「堀部金丸覚書」原本(全体) 熊本市 島田美術館所蔵 |
「堀部金丸覚書」原本(一部) |
「堀部金丸覚書」末尾 堀部金丸印判 |
【概要】
「堀部弥兵衛金丸私記」・「堀部弥兵衛私記」ともいう。堀部弥兵衛金丸が書き散らした備忘録で熊本市島田美術館所蔵。「覚書」は書状の包紙の裏を再利用した横帳2冊からなる。1冊目は縦13.0p・横17.0p、2冊目は縦13.4p・横17.7pである。桐箱入りで蓋表には「絶世至寶」とあり、蓋裏には箱新調の由来が記されている。箱は明治に新調されたものだが金丸の遺書として大切にされてきたのである。
冒頭に元禄14年の勅使饗応の記事があり、中途半端な形で終わっている。更にその後に討入の計画私案が無造作に書かれてあるので、この史料は備忘録であったと思われる。前半に金丸の討入計画私案がある。これは次に続く大石良雄宛金丸書状の控によって元禄15年8月以前に書き始められたと推定される。包紙は金丸宛の矢頭長助(四十七士矢頭教兼の父)や建部喜六(赤穂浅野家江戸留守居役)等の書状のものがあり、元江戸留守居であった彼の親交ぶりを物語っている。これら書状の本文が伝わっていれば、浅野家の江戸留守居の職務の様子等が詳細に判明したかも知れない。
「覚書」はもともと甚之丞家に伝わったものではない。もとは文五郎家に伝わっていたものと思われる。これは文五郎家の文書を写したものと思われる「堀部家覚書」(東北大学附属図書館狩野文庫所蔵)に「忠節之鑑」という題でこの覚書が収録されているからである。明治26年4月に八木田小氏を通じて三島志津摩氏から甚之丞家の堀部鹿次郎(友諒)氏が譲り受けたために甚之丞家の文書として組み込まれることになったのである。本史料は他の文書・武具等とともに、平成3年に甚之丞家最後の当主である健二氏から島田美術館に寄贈された。
「覚書」の表紙左側は切断されている。ここに「忠節」とある。「堀部家覚書」によって「忠節」の次は「之鑑」という字があったことがわかる。この「忠節之鑑」という部分については後人の加筆と思われる。
筆跡については既に金丸の自筆と堀部家では伝えている。また金丸の書状等を照合した結果、自筆と判断される。
冒頭は元禄14年の勅使饗応関係の記事が数行記されているのみで、これ以後は吉良邸討入に関する意見や遺書草案が散見する。「覚書」には元禄14年の勅使饗応、金丸の吉良邸討入についての大石良雄への意見、江戸の状況、遺書等が無造作に書き留められている。ただ後半が遺書や辞世等なのでこれを書いた頃には討入の時期が近くなったことを示す。特に討入の趣旨を述べた「浅野内匠家来口上」の草稿と思われるものがあり、また大石良雄が関東に下って発令した「十ヶ条の訓令」・「人々心得之覚」の作成にも関与したことが窺われ、金丸の討入に対する覚悟と思い入れを偲ばせる一級史料である。当初は堀部文五郎家に伝わったものだが、明治26年に堀部甚之丞家の所有となり、平成3年に甚之丞家の末裔堀部健二氏より他の文書・遺品(堀部家文書)とともに島田美術館に寄贈された。なお、写本としては管見の限りでは3点確認できる。
(1)「堀部家覚書」(東北大学附属図書館狩野文庫所蔵、以下狩野本と略称)所収
ここには「忠節之鑑」と題されており、写された当時は現在より保存状態が良かったものと思われる。恐らく文五郎家から一時堀部家の手を放れ、甚之丞家に至る間に少し痛んだのだろう。ただここには「覚書」の最後にある金丸の辞世の部分がなく、討入の顛末になっている。現存の原本では最後が討入前の遺書・辞世であり、末尾に「金丸」印が捺されていて終わっており、この方が自然である。やはり後人の加筆であろうか。
(2)「堀部金丸覚書」(大正10年写・東京大学史料編纂所架蔵影写本、以下西村本と略称)。
全一冊で縦26.6p・横18.9pである。表紙の題箋には「堀部金丸覚書」とあり、中扉には「赤城義士堀部金丸覚書」とある。これは赤穂義士研究家福本日南(誠)が所蔵していた透写本(大正3年写)を模写したものである。福本は堀部友賢氏(鹿次郎の子)蔵本(原本)を植田均という人物に透写させている。史料編纂所の目録によると「武蔵豊多摩郡戸塚町西村豊氏所蔵」となっている。西村は『赤穂義人纂書 補遺』を編纂した人物で福本が作成した透写本を大正3年に模写させた。史料編纂所にあるのは西村本の影写となる。また、福本が透写させた写本は現在のところ確認できていない。
(3)「堀部弥兵衛金丸遺書写」(昭和4年写・東京大学史料編纂所架蔵謄写本、以下岩崎模写本と略称)。上下2冊の横帳で、1冊目は縦12.6p・横17.6六p、2冊目は縦12.7p・横17.8pである。2冊目にある奥書によると「堀部秘蔵ノ金丸翁遺篇貳冊、予ニ依頼セラル拙筆ヲ顧ミズ昭和四年三月十七日着手、仝廿五日ヲ以テ終了ヲ告ケタリ」と原本を模写した旨が記されている。その点、西村本と同じである。この写本を模写した人物として同じく奥書に「昭和四年三月廿六日 岩崎文彦 七十歳」とある。堀部臣子氏が昭和4年に史料編纂所に覚書を寄贈されたが、これが昭和四年に作成された岩崎本であろうか。
狩野本が内容だけを筆写したのに対して、西村本・岩崎本はともに原本に忠実に写そうとしたもので、金丸の字に似せて作成されている。特に岩崎本は原本と同じ形態の2冊構成で、且つ包紙の上書も写しており、西村本よりも原本に近い形態をとっている。ただ、問題は西村・岩崎本ともに模写なので、原本の字と若干相違するところがある。
本「覚書」には金丸の討入に於ける心情が吐露されており、特に大石が江戸急進派との調和に苦労したということを窺わせる史料であるといえる。つまり大石良雄は江戸下向後、討入の準備をしながらも江戸急進派との調和を計らねばならなかったのである。この覚書から見ると大石と江戸急進派の対立は相当根深いものであったと思われるのである。
→堀部文書
【所蔵者】
原本→熊本県熊本市(財)島田美術館
写本→(1)東北大学附属図書館狩野文庫、(2)(3)ともに東京大学史料編纂所
[閲覧]原本→文書整理中のため不可、(1)→可(ただし事前申請の要有り)、(2)(3)→可(ただし事前申請の要有り)
【刊本】赤穂市史編さん室編『忠臣蔵 3巻』(昭和62年、赤穂市)、佐藤誠校訂『新訂 堀部金丸覚書』(平成13年、赤穂義士史料館)ほか。
【参考文献】
松本寿三郎「堀部家文書について」(平成6年、島田美術館編『堀部家の文武 パンフレット』所収)、佐藤誠「堀部金丸覚書について」(『新訂堀部金丸覚書』解題−2001年、赤穂義士史料館)。
(013 2000/09/09)
(2001/5/28)