近藤勇昌宜(こんどう・いさみ)
1834(天保5)〜1868(慶応4)
武州多摩上石原村の農家宮川家に生まれる。幼名は勝五郎。16歳で天然理心流三代目宗家近藤周斎の養子となる。28歳で四代目宗家を襲名。道場試衛館の師範となる。
文久3年、十四代将軍家茂上洛時の警護をする浪士隊の募集を聞き、道場をたたんで参加することを決意。試衛館の内弟子・食客8人と共に上洛。江戸へ戻ることになった浪士隊と袂を分かち芹沢一派と共に壬生浪士隊を結成。芹沢鴨、新見錦と並び局長となる。
芹沢一派粛正の後は唯一の局長として新選組の頭となる。
文久3年6月5日の池田屋事件では自ら先頭を切って戦い、奮戦する。
慶応3年(1867)、伏見・墨染で御陵衛士の残党に襲撃され肩を負傷。その後勃発した鳥羽伏見の戦いには参戦できなかった。
江戸引き揚げ後、甲州鎮撫隊として甲州城を攻めるが官軍に先乗りされ、敗戦。下総流山で兵をまとめるが、ここで単身官軍に投降。慶応4年(1868)4月25日、板橋の刑場にて斬首される。享年35歳(現行年齢では33歳)。

◆近藤センセメモ

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