『反乱方程式 〜逆モ又真ナリ〜』



市野賢治   

カウントダウン開始


「もうだめっ! 我慢できない!」
 数学の田嶋女史がのっしのっしニ出ていったあと、小原恵美が叫んだ。ばんっと机を叩いて立ち上がると、つかつかと教壇に向かう。ポニーテールが怒りの大きさを表すように大きく揺れている。
 正面を向くと、また教卓を手のひらで叩く。
「みんな、くやしいと思わない!? なんでああまで言われなきゃならないわけ?」
 できない生徒をわざと指名して恥をかかせ、できる生徒の整然とした答案に満足してさらにできない生徒を批判する。学年最初のころは「そういう先生だ」くらいで済んでいたのが、特に最近鼻につく。そんな状態に、ついに恵美の堪忍袋の緒が切れたらしい。
「だからって、授業ボイコットするわけにもいかないでしょ? めぐ。相手は先生なんだから」
 菅野恭子が声をかける。
「一度! 一度でいいの! あの先生の鼻をあかしてやりたいの!」
「どうやって?」
 今日の槍玉に挙げられて精も魂もつき果てた様子の鈴木伸一が言う。
「ん・・・なんかいいアイデアない?」
 逆に聞き返す。
「なんだ、意見があってしゃべってんのかと思った」
 一番後ろの廊下側で梶原瞬が言う。
「瞬くん! あなたもそう思うでしょ! 田嶋先生の鼻、あかしてやりたいと思わない?」
「まあ、思うことは思うけどさ、その手段が思い浮かばないんでね」
 お手上げ、といった口調で瞬が答えた。
「怒られもしないで先生を困らせる方法・・・そんな便利な方法、あるわけないか」
 こちらもぐったりした声で田辺悦子がつぶやく。
「・・・ちょっと確認。あの田嶋先生を困らせてやりたいって企画に反対の人、いる?」
 恵美がクラスのみんなに言う。なし。
「じゃあ、賛成の人」
 クラスの大半が手をあげる。伸一は椅子の上に立ってまで手をあげている。
「ってことは、クラスの団結でなんとかしてやろうって気持ちは、みんなあるのよね?」
 何人かうなずく。
 と、一番前の席の大原かすみが恵美に声をかける。
「ね、めぐちゃん、田嶋先生ってできない人にわざと当てるじゃない? そこが問題なんでしょ」
「そうそう。かーさんそのとおり。・・・じゃさ、全員が全員きちんとした答え出てきたら困ると思わない?」
 恵美が何かひらめいたように言う。
「そうよね。みんな答えが分かれば苦労はしないわよね」
 疲れた声で悦子が言う。
「でもさ、これからずっとそうしなきゃなんないってわけじゃないでしょ? たとえば一週間後あたりに焦点合わせて、みんなで完璧に答えられるようにするの。一度だけ。どう?」
 恵美が提案する。
「一度だけでいいんだもんな。それ、いいかも」
「じゃあ、田嶋先生の行ってる他のクラスの進度調べて、一週間後の進度予定立てるのが先だな」
「数学得意な人は不得意な人に教える、というかたちね」
 あちらこちらで声が上がる。
「じゃあ、これでいい? みんな」
 恵美が言うと、クラスのみんながうなずく。
「そうすると、この企画は一人でもコケたらおしまいってことよね。できる人は進度の予測やできない人への説明、できない人は待ってないで自分からできる人に聞きに行く。そういう積極的な姿勢でないと成功しない。いい?」
 やはり全員がうなずく。
「じゃ、きまりね。では、不肖わたくしが音頭を取らせていただきます」
 毎度おなじみのセリフに何人かがくすくすと笑う。
「1C ファイト!」
 恵美の声に全員のこぶしが突き上げられる。
「おー!」
 元気なクラスだ。


 あと6日


 あれから数人が友人をつてに周囲のクラスの聞き込みに回った。田嶋先生はCからFまでの担当。ほかのA・BはA組担任の松木先生が、G・HはH組の担任の戸梱先生が担当する。これは数学Iに関してで、もう一つの数学AはひとつずつずれてC組には松木先生がくる。
「どうも一番進んでるのはF組らしいな。今日正弦・余弦定理やったって」
 特に数学のできる四人が選抜されて進度予測チームが組まれた。その一員の織田正和が言う。
「うちのクラスが昨日等式の証明をやった・・・ということは2時間ほど早いみたいだね」
 と、こちらは佐伯慎二。数学ではクラスでトップの成績だ。
「D組は今日方程式やったから1時間先、と」
 こちらは梶原瞬。メモ用紙に進度を書き込む。
「とすれば、週4時間の授業だから正弦定理から2時間プラスして・・・内接円・外接円のあたりか?」
 クラス委員長の中原譲が言う。
「遅くとも図形から面積、進むと距離測定などの応用まで行く可能性はあるかもしれないね」
 慎二がぱらぱらと教科書をめくる。
「ま、とにかく正弦・余弦の応用ってとこがメインだな」
 譲が締めた。
「で、伸一たちのほうは?」
「三角形の合同条件で詰まってたぜ」
 瞬が伸一の方を見て言う。
「大丈夫か? おい」
 心配そうに正和が聞く。
「一週間みっちりやれば何とかなるだろ。それに、なんとかしなけりゃならんでしょ」
 譲がそう言いながら立ち上がると、他の三人も問題集を広げるクラスメートに散っていった。


 あと5日


「だめ、もうギブアップ!」
 森本きみ子がついに音を上げた。
「しょせん私の頭ではついていけないのよ! 三角関数なんて知らなくても立派に生活できる! 必要ないものを勉強するのに費やすほど無駄な時間は私にはないわっ!」
 ほとんど半狂乱の状態で叫ぶ。教えていた佐伯慎二が困った顔で森本を見る。
 休み時間のほとんどを数学の予習復習に取られていたんでは、できる人でさえ嫌気がさす。ましてや不得意な人ならば。
 と、問題集片手に頭をかかえていた小原恵美が森本の席に歩み寄る。机の正面に、膝を折って下から見上げて言う。
「きみちゃん、叫びたいのはよくわかる。確かにね、三角関数が実生活に役立たないなんてみんなわかってる。でもね、ここであきらめたらきみちゃん負け犬だよ。これから先、何かいやなことがあっても、あきらめちゃえばいいやって気持ち、持つと思う。でも、ここで不得意なこと克服できれば、これからも頑張れるって思うんだ。ね、一緒にもう少し頑張ってみよ。ね?」
 じっときみ子の目を見て話す。
「うん・・・でもぉ・・・」
「わかった。座りっぱなしでストレスたまってるんだよ。踊り場行ってちょっと叫んでみない?」
 そう言うと、きみ子の手をとって階段の踊り場に向かう。
 みすず台高校の階段踊り場には、2・3階にはめ殺しのステンドグラスと換気用の引き違い窓がついている。1年生は一番上の3階にあるので、踊り場が大きく取られてちょっとした立ち話に最適の場所になっている。
「さ、きみちゃん。あなたの怒りを空にぶつけるのよ!」
 恵美が大きく窓を開けて、空に向かってびしっと指をさす。
 大きく息を吸うと窓枠から身を乗り出して叫ぶ。
「すーがくなんか、だいっきらいっ!」
 さすが投てき競技の選手。気合いが入っている。
「ど? すっきりした?」
「もいっぱつ、いいかな?」
 すこし気の晴れた表情で森本が言う。
「いっちゃえいっちゃえ!」
 後ろの声に振り向くと、何人かクラスメートが集まっている。
「どしたの? みんな」
「いや、おれ達も大声張り上げてストレス発散させようと思ってさ」
 鈴木伸一が言う。
「よーし、んじゃきみちゃん、もう一発、行けぇ!」
 この日から、休み時間ともなると3階の踊り場から叫び声が聞こえるようになったとかならないとか・・・


 あと4日


「あーあ、せっかくの土曜日なのに、あたしの青春は三角関数に費やされていくのね・・・」
 田辺悦子がため息混じりに窓の外を眺める。と、
「黄昏てないで問題解く! はい、つぎ例題6」
 小原恵美が赤ペン片手ににらむ。
「めぐちゃんこわいぃ」
「田嶋先生に勝つためなら鬼でも悪魔でもなってやるわよ」
 赤ペンを問題集に持ち変えて恵美が言い捨てる。しぶしぶシャープペンを走らせる悦子が聞く。
「めぐ、そんなに田嶋先生嫌い?」
「じゃあ悦ちゃんは好き?」
 恵美が聞き返すと、顔をしかめて悦子が答えた。
「だいっっっ嫌い」
 それを聞いて、恵美がにっと笑った。
「じゃあ例題8解いて」
「・・・鬼」
 悦子の言葉を聞き流して問題集に目を落とす。いくつか印をつけ、しばらく悩み込んだあと、クラスを見渡す。休み時間だというのにほぼ全員が問題集を開いている。端から見れば異様な光景かもしれない。
 立ち上がって教室を出て行く中原譲を追いかけるように、恵美も立ち上がる。
「ん? めぐ、どうしたの?」
「ちょっと失礼」
 そう言って譲を追いかける。何人かがその姿を見て意味深な笑みを浮かべたが、当然恵美は知るよしもない。
「あ、譲くん、ちょっとごめん」
 恵美が廊下の途中で追い付いて声をかけた。
「あの・・・今日ひま?」
 急に言われて譲はとまどった。
「えっ? 特に予定はないけど・・・」
「ね、つき合ってくれる?」
「ええっ!? お、オレが? ちょ、ちょっと心の準備が」
 顔を赤くして譲が答えると、恵美があわてて言う。
「あらら、ごめん。彼氏になってって意味じゃないんだけど。数学教えてもらいたくて」
「・・・なんだ。いいよ。どこで?」
 あきらかに落胆の色を浮かべて譲が言う。
「ここの図書館でもいいんだけど、お昼持って来なかったのよね、あたし」
「実はオレも」
 さっきの今で顔が赤いのを隠すようにぽりぽりと頬をかく。
「で、お昼おごるから午後から市立図書館あたりでどう?」
「いいよ割り勘で」
「そう? じゃ、おいっしーピザ屋さん知ってるんだ。駅前なんだけど、そこでいい?」
「駅前のピザ屋? そんな店あったかな? いいよ。ピザ好きだし」
「んじゃ、放課後待ち合わせ、OK?」
「はいはい。小原も頑張れよ」
 言われて一瞬びっくりした恵美が、親指を立てて胸を張る。
「まっかせなさーい!」
 教わる身分で任せろとはいかなる意味か、作者もよくわからない。
 ポニーテールを振り回すようにして元気よく振り向くと、悦子をはじめ何人かが教室の入口から顔をのぞかせている。視線が合うと一斉に首が引っ込んだ。
「こらっ! 覗き見する前に問題解けたのかぁ?」
 苦笑しながら恵美が言うと、はしゃぎながら席へ戻る悦子が言った。
「めぐちゃん、田嶋先生より恐いぃ」
 この一言で恵美が深く傷ついた。もちろんギャグで済む程度だが。

 で、ピザ屋。
「へえ、こんなビルの奥にあるんだ」
 恵美に連れて来られたピザ屋は駅前からちょっと外れた雑居ビルの3階。市立図書館からは徒歩でも近い距離にある。
「んーと、ここのお薦めは?」
 メニューを見ながらマスターと恵美に言う。
「ミックスとジャーマンかな? あたしの好みは。・・・でさ、ものは相談なんだけど」
 ちょっと身を乗り出して恵美が言う。
「・・・両方頼んで半分づつ、ってしない?」
 若干身を引けぎみにした譲が答える。
「いいよそれで。そんなの別に断らなくたって」
「そう! んじゃマスター、ミックスとジャーマン一つづつ、サイズM。と、あたしグレープフルーツジュースね。譲くんは?」
「そうだな・・・トマトジュースにしよう」
 と、恵美が驚いた様子を見せる。
「意外?」
「う、うん・・・やっぱわかる? あたしすぐ表情に出ちゃうのよね」
 両手で頬をこするようにして恵美が言う。マスターが意味ありげに微笑しながらカウンターに戻る。
「いいじゃないか。何考えてるのかわからないよりは。ところでさ、小原ってそんなに数学できるほうじゃなかったんじゃないか?」
「自慢じゃないけど二学期中間は赤点すれすれ」
「それでも田辺には教えてたじゃないか」
「ああ、悦ちゃんね。見てたの?」
 ぺろっと舌を出して恵美が言う。
「耳だけね。わりとわかりやすい説明してたから、感心した」
「ほんと? うれしいな」
 にこっと笑う。その笑顔に向かって譲が聞いた。
「・・・もしかして夜遅くまで勉強してるんじゃないのか?」
「ありゃ、そんなに顔色悪い? 体調は悪くないんだけどな」
 窓に映った自分の顔をのぞきこむ。
「いや、はた目には変わりないけどさ。何時頃までやってるんだ?」
「二時には寝てるよ」
 恵美の言葉に眉をひそめた譲が言う。
「・・・小原、いつか言おうと思ったんだけど」
「なになに? 告白?」
「茶化すなよ。いいか、確かに今回もおまえが言い出したことだし、責任を感じるかもしれない。でも、体壊してまでがんばって欲しいなんて、オレたちは思ってないんだ。6月の体育祭だって、かなり無理してただろ。それに2学期に入ってからだって・・・」
 譲の言葉をさえぎって恵美が言う。
「あ、いや、だって体育祭はあたしが勝手に考えてたことをみんなに押し付けちゃったんだし、肝心の体育祭の成績はよくなかったし、でも最終的にはみんな盛り上がったし、ほら、『終わりよければすべてよし』っていうじゃ・・・」
「ストップ。いいか、クラス全体でやるとなったら、責任は全員にある。一人でなんでもこなそうとするな。おまえの悪いくせだ。確かにおまえがやったほうが効率がいいしうまくいくかもしれない。でも、それじゃだめなんだ。みんなでやらなきゃ」
 譲も恵美を制して言う。
「うん・・・わかるよ。わかった。これから気をつけるね」
「あ、いや、そう恐縮されるとこっちも困るんだけどね」
 頃合いを見計らったように、マスターがピザを運んできた。
「わーい! んじゃ、いっただきまーす!」
 手を合わせて拝んでからピザに手を伸ばす。
「でも、小原ってよくやってるよなぁ。そんなにいろいろやってて、疲れないか?」
 恵美の食べっぷりを見ながら譲が言う。
「そう? まだまだやりたいこといっぱいあるんだけどな」
「おいおい、冗談じゃなく体壊すぞ。なんだってまたこんなに行動力があるんだか」
「だって、やらないで後悔したくないじゃない? やって後悔するほうがずっとまし。やって喜べれば最高。やらなきゃ喜べないんだし」
「確かにそうだけどさ。そう思ってても実行できる人ってそうそういないよ」
「そうかなぁ?」
「だってさ、やってみて失敗したり傷ついたりすると、どうしても二の足踏むだろう? もしかしてそういう経験ないとか?」
「ん・・・小学校のころはわりと目立ってたからいじめられたこともあったし、中学校に入っても集団の外にいたかも。何やっても失敗続きのころもあったよ」
「で、この性格? 信じられんなぁ」
 見る間に消えていくピザを見ながら譲が言った。
「だって、そのままじゃ結局負けじゃない。あたし、すっごく負けず嫌いなのよね。勝負ごとには絶対勝ちたいの」
「それが原動力? なんとなくわかる気はする」
「正直言うとね、近所に住んでた三つだか年上の男の子とよく遊んでてね、これが何やっても強いんだ。テレビゲームからスポーツから、編み物や料理まで負けちゃったりして、とんでもない人だったな」
 ちょっと手を休めて恵美が言う。
「へえ。それで?」
「何とかしてこの人に勝ちたい、と思って、いろんな事にチャレンジしたの。そのうちその人と一緒に新しい遊び作ったり、児童会の企画したりもしたな。それがだんだん面白くなって、その勢いが今に続いているのかも」
「ふーん。で、今その人は?」
 ちょっと間をおいて恵美が言う。
「うちの高校に入って生徒会でがんばってたらしいんだけど、おととし事故で亡くなったんだ」
「あ・・・ごめん、いやなこと思い出させちゃったかな」
「ううん。でも、結局何一つ勝てなかったのが悔しくてね。だから、この学校に入っていろんなこと頑張れば、そのひと越えられるかなって思うのも、要因の一つかな」
「・・・そっか。ところで、よく食うね」
 気づかない間に恵美の方の半分が、二枚ともきれいに消えている。
「そう? だってここのピザおいっしーんだもん」
「・・・オレの分、もう少し食べてもいいよ」
 失礼かとも思ったが、譲が申し出る。
「いいの? 意地汚いとか食欲魔神とか思ってない?」
 上目使いに譲を見上げる。
「思わないって。どうぞ召し上がってください」
 そういうと、さっきより遠慮ぎみに手が伸びる。
「しかし、普通の女の子ならデザートだの飲み物だのにこだわるもんじゃないか?」
「あたしにそんなの期待してどうすんの? そういうのだったらかーさんとか悦ちゃんを誘うといいよ。彼女たち甘いもの大好きだから」
「いや、実はオレ甘いものダメなんだよ。カレーなんかも辛口志向だし」
「うん、そんな感じ」
 それを聞いて、譲は悩んだ。
「そんな感じって・・・外見が?」
「ううん。だってピザ食べるとき、かなりタバスコかけてたじゃない。飲み物トマトジュース選ぶくらいだし」
「・・・観察眼鋭いね」
「まっかして。でも、それだけに見たくないものも見えちゃうけどさ」
「何が?」
 不審げに聞く。
「確かに今回の企画はかなり難しいと思うんだ。実際何人か脱落しそうになったし」
「森本のことか? 絶叫してからずいぶん調子いいって慎二が言ってたけど」
「きみちゃんだけじゃないんだ。他にも何人かやめちゃおうとかついてけないとか言ってたし。昨日は面と向かって言われた」
 眉間にしわを寄せて譲が聞く。
「誰だそれ。みんなで決めたことだろ」
「それは言えない。これはあたしの仕事。でしょ?」
「そうかな? むしろ委員長のオレに回ってくる事だと思うけど。とにかく、他に回せる仕事なら、がんがん回すこと。いいか?」
「うん。それじゃさっそくお仕事。数学のほう、よろしくね。そろそろ行こ」
 すっかり平らげたピザの皿を残して、立ち上がった。


 あと3日

 陽乃咲市の図書館は駅に近く、しかも四階建の大きな建物で、利用者は多い。休みともなれば、一階の閲覧室はほぼ満員の状態だ。だから、開館十分ほど前から行列ができる。
 小原恵美もこの日早起きして図書館にやってきた。
 参考書を横目に問題を解いていると、斜め向こうの席に、見慣れた二人が座っている。佐伯慎二が恵美に気づいたようだが、正面の森本きみ子に向き直った。
「ふーん、そういうことかぁ」
 恵美に見つかったのが原因なのか、遠くからでも慎二の顔が真っ赤になっているのがわかる。いつのまにかそういう関係になっているらしい。ちょっとうらやましい気持ちで二人を見るが、思い直したように問題集に取り組んだ。
 11時を過ぎて、ホールで缶紅茶を飲んでいると、中原譲と梶原瞬が入ってきた。
「お、小原、やっぱりここか」
「あ、おはよっ」
 元気よく手を挙げる。
「おはようって時間じゃないと思うぞ」
 瞬が突っ込む。
「小原の家に電話したら出かけたって言うからさ、もしやと思って」
「なになに? デートの誘い?」
 にっと笑って恵美が言う。と、譲が真剣なまなざしで恵美を見て、言う。
「そう」
「ええっ!? ほ、ほんとに?」
 真っ赤になる恵美。それを見て、なおも真剣な表情で譲が言う。
「うん。問題集とデート」
 恵美ががくっと肩を落とす。
「・・・あっそ。昨日の復讐だな」
「えっ? なんのことだろう」
 あさってのほうを向いて譲が言う。
「まったく、とぼけちゃって。いいよいいよ。はい! ヘロンの公式教える! ぐずぐずしない!」
 譲の腕をとって自分の席へと引っ張る。と、瞬が慎二を見つけた。
「お、慎二もいるじゃん」
「きみちゃんもいるから、そっとしとこ」
 恵美の声で後ろ姿の森本を確認すると、瞬が言う。
「おや、クラス四組目のカップルか? いいねぇ相手のいる人は」
 瞬が横目で恵美を見下ろして言う。
「なにか言ったぁ? 自分も独り者のくせに」
「そういうの、『同病相憐む』って言うんだよな」
 冷めた口調で譲が突っ込むと、瞬と恵美が同時に言った。
「あんたも!」
 つい大声になって3人が同時に首をすくめた。

 昼を少し過ぎて、瞬が空腹を訴え出した。昼食を取りにホールを出るところで、大原かすみとばったり出くわした。
「あ、よかった。間に合った」
「何が?」
 恵美が聞く。
「お昼まだでしょ? サンドイッチ作ってきたからさ、みんなで一緒に食べない?」
「おっ、大原の手作り? そりゃ楽しみだ」
 瞬がさっそく反応する。
「天気もいいし、外で食べよ。東屋にみんな集まってるから」
「みんな? みんなって・・・」
 不審げに譲が聞く。
「あ、ちょっと声かけたら20人近く集まっちゃって。他の女の子たちもいっぱい来てるよ。体育祭で慣れてるし」

 体育祭で何があったかというと、実はこうだ。
 1年C組には、他のクラスと同様に何人か寮生活の生徒がいる。体育祭は日曜にやるので当然昼食はなし。つまりは弁当を買ってくるしかない。
 それじゃおもしろくないというので、女子全員が一・二品づつ持ちよって、バイキング式の昼食にしようということになった。出来合いのものや解凍のみというのは当然ながら面白みに欠ける。男子全員にアンケートを取って食べたいものをリサーチし、それを女子が分担して作ってくるという形になった。料理の下手な子は上手な子に教えてもらったり、ある家庭に泊まり込んでお母さんたちに教えてもらったりと、楽しみながらの企画であったこともあって、当日の昼食は大いに盛り上がったという次第。
 で、この企画の発案者が、小原恵美というわけだ。見えないところで家庭への電話や振り分け、材料の買い出しまでやっていたことまで知っているのは数少ないが。
 ちなみにこれでカップルが2組ほどの副産物ができた・・・らしい。

「・・・ほんとに20人はいるよ・・・」
 ちょっとびっくりした口ぶりで恵美が言いながら、輪の中に飛び込んでいく。
「よっぽど暇なんだな、あいつら」
 瞬の言葉に譲が突っ込む。
「同類が何を言うのかな」
 それをさらに瞬が言い返す。
「今日の言い出しっぺはおまえ。小原にバラすぞ」
「別にバラされても支障はないけど。それよりおまえの食うものなくなるぞ」
 矛先を変えると瞬が飛んでいった。
 昼食会の後勉強会に・・・ならないのがお約束だが、今回に限りそうならなかったのは、恵美の仕切りと、それ以上に強力な譲の指導力に他ならない。


 あと2日


「空間図形終わったぁ!?」
 中原譲が叫ぶ。
「D組って昨日正弦・余弦定理だったじゃないか」
「そう。それが一日で山の高さ測定までやっちゃったんだと」
 ため息混じりに梶原瞬が報告する。
「なんだってまた? 内接円とか飛ばしたわけじゃないんだろう?」
「えっと、誰だったかな、美土里原中から来た大崎だっか、それがぺらぺらと答え言っちゃったもんだから、とんとん拍子に進んじゃったんだと」
 騒ぎの様子を聞きつけた佐伯慎二が言う。
「そうか、それってうちのクラスの場合にも言えるね。かなり先を見とおしてやっておかないと、最後の最後で解けない問題でてくる可能性があるよ」
「じゃ、やっぱ立体の切り口まで範囲伸ばすか?」
 と、小原恵美も集団に顔を突っ込んできた。
「なんかまずいことあった?」
「あ、小原か。ちょっと範囲が伸びそうな雰囲気なんだ」
 譲が言う。
「うぇー、これ以上伸びるの? 大丈夫かなぁ」
 田辺悦子と鈴木伸一が聞きつけて眉をひそめる。
「いや、実際考えてみればみんながすらすら答えていかなきゃこの企画はうまくいかないわけだろ? ということは、一気に進度が進んじゃうってことだよな?」
「そ・・・うだよね、考えてみれば。どこまで行きそう?」
 恵美が教科書をのぞきこむ。
「155ページくらいまでいけば余裕持ってカバーできると思うんだけど」
「あと4ページ!? 無理だよ無理!」
 後ろから声が上がる。
「今から解き方の説明作るから、それまで問題集やっててくれ」
 と、廊下から織田正和が走りこんできた。
「朗報! 次の数A自習!」
「よっしゃぁ! 松木先生自習課題作らない人だから、1時間まるまる使える!」
 瞬が言うと、譲も数人に分担してマニュアル作成にかかる。と、恵美が教壇に立ち、檄を飛ばす。
「勝機は我らにあり! 皆のもの、あと一息、あと一息の辛抱じゃ! こらえてくれい! ここが正念場じゃ!」
 拳を突き上げながら老人ぽい声で恵美が言うと、笑い声とともに「おお!」というノリのいい返事が上がった。
 こういうときに笑いの取れるクラスが、1Cである。


 あと1日


「これもできないの? 前回やったところよ。あいかわらずできない子ねえ」
 指名された鈴木伸一が力なく「わかりません」と答えると、田嶋先生が野太い声で言った。
「じゃあ、中原君、こっちきてやってちょうだい」
 黒板に書かれた問題を解く中原譲。普段ならわりとすらすら解く譲が、今回は黒板の隅で検算したりしながら解く。ようやく、という感じで解きおえて席に戻ると、田嶋先生が簡単に解説する。
 解説が終わるとほぼ同時にチャイムが鳴って、授業は終わりだ。
「きりーつ、れー、ちゃくせきぃ」
 無気力な号令でばらばらの礼をほとんど見ないで、田嶋先生は出ていった。
 と、小原恵美と田辺悦子が譲に近寄ってきた。
「どしたの譲くん、あたしたちにかかりっきりで勉強できなかった?」
 心配顔で悦子が聞く。
「ん? ああ、さっきの授業? わざとだよわざと。下手にすらすら解いちゃうと次のところに進んじゃうと思ってね。それより、伸一」
 三つ後ろの席の伸一に向かって言う。
「あの問題教えただろ? もう忘れたか?」
 と、伸一はにこっと笑って言った。
「もちろんばっちりよ。ただ、いきなり問題が解けたんじゃ変に思われるし、譲とおんなじで進度調整の意味もあるのさ」
 親指を立てて自信ありげに言う。
「あちゃー、みんな考えてるんだぁ」
 悦子が言う。と、伸一が教壇に立って、教室を見渡しながら言った。
「皆のもの、よくぞ耐えてくれた! いよいよ決戦は明日、6時間目に迫った! おのおの、手抜かり無いよう、用心してくれい!」
 シャープペンを高々と突きあげ、檄を飛ばす。
「おおっ!」
 全員の声がそろった。


 いよいよ当日


 昼食もそこそこに問題集に取り組む1Cの集団。5時間目のチャイムと同時に数学の問題集は姿を消して授業に取り組む。そして終了のチャイム。
 休み時間。
 今までにない緊張感とともに、今、開始のゴング・・・もとい、開始のチャイムが鳴った。
 チャイムとほぼ同時に田嶋先生が教室に入る。
「起立。礼。着席」
 何となくいつもとは異なる雰囲気を感じたのか、田嶋先生がクラスを見渡す。
「えーでは、前回の復習から。鈴木くん、正弦定理とは?」
 いつものいやいやながらではない、堂々とした気概で伸一が立つ。
「a/sinA = b/sinB = c/sinC = 2R です」
「はい、そうですね。さすがに覚えてきましたか。では、大原さん、余弦定理は?」
「cosA=(b2+c2-a2)/2bcです」
 多少おや? という表情で、次の生徒を指名する。いくつかの問答のあと、教科書を開く。
「では、今日は三角形の面積を求めます。例題4を見なさい」
 簡単に説明する。説明というより教科書を読むだけだ。
「・・・ということです。では、問題3を・・・坂本君、町田君、千鳥君、島本さん、村上さん、日下部さん、黒板に出てきて解きなさい」
 それだけ言うと、どっかと教卓の椅子に座り込む。以前は教科書に挟んで文庫本を読んでいたらしいのだが、何年か前に問題になったそうで、今はさすがに持ってきていない。とはいえ、たまに眠り込むときがある。熟睡してラッキーと思った時もあるが、「なぜ起こさないの」と逆に怒られたこともある。
 と、ふだんの半分も経たないうちに全員が回答を終え、席に戻る。
 若干拍子抜けした表情で黒板を見、間違いのないことを確認して、赤チョークでポイントに印をつける。
「この、日下部さんの証明した数式、S=√s(s-a)(s-b)(s-c)を、ヘロンの公式と言います。覚えておくように」
 言いながら、ぱらぱらと教科書をめくる。
「面積が出たので・・・149ページを見なさい」
 一気に3ページも飛んだ。予習してきたことに気づいたようだ。
「三角関数の応用です。例題6を見なさい」
 文章問題だ。数学の嫌いな人は、これが一番のネックになる。いきなりそこをついてきたということだ。
「この手の問題はどこに三角形を作るかということがポイントになります。では、問題7を・・・田辺さん、森本さん、鈴木くん、角くん、解きなさい」
 きたきた。一気に四人、できない生徒に指名してきた。
 しかし、今日は違う。すでに何回も同じ問題を解いて、慣れている。今までにないほどすらすらと解き、得意満面で四人が席へ戻る。
 不審と不満といっしょくたにしたような表情で田嶋先生が黒板を見つめる。ケアレスミスを探そうと必死の様子だ。
「・・・いいようですね。ではこの応用で高さを求めます。空間図形の応用ですので、簡単ですね。問題8を・・・飛ばします」
 クラス内に緊張が走る。
「巻末問題の4、これを・・・中原くん、佐伯くん、織田くん、梶原くん、解きなさい」
 矛先を変えてきた。できない生徒に当てても無駄だと思ったのか、逆にできる生徒に当ててくる。しかし。そんな程度で揺らぐような1Cの結束ではない。
 四人が四人とも正確な図を書いて補助線を引き、答えを書いて席に戻る。クラス全員の顔が正面の田嶋先生に向いている。
「・・・では、これの応用問題をやりましょう。黒板に問題を書くので、それを・・・小原さん、解きなさい」
 黒板消しで全面を消すと、問題を書きはじめる。

「球面S上に4点A・B・C・Dがあり、3点A・B・Cを通る円の中心をPとすると、線分DPはこの円に垂直になるとする。さらに、AB=2、AC=4、BC=√7であるとき、1・三角形ABCの面積、2・APの長さ 3・球Sの半径を求めなさい」



 問題を書いている途中から、恵美の前後左右のクラスメートがかりかりとシャープペンを走らせる。恵美の2つ前の席の譲がノートを破って解き方らしきものを書いてくれているようだ。
 田嶋先生が問題を書きおえると同時に恵美が立ち上がり、手を後ろに組んで黒板に向かう。
 恵美が横を通るとき、田嶋先生に見えないように譲が切れっ端を机のはじに突き出した。が、特に歩く速度をゆるめる気配もなく通り過ぎる。譲が心配そうに後ろ姿を見る。
 と、恵美が後ろ手に組んだ右手でピースサインを作っている。クラスのほかのみんなにも見えたのか、周囲に安堵の雰囲気が流れる。揺れるポニーテールも自信ありげだ。
 恵美はチョークを取り、一気に解答を書いていった。

「1
平面ABCと球Sの切り口との関係は、ABCを頂点とする三角形と外接円との関係となる。
よって、余弦定理より
cosA=(AB2+AC2-BC2)/2*AB*AC
=(22+32-√72)/2*2*3
=1/2
よって、
sinA=√(1-cos2A)
=√3/2 (sinA>0より)
ゆえに
△ABC=1/2*b*c*sinA
=1/2*3*2*√3/2
=3√3/2・・・(答え1)


Pは△ABCの外接円の中心であるから、APは外接円の半径である。よって正弦定理より
AP=√7/2sinA
=√21/3・・・(答え2)


球の中心をOとすると、球Sの半径はOAである。
外接円の直径はADよりも小さい(2AP=√(84/9) <AD)ので、球の半径をrとすると、三平方の定理より
r2=AP2+OP2
=AP2+(PD-r)2
r=24/√123=(8√123)/41・・・答え3」


 書きおわって田嶋先生のほうを見る。半分あっけに取られたような表情で、口が半開きになっている。
 意気揚々と席に戻る恵美に、譲が親指を立てて、笑顔を見せる。
 恵美が席につくと、田嶋先生はしばらくにらんでいた黒板から目を離して、簡単に説明を加えた。
 説明が終わって田嶋先生は立ち往生する。本来やるべき問題を飛ばして進んでしまったため、いまさら元に戻って問題をやるわけにもいかず、かといって手持ちの問題はすでにない。
 しばらくの沈黙のあと、チャイムが鳴った。
「起立っ! 礼っ! 着席っ!」
 別に合わせたわけでもないのに、一糸乱れぬ姿勢で礼をし、着席する。
 ぶつぶつと何事かつぶやきながら田嶋先生が出て行く。教室の一番後ろに座る瞬が、田嶋先生の後ろ姿が見えなくなるのを確認して腕で大きく丸を作る。
「やったっ!」
 と、あちこちで歓声があがった。万歳三唱をするものもいる。
 何人かが恵美のもとへ走ってくる。
「めぐ、ありがとっ!」
「いやあ、気分いいよなぁ。あの顔見たか?」
 握手まで求められる。
 これだからやめられないのよね、と恵美は思う。
「あー、んでも、今回あたしって特に何にもできなかったし・・・そうそう、譲くん!」
 譲の周囲にもできている人垣をかき分けて行く。
「譲くん! 今回はありがと! 譲くんいなかったら、この企画だめだったかもしれない。ほんとにありがと!」
 ぶんぶんと握手したまま手を振る。
「何、立案者がいないと企画は始まらないよ。そういう意味では今回も恵美に感謝しなきゃ」
 きょとんとした恵美に、もう一度譲が言う。
「ん? 何か変なこと言ったか?」
「いやいや、別に。さーて、一本締め、行こうか!」
 教卓へと走って行く。
「では、不肖わたくしが音頭を取らせていただきます!」
 全員が大きく手を開いて用意する。
「いよぉーっ!」
 パンッ!
 柏手が一つ、大きく響いた。
「お疲れ様!」
 全員が全員に。そういう一体感のあるクラスだ。
 そして、また恵美たちを中心に集団ができる。しばらくもみくちゃにされたあと、恵美が譲の姿を見つけて近づいて行く。そのまますれ違いざまに、恵美が短く言った。
「恵美って呼んでくれたの、はじめてだよね」
 びっくりした譲が振り向くと、太陽のような笑顔が輝いていました、とさ。



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