『かわら版』の老朋友から

「北京かわら版クラブ」誕生のどたばた

星野 仁

元博報堂北京駐在員。前編集長・根箭芳紀の友人として、『北京かわら版』「北京かわら版クラブ」の立ち上げから現在までを見守る。現在、「東京北京会」の会員、日本での『北京かわら版』の読者として、変わらぬご愛顧を頂いている。

   この「新聞」が創刊された80年代中頃というのは、いろいろなことが終り、いろいろなことが始まったうねりの時でした。当然のことながら日本の常識と北京の常識とでは異なっていますし、何事によらず初期にありがちな混乱がありました。北京に暮らす日本人にとっては、常識の異なりと、混乱とから、「どうなっているのだ、何がなんだか分らない」という不満がありました。「不満があると北京で暮らしていくのが楽しくないじゃないか」と考えたのが「北京の便利屋さん」を自称していた根箭さんでした。「もっと北京を知ろうよ、日本と異なる側面がいろいろあって、それはそれで面白いよ」ということを看板にして、『北京かわら版』は始まりました。
   ということになっています。しかし、実際はというと、ちょっとしたどたばたがありました。彼は本格的なメディアを興すことを心中深く考えていたのです。それも、「書き手が固定していて、編集して印刷する」という普通の形式ではなく、「談論風発の雰囲気があるサロンがあって、その情報交流の輪の中から自然とできあがってくるようなメディアができないものかなあ」と語っていました。「自分でも明確なプランじゃないけれど」と言いながらも、「例えば中国の専門家を招いて講演をしてもらって、その後で」などと、あれこれあれこれ新聞発行にとどまらないアイデアをふくらませていたのです。 「手順は逆になるが、手始めにまず『新聞』を発行して、その後で徐々に考えていることを実行していけばいいさ」と準備に入りました。
   しかし、そうは問屋が卸しません。当局から「待った」がかかったのです。「中国国内で外国人が営利を目的に定期刊行物を出版するのは許されない」という理由からでした(日本でも外国資本がマスコミ事業を展開することには強い規制があります)。交渉するうちに「会員制クラブの機関紙ということならいいよ」ということに落ち着きました。購読料ではなく読者会員会費なら構わないということです。
   なんのことはない、妥協の結果が、最初の目論見に戻っているのです。「一方的な情報発信ではなく、コミュニケーションの輪の中からメディアができればいいな」と語っていた故人でしたので、既に北京を離れている人間が寄稿するのもおこがましいことですが、記念の号ということでエピソードを綴りました。

戻る