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『星兎』 寮 美千子
『星兎』が あのヒトへのクリスマスプレゼントに 間に合うことを願って。
1.「そんなことを考えてはいけない。そうしないと、きみは…」
私たちがどこまで来てしまったのか、 そして一体どこへ向っているのか。 その道は本当に袋小路なのか、 それとも、思いがけない光を 人間はいつか見出すことができるのか。 『アフリカ旅日記〜ゴンベの森へ』 (星野道夫,メディアファクトリー,1999年)
小惑星美術館への遠足は、 『れんがの月』から弾き出す人間を探す旅から、 夢見る惑星ガイアと、 それを殺したわたしたちの罪を知る旅になるのだ。 わたしたちが、どこから来たのか、 どこへ行こうとしているのか、 それを思う旅になる。 『小惑星美術館』 (寮美千子,パロル舎,1990年)
うさぎは、訴えるような目で、ぼくを見た。 「ほんとうに、わからないんだ。 きみだって、覚えていないだろう。 この地上に来る前に、どこにいたのか。 きみだって知らないはずだ。 この地上を去ったら、どこへ行くのか。」 『星兎』(寮美千子,パロル舎,1999年)
2.ある月曜日の午前中にドーナツ屋で 絶望的な気分に襲われていた、ある月曜日の午前中。1件目の訪問先での用件が早くに済み、2件目の訪問先のアポイント時間までの2時間弱を潰すためにドーナツ屋に入った。スーパーの買物袋をさげた、子ども連れの母親によって占められた店は、仕事帰りに立ち寄る閉店間際のドーナツ屋の雰囲気とは違っていて、少し落ち着かない。ドーナツとコーヒーの載ったトレイを持って、カウンターから一番遠い、店のいちばん奥の端っこの椅子に座った。 「しあわせなんて、簡単だ。」そして、昨日に入手した『星兎』を鞄から取り出す。漢字2文字のタイトルは古風な印象がして、洋楽のBGMがフルボリュームでかかる昼間のドーナツ屋が、この小説を読む場所として相応しくないような気がした。それでも、ようやく、その扉を開くことができる。「毛皮を剥いで、襟巻きにしちゃうぞ」と、主人公のユーリがうさぎに言うところで、自分の首に兎の毛の黒い襟巻きが巻かれていることに気づき、それを外して鞄の中に丸めて仕舞い込んだ。ドーナツ屋に向かった少年ユーリとうさぎとが、ドーナツにシナモンシュガーをたっぷりふりかけるところで、自分の目の前にあるシナモンクルーラーをかじり、すると、「アメリカンコーヒーのおかわりはいかがですか?」と店員が歩み寄ってきた。 「その時、ぼくはもうわかっていた。『やばいぞ』」こんな風にして『星兎』を読み始めることになったものだから、はやる気持を抑えることに労を割く。クスっと笑ってみたくなったり、大きく頷いてみたくなったり、胸が痛くなってしまうような想いの、どれ1つをも零さないようにして読んだ。湧きあがる自分の感情の1つ1つに向き合いながら読んだ。 「わけもなくたっぷりした気持ちになって、 心がほどけていくみたいだった。 不思議だった。」3.やわらかい肉球のような『星兎』の質感 少年ユーリが、星からやってきたうさぎと出会って、うさぎと一緒にいることで「本物のぼく」を自己覚知し、やがて、うさぎが「地球ごとぼくを派手に蹴っとばして」星に帰ることになっても、その出会いを糧にして「誰のものでもない、ぼくはぼくのもの」として生活していく。 ショッピング・モール、チャイナ・タウン、海岸通りの埠頭、倉庫街、夜店と回転木馬とで賑わうお祭り広場。2人が手をつないで歩くことになる舞台のいずれもが映像的で、それらは実写に近いものだけれど、時折、落とし穴のように幻惑的なシーンが描かれる。その描き方は、時間を徐々に逆回転させ、思考を遠い方向に向かせてしまうに十分だ。この場所はついこの前に手をつないで歩いたところか、いや親に連れられて歩いた懐かしいあの場所か、それとも、賢治世界の「ケンタウル祭」か「プリオシン海岸」か、こんなふうに。 “星からやってきたうさぎ”という登場人物の設定はSF的だけれど、ユーリとうさぎとが互いに感情を交換する模様があまりにリアルに描かれているので、うさぎの存在の非日常性を忘れてしまう。加えて、うさぎと過ごした時間が、ユーリの夢の中の物語でなくして、日常生活に留める重力を与えているのは、質感と肉感とが溢れるシーンである。「手をのばせばちゃんと触れる。ふわふわした毛や、掌のあたたかさを感じられる」「やわらかい肉球が、小さな鞠のようにぼくの手に触れた」「会って、うさぎを見て、触って、うさぎがうさぎだっていうことを感じたかった」などの触感は、夢の中では味わえない。お祭りの人混みで迷子にならないようにと、初めて2人が手をつなぐシーンが、とりわけ気に入っている。背丈も歩き方も歩幅も違う2人が、気遣い合って、それでも嬉しさを隠せないで歩くシーンを想像することが楽しかった。 4.『星兎』から手渡された2つの問いかけ どこから来て、どこへ行こうとしているのか? その途上にいる本物の自分に気づいているか? 『星兎』は2つの根源的な問題を読者に手渡している。日常生活をなるべく平穏無事にやり過ごそうとすれば、できるだけ目をつぶっていたいような問いかけを、親子連れで賑わう平日のドーナツ屋で受け取ってしまったのは、想いも寄らないことだったけれど、慌てふためくことはなかった。かつて、星野道夫の著作と彼の生き方そのものから受け取って、箱の中に仕舞い込んでいるものと同じだったから。『星兎』は、その箱の鍵を優しく開くだけでなく、「本物の自分」になりきれないで、箱を覗いている自分を肯定する愛情をも手渡してくれる。さらに、問いかけに対する答えは独りで見つかる類のものではなく、風景やヒトや音との出会いこそにあることを教えてくれている。 愛情だけではない。『星兎』には、過去に感じたことのある、今にも感じている、これから感じ得る、すべての感情が詰まっている。だから、どんな風に読むのかは、読み手に委ねられている。王冠の収集癖のある子ども。塾通いにふてくされる子ども。母親よりもペットのうさぎを愛している子ども。そんな子どもを持った誇り高き母親。恋人の声しか聴いていない少年少女。出会いのない毎日を嘆く少年少女。自分の居場所を探している若者。多難な恋の辛さに眠れないでいる大人。生活音で会話をしている夫婦たち。先に逝かれて遺された者…。それぞれの立場で「あっ、これこそ、自分のために、わたしたちのために書かれた小説」と思うはずだ。 5.うさぎ、星野道夫、カンパネルラ ユーリはうさぎに出会って派手に蹴とばされてしまった。星野道夫はクマに出会って逝ってしまった。ジョバンニはカンパネルラに出会って遺されてしまった。うさぎ、星野道夫、カンパネルラに共通するのは、「わたしたちが、どこから来たのか、どこへ行くのか」という根源的な問いに真摯に向き合い、答えを導くためのオリジナルの方法論を見出したところで去って逝ってしまったこと。『小惑星美術館』の言葉を借りるなら、「あの大きな環からはじき飛ばされて、暗く孤独な時間の中に閉じ込められて」しまったヒトたちであること。それでも、互いに「ぎゅうっと抱きしめ」合った時間が、暗がりに遺された者を灯してくれている。誰だって、うさぎや、クマや、カンパネルラなる存在を必要としている。そういう存在に気づくのが、朝の満員電車に揺られているときや、塾や仕事をさぼってショッピング・モールをうろついているときや、午後の授業中の教室で眠気に誘われているときや、帰宅途中に横断歩道を渡ろうとするときであったりするならば、この日常生活のすべてが愛しい。 読み終えた時、目の前のドーナツ屋の光景や、昨日や今朝に会って話していたヒトが、スーっと手の届かないところに遠くに小さくなって、透明で心地良い孤独を自覚した。「どうしようもないこと」や「自分では決められないこと」があって、そういう状況すらも愛することができるような気がした。そして、「あのヒトにも読んで欲しい」と思った。もちろん、このページを読んでくださっている貴方にも読んでいただきたくて。 それにしても、ユーリもうさぎも、紙1枚を隔てたコッチ側にいる自分も、どうして同じ時間にシナモンシュガーのかかったドーナツを食べていたのか。ここ数年来の自分は、こんなような共時性体験の錯覚に陥って、その渦中で弄ばされいる。 「なんでぼくが、こんな目に遭わなきゃいけないんだろう」
6.「遠心力は孤独な力だ。だけど、引力は違う。」 いつかおまえに会いたかった 『クマよ』(星野道夫,福音館,1998年) うさぎは笑った。 それから、ふうっと息をつくと、ちょっと遠くを見ていった。 「ぼく、なんのためにこの地上にやってきたのか、 いまでもさっぱりわからない。 どんな意味があったのかも。 でも、来てよかった。 ユーリに会えて。 それだけで、ここにやってきたかいがあったよ。」 『星兎』(寮美千子,パロル舎,1999年)
衆人環視の場で素直に気持を伝えるのも照れくさくてたまらないのですが。 寮さんが『星兎』に記してくださった言葉のどれもが、 散らかっていた言葉や想いの破片を繋いでくれました。 加えて、仕事の多忙さに逃げる昼間と、 眠り薬のようにワインを摂取しては床につく夜とから、 解放してくれました。 「もう、何があっても大丈夫」 という気持ちになることができたのです。 また、貴BBS上において、 鳥海に投げかけてくださった言葉の1つ1つが、 とても嬉しくて、心から励まされました。 お礼の返信をしたためる代わりに、 精一杯の感謝の気持を込めてこの文章を書きました。 ありがとうございました。 この文章を書いている同じ時刻に、 寮さんも『クマよ』を開いては、 星野さんのことに想いを馳せていらっしゃったのかと思えば、 それもまた嬉しいのです。 そして、『星兎』を紹介してくださったG-Whoさんへ。 渦中に突き落としてくれてありがとう(笑)。 寮美千子さんによるBBS Cafe Lunatiqu夜毎に寮さんによる詩を読めることの至福 寮美千子さんのファンページ 記憶の王国 G-Whoさんによる 池澤御嶽 共時性の渦中に陥ってしまった言い訳 同じ年の、同じ日の、同じ時刻に、イヌイットがアラスカの森で300kgのクマを射止めたことと、アイヌが知床の森で300kgのクマを射止めたこととは、数千年来、起こっていた共時性かもしれません。生理的欲求を満たすレベルでのヒトの行動はそんなに違わないものだから、統計学的見地から推測するに、体験の共時性は普遍的に同じ頻度で発生しているでしょう。また、他者と交信したいという気持もヒトの本能の1部に属する普遍的なものでしょう。 しかし、共時性を有する体験や動機はあっても、それを確認するための手段や方法がありませんでした。体験を言語化する習慣。記録する方法。土地に名を付ける習慣。時間や大きさを量る算術。体験を交換する共通の言語。場所を超えて互いの体験を共有する手段。やがて、20世紀の晩年。習慣や言葉や科学の成熟と、インターネットの普及とが、たまたま両立することになり、たまたまそれらの両方を利用できる文化圏に育っているだけのこと。特定の体験や情報に対する求心力が高まっているだけのこと。それが、共時性の名の元に、同時多発的に明らかにされているだけのこと。 そんな風にして共時性体験の錯覚に陥って、渦中で弄ばされてみるのも、20世紀の晩年らしくていいです。けれども、ポイントホープの岬でクジラ漁に成功することの偶然性は手応えがあって。けれども、うさぎに出会った偶然性の中にもフワフワした毛や肉球の触感があって。インターネット上での共時性体験は、そういうものが欠如しています。だから、交信欲や共有心が満たされる一方で、何かが静かに渇いていくようで。共時性の渦中で幸福の波に溺れてみることは、20世紀の晩年に相応しい紳士淑女たちの在り様なのでしょうか。 ミスタードーナツについて知っている2、3の事柄 かつての少しの間、ミスタードーナツやカフェ・デュ・モンドをプロデュースする株式会社ダスキン本社に勤めていました。異なる事業部に属していたとはいえ、新規店のオープン情報、運営マニュアル、ドーナツショップを輸入する際の武勇伝には、毎日のように接していました。ドーナツ大学というのがあって、ミスター事業本部の社員やアルバイトスタッフが入学して、ドーナツを正確に作る技術や、マニュアル通りの接遇技術を取得するのです。本社ビルの最上階には、伊丹空港や大阪市内のビル群が見渡せる社員用のカフェがあって、ドーナツやドリンクを好きなだけ飲んだり食べたりできる、とても良い会社でした(笑)。実家の近くのダイエーに隣接しているミスタードーナツが1号店であり、日本でいち早くにミスタードーナツを食べた部類に属するのではないかと思います。 (12/05/1999) |