ご意見1

「『支那』は本当に悪くない言葉か」を読んで

大日本インキ化学工業株式会社 古川武文

   北京かわら版の三月号にこんな見出しがあって、正直最初はギョッとした。次にこの桜井先生は重いテーマを拾い上げたものだと嘆息した。しかし興味をそそるテーマゆえ、三月号、四月号を読んだあとでの読後感想を申し上げる。

   那珂通世博士が明治二一年―二三年に執筆した「支那通史」の冒頭に「その地屡朝家の興亡を経、国号随って変じ、一定の呼称無し。国人自ら称して中国と言う。蓋し以て天下の中に居ると為せばなり。又中華と言い、華夏と言う。猶文明の邦と言うが如きなり。これ皆夷荻に対するの称にして国名に非ざるなり。大清とは今代の国号にして、即ち前朝に別つ所以なり。外国と相対するにも亦この称を用う。外人は概ねこれを支那と謂えど、これ国人自ら名づくる所に非ず。昔、秦皇帝の威四夷に震う。故に西北の諸国遂にその地を呼んで秦と言い、後転じて支那と為れるなり。漢朝秦に代わり、(略)その後唐朝起こり、(略)皆遍く外国に通ず。故に漢と言い、唐と言う。その民を称して漢人と言い、唐人ともいう。」とある。

   とにかく、当時から既に中国人に使われておらず、戦後忌まわしさが付きまとう言葉として日本人にすら使われなくなったタブー語或いは死語を後生大事に現在も使うということは、やはり些か不自然だ。学術的意味合いで固執するのだ、というもの何かマヤカシを感ずる。なぜならば、もう一人の権威、宮崎市定博士は「中国」を使い著述している。それがやかり良識というものだろう。今意識的に「支那」を使うのは、若干の毒味を利かせ、言ったこと或いは書きたいものが衆目を集めるように意図するものだ。この言葉に限っては罪作りな言動と言わざるを得ない。

   私は二つの意味で気にしている。一つには最近の出版界が好んでドギツイ題名、言葉を使う癖が顕著になっていること。本の売れ行きを気にするコマーシャリズムに起因していると思うが、憂慮すべき傾向と思っている。私などはすぐ相手の意図に引っかかり本を手にとってしまう。確かに効果はある。

   二つ目は中国に政治的に利用されかねない危険である。大方の日本人の関係ないところで行われた言動が、その言葉尻を捕まえられ攻撃され政治的駆け引きに使われるなどマッピラだと思っている。

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