『かわら版』の老朋友から

これからも地域の核として

吉田 信夫

マルハ元中国総代表、元上海事務所長。前編集長・根箭芳紀とは1970年代からの付き合いで、第55号から数回に渡り、「上海便り」を寄稿。北京と上海の違いなどを貿易専門家としての視点で綴った。「東京北京会」会員、日本での『北京かわら版』愛読者

   『北京かわら版』創刊100号おめでとうございます。1987年の創刊とのことですが、そのころは知りません。1989年1月から拝読しました。当時のことはあまり覚えていませんが、かなり過激なことが書いてあったように思います。根箭さんに「『かわら版』は赤新聞だ」と毒づいた記憶があります。赤新聞とはある企業の宣伝を掲載させるためや購読を迫るために、標的にした企業の醜聞を載せたり、攻撃記事を書いたり、ある時は逆に誉め殺しをする新聞のことです。根箭さんはただ笑っているだけでした。

   今と違いいわゆるミニコミ誌などが少ない時代でしたのでそれなりに宣伝が集まっていたようです。航空会社、銀行さんが宣伝で支援してくれていました。横から見ていると『かわら版』のおかげで企業の案内文を北京在住の日本人に郵送する仕事(例えば航空会社の時刻表発送)をゲット出来たのではないでしょうか。根箭さんに言わせると『かわら版』の送付先イコール企業案内文の送付先であり、読者数が多ければ企業の宣伝効果が大きいと反論されると思いますが。

   私も根箭さんに乗せられて投書匿名で投稿しました。北京で腹が立つことで、民航や地元のタクシーの横暴を許しているホテルについてでした。いずれも反響がありました。面白いのは反響があるのは文句を言った相手ではなく、自分が文句を言われていると勘違いして、今後は気を付けたいというものや、あそこはダメだから自分の方を利用しろとかでした。それで単なる赤新聞だと思っていた『かわら版』を見なおすこととなりました。

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