その一瞬の君を
海風わたる
挨拶を交わしながら、昇降口で上履きに履き替えた。
階段を上りG組の前を通り過ぎようとしたら、後ろから呼び止められる。
誠二だった。
「おぉ、智。今日は遅いじゃん」
「ちょっとね。誠二はいつもより早いんじゃない?珍しく」
「ちぇっ、言ってろ。…そ〜いえば、おまえンとこの部長サンが、おまえのこと探してたぜ。なんか、急ぎっぽかったけど」
「片山先輩が?…う〜ん。ヤな予感」
ゲッという顔をしたぼくに、誠二が頷く。
あの部長の用事なんて、ろくなモンじゃないに決まっている。
どうか部内のつまらない用事でありますように、と祈るぼくに、誠二はニヤリと笑った。
「ま、とにかく急いだ方がいいと思うぜ。ねちねち言われる前にさ」
訳知り顔の誠二に苦笑しながら頷き、隣の自分の教室に入る。
2年H組。誠二のいるG組に比べ、活気のない事おびただしい。外の喧騒に混じって、教科書や参考書のページを繰る音が聞こえてきそうだ。
ぼくは、口の中でぼそぼそと挨拶を呟いた。カバンを置いて、そそくさと教室を出る。
これがなければ、もう少しマシな一日の始まりになるんだけど、と、教室を出たところでため息が出た。
気を取り直して、部長を探すことにする。
部室に行ったが、朝飯を食ってる連中しかいない。期待せずに聞いてみると、そのうちの一人が言った。
「職員室じゃねぇの?さっき、書類みたいなの持って出てったぜ」
「ホント?さんきゅ」
まさかぼくに用ってのは、職員室に書類を届ける、なんて簡単な事じゃないだろうし…と考えながら職員室へと向かう。
職員室の前まで来ると、ちょうど部長が出て来たところだった。
「片山先輩」
「…ん?椎名か。探してたんだ。おまえに頼みたい事があんだよ」
にやっと笑った先輩の顔が、嫌な予感的中を告げていた。
ここじゃなんだから、と部室まで引っ張って行かれたおかげで、予鈴後バタバタと教室に戻る羽目になった。
1時間目は数学。間に合わなかったらヤバい。
階段を上り終えてホッとしたぼくの目に、教室のドアを開けようとしている女の子が映った。
あぁそうだ、あの娘だ。一人納得しながら、ぼくは彼女に声をかける。
「永瀬。おはよう」
彼女がびっくりしたように、パッと振り向いた。
「…なんだ。椎名君か。おはよ」
「なんだはないでしょ。…遅刻ぎりぎりだね」
ちょっと意地悪な言葉を、彼女は「そうね」と、さらりと受け流す。
ぼくは、少し意地になる。
「遅刻とか、平気なんだ?」
「って訳じゃないんだけど。ちょっと事情があって」
「事情って?」
「事情は、事情よ。椎名君には、関係ないわ」
シャット・アウト。いかに鈍いぼくにでも分かる。
「あ、あのさ…」
少し気まずい思いのぼくの言葉を、彼女は「センセ、来た」と小声で遮ってドアを抜ける。慌てて、ぼくも彼女に続いた。
授業が始まった。ぼくは、斜め前の彼女をぼんやりと眺めていた。
意識の半分で、さっきはまずかったよな、と思いながら、もう半分で、可愛い娘だと思う。確かに、先輩の言った通り。
肩より少し長めに切り揃えられた髪を、ノートに屈み込んだ彼女は何度も耳にかける。かけてもかけても落ちてくる髪が、かなり邪魔みたいだ。
その様子にクスっと笑ったぼくは、ふと先輩の頼みを思い出して、心の中でため息を吐いた。
「椎名のクラスにさ、永瀬って娘がいるだろ?」
「は?”永瀬”ですか?」
「そう。永瀬沙樹」
言われて、ぼくは頭を捻った。
「名前だけじゃ…顔見れば、分かると思いますけど」
「可愛い娘だよ。分かんないかなぁ?…ま、いいか。で、頼みってのはさ…」
先輩は、耳を貸せ、と、ぼくを手招きした。
「写真ですかぁ?そんなの自分で撮って下さいよ。先輩は、かりにも写真部の部長じゃないですかぁ」
呆れているぼくに、教室での自然な姿や部活の時の写真が欲しいんだと、先輩は言った。
「おまえ、アルバムの制作委員の写真担当だろ?どこでだって、堂々と撮れるじゃないか」
「でも、教室では…」
「おまえねぇ…。写真部だろ?写真部の人間が教室でカメラいじくって、何が悪いんだ?俺が2年の教室の前をうろつく方が、よっぽど変だぜ。頼むよ、椎名」
そして結局ぼくは、やっぱり言いくるめられてしまったのだった。
授業が終わった後、とりあえず情報を仕入れに誠二の所へ行った。少なくともぼくよりは、誠二の方が女の子の情報に強い。
「永瀬?…あぁ、あの娘。確か、バスケ部だったかなぁ。部長だか副部長だか、やってると思ったけど」
「ふぅん。強いの?」
「女子バスケ?まっさかぁ。弱小運動部の多い我が校の中でも、とりわけ弱い部の1つじゃない?」
「弱小って…。誠二だって運動部じゃない」
「オレ?そ〜だよ。弱小テニス部で、軟弱テニスを楽しんでるんだもん」
あっさり言い切った誠二に苦笑した。
「…そうそう。永瀬ってさ、バスケとかバレーのやつらの間では、結構人気あるみたいだぜ」
「なんで?」
「知らね。大崎とか八木なんかが、そう言ってた」
「ふ〜ん」
誠二に礼を言い、ぼくは教室に戻った。教室に入った時、偶然にも彼女と目が合う。だが、すっと逸らされてしまった。少し、面白くなかった。
次の時間からも、ぼくは彼女を見続けた。ちょっと可愛いってだけで、取り立てて何かを持っているとは思えないけど、と意地悪く思いながら。
放課後、部室に寄ったぼくは、サブで使っているカメラをポケットに滑り込ませた。手の中にすっぽり収まってしまうくらいに小さなそのカメラは、スナップを撮るにはもってこいだったからだ。
体育館に入ると、女子バスケは、紅白試合をしているところだった。
彼女がコートにいる事を確認したぼくは、体育館の壁に沿ってぶらぶら歩いた。もちろん、意識はしっかりと彼女に向けながら。
髪を結んだコートの中の彼女は、教室にいる時とは少し違うように見える。
彼女が走る。身を屈めてボールを奪う。ドリブル。囲まれた隙間を縫ってパス。そして、走る。指示と掛け声。ジャンプ。ボールを取った。そのまま、シュート。…入った。
大きく腕を振って、彼女が自軍のゴールへと戻る。
一瞬の停滞もない彼女の動き。
信じられないほどスムーズな、嘘みたいな試合運びだった。
ふと、ぼくは足を止めた。
教室での彼女と今の彼女との違いが、見えたような気がしたのだ。
ぼくはポケットの中からカメラを出し、ファインダーを覗いた。動きが速いからブレるかな、と思いながら、シャッターを切る。
そしてぼくは、カメラに入っているフィルムを一本丸々撮って、予備のフィルムを持ってこなかった事を後悔しながら、体育館を後にしたのだった。
学校からの帰り道、フィルムを現像に出した。結果は、明日だ。
翌日、昼休みに写真を受け取りに行った。
学校に戻り、先輩の目がないことを確認して、袋から写真を取り出す。
もともと、それ程期待はしていなかった。写真の出来も、モデルにも。
カメラもカメラだし、何よりぼくは、人物写真なんて撮ったことがなかったのだから。だが、何枚かを見ていくうちに、ぼくは急にドキドキしてきた。
ピントは甘い。構図もメチャクチャだ。はっきり言って、どうしようもない写真の中に、それでもなお光る何かがあるように思えたからだ。
撮りたい、と思った。ちゃんと撮ってみたい、と。
ぼくは、決心した。
その日から、ぼくは一眼レフと何本かのフィルムを抱えて、放課後の体育館に日参するようになった。
ファインダーの中で、汗が、彼女が光っていた。
ぼくは夢中でそれを追い続けた。
ぼくの毎日は、彼女で埋め尽くされていった…
「椎名君」
そう呼び止められたのは、先輩に頼まれてから――つまり、放課後の体育館に行くようになってから、2週間ほどたったある日のことだった。
聞き馴染んだ声に内心ドキッとしながら、平静を装って振り返る。
彼女が立っていた。
「…あぁ、永瀬。なに?」
動揺が、声に出なかっただろうか?
「ちょっと、いい?」
促されて、ぼくは後に従った。
永瀬が足を止めたのは、あまり人の来ない、講堂へ上がる階段だった。
その踊り場で、彼女はくるりと振り返り、言った。まだ階段を上りきっていないぼくの目の前に、綺麗な手が差し出される。
ぼくは、彼女を見上げた。
「返して」
一瞬、唐突な言葉に面食らう。すぐに、それがフィルムを指していると気付いたが、やや焦り気味にしらばっくれる。
「返して、って、何を?永瀬に借りてる物、あったっけ?」
「とぼけないで。分かってるんだから」
「だから、何を分かってんのさ?」
「…写真。撮ってたでしょ、私の」
「あれは、アルバム制作の…」
「嘘よ」
言い切られた。その後に続くはずの言い訳の全てを、僕は飲み込んだ。
「お願い。椎名君、頼まれただけなんでしょう?」
ため息交じりに、彼女は言った。
「頼んだ人も、分かってる。写真部の片山でしょ?あぁ、もう。よりによって…」
「ちょ、ちょっと待ってよ。なんで永瀬が…?」
「椎名君、知らない…のか。いいわ。教えてあげる。あいつがどういう人間か」
教えてもらわなくても、もううんざりするくらい知ってるよ、と言いかけて、いや待てよ、と、ぼくは考え直した。
もし、ぼくの知らない先輩を彼女が知っているというのなら、聞いてみるのも悪くない。もしかすると、それは先輩の弱みだったりして、ぼくはもう、二度と先輩のために苦労することなんてなくなるかもしれないじゃないか。
先輩から何か頼まれると、それには必ずと言っていいほどトラブルというおまけがついてくる。しかもぼくは、そんな頼み事でさえ断れないときた。
その理由の一つは、ぼくがお人好しであること。これに関しては、誠二に太鼓判を押されるほどだ。
そしてもう一つの理由は、ぼくが先輩を尊敬してしまっているということだ。正確には、カメラマンとしての先輩の腕を、だけれど。
先輩の撮った写真には、それはもう鳥肌の立つほど凄いものがある。
ぼくが初めて見たのも、そんな一枚だった。
それまでカメラになど興味を持たなかったぼくが、気紛れだったにせよ貯金をはたいてカメラを買ってしまったくらいだ、と言えば、その時のぼくの気持ちを少しは分かってもらえるだろうか?
そして、胸ときめかせ写真部に入部したぼくは、あんなにもぼくにショックを与えた写真を撮った人の本当の姿を知ることになった。
入部前、かなり憧れていたその人は、実はとんでもない性格をしていた。
あれはもう、性格破綻者だと言ってもいいのではないだろうか。あの外面の良さ一つとっても…。
だが、それを知った頃には、既に時遅し。ぼくは先輩に、すっかり絡めとられていたのだった。
そして今、その先輩の姿に新たな一面が加わろうとしている。
それが、ぼくにとって吉と出るか凶と出るか。
聞きたいような、聞きたくないような、妙な居心地の悪さの中で、ぼくは彼女の次の言葉を待った。
「あいつ、昔っからああなのよ。ホント、困っちゃう」
「昔っから、って。永瀬、先輩と知り合いなの?」
「え?…あぁ。従兄弟だから。あいつ、椎名君が撮った写真、どうするつもりだったんだと思う?」
「どうする、って、そこまで考えなかったけど…」
「そうよねぇ…。椎名君、そこまで気が回らなさそうだもんねぇ」
ちょっとカチンとくる。でも、今回に限っては実際そうだったのだから、何も言わずにおいた。
「和臣…あ、あいつ、片山和臣って言うんだけど、和臣ってね、私が中学生の時から私の写真で商売してんのよ」
「商売ぃ?」
「そ。自分で撮った、私の写真を売るの。全く、何考えてんのかしらね。で、いい加減頭きて絶交を言い渡したんだけど、今度は写真部の部員に撮らせるなんて姑息な真似するようになって。…というわけで、私、写真部の人間には神経質なんだ。だから、椎名君が体育館に来た時ピンときたわ。あ、和臣だな、って。それに、椎名君、写真撮ってるの隠さなかったしね」
そう言って、彼女はクスッと笑った。
きまり悪くて、ぼくはどんな顔をすればいいのか分からなかった。
「どんな写真、撮ったの?」
呆然としているぼくに、彼女が聞いた。
「えっ?どんなって…そうだなぁ。えっと、カメラ雑誌に載ってるような、そんな感じのヤツ」
「ふぅん、そっか」
そう言ったきり、彼女は黙り込む。何かマズい事、言っただろうか?
「…あの、永瀬?」
「えっ?…あ、ごめんね。うん。なんか、今回は違うかもしれない」
「違うって?」
「うまく言えないけど…椎名君は、盗み撮りしてくれ、って言われたわけじゃないみたいだし…」
そう言われて、ぼくは考えてしまった。確かに、盗み撮りを頼まれたわけではない。もしそうなら、いくらぼくでも断っている。
「…でも多分、同じ事なんだと思うよ」
「どうして?」
「確かに盗み撮り――ってことは、スナップだよね、それでいいから、とは言われなかったけど、ちゃんと撮りたいってのは、ぼくの勝手だし…。なにより先輩のことだから、用心には越したことがないと思うけど」
「ふぅん?」
これは面白い、という顔で、彼女がぼくの顔を覗き込む。
「な、なんだよ」
「椎名君、私に味方してくれるんだ?じゃ、フィルム、くれるわよね?」
彼女の言葉に、ぼくは詰まった。
もちろん、先輩が売るつもりで写真を撮ってこいと言ったのなら、先輩に渡しはしないけど、だからと言って…
「…ごめん。フィルムは、渡せない」
きっぱりと言う。
当てが外れたという顔で、肩をすくめながら彼女が言う。
「椎名君なら、分かってくれると思ったんだけどなぁ。義理堅いのね。…それとも、和臣が怖いのかな?」
挑発のような、軽蔑のような彼女の言葉に、ぼくは不思議と笑みを誘われた。
「いや。ぼくは義理堅くもないし、先輩を怖がってもいないよ」
「じゃ、なぜ?」
「これはもう、先輩に頼まれたから、って、やってるわけじゃないから」
彼女は首を傾げて、どういう事?と言った。
「うん。例えばぼくが、先輩に頼まれたから永瀬を撮った、とするよね」
「そうなんでしょ?」
「ん、それはまぁ、そうなんだけど。でも、それだったらぼくは、フィルム一本分の写真を撮って終わりにする。何日も永瀬を追いかけたりしないよ」
「じゃ、なんなのよ?」
彼女がじれったそうに言った。
「永瀬が撮りたくなったんだ。ぼく自身の意志で。ずっと毎日永瀬を追いかけてきて、やっと永瀬を少し分かりかけてきたところなんだ。だから…」
永瀬の輝きを撮らせて欲しい!と、一気に言って、ぼくは頭を下げた。
しばらく沈黙が続いた。
顔を上げたら、彼女が、絶対に駄目!と言うのではないかと恐れながら、ぼくはゆっくりと顔を上げた。
彼女は顔を真っ赤にして、絶句していた。
「な、永瀬?」
予想外の反応に戸惑いながら、そっと小声で名を呼ぶ。それで、彼女はようやく硬直状態から元に戻った。
「よ…よくそんな恥ずかしいこと…!」
真っ赤な顔で、彼女が言う。
彼女の輪郭を、踊り場の窓から入る光が縁取っている。
撮りたい、という衝動が、ぼくの身内を走った。
「頼むよ。一生のお願い」
反射的に頭の中でカットを決めながら、ぼくは言う。
幾分は…多分、見惚れながら。
彼女がぼくの表情に何を見たのか、再び言葉に詰まる。そして、ようやく押し出したのだろう言葉は、少しだけ、震えて聞こえた。
「…分かったわよ。全く…」
「じゃ、撮らせてくれるんだね!?」
小踊りせんばかりのぼくの目の前に、彼女は人さし指をピッと立てた。
「ただし、条件があるわ」
「条件?」
「フィルムは、和臣には絶対に渡さないこと。それから、学校にある間は常に身につけていること…」
「もちろん…もちろん!先輩には絶対渡さない。フィルムの保管もちゃんとやる」
「あと、もう一つ」
「なに?」
「撮った写真は、全部私にちょうだい」
「うん。分かった。今までの分も、全部永瀬に渡す。ありがとう。良い絵、撮るから。絶対、約束するから」
窓から差し込む光の中で少し上気しながら頷く彼女に、ぼくは笑みを返した。
To be continued
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