∂∂花版夢十夜∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂                Faulty             −劣等生の見た十の夢− ∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂∂ 花山ゆりえ ∂  人生をやり直したい。人間なら誰でも、一度はそんな風に思ったことがある んじゃないだろうか。  あの時こうすればこうなっていたんじゃないか。あの時にこう出来れば良か ったのに。  そんな後悔がない人間なんて、いないだろう。  出来ることなら、一つ一つの後悔を全部消せるように、人生をやり直したい。 そんな風に何度も思ったけれど、そんなことができるわけもない。  もしかしたら、無数の可能性があったかもしれない自分の人生を思って、今 日も僕はため息をつきながら、客先回りの営業に駆けずり回る。  ノルマを達成しなければ無能呼ばわりされるこんな仕事にしか、結局就けな かった今の僕は、いったい幾つの道をつぶしてきたんだろう。  ふと見上げた僕の目の前には、見覚えのある白いビルが建っていた。   Version 1  やっぱり止めようかなぁ。  でも、ここで帰ってしまったら何にもならない。  ここまで来て今更葛藤している僕の傍らを、迷いもせずに、脇目もふらずに、 次々と学生達がすり抜けて、建物の中に入っていく。その様子に、僕は羨まし さを覚えていた。  受験戦争なんて殺伐としたものだけれど、それでも、その中で結果を出そう と覚悟を決められた彼らは、僕よりはずっと上等な人間達だ。  僕は改めて、目の前の建物を見上げた。空々しいほど真っ白な、四角形の7 Fだてのビルディング。本番の前に、まず通らなければいけない最初の難関。  でも...と、またしても、迷いが僕の心の中に小さな渦巻きを作る。こんな 予備校に入れたからと言って、受験に失敗しないとは限らないじゃないか。 いったん僕の胸の中に生まれた小さな疑問は、すっかりそこに居座って、もう 動きそうになかった。  初夏のさわやかな風が、さらさらと街路樹を揺らして通り過ぎていく音がす る。  さわさわ。さわさわ。耳に心地良い音が、僕の心の中にまで響いてくる。  不意に、すうっと肩の力が抜けたような気がした。さっきまで悩んでいたの が嘘のように、僕の心の中には、透明な風が吹いていた。  すっかり風通しの良くなった僕の心の中には、もうくよくよと悩む気持ちも、 先の見えないこれからに対する躊躇もなくなっていた。  ようし。とりあえず行ってみよう! 僕はすっかりやる気を出して、建物の 中に入っていった。予備校の入校試験なんて本当は受けたくなかったはずなの に、今はやる気満々になった僕には、もう怖いものなんてない。  一発勝負をかけるぞ! ダメで元々だ! 僕は生まれて初めて自分一人で覚 悟を決めていた。  人生に必要なのは、こんな些細なきっかけなんだと実感しながら。  Version 2  ふわり、と風を受けた次の瞬間、僕の身体は、360度の世界が広がる空間 に飛び出していた。  ごうごうと凄まじい音に支配されて、他には何も聞こえない。けれど、言葉 に出来ない開放感が、僕の心を不思議なほど落ち着かせてくれていた。  視線を下に転じてみると、まるで模型のような街並みが見える。近付いてく るスピードは、奇妙に遅い。  習ったこともないスカイダイビングなのに、僕はまるで上級者かプロの競技 者のように、ものすごい空気抵抗を巧みに利用して、くるくると回ったり、ポ ーズを決めたりしていた。面白いように、思うとおりの動きがはまっていく。 それにつれて、僕の気持ちもどんどん昂揚してくる。  不意に大きな声で笑いたくなった。おかしくて、たまらない。楽しくてどう しようもない。  こんなに愉快な気分になれることまでは期待していなかったのだけれど、ス カイダイビングは、思ったより僕には合っているようだ。  目指す着地地点の緑地公園は、まだ遠く遙かな下界にへばりついて、僕を待 っているのだろう。そして、そこには僕のダイビングのフィニッシュを、興味 津々で待っているであろう、サークルの面々もいるはずだ。  僕は、着地点が海なら良かったのに、と思った。美しい蒼や碧の輝きを湛え る、たっぷりとした水を抱きしめている海に、落ちてみたいと思った。  きっと海の水は、暖かくて、柔らかいんだろうなぁ、と、そんな風に思って いた。  高度はかなり下がってきていた。そろそろ、背中のパラシュートを開かなけ れば。  僕は、まるで何度も飛んでいるベテランのように、手際よくパラシュートを 開く。開いた途端、空気抵抗ががくんと減り、落下スピードもたちまち減速す る。  僕は高い高い空の上で、ふわふわと漂っていた。良い気持ちだ。今までにこ んな良い気分になったことはない。  静かにフィニッシュまでのわずかな時間を楽しみながら、思いついたように、 下を見る。着地点への目測もバッチリだ。このダイビングは、完璧な成功だ。  ほっとした僕は、もう一度視線を上げて、まわりの景色を眺めた。はるか彼 方に、海が見えた。  ああ、あそこまで飛べたら。  思いながら、僕の身体はどんどん落下していく。海は山の向こうに消えて、 見えなくなった。  Version 3  たかが一度会えなかったからと言って、女の子はさめざめと泣いたりするも のらしい。  別に他の女の子と会ったわけでもないと何度説明しても、目の前の彼女は泣 きやもうとしなかった。  約束を変更したことが、そんなにいけないのだろうか。  僕は何だか良くわからなくなってしまった。  その時、彼女が不意に顔を上げて僕をじっと見つめた。涙に濡れた、大きな 目。とても綺麗な目が、僕のことをじっと見つめている。  「あなたには、どうして私が泣くのかなんてわからないでしょうね」  妙にきっぱりと彼女は言い切ったが、まさにその通りだった。僕にはどうし て彼女が泣くのかさっぱりわからない。女の子が考えていることなんて、わか るはずもない。  僕は何も返す言葉が見つからなくて、黙ったまま、彼女の肩を抱き締めた。  一瞬、迷うようなささやかな抵抗が感じられたような気がしたけれど、それ もすぐに消えた。恋人同士なのだから、当たり前だろう。  「ごめん」  理由もわからないまま、でも、どうやら悪いのは僕の方らしいので、とりあ えずそんな風に謝ってみた。とりあえず謝って良いものかどうかわからなかっ たが、何も言わないよりは増しなような気がした。  「ごめんね」  もう一度言いながら、僕は、彼女を抱きしめた腕に力を少し込めた。彼女は もう泣いていなかった。  「ううん、良いの。私の方こそ、泣いたりしてごめんなさい」  しおらしく俯いたまま、彼女は小さな声でそう言った。  何だ、許してくれるのか。さっきまであんなに泣いていたのに。  女の子っていうのは、本当にわからない生き物である。  Version 4  ぎらぎらと照りつける夏の日差しが、水面で鏡のように反射していた。  トップシーズンの海は早朝から賑わうものだが、今日はまだ、それほどでも なかった。バイトで貯めた金をつぎ込んで買ったバイクを飛ばして来た甲斐が、 あったというところか。  人は少ない方が良い。今日はとにかく、静かな時間が過ごしたいから。  僕は、休み中の課題であるレポートをやっつけるため、今日はここへ来たの だから。  夏の海辺で読むにはちょっといかさない、かなり分厚い本を、僕は取りだし た。黒い布張りの表紙には、銀色の文字で「商法取引に関する犯罪例集」と書 いてある。くそ面白くもないタイトルだけれど、読まないわけにはいかない。  せめて本を読む環境の雰囲気だけでも改善しようと選んだ場所で、僕はレン タルのデッキチェアに寝そべり、日除けのためのサングラスをかけ、本を開い た。  僕の目は、本の中の文字を単調に追い続けた。けれど、気が付くと同じ所を 何度も繰り返し読んでいる。面白くないと思っているから仕方ないのかもしれ ないが、それではこんなところまで来た意味がない。  ちょっと気分転換に、ビールでも飲もうかと、僕がそう思った時だった。  いきなり大音響で、音楽が鳴り出した。昔ラジオで聴いたことのあるアメリ カのポップス、そう、たぶん、「ホテルカリフォルニア」とか言う歌だったと 思う。  僕は慌てて辺りを見回した。すぐ近くに、まっすぐ海の方を向いて立ってい るスピーカーを見つけた。音源はあそこか。くそいまいましい。それにしても、 こんな朝早くから、まだ客もそんなに来ていないというのに、こんな大音響で 音楽を流すなんて、過剰サービスもいいところだ。大体、こんな日本の海辺で 「ホテルカリフォルニア」なんて、かえってビンボくさいだろうが。  一発文句でも言ってやろうかと思ったが、やめた。これも悪くないかも知れ ないと、そんな風に思えてきた。  「ホテルカリフォルニア」かぁ。カリフォルニアなんて行ったこともないけ れど、そのうち行けたら良いなぁ。  理想的なのは、仕事で海外赴任で行くというのが良い。西海岸は、ビジネス チャンスも多いという。  僕は、手元の分厚い本を見下ろした。こんなものを読んで何になるだろう、 なんて思っていたけれど、案外そうでもないのかも知れない。  そう考えたら、気が楽になった。大音響の「ホテルカリフォルニア」も、そ んなに気にならなくなってきた。  夏の海は、強さを増していく太陽の日差しを浴びて、ぎらぎらと輝いている。  海から吹いてくる風は、たっぷりとした湿気を含みながらも、心地よかった。  不意に思い立ち、僕は帰り支度を始めた。図書館にでも行って、静かに本を 読んでみる気になっていた。  ただ、何となく大音響で流れている「ホテルカリフォルニア」に、名残惜し さを感じていた。  Version 5  友人から勧められ、何となくギターを弾き始めた。これが、結構面白い。  それまで、音楽とは無縁の生活を送ってきた僕だったが(通知表ではいつも 3だった。悪くはないか)自分で楽器を弾き始めてみると、聞くだけではわか らなかった音楽の本当の良さのようなものが、わかるような気がした。  友人にそう言うと、それは、人より随分上達するのが早いからだと言われた。  なるほど確かに、僕はコードを覚えるにしろ何にしろ、そんなに苦労はしな かった。ギターの弦と指の馴染みが良いというか、これはどうだったけ? な どと思う前に指が動いて、その音を出しているような感じだった。  才能があるんじゃないか? という友人の言葉につい載せられて、僕は彼が 所属する軽音楽部なるものに、勧められるままに入部してしまった。勢いとい うか、ノリというか、まあ、そんなに深く考えた上での決断ではなかった。  ところがどうして、彼のねらいは別にあったのだ。  実は、一年に一度の学生にとっての最大のお祭り、学園祭に出演するのに、 メンバーが足りなくて、どうしても出て欲しいのだという。  彼も初めは、習い始めて間もない僕を学園祭に出演させようなどとは思って いなかったらしいのだが、僕の上達ぶりを見て、これは、と思ったのだという。  それまで、楽器に触れたこともなかった僕は、当然ながら、人前で演奏する などと言うのも初めてなわけで、正直言って、躊躇した。もちろん、何となく 大勢の前で演奏する、ということに魅力を感じないわけではなかったが、それ でも、慣れないことをするのに抵抗があった。  どうしようかと悩んでいた僕を、しかし、彼の一言があっさり動かした。  「女の子に、めっちゃもてるぜ」  これ以上効き目のある言葉なんてないだろう。  学園祭で評判の良かったバンドは、その後、学校中から注目されるし、うま くすると、都内のライブハウスなんかでも演奏するチャンスが来るらしい。  自分の大学の学園祭に、まさかプロのスカウトが来るなんて思いはしなかっ たが、ギターを弾くのが結構好きになっていたし、今急いでしなくてはいけな いことも特にないし、そんな風にバンド活動するのも悪くないな、なんて思っ て、結局僕は、彼の申し出を受けることにした。  学園祭の前日、ステージリハーサルのために学校へ行くと、部室に集まって いるバンドのメンバーが、みんな暗い顔をして沈んでいた。これじゃ、前夜祭 どころか、まるでお通夜じゃないか、と僕が茶化したら、僕に入部を勧めてく れた友人が、学園祭は中止になったという。  なんでも、学校のすぐ近くにあるホテルにアメリカ大統領が宿泊するため、 学園祭のような誰でも入り込めるイベントは中止にするよう、申し入れがあっ たというのだ。  そんなバカな、そんな不条理なことがあるか、と僕は思わず怒鳴ってしまっ たが、もう決定になってしまったのだという。  せっかくの晴れの舞台は、あまりにもあっさりとお流れになってしまったと いうわけだ。  それにしても、そんなニュースは聞いた覚えがない。急に大統領が来るわけ でもあるまいし、前もってわかっていただろうに、学校側は何も考えていなか ったのだろうか。  なんてことを考えていたら、急にむかむかと腹が立ってきた。  その時、携帯電話の呼び出しの音が、不意に鳴った。慌ててメンバーの一人 (こいつはバンドのリーダーだ)がジャケットのポケットから電話を取り出し、 何事か話している。  頷いているヤツの顔が、傍目にも明らかなほどみるみるうちに明るくなり、 強く何度も頷いている。どうやら、何か良いニュースのようだ。  電話を切り終わったリーダーは、いきなり大声で叫んだ。  何と、学園祭中止の知らせを聞いたサークルのOBが、急遽ライブハウスを 借りてくれたのだという。つまり、僕たちは演奏が出来る、というわけだ。  ひょんなことから、学校の体育館ではなく、本物のライブハウスで演奏でき るチャンスを拾ってしまって、僕は何だか拍子抜けしてしまった。  ぽかんとしている僕の周りで、にわかに活気づいてきたメンバー達が、そそ くさとリハーサルに向かうべく、身支度を整えている。  ほら、行くぞ。何ぼうっとしてるんだよ、という友人の言葉に、僕も慌てて ギターを持ち上げた。この日のためにバイト代をはたいて買ったギターは、す んでの所で日の目を見ずに終わるところだったのを、何ともラッキーな展開に、 無駄にならずに済んだわけだ。  ようやく僕も、気分が浮き立ってきた。メンバーに続いて、部室を後にする。  ホント、人生なんて何があるかわからないよな。こんなラッキーなこともあ るなら、人生捨てたもんじゃない。  Version 6  階段の上に立った時、ぐらりと世界が揺れた。地震か、と思って慌てて周り を見回してみたが、道行く人々は慌てた様子も見せずに、ごくごく普通に通り 過ぎていく。  「おい、大丈夫か? もう帰るか?」  傍らに立っていた友人が、そう言いながら僕の腕を取った。漸く僕は、揺れ たのは僕の方だったのだと気づいた。  はしご酒の3軒目に、友人がとっておきの場所を紹介してくれると言うので 着いてきたのだが、それにしても、そんなに酔っ払うほど自分が酒を飲んだ記 憶はない。  「大丈夫だよ。行こう」  したがって、僕はそう答えると、先に階段を降りていった。  小さなドアを開くと、薄暗い照明に仄かに浮かび上がるバー・カウンターが 見えた。なかなか渋い感じの店で、僕の好みだった。  友人はどうやら常連らしく、彼の顔を見たマスターが、にっこり微笑みなが ら、カウンターを指さした。僕は、彼に続くようにしてカウンターに座った。  思えば、酒にはあまり良い思い出がない。一番最初に酒、と呼べるものを飲 んだのは、たぶん、正月のお屠蘇だったと思うが、僕はその時、すっかり気分 が悪くなって、せっかく食べたお正月のご馳走を全部吐いてしまったのだ。  以来、自分は酒が弱い、とずっと思ってきた。だから、大学に入ってから酒 を飲む機会がやたら増えても、極力そういう場は避けてきたのだ。  しかし、サークルに入ってからはそうもいかなくなってしまった。1,2回 ならまあ、何とかごまかせる。けれど、3度、4度と重なると、友人からはす っかり「付き合いの悪いヤツ」のレッテルを貼られてしまった。  それはそれで構わないと思っていたのだが、僕は、サークルのメンバーが結 構好きだったので、そんなことがきっかけで疎遠になるのも嫌だった。  結局僕は、飲み会には参加しても酒は飲まない、という方法で対処すること にした。  初めはメンバーも僕の方針には賛同してくれていたのだが、そんな人間がた った一人だと、次第にみんなのイタズラの標的になっていくらしい。  考えれば、男だけで酒を飲んだって、何も楽しいことはないのだから、せめ て誰かを酒の肴にしてやろうと思い始めるのは、当然のことだったのかもしれ ない。  遂に今夜、連中は、僕が酒を飲んだらどうなるか見たいなどと騒ぎだした。 僕が喉をカラカラにしながら、何度小さな頃の悪夢のような経験を話しても、 もう効き目はない。  僕たちの仲も、もはやこれまでなのか、と僕は思った。その時、僕をこのサ ークルに誘った友人が、しごく単純でわかりやすい解決方法を提案した。  「勝ち抜きじゃんけんで勝ち抜いたら、放免って言うのはどうだろう」  そんな子供だましの方法なんて誰も納得しないだろう、と僕は思ったのだが、 すでにしこたま酔っ払った連中は、なぜかこの方法がとても気に入ったらしく、 大はしゃぎとなった。  じゃんけんで勝てば、酒を飲まなくても済む。なんだか、じゃんけんに自分 の運命を賭けるっていうのも情けないような気がしたが、要は勝てばいいのだ と思ったら、気が楽になった。  せーの、で一斉にじゃんけんをする。人数が6人もいるのだから、いきなり 負けたりはしないだろう、と僕は思っていた。  習慣でチョキを出した僕。しかし、次の瞬間、僕は他の全員がグーを出して いるのを見て愕然とした。こんなことって、あるんだろうか。  にたにたと面白そうに笑っているメンバー。リーダーは、勝ち誇ったように 空いたグラスに氷とバーボンを入れている。もう、逃げ道はない。  ああ、こんなことで僕は人前で醜態を晒さなくてはならないのだろうか。  思い悩む僕になどお構いなしに、目の前になみなみと琥珀色の液体が注がれ たグラスが置かれる。  こうなったら、やけくそだ! 僕はグラスを手にすると、一気に中の液体を 飲み込んだ。  美味しい。嘘だ、酒がこんなに美味しいなんて。  「どうだ? どんな感じだ?」  みんなが興味津々で尋ねてくる。僕は一言答えた。  「うん、美味しい」  途端、みんなに小突き回された。本当はイケる口だったのに隠していたんだ ろうとか何とか、いろいろ勝手なことをさんざん言われたが、僕は初めてまと もに飲んだ酒の旨さに、ただただ、感動を覚えていた。  そして、いきなり3軒のはしごである。ここまで来ると、もう、どうでも良 いや、という気分だった。  カウンターに座った僕は、マスターが勧めてくれた秘蔵のスコッチとやらを 味わっていた。店内には柔らかなジャズのメロディが流れ、ほの暗い照明と相 まって、何とも居心地が良かった。  僕は、不意に眠気を覚えた。とても良い気分だった。  ぐらり、と世界がまた揺れた。けれど、今度はもう、地震じゃないのはわか っていた。  「ごめん、僕、ちょっと眠る」  僕の言葉に友人が何かを答えていたが、もうわからなかった。僕はもう夢見 心地で、カウンターに突っ伏しながら、ずっと同じ事を繰り返し思っていた。  酒って良いもんだなぁ。  Version 7  ふわふわと桜の花びらが散っているのを眺めながら、僕は、ああ、春が来た んだなあ、と思った。  それまでの人生において、取り立てて面白いこともなかった僕だったから、 季節の移り変わりなんて気にしたこともなかった。  けれど、何となく僕の中で何かが変わっているような気がした。何があった、 というわけでもなかったけれど、そう、春が来たのを感じたくらいだから、き っと今までとは違うのだろう。  もうすぐ学生生活も終わりか、なんてしみじみ思いながら、僕は、家の近所 の小さな川縁を歩いていた。  都会には珍しく、この川の水は綺麗に澄んでいる。近所の人達はきっと、心 がけの良い人ばかりで、水を汚さないように気を遣っているんだろう。  温かくなり始めた陽気とともに、きっと川の水も温み始めているんだろうな あ、と思ったら、何だか急に、川の水に触れてみたくなった。  僕は、川縁の道から河原へと降りていった。  平日の昼下がり。こんな中途半端な時間には、辺りに人影も見えなかった。 それを確認した後、僕はやにわに靴と靴下を脱ぎ捨てて、川へと入った。川の 水は思ったよりも冷たかったが、それでも、耐えられないほどではない。僕は、 春になりかけの水の温度は、まあ、このくらいなのかな、と思った。  少し屈んで、今度は手を水の中に入れてみる。やっぱりまだ、冷たい。でも、 太陽の温かい光があたりいっぱいに広がっていたし、桜の花は綺麗だし、やっ ぱり春だよな、と思った。  ふと気が付くと、川の向こうから女の子がこちらをじっと見ている。麦わら 帽子をかぶり、すとんとしたシルエットのワンピースを来た彼女は、なんだか こちらへ来たがっているように見えた。僕と一緒に、春の水遊びを楽しんでみ ない? なんて言葉が喉元まで出かかったが、僕は言わなかった。だって、初 対面の女の子にいきなり気さくに声をかけるなんてこと、僕は得意じゃないん だから。  声をかける代わりに、僕はもう一度、彼女を良く見た。可愛い女の子だ。ま だ十代だろう。でも、どこか大人びているようでもあり、幼すぎるようでもあ り、印象としてはまとまりがなくて、不思議な感じがした。  でも、そういうのって、良いよな。  「ねえ。こっちへ来てみない?」  僕は唐突に、大きな声で彼女に声をかけていた。僕の言葉に、彼女はにっこ りと微笑むと、大きく頷いた。  ゆっくりとサンダルを脱ぎ、彼女もまた、川の中に入ってきた。ちょっと危 うい足取りで、僕の方へ向かってくる。  その時、不意に僕は思った。  僕はこの子と、結婚するかもしれない、と。  Version 8  鮮やかな紅色のテーブルクロスの上に、ワイングラスが一つだけ、置かれて いる。中には、テーブルクロスの色より更に深い赤色をしたワインが、満たさ れていた。  師匠は、好きにやって良いと一言残して、一人さっさと休憩に入ってしまっ た。残された僕は、最後のこのカットを一人でやり遂げなくてはならない。  うーん、どうしよう。任せる、なんて言われても困っちゃうんだよなぁ。  大きく一つ、ため息をついた後、僕は仕方なしに覚悟を決めた。僕なりに良 いと思った方法で、良いだろう。それでダメなら、もう一度やり直すまでだ。  僕は、カメラを構えた。ファインダー越しに覗いたワイングラスは、僕がシ ャッターを押すのをじっと待っているようだった。  大丈夫。僕が素晴らしい写真を撮ってあげるよ。心の中でそう呟いた後、僕 はまるでスタートの合図を聞いた100メートル競争の選手のように、猛ダッ シュでシャッターを切り始めた。すると、さっきまであれこれと考えていたの が嘘のように、身体が自然と動き出した。  僕は、上機嫌だった。インスピレーションが僕の中から洪水のように押し寄 せる。  きっと、良い写真になるよ。僕はファインダーの中で様々な姿を見せている ワイングラスに、一人語りかけていた。  暗室から出てきた師匠は、僕の顔を見るなりヒューと口笛を吹いた。  「お前、やるねぇ」  言いながら師匠は、僕に数枚の写真を渡した。いずれも、さっきのワイング ラスの写真だった。  そのうちの1枚を指して、師匠は言った。  「これなんか、俺なら絶対に撮らない絵だけど、すごく良いよ」  このまま助手を続けたら、きっと立派なカメラマンになるぞ、と師匠は笑い ながら言い、僕の肩をばんばんと何度も叩いた。僕はよろめきながら、一緒に 笑っていた。  そうか。僕は、どうやら誉められているらしい。才能があるのかもしれない な。  でも、そんなにうまい話があるだろうか。一人でまともに撮った初めての写 真で、才能が開花するなんてことが?  ひょっとしてこれは、夢なんじゃないだろうか。  僕は相変わらず笑いながら、そっと指でほっぺたをつまんでみた。  ・・・痛くなかった・・・。  Version 9  僕は途方に暮れていた。原因は、朝からかかってきた3本の電話だった。  一本目は、サークルのOBからだった。いつか、学園祭が急に中止になった 時にライブハウスを借りてくれた先輩で、今は音楽関係の評論雑誌でライター をしている人だ。  ライブの後、僕たちの演奏をとても誉めてくれて(実際、誉めすぎだろうと 思えるくらいだった)音楽をやる気はないかと言っていた。上機嫌だった僕は、 何も考えずに「いいっすねぇ」かなんか、言ったと思う。  そうしたら、今日、電話がかかってきた。オーディションにコネを付けたか ら、バンドのメンバー全員で来いと言うのだ。降って湧いたような話だが、興 味はそそられた。上手くいったら、ミュージシャンと呼ばれるようになる。悪 くない話だ。  二本目は、カメラの師匠からだった。この人は、あれ以来僕に静物の写真ば かり撮らせていて、正直、僕は最近退屈していたので、スタジオに顔を出して いなかった。  心配した口調で、師匠は彼と一緒に行く撮影旅行の話を提案してきた。費用 を全部出してくれる、なんて言った辺り、僕にひどく気を遣っているのは明ら かだった。  そんな風に気を遣う人じゃないのは、良く知っている。つまり、彼にとって 僕は、特別な弟子と言うことだ。  撮影旅行で良い写真を撮ってきたら、次に開く師匠の個展で、作品を一緒に 展示してくれるという。彼の個展は、何時も有名デパートのギャラリーを借り て行われる注目度の高いものだから、そこで展示してもらった作品が良いもの であれば、批評家の目に留まる確率は、とても高い。プロのカメラマンとして スタートするには、絶好の機会だろう。  最後の電話は、ゼミの教授からだった。教授の知り合いのある商社の役員か ら、優秀な生徒を紹介して欲しいと言われたので、僕の名前をあげたという。  僕が、随分前に、将来海外勤務の出来るような仕事をしてみたい、と言って いたのを、どうやら覚えていてくれたらしい。とりあえず、気軽な気持ちで面 接に言ってみてはどうだろうか、と言われた。  どれもこれも、僕にとっては良い話ばかりだ。ミュージシャンになって、ラ イブハウスいっぱいの観衆をキャーキャー言わせるのは気分が良いだろうし、 写真家になって、個展を開いたり作品で賞を取ったりしながら、芸術家として 成功するのも悪くない。商社マンとして海外赴任を経験しながら、エリート街 道まっしぐら、というのも、実に魅力的な話だ。  が、三つとも、どうなるか先の保証のない話ばかりでもある。  オーディションの日は、偶然にも商社の役員が指定している面接の日と重な っていた。撮影旅行は、まあ、頼めば何とか延ばしてもらえるかもしれないけ れど、面接やオーディションの結果が出るまでに時間がかかるなら、そんなに 先まで延ばしてもらうのは無理だろう。  僕は、頭を抱えてしまった。時間はたくさんあると思っていたし、自分の道 なんて、その間にうまいこと選んでいけるだろうと思っていたのに、こんなに 一度にまとめて、決断を迫られる事態になるなんて。  オーディションに行って落ちたら、面接に行かなかったことを後悔するだろ う。何度も面接を繰り返した結果、結局採用されなかったら、撮影旅行を断っ たことを悔やむに違いない。総てを投げて、撮影旅行に行っても、良い写真が 一枚も撮れなかったら...ああ、もう考えたくもない。  何でも出来るっていうのは、良いことだと思っていたのに、こんなことにな るなんて。いっそのこと、一つのことだけに卓越した人間なら良かったのに。  ああ、才能があり過ぎるって言うのも、辛いものなのだな、と思った。  その時、不意にまた、電話が鳴った。僕は、また一つ、選択を突きつけられ るのかと思ったら、急に心臓を締め付けられているような胸苦しさを覚えた。  ああ、もう止めてくれ。僕を呼ばないでくれ。僕をそっとして置いてくれ。  電話は鳴り止まない。何時までも、何時までも、僕を呼び続けている。  僕は電話に近づくと、電話機ごと持ち上げて、思い切り床に叩き付けた。  電話は、静かになった。僕は思わず、ほっと安堵のため息をついていた。  Version 10  目を開けると、のどかな公園の風景が飛び込んできた。  空は、良く晴れ上がっている。上天気だ。残り少ない春休みを目一杯楽しも うとしているのであろう子供達の大きなはしゃぎ声が、あちらこちらから響い てきて、まるでサラウンドの映画のようだ。  僕は、大きく伸びをした。途端、自分が腰掛けていた木のベンチの堅さを感 じて、腰をさすった。年寄り臭い仕草だと思ったが、本当に痛いんだから、仕 方がない。  もう、随分と長い間、ここで昼寝していたような気がする。そう言えば、何 だか電話の音が鳴っていなかっただろうか。  僕は、懐から携帯電話を取り出した。ディスプレイには、僕の予想通りのメ ッセージが残されていた。  「チャクシンアリ」  どうせ、電話をかけてきたのは部長だろう。また僕が油を売っていると思っ て、チェックのために電話をしてきたに違いない。ホント、部下を全然信用し てくれないんだよな、あの人は。  気は重かったが、電話に出なかったことの言い訳をしておかなければならな い。かかってきた時間は、ほんの3分くらい前だから、今ならまだ、間に合う だろう。  僕は、メモリーで呼び出したオフィスの番号を、ダイヤルした。今年二年目 の桂木めぐみが電話に出て、部長は会議中だと言った。  「部長、僕に電話してなかった?」  僕がそう尋ねると、彼女はたぶんしていないだろうと言った。会議は始まっ たばかりだが、30分くらい前から準備に忙しくて、僕に電話するどころじゃ なかったらしい。  僕は、礼を言って電話を切った。それなら、一体誰なんだろう。僕の携帯電 話を、こんな時間に鳴らすような相手は、他に思いつかない。  いつもなら、別に気にもとめずに、次の得意先回りに急ぐはずなのに、今日 は何だか、やけにこのことが気になった。  一体、誰なんだろう。僕に電話をしてきたのは。  僕はもう一度、ベンチに深く腰掛けなおして、いろいろと考えてみた。  うららかな日差しが、かすかに吹いている風と一緒に、春の匂いを辺りいっ ぱいに広げていく。なんて気持ち良いんだろう。  仕事する日じゃないよなぁ。僕はそんな風に思った。電話に対する疑問は、 急に失せていった。  僕は、腕時計を見た。まだ、午後の早い時間だった。どうしようかなぁ、と 迷う気持ちとは裏腹に、僕は顔がにやにやと緩んでいくのを感じた。  決めた。今日はばっくれちゃえ! いつも怒られながら、我慢しながら、毎 日毎日頑張って仕事してるんだから、これくらい良いだろう!  僕は、颯爽とベンチから立ち上がった。気分はすかっと晴れていて、今日の 天気に負けないくらい、爽快だった。  タイを緩めて、僕は歩き出した。これから、どこへ行こうか。考えることは 楽しいことばかりで、まるで踊りだしたいくらいだった。  こんな些細なことで浮かれるなんて、と思いながらも、こんな小さなことが 幸せなんだよ、と思う。  ふと、夢なら覚めないで欲しいなあ、と思った瞬間、僕はほっぺたをつねろ うかと思ったが、やめた。  僕はそのまま、るんるん気分で公園を後にした。  その時、不意に、上着のポケットの中で、携帯電話が鳴りだした。僕は、懐 から電話を取り出すと、迷わず電源を切った。もう、誰からの電話でも構わな い。  今日の僕は、もう自由なのだから。