池澤夏樹−岡本太郎−沖縄−今福龍太 

「ちゅらざー沖縄まつり」にて飛び入り参加された池澤夏樹さん。
まさかの邂逅に、当方の解熱作用として、3編の文章を。


池澤夏樹と岡本太郎 

そもそも、池澤夏樹と岡本太郎との文学的接点は、作夏の「週刊文春」誌上における「私の読書日記」でした。池澤夏樹の沖縄観のターニングポイントとしても、この書評を面白く読むことができました。思えば、この文章を綴った昨秋には、札幌での「岡本太郎の沖縄」写真展の企画すら知らなかったのだから不思議です。半年前に書いた拙文を以下に再掲。


池澤夏樹は「週刊文春」誌上にて「私の読書日記」と称する書評を月1回のペースで連載している。該当頁の切り抜きしか手元にないので発刊月日が不明だが、「天才の功罪と沖縄のトム・ソーヤー」は、自身の岡本太郎ブームとリンクして面白かった。そこで紹介されている本は次の通り。

   1.『岡本太郎の沖縄』(岡本敏子編)
   2.『沖縄文化論 - 忘れられた日本』(岡本太郎)
   3.『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』(比嘉康雄)
   4.『ウーマク!』(宮里千里)
   5.『沖縄・統合と反逆』(新川明)
   6.CD−ROM『ヒロシマ・ナガサキのまえに』(発行・ボイジャー)

そこでは、岡本太郎の沖縄観を池澤夏樹自身のそれと重ね合わせて記しているが、本書を紹介することや、「岡本太郎の沖縄観を肯定するか否か」を、迷ったと述べている。1966年に久高島において、風葬途中の木棺が開けられて写真撮影され、その上、週刊誌に掲載されたことが『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』に記されている。それを目にしてしまった死者の身内が精神に異常をきたし、風葬の習慣が途絶え、その写真を撮ったのが岡本太郎であった、と池澤夏樹は指摘している。そこで、写真集と併せて、『日本人の魂の原郷 沖縄 久高島』を読むようにと結論づけていた。

最近にやっと読み終えた池澤夏樹の『すばらしい新世界』。 冒頭章のタイトルは「沖縄へ行こう」。最終章に舞台を北海道に移しての「雪原の風車」。 まさに、『花を運ぶ妹』発刊に至る今春のまでの、池澤夏樹の空白の7年間を独白するような構成である。岡本太郎の思想とリンクするのは終盤の「首都への旅」。「祭りが足りない。」という一行に始まる文章全体が、「祭りを本来的な意味で開ききりたい。」と、岡本太郎が「万国博に賭けたもの」(1971年)で綴った内容と重なっている。としたときに、岡本太郎は、池澤夏樹の動線の随分と先にいるように思う。


池澤夏樹と沖縄 

岡本太郎さんが沖縄に滞在したのは延べ10日にも満たなかったといいます。池澤夏樹さんは沖縄に移住して7年半だそうですが、氏の沖縄観の変遷を追ってみることは、沖縄との向き合い方を学ぶことでもあります。この5月に友人とやりとりしたメールから拙文を転載。


池澤夏樹が写真集「岡本太郎の沖縄」の評価に迷うあたりに、沖縄に住んでいる者の強みを感じました。沖縄を綴るときの、かつての危うい軽やかさや、迷いのようなものが削ぎ落とされています。池澤夏樹は沖縄について実に多くを記していますが、そんな風に感じたのは初めてでした。出版物の標題になったものだけを一覧に。

  1992年『沖縄いろいろ事典』
  1993年『やさしいオキナワ』
  1997年『沖縄式風力発言』
  1998年『沖縄からはじまる』

池澤夏樹も『沖縄いろいろ事典』の頃は無邪気な"沖縄大好き人間"だったのだと思います。1996年秋に沖縄大学で池澤夏樹の講演会を聴講したとき、こんな質疑応答がありました。

  質問者「池澤さんは沖縄に移住してこられたわけですが、
      何に惹かれたのですか?」
  池澤氏「暮らしていてもまだわからないのです。
      恋をしているとしかいいようがないんですね。」

まだまだ沖縄に恋愛中という感じです。1997年に目取真俊が「水滴」で芥川賞を獲ったときに、1つ目のターニングポイントがあったのだと思われます。

  「僕は最近、自分自身が沖縄に来て三年半、
   一種の褒め殺しをしてきたのではないかという反省もあるんです。
   本土からやってきた僕のような人間が、
   沖縄にはヤマトで失われたものがまだあるぞ、と誉めそやす。
   いいところばかりを大きな声で言って、
   目取真さんがお書きになっているとおり、
   ヤマトが沖縄の問題点を隠蔽してしまう。」
   (目取真俊VS池澤夏樹−「絶望」から始める/『文学界1997年9月号』)

「褒め殺し」を止めて以降、沖縄を記す筆致は重みを増します。大田知事を支持することで沖縄の社会にコミットし、沖縄の未来を政治的に考える中に身を置きます。そして、選挙結果として表れた、沖縄に対して抱いていた理想と現実との距離、つまりは、自分自身と沖縄との距離。そんな痛みを抱えながらも、日々の暮らしに根ざしたところで人間関係を築き、仲間と力を合わせて、沖縄の未来を考え続けてきたのだろうと思われます。

このような沖縄での歳月こそが、ヤマト側からの旅行者である岡本太郎の「功罪」を指摘する役割を自らに担わせることになったのでしょうか。今回の書評においては、岡本太郎の視点をヤマト側に置き、自身の視点を比嘉康雄の近くに置いています。沖縄の未来に責任を持たない旅行者の言動を生活者側から告発する、という拡大解釈した図式を読み取ることができるのではないでしょうか。池澤夏樹はようやく生活者の視点を獲得したのだなぁ、つまり、池澤夏樹は沖縄でとても良い生活を送っているのだなぁ、と感じたのです。

以上のようなことから、旅行者として褒め殺しを止めた時期を1つ目のターニングポイントと捉え、生活者側から告発するというスタンスのみてとれる本書評を、2つ目のターニングポイントとして捉えています。

  1.沖縄のことをそれなりに知っているから、沖縄が楽園であるとは書けない。
    「オリエンタリズム」の轍を踏むわけにはいかない。
  2.外来者である自分が、沖縄を舞台にして「カイマナヒラ」のような
    軽くて爽やかな物語を書くことはできない。
    沖縄の歴史のある部分をなかったことにすることになるから。

と、池澤夏樹が「SWITCH(「カヒマナヒラの家」についてのインタビュー)」誌上で表明している沖縄観とライティングスタイルを全面的に支持しています。沖縄の歴史や社会構造の重さ故に、それを筆で綴ることはできなくなったけれども、初期衝動の恋愛感情は確固としてあるわけです。「好きなのに触ることができない」というプラトニックな恋愛感情にも似て、「好きなのに書くことができない」というのは、作家として苦痛だろうなぁと思います(笑)。


池澤夏樹と今福龍太 

先の「ちゅらざー沖縄まつり」において、「例外的に興奮している」と自己紹介された今福龍太先生は、「周縁」や「越境」をテーマとする文化人類学者であり、 周縁で混血された文化を「クレオール」と称して、数多のフィールドワークを重ねていられます。「沖縄文化論」で岡本太郎が直観で語った言葉を易しく紐解き、コマーシャリズムが創る似非の沖縄観を根底から揺るがすアグレッシヴな講演内容でした。その穏やかでクールな語り口と、語られる内容との刺激の強さに戸惑うほどでもありました。その今福先生と池澤夏樹との文学的接点は、次の2つにみることができます。

 1.池澤夏樹「読書癖3」(みすず書房,1997)
       −今福龍太『移り住む魂たち』の書評
  「インディアンの野生を讃えただけで新しい歴史が書かれるわけではない。
   自分にないものを他人に求めてはいけない。
   では何があるのか。何が正しい答えなのか。(中略)
   個人の思いを述べれば、ぼくはこの本を何度となく読み返し、
   問い直し、自分の仕事と思想を測る尺度とするだろう。」

 2.「越境する世界文学」(河合書房新書,1994)
  今福龍太「世界文学の旅程」
  今福龍太×四方田犬彦「二十世紀的移動のゆくえ」
  池澤夏樹×宮内勝典「流動する世界・越境する言葉」

今福先生の研究テーマの1つである、新大陸を「発見」したコロンブスとインディアンの構図は、池澤夏樹の処女小説の「夏の朝の成層圏」にもみてとれるものであり、両者は思考の枠組みを共有するばかりか、「周縁」にフォーカスして考える者の姿勢を共有しているともいえます。文化人類学者と作家とが同時代的に言及してきた思考の枠組みは、その普遍性の故にいろんな文脈に置き換えることができます。
コロンブスとインディアン。
白人とイヌイット。
ヤマトンチューとウチナンチュー。
日本人とアイヌ。

先々週に始まった池澤夏樹の新聞小説「静かな大地」(朝日新聞・朝刊)は、長いト書きのような章を終えて、いよいよ北海道へと移ることになります。


今福龍太氏によるサイト cafecreole http://www.cafecreole.net/

池澤夏樹と岡本太郎    11/15/2000
   池澤夏樹と沖縄     06/28/2001
池澤夏樹と今福龍太    06/28/2001
updated 08/08/2001