシュトラウスの多くの作品において、シュトラウスの「反英雄主義的性格」が一貫して流れていることについては、上記山田由美子著「第三帝国の R. シュトラウス」において詳しく述べられています。) むしろ英雄の裏の顔、その一小市民的側面をより徹底的に描くことによって、いわば英雄を裸にし、その「反」英雄的性格を裏側から描写しようとしたのではないかという気がします。そのために、あえて「英雄」とは明示的にはうたわず、そのかわりにベートーヴェンの Sinfonia Eroica を想起させずにはおかないロマンス系言語のタイトルを付け、ゲルマン的英雄譚をあからさまに想起させるドイツ語タイトルを付けた前作との対比をより鮮明にした、というわけです。

やっぱり、考え過ぎでしょうか?



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