今回の件に関しては、レコードの表裏の様に、相対する両面にあたる所にそれぞれ友人がいる。
表にあたる Side-A は今回あまりにもひどい被害を受けたアメリカサイドだ。 裏にあたる、この
Side-B は、うーん、実際の私の友人に関して言えば微妙にかすってる程度だけど、今現在、ある意味では今後のアメリカの出方やタリバーンの動向を握るキー国にされているパキスタン「周辺」だ。
表裏のセレクトだけ見ても若干皮肉な気もするけれども。
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昔、まだまだ日本がこんなに不景気になる前、そんなに長い間ではないが、ボランティアで日本語を教えていたことがあった。
ボランティアの日本語教室に来る生徒は、昼間は日本滞在の余暇を意義深いものにしようかしら、といった駐在員の奥様系だが、私が当時仕事の後に受け持っていた夜のクラスは大半が昼間、当時の(今も?)日本人が嫌がる
3K 労働をして自国の家族に送金をしているアジア出身の労働者達だった。
日本人が ABC から始まって文法をこと細かく習いながら英語を勉強するのとは違って、まずは生活に密着した彼らにとって必要な日本語を教えてあげる。
例えば「あぶない」とか「はやく」とか「やすみます」とか。
他のボランティア先生の使ってる手作りの日本語カードとかも、会話の相手の姿はヘルメットを被ってたり。 「こーじょーちょー」って何だ?聞きなれないぞ? って、よくよく考えたら「工場長」とかね。
まぁ、そんな中でとあるパキスタン出身のグループと仲良くなった訳だ。
日本語教師のボランティアを辞めた後も、彼らとの友情は続き、カレー(元々インドと宗教の争いで分離した国なので、食生活・文化、ほとんどインドと一緒)も散々ご馳走になったし、私も、教えてもらってチキンカレーなら今でも本場のカレーが作れるくらい(日本人の友達にも好評♪)。
日本にいるパキスタン人にもいいヤツ、悪いヤツ、うまいこと金儲けしてるヤツ、地道に一生懸命働くヤツ、などなどいろいろいるみたいだった。 その中でも私が仲良くなったグループは「無茶苦茶いいヤツら」グループだったかな。 それも、日本じゃ
3K 労働しているものの、向こうで人気のスポーツ、フィールドホッケーの元ジュニアのナショナルチーム出身者もいた。 日本で言ったら高校野球の人気優勝校の選手みたいな感じかな? だからスポーツ観戦したり、ちょっとした試合やったり楽しかった。
彼らの生活はやっぱり彼らの宗教とは切り離せない部分があったので、彼らといる間にいろいろイスラム教についても教わった。 私自身、高校カトリック系、大学仏教系と、本人は無宗教ながら妙に宗教に絡む事が多く、アウトサイダーとしてそれぞれの宗教をウォッチング(?)するのは結構関心があったし、あぁそうそう、特に、あの当時既に
Malcolm X に傾倒していた私は、彼をあそこまで魅了して、変えていったこの宗教には大いに関心があったので、こっちからもあれこれ質問したりもした。
で、ワタシ的には他の宗教に比べて、ベースになる言葉の形や音も、日々の戒律も、一番「謎めいて」見えるからその分知らない人から見たら不気味な感じも受けるけど、結構システマティックで、弱者救済的な慈愛に満ちた部分もあって、誰に対するよりより己に対して厳しく律する宗教なのかな、っていう認識になった。 とは言え他の宗教同様、解釈によって宗派はいくつもあるので全てを理解出来たとは思ってないけど。
まぁ、とにかく、彼らとの楽しい思い出はものすごく沢山ある。
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そのうち、1人、また1人と、帰国しはじめた。
彼らが日本にきて約6〜7年後、私が彼らと知り合って約2年後くらいの頃だと思う。
で、全員帰った後、そのうちの1人の結婚式があると言うので、招待されて行って来たのだ。 パキスタンまで。 (その式ってのも名古屋の嫁入りどころじゃないよ! …って、名古屋の結婚式よく知らないけど:笑) あっちに滞在した間の様々な体験はそれだけで親に「あんた、本でも書けるんじゃないの?」って言われる位、ホントに良くも悪くもカルチャーショックのてんこ盛りで、せっかくのパキスタン滞在って事で、国中(ってのはオーバーだけど)連れ回された(あ、いや、連れてってもらった)。
南のカラチではアラビア海(?)に面した海岸でラクダに乗ったり(ちょっとした「月の砂漠」状態)、旧首都(だったかな?)のラホールでは、(旧首都なのに)舗装もされていない民家と民家の間の路地を地響きと共にすごい勢いで駆け抜ける鋭い角付きのノラ水牛に恐怖したり(もちろん接触したら、交通事故並。 死ぬかも)、お腹も壊しっぱなしだったり、まさに「あなたの知らない世界」だったけど、その個々の体験はいつか機会があったら。
で、仲良しグループのうちの1人の故郷のある北部の大田舎地方にも行った(他は全員都市部の生まれ)。 最近たまにニュースの中継で現地リポーターが中継している「ペシャワール」から更に車で2時間くらい奥(北)にあるちょっと大きめの村(いや、小さかったかな? あの辺じゃ若干大きめだった…と思う)。 勿論、観光地な訳でもないし、何も無い。 きっと行かなきゃ誰の目にも触れる事はありえないような村。
そこはもう既に所謂「アフガニスタン国境周辺」と言える地域。 村に向かう為に車を走らせている、唯一の「車道」と呼べる幹線道路沿いの家並みがそれまでとは微妙に雰囲気が違う。 微妙に違うのは分かるものの、未だパキスタンの「一般的な」家並みすら今ひとつ把握出来ていない私の目には何が違うのかが暫くわからなかった。
と、運転していた田舎出身の友人が「この辺にいるのはみんなアフガニスタン人だよ。 みんな自分の国が危ないからこっちに逃げてきたんだ。 ここら辺の家、みんな泥で作った家でしょ?」と説明してくれた。 そっか、そうだ。 何だか「家」ではあるものの、普通、木造にしろ鉄筋コンクリートにしろ、家って直線で出来てるものなのに、全部が全部いびつな、巨大な粘土の塊に穴(入り口と窓)が開いてるっていう感じなのだ。 それがアフガン難民の家。
私の目に焼き付いているあの辺の風景って、その不恰好な家々から見え隠れする赤ちゃんを抱いた小学校低学年くらいの女の子達。 それと、大人に混ざって働いている少年達。 着ている民族衣装はパキスタン人と似てるんだけど、心なしか全て色がくすんで見えた、気がする。 (これはさすがに実際そうだったのか、私の感情によるフィルターがかかってしまったのか、自信はない)
その後、その田舎者クンの家に到着、翌日、ちょっと離れた親戚の家に連れて行ってくれると言う。 一応お客さんな私は助手席(小さい女の子とシェア)、後ろは「おいおいそんなに?」って勢いで4人くらいの大人(しかも、よく言えば「体格のよい人」ばかり)と赤ん坊1人と子供1人(向こうではこれが結構フツーらしい。 マーチとかそのクラスの大きさの車なのに…)。
と、それはさておき、出掛けに彼が布にくるんだ何かを「ちょっとごめん」と助手席前のダッシュボードにしまう。 何かと聞いたらしまいかけたモノの布をぺろんとめくって見せてくれた。 うわ! 拳銃! 「今はいいけど、帰りは暗いし、途中ちょっと危ない所、通るから。」とのこと。
幸い何もなかったけど、帰り道、ダッシュボードにしまっていたソレを自分のポケットに突っ込んだ友人を横目に、普段は車に乗るとすぐ寝る方だけど、文字通り真っ暗で、道路とは呼べない茂みの中のような道の行方を何か飛び出しちゃ来ないかと皿のような目で睨み通しだった。 私にとっては「緊張の1日」だったけど、彼らにとってはそれが日常なんだろう。 それでもあそこはあくまでアフガン国境周辺の「安全な側」なんだ。 勿論これはテロが起きた後の最近の緊張状態時っていう訳でもない。 5年くらい前の、あの界隈も比較的落ち着いていた時期の話だ。
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きっと彼らが暮らしているあの辺りもますます危険になってる事だろうな。
そして、きっとあの「泥の家」もますます増えているに違いない。
あの時少女に抱かれていた赤ん坊達が、今は別の赤ん坊を抱いて、青年になった少年達は別の少年達と働いてるんだろう。 (それとも手に持っていた農具を銃に持ち替えているのかもしれない) でもあそこは彼らの本当の土地ではないし、国ではない。 たまたま運悪くその場で事件に遭遇してしまった被害者どころか、彼らは生まれる前から被害者で、これからもずっと被害者のままい続けなければいけないのか。 そもそも彼らは何故、そんな生活を余儀なくされる事になったのか。
アフガニスタンと旧ソビエトの戦争、ソビエトと冷戦状態にあったが故にアフガニスタンに武器を提供したアメリカ。 ソビエト撤退後に起きた内戦。 その武器が内戦を助長し、テロリストが育つ為の肥やしとなった筈。
これもあのニューヨークテロとリンクしていると言われているが、今、アフガニスタンは最も国民の立場に立っていたグループの統率者をニューヨークの自爆テロと同じ手口で失ったばかりで、何がなくても国民の暮らし向きは悪くなるだけ、というところ。 アメリカが「正義」の名のもとに、実質、自分達が育て上げたテロリストに向けて単に武力による報復を行ったとして何が変わるのだろう。 遠い海の向こうのアメリカ人の気が済むだけ。 アメリカの犠牲者同様罪のないアフガニスタンの国民たちは? 彼らはよりいっそう失うばかりで、救いも、得るものも何もない。 運良くそれによって今あそこにいるとされているテロリストが一掃されたとしても、彼らに残るのは新たな憎しみと荒れ果てた土地だけ。 それがアメリカ人にとって「我々が正義を貫く為に避けられないやむを得ない犠牲」と言うのであれば、アフガニスタン人にとってそれは何なんだろう? 彼らの土地だって、家だって、「間の悪いところに作られてしまった蜘蛛の巣」みたいに扱われるべきではないのでは?
それに、そもそも今回のテロの首謀者個人が死んだとしても、首をさらされたとしても、他の全ては無くならないと私は思う。 アメリカへの憎悪とか、テロの思想とか、ジハード(聖戦)の信念とか。 そういうものは当面カリスマ的な首謀者を失ったとしても、その考え方がいくら「こちら側」からは間違ったものに見えていたとしても、彼らがそれがベストだと信じている限り、脈々と受け継がれていくんじゃないかな。 っていうより、ますます信念を固くするだけだと思う。 かけ違ったボタンはむしり取っただけじゃ解決できないと思う。
んんん・・・
まだまだだけど、それでも、書いていくうちに少し考えがまとまったかも?
思うに、今回、この卑怯な奇襲テロを受けてしまったアメリカが、合衆国政府が、合衆国大統領が何よりも先にすべきだった事は、国として「被害者個々人」に(国とかっていうスパンではなく)対して、(意図してなかったにせよ)自分達が育んだモンスターが罪のない人たちを殺すに至ってしまった事実を認め、悔いた上ではじめてその、ハンドル出来なくなってしまう程成長してしまったモンスター達をどうすべきか。 その為にはなにが必要か、っていう形で始める事が出来なければ、不必要な所あちこちに、なくてもいい筈だった憎悪や偏見や悲しみをもたらさなかったんじゃないかな。 アメリカ市民にも、アメリカ移民にも、アフガニスタンにも、他のいろいろな思いを抱えつつ協力要請を受けている国々にも。
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件のパキスタン友達グループ中、私が一番仲がよかった友人は、今、アメリカのニューヨークに程近いボルチモアに住んでいる。 アメリカに渡って暫くして、「日本じゃ鉄筋屋だったのに、アメリカ来たらサラリーマンになっちゃったよぉ」って照れくさそうに電話してきてた。 今、この時期に、アメリカに暮らすムスリム、パキスタン人ということで、ただそれだけの理由で嫌な目に遭ってないか、仕事は大丈夫かと、彼のことも心配だ(こないだ電話してみたけどいなかった)。
全然関係ないけど、ここでパキスタン珍道中について書いてたら、ちょっとだけ懐かしくなった。 久しぶりにチキンカレー作ってみよう。 |