雑学           中国を繙く28

「支那」は本当に悪くない言葉か(5)

櫻井 澄夫

   状況の変化により、当初の予定より長くなったせいで、次第に話にまとまりを欠くようになってきた。私の方もその後、資料が集まり始めたので、今回は、高島氏以外の「支那派」、そして反支那派の方々の主要な文章についての整理を試みてみたい。その目的は「かわら版」の読者のみなさんにもこの問題にもっとかかわっていただきたいのと、管見に入った主要な文献の所在を明らかにし、同じ努力をみなさんにしていただかないようにしたいからである。私が最近のインターネットで、この問題に関し、「支那派」の高島俊男氏の「本が好き、悪口言うのはもっと好き」が大きな影響をもたらしている一方、反支那派の人の文章はあまり紹介されていないことに気づいたのも、その一因である。

   私はこの連載の第一回目に、支那派の代表としてI氏と並んで評論家のK氏の名をあげた。そのK氏とは呉智英氏のことである。同氏の「支那」についての意見は、「サルの正義」(双葉文庫)に収められた、「支那は断固として「支那」である」及び、「誰が「支那」を圧殺したのか」で知ることができる。前者はもともと週刊文春に掲載された「中国は「支那」と呼べ」という文章であり、そのタイトルは編集部の意見により、著者が当初考えていたもの(「支那は断固として「支那」である」)から変えられたものだそうだ。なお呉氏の説明によると、この週刊文春の広告が朝日新聞に掲載されたとき、朝日新聞は「支那」を広告で使わず、「中国は正しい名称で」と議題を変えさせたそうである。呉氏の同書は現在購入可能である。高島氏の連載も週刊文春であり、同誌はよほど支那派の方々と長い間縁が深いようだ。

   高島氏と呉氏はその後「世界」の一九九六年三月号で、「日本語をダメにしたヤツら」という対談をしているが、この二人の「支那派」の対談で「支那」の使用を気にした岩波書店の編集部が、わざわざ「「支那」という呼称について」という解説を同対談に付け、書店としての(「中国」を使うのが望ましいという)立場を明確にしているのは、興味深い。呉氏は今年に入ってSAPIOの四月二八日号で、「支那を「支那」と呼んで何が差別なのか!」を発表、朝日新聞三月一三日夕刊の「窓」欄の、「孫文と「シナ」」を批判している。ご参考にこの三月一三日の「窓」欄は、国際衛星版では掲載されなかったことを、付け加えておきたい。いろいろご事情はおありでしょうが、こういうテーマこそ中国などの読者に読んでもらった方がいいのではないですか。朝日新聞さん。

   さて呉氏等の「支那」は蔑称ではないとの論拠にしばしば登場するのが青木正児氏である。同氏は京都大学、東北大学等の教授を歴任、中国文学の権威の一人として名をなした学者である。この人の著書「中華名物考」(現在は平凡社の東洋文庫に入っている)に、「「支那」という名称について」という文章が入っているが、これはもともと朝日新聞の昭和二七年一二月一七日の全国版に載ったものである。ここで同氏は「我国で「支那」という名称が用いれられたのに何等悪意の無いことは明々白々である」と書き、この碩学の主張が呉氏等にも引用され、所論の補強に使用されている。この青木教授に対する反論を朝日新聞では「声」欄、学芸欄で、また毎日新聞でも香港の新井特派員等が述べており、反発が相当強かったことをうかがわせる。さねとうけいしゅう氏もごく最近(昭和三三年から見て)まで、「バカ、バカ、オッタンチン、おまえの父ちゃんシナ人…」という子供の歌があったことを記している。どこが「支那は蔑称でない」のか。どこが「悪意はない」というか。学者や知識人は社会が見えないのか。全く不可思議である。

   さて、反支那派といえる人たちの代表には竹内好氏やこれまでにも引用してきた、さねとうけいしゅう氏らがあげられよう。竹内氏には「中国を知るために」に「支那と中国」という長い文章があり、この問題の多面性が柔らかな調子で記されている。さねとうけいしゅう氏にはいろいろな文章があるようだが、今、手に入る本では、「中国留学生史談」(第一書房)の「「支那」の発生から消滅まで」という六〇ページに近い文章が参考になる。この二人の文章は反支那派の論拠のほぼ全貌をつくしており、説得力がある。さねとう史の文章には、「附録」として、新聞等に発表された、諸氏の「支那」についての意見がまとめられており、便利である。これらにより、われわれの現在の議論が当時から一歩も出ていないことに誰しも驚くであろう。

   しかし問題は竹内、さねとうなど諸氏の「支那」論はいずれも発表されたのが古く、今の人たちにあまり読まれていないことである。私がインターネットなどでみなさんの意見を「覗いて」も、両氏の名前はほとんど登場しない。知られていないのだ。今回の石原当選をきっかけに始まった「支那論争」に際しても、支那派の声ばかり大きく、日本では反支那派の論客(いるのかどうか知らない)は余り発言していないようだ。「現代」の六月号での、本田靖晴氏の「中国を「支那」と呼ぶ男の危うさを知れ」という文章も、石原氏に対する疑問、批判が中心で「支那」問題についての深い解釈は見られない。

   したがって当面、反支那派の意見としては、竹内、さねとう両氏のものがまず参照されるべきであろう。この二人の文章を読めば、この問題に対し一人前の発言ができるだろう。何度も言うように両派の意見をよく読んで、この問題を考えていこうではないか。そのために、次回は中国側の人々のこの問題についての意見を聞こう。

 

九〇号から始まった櫻井澄夫氏の「『支那』は本当に悪くない言葉か」に対すして寄せられたご意見の中から二件を紹介いたします。(編集部)

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