徒然過去日記・2005年6月

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06/01 ゴミ袋がゴミになる時

2005/06/01 17:05
 以前日記に書いたことがあったと思うが、イヤだなあ…と思っていることがとうとう現実になってしまうらしい。昨日お上からの啓蒙パンフレットと一緒に通知書が配られたのだが、10月からついにゴミの収集が有料化されるのだ。しかも小耳に挟んでいた通り、ゴミ・ステーションでの収集は取止めになり、各戸前での収集に切り替わるという。このシステムが適用されるのは「燃やせるゴミ」と「燃やせないゴミ」だけで、資源ゴミの回収は今まで通りゴミ・ステーション方式である。
 ゴミ収集有料化については先発自治体のノウハウを相当研究したとかで、大筋ではそういうシステムの模倣と言える。「燃やせるゴミ」には黄色い袋、「燃やせないゴミ」には緑の袋を専用に購入しなければならない。両方とも4種類の大きさが設定されており、大きさによって値段も違う。専用袋に入らない大きさだったり重さ10kgを超えたりするものは粗大ゴミとしてまた別に回収料金を払う。ペットボトルや古紙・古布・ダンボールの類、空き缶空き瓶は資源ゴミ。乾電池や体温計、スプレー缶なども無料で回収してくれる。

 その他、介護や子育てで出る紙おむつだけは「紙おむつゴミ」として無料で回収とか、地域で発生する枯葉掃除などは「ボランティアゴミ」として無料で回収とか、生活保護対象の世帯には専用ゴミ袋を一定数配布するとか、一応それなりの心配りはしてある。わたしとしてはゴミ回収の有料化そのものについてある程度止むを得ないという考えなので、このシステムならばとりあえず大反対はしないでおこう、と思う。
 ちょっとだけ困っているのは、今まで新聞屋さんが毎月サーヴィスで配ってくれている東京都指定の炭酸カルシウム入り半透明のゴミ袋のストックをどうするか。10月にシステムが変わった後は、危惧通りこのゴミ袋は使えなくなってしまうのだ。市の広報紙のQ&Aコーナーなど読むと「申し訳ないがその手のゴミ袋は以後古布などの資源ゴミを出す時に使ってくれ」ということだが、古布などウチではそれほど頻繁に捨てはしない。ワードローブの整理をする時に要らない服をまとめて捨てるくらいが関の山で、あんな45リットル入りのでっかい袋を一杯にしようと思ったら年単位だろう。

 家人の仕事の関係でY新聞とA新聞の2紙を取っているので、サーヴィスのゴミ袋も毎月どんどん増えていく。ゴミ出しの時たまにはその袋を使いもするが、大抵の場合はスーパーでもらうレジ袋で事足りている。基本的にマイ・バッグ持参の主義だが、外出帰りの買い物時にはレジ袋をもらうこともあるし、今までの膨大なストックも残っている。マイ・バッグの地道な努力が実を結び、だいぶレジ袋のストックが減って来て喜んでいたところだったのに、今後は東京都指定ゴミ袋の行く末まで考えねばならないことになる。タメイキ…。
 とりあえず2つの新聞販売店さんには急ぎ電話をかけて、今月以降はゴミ袋のサーヴィスを止めてくれるようお願いした。わたしとしてはもちろん、代わりに新しく指定される黄色と緑色のゴミ袋をサーヴィスしてくれれば嬉しいのだが、販売店さんにだっておそらく在庫が唸っているハズである。サーヴィスそのものを止めてしまっても文句は言えないし、そもそも市では新しい指定ゴミ袋の販売をまだ開始さえしていないのだ。おっせーよ(顰蹙)。
 台所用隙間ストッカーの引き出し2つ分、まるまる東京都指定の半透明ゴミ袋が詰まっている。どう考えても10月までにこれを全部使い切れる訳がない。余った分はゴミになるしかないが、ゴミの減量化推進のために増えるゴミがあるというのも皮肉である。せめて年内くらいは移行期間としてくれたらいいのに…。

 「燃やせるゴミ」の回収が今までの週3回から週2回に変わるのもちょっとした痛手かもしれない。各戸回収ならば今までよりも余分な人件費がかかる訳で、その分をどこかで吸収しないと有料化のメリットがなくなってしまうだろうと理解はできる。しかし2年ほど前に実験区域に指定され、細々と分別区分を守らされた時に「燃やせるゴミ」回収が週2回だったことを思い出す。どんなに気を付けても、週2回だと夏場はやっぱりニオうのである。たった1日かそこらの違いが大違いだということを、あの時痛切に思い知らされた。イヤだなあ…。
 「燃やせるゴミ」指定が黄色の袋ということは、噂に聞く「カラスからは中が見えない」ニュータイプなのかもしれない。各戸前回収で何が一番気になるかと言うと、カラスや野良猫君たちに生ゴミを荒らされたら堪らないということである。黄色い袋でカラス避けはできるかもしれないが、おそらく匂いを嗅ぎ付けてやって来る猫ちゃんたちをどうやって防御するか。自前で防御網を買えとでも言うのだろうなあ(嬉しくない)。

 さらに回収時間は何時頃になるのだろうとか、家の前に不法投棄されたら泣き寝入りかとか、気になるディテールも結構ある。ちゃんと午前中くらいに回収してくれるのであればそれほど気にもなるまいが、やはり夏場にカンカン照りの中を放置されたゴミが各戸前でプンプンしている図など、想像しただけで憂鬱になる。ゴミ・ステーションへの通りすがりの人々の不法投棄も、今までだって結構あった。回収が有料化されれば当然そういう不埒者も増えるだろう。夜中に家の前にポンとゴミ袋を置いて行かれるとしたら防ぎようもないではないか。正直者が馬鹿を見るシステムにだけはして欲しくないのだが、市がその辺の対応策を考えている可能性はほぼゼロだろう。
 ウチでは今でも結構分別はしっかりしているし、既にマイ・バッグを持参して買い物に行くという習慣も付いている。ゴミ袋が有料になったからと言ってそうそう大きな負担増になることもない。基本的にはゴミ回収の有料化は止むを得ない流れだろうとも思っている。しかし不法投棄をどうするかということ1つ取っても、なんだか穴だらけなシステムだなあ、と不安は募る。有料化を先行している先輩自治体ではかなりの成果を挙げているとパンフレットには載っていたが、本当にそうなのだろうかと怪しまずにはいられないのだった。

 今からくよくよしても始まらないが、とりあえず有料化までに出せるゴミは出しておこうというケチ根性が発動したのと、いきなり暑くなって早くもバテてしまい、片道歩いて25分の距離が辛かったのとで、折角のレディスデイかつ映画の日なのに映画館へ行けなかった。『Shall We Dance?』を観るか『交渉人 真下正義』の中の『機動警察パトレイバー2』の影響を改めて数え直すかしようと楽しみにしていたのに…。
 『オペレッタ狸御殿』も観たいし『ラヴェンダーの咲く庭で』にも心惹かれる。来週は映画館に行けるといいのだが。




06/02 カーナビ来たる

2005/06/02 18:05
 いろいろあったがついについに、ウチのヴィッツたんにも昨日、カーナビが搭載されたのである。16%以上の値引きに惹かれ、結局ディーラーさんから純正品を購入することになった。無理ばっかり言って申し訳ない気持ちになるのだが、家人は「カーナビなんて新車購入時には2割くらいの値引き枠があるものだから、16%オフならそれほど痛手ではないハズだ」と、それほどすまなそうな素振りはしていない。もちろん本当に赤字になるような販売はしないだろうがそれでも、普通よりはずいぶん奮発してくれているのだし、ありがたいことだと思う。
 さっそく近場のあちこちを新規目的地設定し、どういうルートを案内してくれるか試しにドライヴした。以前借りた代車のbB君に載っていたものと違ってずいぶん饒舌なカーナビである。用のない時は沈黙していてくれた方がびっくりしないで済むのだが…。そして性能が上がったためかそれとも単なる設定の具合によるものか、bB君に載っていたものよりだいぶ細い道もルートに組み入れてくれてしまう。わたしとしては対向車とのすれ違いがやっとという細い道、できたら選択肢から外してくれると有り難い。多少の混雑は我慢するとも。

 まだマニュアルを全部読んだ訳でもないので、きっとそういうルート選択の優先順位を設定する機能もどこかに付いているのだろう。家人ならば多少細くても混まない道を好むだろうが、わたしにはそういう配慮は「小さな親切大きなお世話」以外の何物でもない。カーナビ導入の主な理由はわたしの方向音痴をフォローすることなのだから、設定変更のやり方が判り次第、ちゃんとセンター・ラインがある道を優先して案内してくれるように変えてしまおう。
 導入決定から機種選定まで、家人はあちこちのカーナビ関係掲示板をずいぶん熟読していたらしい。最近のカーナビの面白い機能について教えてくれたところによると、まさに「小さな親切大きなお世話」としか呼べないものもあるという。例えばクルマを動かす状況によってはカーナビが勝手に「食事へ出掛けるところだろう」と推定し、「どこへ食事に行きますか?」などと訊いて来るのだそうだ。推測が合っていれば大層気の利く台詞だが、見当違いで実はこれから気の進まない用事へ出向くところなどという場合、そんな言葉を掛けられたら却ってへこんでしまうような気がする。もしかするとその辺の阿呆っぷりも可愛いのかもしれないが。

 ウチも昨夜、カーナビ試運転を兼ねたドライヴから帰って来た時、最後にカーナビが「お疲れさまでした」とねぎらってくれて驚いたのであった。どうやら自宅として登録した地点でギアをバックに入れると、車庫入れをするところだと判断してそういう風に喋るという設定になっているらしい。賢いなあ。
 使う人間の主たる層を「未婚の若い男性」と想定してあるのか、それともプログラムの開発者がそういう人なのか、ガイダンスに可愛い女の子がいちいち出て来るのも楽しいような鬱陶しいような微妙なところである。WordだったかExcelだったか、ポップアップ式のヘルプ用キャラクターで青いイルカが出て来るのが初期設定になっていたと思うが、狙いとしてはああいうところなのだろう。
 やたらと飛んだり跳ねたりするあの青いイルカ君と同じく、カーナビに住んでいる女の子も、くるくる踊ったり手をひらひらさせたりと愛嬌振り撒き放題である。どちらかというとシュミではないので、変更方法が判り次第あの女の子にも隠居していただこうと思っている。

 bB君に載っていたカーナビだってほんの数年前のモデルだったのに、ちょっとの間にずいぶん至れり尽くせりな機能が増えているようである。こういうふうにディテールに凝るのは日本製品の特徴なのだろうか。外国製のカーナビだって絶対あるハズだろうが、そういうものに例えばくるくる踊るガイダンス用の女の子は出て来ないに違いない。良いことかどうかはともかく、追求するディテールの方向性としてはもう少しいろいろあってもいいような気がするのである。
 そもそもガイダンスの声が若い女性ばっかりというのもどうかと思う。メチャクチャ重厚なクルマだと、例えば絶滅寸前の本職の執事さんのように渋くて深みのある男性の声だったりしても似合うような気がする。もしも森山周一郎さんの声が道案内してくれるという機能があったりしたら、わたしなら絶対そっちに設定するだろう。あの燻し銀のような声で「いいか良く聞けよ、あと300m進んだら右方向だぜ」なーんて言われてみたいものである(阿呆?)。

 ともあれ今後はきっと大活躍してくれるに違いない。最近では「日本の市場では、カーナビなしのクルマは売れない」とまで言われるほど必須アイテムになっているらしい。導入としてはだいぶ後発組だと思うが、その分新鮮な気持ちで楽しむことができるだろう。
 とは言いつつ、まだちょっとだけおっかなびっくりの面もある。本当はスポーツ・クラブの今日のバレエ体操、カーナビに案内してもらって初めて単独でクルマで行こうかと思っていたのだが、細い道に誘い込まれる危険性が…と思ったらやっぱりちょっと尻込みしてしまい、結局電車と徒歩にしたのだった(ヘタレ)。家人と一緒の時はさんざん通った道だろうし、そもそも立地もたった2駅離れただけの場所。母のマンションの管理人さんなど、同じくらいの距離を毎日歩いて往復しているという。
 あれだけ欲しかったカーナビなのだから、せいぜい持ち腐れないように使いこなさねば…。




06/03 薄く広範囲な悪意

2005/06/03 17:28
 ここ2、3日、ガードレールに差し込まれた金属片で怪我をした人のニュースがたくさん聞こえて来る。最初は事故でガードレールに接触した車のボディから剥がれたものか、悪質ないたずらか、どちらなのか判らないという論調だったのでちょっと驚いた。ウチではあのニュースを聞くや否や「インターネットだね」(←わたし)「うん。雑誌かもしれない」(←家人)「偶然ってのは有り得ないよね」(←揃って)という会話が飛び出したくらいである。
 あらゆる可能性を考えておくとか、「疑わしきは罰せず」の姿勢を徹底するとこうなるのかもしれない。慎重な態度を貫くのもいいけれど、もしその底に面倒クサイから事件じゃないといいな、というような気持ちがあるのなら、もうちょっと危機感を持った方がいいのではないかと思わずにいられないのだった。

 あの金属片からは明確な「悪意」がにじみ出ているように感じる。大部分が尖った三角形で、車道に突き出るように取り付けられていて、中にはエッジをやすり等で鋭く削ったものまであるという。線路の置石などと違って、あんな金属の板がその辺にゴロゴロ落ちている訳でもなかろう。わざわざどこかから適当な金属片を拾って来て、場合によってはやすりかけなどの細工をしてから取り付けたことになる。「これに触ったら怪我をするだろうな」という確信的予測と、そうなっても構うもんかという意思が読み取れる気がする。
 点検ついでに過去の記録を調べてみたら、一昨年の8月、群馬県だったかで700個以上が見つかったという報告が既に出ていたらしい。その時ちゃんと各都道府県に問い合わせなりしていたら、少なくとも怪我人が何人も出ることにはならずに済んだのではないだろうか。後から悔やんでも始まるまいが。

 捜査関係者のコメントとして「インターネットで呼びかけたのではないか」という指摘も出ているらしいが、逆に言うとそれ以外の可能性としてどんなものがあるのか、考える方が難しい気がする。47の都道府県すべてで合計数千箇所、どう頑張っても10人やそこらのメンバーではできないだろう。
 あの手の金属片を探したり拾って来たりの手間暇を考えると、逆に、関わった人間は予想よりは多くはないのかもしれない、という気もする。少なくともあの手の金属片、ウチの近所で手に入れるのは相当難しそうである。どこの家庭にもあるようなシロモノではない。缶詰や菓子缶を切り開いても、服の上から何針も縫うような傷を負わせるだけの威力のある板は取れないし。
 車の解体業者さんの工場バックヤードとかでなら拾えるかもしれないが、そういうところは誰でも気軽に立ち寄れるほどそこら中にある訳でもない。機動力のある人が、1人で何十個も拾って来て、行動半径内にまんべんなく設置したのだろうか。そうだとしたら随分マメな人である。

 もともとガードレールの外側に付いていたことを考えると、あれは通行人を狙った仕掛けではないのかもしれない。運悪く怪我をしてしまった4人のうち少なくとも2人は自転車に乗っていて接触したらしいが、道交法上は自転車も、本来ガードレールの内側を通るべし、ということになっていたハズである(違ったっけ?)。狙いが通行人でも自転車でもないとすると、残るは車かバイクだろう。
 ここからはわたしの妄想なのだが、路肩を擦り抜けで通るバイク乗りに、ボディを傷付けられてアタマに来たドライヴァーの誰かが考え付いたことではないだろうか。かつてバイクに乗って下宿と実家の往復をしていた頃、擦り抜け途中で2度ほど車に当たってしまったことがある。バイクのハンドルがちょうど車のドアミラーぴったりの高さに付いているので、油断するとうっかりペコッとやっちゃうのである。ミラーの角度が変わってしまうので、もちろん慌てて停まって元の状態に戻し、すいませんすいませんと平謝りしつつ現場を立ち去った。
 もしもミラーではなくボディに当たったライダーが居て、大したことはあるまいとそのまま行ってしまったら…。何の愛好者でもそうだけれど、車好きな人は舐めるように自分の愛車のメンテナンスをするらしい。凹んでいるかどうか肉眼では判り難いというくぼみでも、当然のことだが非常に気になるようだ。不埒なバイク乗りがもし実在したら、相当恨みを買うだろう。そしてその怒りはバイク乗り全体に及ぶに違いない。

 ガードレールの継ぎ目は車体の接触の可能性を考えて、進行方向の先を向くように作られているという。そこへ金属片を嵌め込んで、わざわざ曲げてあるのだろう。エッジを削ってあったもののことを考えても、結構な恨みつらみが籠もっている気がする。それが47都道府県全部に4000箇所以上、薄く広く分布しているのだと思うと少々ゾッとしてしまう。
 もしも万が一最初に考え付いた人が本当に「バイクに愛車のボディを傷付けられた人」だとしても、最初はどこか掲示板で愚痴る程度だったのだろうと思う。同じような目に遭った人とか、周囲でのボヤき話を聞いた人がたまたま集まって、そういう悪意あるいたずらをやってやろうかという流れになってしまったのかなあ、と思う。
 かなり悪意は籠もっているけれど、4000箇所以上設置して怪我人が4人とすると、実際問題としてはそう大した脅威ではない気もする。どちらかというと擦り抜け防止金具的な意味合いが強かったのかもしれない。こんな大騒ぎになってしまって、最初にやった人たちはさぞかし驚いているに違いない。

 最初がどうかは知らないが、全国にこれだけ広まったのはやっぱりネットで書き込みを見た上での「模倣犯」がいっぱい居たからだろうなと思う。もしかすると幾つかのグループが取り付けまくった可能性もあるだろうが、ほぼ間違いなくグループ間の意思疎通とか連絡とかはないハズである。何となく「個別の11人」とか「スタンド・アローン・コンプレックス」とかの言葉を思い出して、興味深いものを感じてしまう。
 仮にそういう掲示板があったとしても、これだけの大騒ぎになってしまったら今頃はさっさと閉じられているだろうし、掲示板に誰がアクセスしたかを特定するのはなお難しい。おそらくこの金属片事件、このまま有耶無耶になって忘れられるのではないかと思うが、捉えどころのない悪意がそこはかとなく全国に漂っているというこの状況は、できれば見たくなかったネットの暗黒面なのだろうか。ありきたりな感想だけれど。




06/04 止むに止まれぬご近所付き合い

2005/06/04 15:00
 昨日書いた「ガードレールの金属片」は、新聞にしろネット・ニュースにしろ、主流の意見が「ガードレールに接触した車のボディから剥がれたもの」説になっているらしい。あちこち覗いてみたら、他にも「ガードレールに業者がくっつける幟(時には違法なものもある)のための金具」説、お定まりの「宇宙人来襲」等のトンデモ説などなど、侃々諤々の大論争が巻き起こっているらしい。
 トンデモ説は措くとして、他の3つはどれも一応の説得力があると思う。アクシデント説論者は1.金属片の多くが錆びていること 2.いたずらとしたら数が多過ぎること を論拠として挙げ、故意のいたずら説論者は1.元から錆びた金属片を使っている可能性 2.事故だとしても数が多過ぎること などを反証としている。
 わたしはカンペキに故意のいたずら説論者だったのだが、こんなにたくさんの人が「ああいう事故り方をするケースは多い」とおっしゃる以上、事故による金属片も多いのかもしれない、と考えが変わって来た。とは言えこうなると、どちらか片方だけによるとはもう考えられず、事故と故意と両方の原因に因るというのが真相なのだろうか。エッジにやすりがかけてあった金属片などどう間違っても事故説には当て嵌まらないし、傷だらけのガードレールにくっ付いていた金属片なら事故の跡と納得もできる。

 この数日でいきなり1万件以上が見つかったとは言え、おそらく大部分はずっと以前から付いていたものだろう。報道された後でイタズラ組がどっと増えた可能性はあるだろうが、一昨年あたりの報告例もあるし、中には10年前からあるのに気が付いていたという人も居るらしい。道路を点検する目が甘くて見落としていたのが、ガードレールに注目するようになったらいきなりあっちもこっちも見えるようになった、というのも良くあるパターンである。
 しかし本当にずっと前からこんなにたくさんくっ付いていたのならば、怪我人の報告例ももっと以前からあって然るべきだという印象は拭えない。1万箇所以上の金属片で怪我人が10人以下ならば確率は0.1%以下である。トラップとしては問題にならない性能だが、ただの偶然と片付けるには0.1%は微妙な数字だと思う。
 ともあれこうなると正確な原因究明はほぼ不可能だと思って良いだろう。外国の例など参考にできるなら探してみたいものだ。道路が広い国はそもそもガードレールがないかもしれないけれど、イギリスでなら日本のと良く似たガードレールがあるのを見かけたような記憶がある。この現象が日本限定でないのなら、やっぱり事故説が主たる原因かもしれない。

 事故だとすると驚かずには居られないのは、数千件以上もそういった「人知れぬ事故」があったのか、ということである。あんな金属片が千切り取られたら、おそらくドアごと交換という羽目になるのではないかと思うのだが、そんな無様な事故を起こす人が全国各地に数千人というのはやっぱり意外であった。しかもガードレールの継ぎ目の構造を考えると、巡航している車線ではなくて反対車線に飛び出して接触とか、スピンした挙句に接触とか、そういう状況でないと金属片がああいった挟まり方はしないだろう。
 無理な運転をした挙句に反対車線に飛び出したりスピンしたりしてガードレールにぶつかるなんて、運転技術の未熟だけではなく、運転時の意識の持ち方としても要反省だと思う。もしそこに他の車や通行人が居たら大事故ではないか。
 人を傷付ける目的で故意に金属片を取り付ける「無差別の悪意」を持つ人が1万人と考えても、ボディが千切り取られるほどの接触をするような無謀運転をする人が1万人と考えても、どっちも何となく鬱である。

 無謀運転とまでは行かないかもしれないが、かなりの荒っぽい運転をすることで時々家族内の顰蹙を買っている家人は、義父母の外出にお供して今日は留守である。カーナビ導入後初めての長距離ドライヴなので、あまり気の進まないドライヴァー役ではあるものの、ちょっぴりだけ楽しそうな風情で出掛けて行った。
 家人も義父母も居ないし晩御飯も1人で適当に済ませていいということなので、いつもであればどこかへフラフラと遊びに行こうかと思うのだが、今日は生憎そうはできない。何となれば、町内会の定例集会とやらが夕方あって、交通部の班長さんになってしまった義父の代理としてそれに出席しなくてはならないのである。

 予定では18時半から21時までだが、先月の定例会では延長に次ぐ延長で22時近くまでかかってしまった。3時間半も知らない人ばかりの中で座っていなければならないなんてゲッソリしてしまう。一応義父からレジュメの説明をしてもらったけれど、もちろんディテールについては全然判らないし、そもそもなぜこの程度の議題を2時間以上もかけて話し合わねばならないのか理解できない。ここまでくたびれそうな会議は、ひょっとすると小中学校の学級会以来なのではないだろうか。
 激しく面倒臭いのだが、さすがにサボる訳にも行かない。退屈だろうが一応メモくらいは取らなければなるまいし、小中学校の学級会と違って、机の下でこっそり本を読むのもダメだろう。迂闊なことを言ったら義父に迷惑が掛かってしまう。
 一番心配なのは、定例会議の席でついうっかり居眠りしやしないだろうか、ということだったりする。大学の研究室のゼミでさえ堂々と居眠った前科持ちであるわたしが、義父も家人も口を揃えて退屈だ無意味だと貶す定例会で、果たしてちゃんと目を覚まして居られるかどうか。念のためにモカでも呑んで行こうかと思っているのだった。気が重い…。




06/05 危ない遊び

2005/06/05 18:00
 毎週恒例のパンの買出しに出掛けた時だった。主要道路がいつもの通り渋滞していたので、家人は空いている裏道を選んだ。車2台がやっとすれ違えるくらいのセンターラインのない道路である。こういう道だと、さすがの家人もさほどスピードを出さずに慎重に運転してくれる。
 十字路へ差し掛かり、右折しようとした時だった。十字路手前にある植え込みの影から、自転車に乗った男の子がいきなり飛び出して来たのだった。「飛び出すな 車は急に 止まれない」のタイミングである。右折に備えてスロー・ダウンしていたし、男の子の勢いもそれほどではなかったので、急ブレーキは間に合った。幸い接触することもなかったが、男の子は相当びっくりしたらしい。助手席のわたしも背中の産毛から髪の毛が全部逆立つような思いをした。ひょえ〜。こういうことがあるから細い道は嫌いなのである。

 推定6歳前後、小学校に上がるかどうかという年頃で、大きな目のクリクリッとした可愛い坊やであった。黄色い自転車に乗っていた。とにかく飛び出したタイミングがあまりに思い切りが良かったので、今後もし同じことをやったら本当にはねられてしまうかもしれない。本人もかなりビビッているのでちょっと可哀想だとは思いつつ、少々キツめに注意してその場を離れた。
 家人の印象ではまだ回避するだけの余裕は多少残っていたそうなので、自分は逆上せずに済んだと言っていた。わたしは小心者なので、だいぶ後になるまで心臓バックンバックンである。落ち着いてからちょっぴり反省する。危ないから飛び出してはイケナイと坊やに大きな声を出してしまったが、怒った後でヨシヨシとフォローするべきだったろうか。どこも怪我はしていないハズだが、トラウマになっていたりしたら気の毒である。
 一方の家人は「多少驚かせた方が2度目をやらないから大丈夫だ」と言う。万が一もうちょっとタイミングが際どかったら、自ら乗り出してお母さんを呼びにやらせ、母子並べて説教するつもりだったらしい。怖っ。

 自分の子供の頃を考えると、確かに多少怖い目に遭わない限りなんでもやりたい放題だったなー、とは思う。小学生の頃は特に単独で行動することが多かったので、友達を見て「これは危ないのだな」と学習することもあまりなかったのである。学校からの帰り道、毎日毎日寄り道しつつ帰るのが日課だったが、その途中で今だったら怖くて出来ないことも結構やった。
 造成中の住宅用地の則面に打ってあるコンクリートによじ登る。建築中の住宅に入り込んで骨組みを伝い歩く。新興住宅地だったので、そういう「遊び場所」には事欠かなかったのだが、もちろん大工さんに見つかって叱られることも2度や3度では済まなかった。
 子供たちの間では「ドブ川」と呼ばれていた元用水路に、幅10cmほどのコンクリートの桁が1m間隔で渡されていたのだが、それを平均台よろしく行ったり来たりする遊びもずいぶんやった。川底までは2mくらいあったので、もしも落ちたらかなり痛い目に遭っただろう。大人たちからは見つかるたびにまたまたこっぴどく怒られたものだが、誰も懲りなかった。

 ピアノの先生のお宅へは自転車で通っていたのだが、毎回その帰り道、自宅近所の坂道を猛スピードで下り降りるのが好きだった。1つ下の妹と競争のような流れになるので、2人ともついついヒート・アップするのである。近所のおばさんに目撃されて母にバレ、またも大目玉を喰らったが止めなかった。我ながらとんでもなく憎そいガキである。
 天罰が下ったのか、そうやって自転車猛スピード競争をやっているちょうどその最中、前輪のスポークが1本折れるというアクシデントに見舞われた。スポークが前フォークに引っ掛かり、とんでもない急ブレーキがいきなり掛かった状態に陥った。慣性の法則で、わたしは自転車前方に放り出され、当然のごとく地面に転がり落ちる羽目になった。奇妙にゆっくりと空中を飛んだのを覚えている。
 盛大にあちこち擦り剥いたが幸い打ち身・骨折等は皆無で、ものすごく恥ずかしい思いをしながら大破した自転車を引きずり帰宅したものである。母にはまたもや叱られ、連れて行かれた医者ではその程度で済んだのは宝くじレヴェルのラッキーだと大目玉を喰らってしまった。

 さすがにかなり反省したので、それから自転車での暴走はぴたりと止めた。そんなことを思うと、今日のあの坊やも、自分の身を以って危険行動を学んでくれたかなー、と、ビビらせてしまった罪悪感もちょっとだけ和らぐ気がする。年頃から考えて、そろそろお母さんの目を盗んであちこち出掛けるのが楽しい時代に差し掛かっているだろう。単独の大冒険で車にぶつかりそうになった、なんてさぞかし怖かっただろうが、どうかこれに懲りて、道路へ出る時は右と左をちゃんと見るようになってくれるといいなと思う。
 なにはともあれ、あんなに可愛い坊やに怪我をさせずに済んでおばさんはホッとしたのである。そして運動神経の割にヤンチャばかりやっていた子供時代、さぞかし周囲の大人には迷惑を掛けただろうなあと、改めて遅すぎる反省もするのだった。




06/06 小さな頃のお気に入りの遊び

2005/06/06 17:59
 昨日の日記を書いていて思い出した。子供の頃に好きだった遊びは、結構悪趣味というか残酷系というか、そういうものが多かった。学研の「科学と学習」が大好きで、それに出て来る実験っぽいことを何でも、時には我流で拡大解釈して実行したのである。例えばライターのガスを使って蟻を凍らせたり、庭の柘植の木に張っているクモの巣に疑似餌を引っ掛けてクモに無駄足を踏ませたり、というもので、両方とも飽きずに何度も何度もやったものだった。
 「蟻を凍らせる遊び」というのは、気化熱についてのトピックから思いついたものだった。ガスライターのフリントを擦らずにレヴァーを押すとガスだけ出るが、それに指を当てると冷たく感じます、という記事である。さっそく自分で試していたらちょうどそこへ黒蟻君が1匹通りかかり、ついでだから黒蟻君にもガス攻撃。当時のわたしは寒くなって動きが鈍くなるだろうと予想していたのだが、「寒くなる」を通り越して凍ってしまった。
 白い霜でいっぱいになって動かなくなった黒蟻君を「どうしたらいいんだろう」と眺めていたのだが、暫くして融けたらちゃんと復活してまた動き出した。面白くなって凍らせる→融けるを繰り返し、ライターのガスを空っぽにしてしまった。父にバレて激しく叱られたが、全然懲りなかった。

 「クモの巣遊び」には長い竹ひごと糸と紙で作った蝶々を使う。紙製の蝶を竹ひごの先に糸で吊るし、クモの巣に引っ掛けて小刻みに震わせるのである。獲物が掛かったと勘違いしたクモが大喜びですっ飛んで来て、紙の蝶をぐるぐる巻きにしたらわたしの勝ち。寄って来なかったり、近づいてもすぐ戻ってしまったら負けというルールだった。
 紙の蝶の大きさや色や形、引っ掛けた後の震わせ方によってクモは騙されたり見破ったりした。わたしは何度もトライして、最終的にシジミチョウを真似るのが一番成功率が高いという結論に達した。1円玉くらいの大きさで薄紫色をした蝶で、子供の頃はどこにでも飛んでいたあの蝶である。最近見掛けないような気がするのだが、どこに行ってしまったのだろう。公園などではまだちらちら飛んでいるのだろうか。
 ともあれそうやって遊んだ後のクモの巣は、当然のことながらずたずたボロボロになってしまった。ちょっとだけ申し訳ない気分になるのだが、翌朝には大抵元通りになっている。あんまり何度もやったので、最終的にはクモ君は違う木に引っ越してしまったのだが、わたしはしつこく引っ越し先にも押しかけた。クモ君にしたら大迷惑だっただろう。

 蝶と言えば大昔に住んでいた団地の四畳半で、虫かご一杯の蝶を放したこともある。小学校の1年生か2年生の頃で、部屋いっぱいに蝶が乱舞する光景はいかにもキレイだろうなあ…と思って企画したのだろう。1日中必死になって獲れるだけの蝶を集めて来て、夕方、意気揚々と帰宅してメイン・イヴェントに取り掛かった。部屋の窓とドアを閉め、おもむろに虫かごの蓋を開ける。ハープの音色をBGMに優雅な蝶の舞が…と思ったらさにあらずで、虫かごに閉じ込められて草臥れ果てた蝶たちはじっとその場に蹲るばかり。
 とりあえず蝶たちを全員虫かごから出したものの、飛んでくれたとしてもすぐに壁や本棚に止まって休んでしまう。どうやら見込み違いだったらしいと落胆し、そこで大問題にぶち当たった。部屋中に分散してしまった蝶たちを、どうやったら元の虫かごに戻すことができるだろう? 1箇所に固まってくれていればまだしも、わたしの手の届かない天井に止まって動かないものも居る。到底全員を虫かごへ回収することは不可能である。1日仕事で集めた蝶たちを諦め、わたしは窓を全開にして、うちわでばたばた扇いで外の世界へお戻りいただいたのだった。

 一時が万事そんな調子で、発想はそれなりに面白いのだが、ともかく決定的に先の見通しが甘い。象徴的なのが「カマキリの卵事件」であった。
 小学校からの帰り道、わたしは毎日寄り道をしていたのだが、その途中で実にいろいろなものを見つけた。キレイな模様の小石、10円玉、変わった形のボタンなどなど。道々拾ってはポケットに詰め込んでそのまま忘れる。発見されるのは翌朝、洗濯機の中でガランゴロン音を立てる時である。

 ある冬の日のそんな帰り道、わたしは実に見事なカマキリの卵を見つけた。茶色で、乾いていて、ススキの枝にくっ付いている。あまりにも「学研の科学」で見た通りだったので、嬉しくなって家に持って帰った。おそらく虫かごにでも入れておいて、春になったら孵化する様子を観察したかったのだろう。しかし例によってトリ頭なわたしは、あろうことか学習机の抽斗にそれを放り込んで忘れてしまったのである。
 月日が経過し春がやって来る。かさかさの卵の内部では自然の摂理に則って、子カマキリたちが着々と新しい命を育てていた。そしてついにある日曜日、事件は起こった。掃除をしていた母が、わたしの机の抽斗からかすかな点線が窓に向かって行進しているのを見つけたのである。もちろん孵化した子カマキリたちが、誰に教わった訳でもないのに戸外へ出ようと歩いていたのだった。
 魂消る悲鳴。駆けつけたわたしはそこでようやく忘れ物に気付くがもう遅すぎる。カンカンに怒っている母と、ホウキで追い散らされたり掃除機で追い掛け回されたりして散り散りバラバラに逃げ惑う子カマキリたち。とりあえず抽斗の中の卵本体(まだ中にたくさんの子カマキリたちが入っている)を庭に運び出しつつ、どう言い訳しようか必死に考えたものである。無駄な努力だったが。

 他にも道草途中で木苺や桑の実をつまみ食いし過ぎてお腹を壊したり、いろいろ怒られるネタには事欠かなかった。一番の問題は、何度お腹を壊しても、叱られても、やっぱり全然懲りずに同じことを繰り返したことである。そしてそういう学習能力の欠如は、ひょっとすると今でも延々と続いているのかもしれない(とほほ)。




06/07 姉の風上にも置けない

2005/06/07 23:36
 3姉妹である。そして他人さまからは意外に思われることも多いのだが長女だったりする。中の妹は1つ下、末の妹とは3歳半(学年で言うと4つ)離れている。末の妹が乳児だった時代は覚えているし、それなりに赤ん坊の世話もしたがったらしい。一応「守らねばならない存在」の妹として認識していたのだろうが、中の妹についてはわたしも妹もほとんど双子感覚だった。お互い1つ違いの姉妹というよりは完全なライヴァルで、結構な対抗意識もあったように記憶している。
 小学校時代と、ほぼ持ち上がりの中学校時代を通じてその意識は続き、それぞれ違う高校へ進んでからやっと薄れた。違う高校へ行ったからというよりは、そもそもその程度のことに拘るような子供ではなくなったから、という方が大きいだろう。とは言え子供の頃は「やんちゃ=わたし、内弁慶=妹」という性格設定がはっきりしていたので、当然妹の方が割を喰う度合いが大きかった。さらにわたしと来たら、暑くても寒くても熱を出し、ちょっと食べ過ぎたら腹を壊し、ストレスがかかると自家中毒を起こす。アトピー持ちで喘息持ちでとにかく手の掛かる子供だったというのは母の談である。

 ちびでひ弱で運動音痴だったのにアタマでっかちで口ばかり達者だったので、当然のごとくクラスの男子諸君からは徹底的にいじめられた。暴力沙汰までは起こらなかったが、上履き隠しとかえんがちょごっこ、女子を動員しての村八分攻撃など、定番の嫌がらせは一通り経験済みである。村八分はかなりこたえたけれど、他のことに関してはあまりダメージを受けなかった。むしろ「またこの低能男子どもが阿呆なことをやりおって」と思っていたし、悪いことにそれを態度に出したので、さらに男子諸君の感情を逆撫でしてしまった。今はあの頃の自分をアタマ悪いなあ、と思う。
 内心はどうあれ表面上は涼しい顔をしていたために、男子諸君も面白くなかったのだろう。とばっちりは妹に行った。さすがに4つも下級生相手に嫌がらせをするのはためらわれたのか、ターゲットになったのは中の妹のみである。それでなくても内気な妹だったのに、姉のせいで上級生からからかわれ、ますます引っ込み思案な子になってしまった。今でもあの仕打ちは許しがたいと思っている。
 すまない気持ちはあったものの、その分特別に妹を大事にするということはなかった。妹にしたらからかわれ損である。あの阿呆姉さえ居なければ…と思ったことがあっても不思議はない。訊いてみたことはないが。

 わたしのいたずらに巻き込まれるのもやっぱり中の妹だった。記憶にないくらい小さい頃の話だが、最初の一発は「ナフタリン事件」である。おそらくわたしが2歳、妹が1歳くらいの頃、夜寝かしつけられた後に子供部屋でわたしはふと目を覚ました。子供用の布団が2組延べてあって、壁際には箪笥が2棹置かれている部屋である。ごそごそ置き出したわたしは、たぶん前々からやってみたいと思っていたのだろう、箪笥の抽斗を引き抜いては階段のように上へ上へと登って行ったのだった。
 登ったものの特に面白くもなかったらしく、わたしは落っこちることもなく降りて来た。そこでふと妹を見ると様子が変である。わたしがごそごそしているのでついでに目を覚ましたらしいのだが、そこで妹は何を考えたのか、抽斗に入っていた防虫剤のナフタリンを探し出し、セロファンを剥いて食べてしまったのである。当然不味いので「うえー」と奇妙な声を出しているところへ、気配に気付いた両親が顔を出した。後はお定まりの大騒ぎである。

 部屋中ナフタリンの匂いが充満し、妹はヘンな顔をしてえづいている。自分のせいで妹が大変な目に遭った、ということは認識していたらしい。母が子供部屋を覗いた時は、わたしはアタマから布団を被って寝た振りをしていたという。まったくとんでもない姉である。
 夜間病院に駆け込んで胃洗浄をしてもらった妹の胃袋からは、繋ぎ合わせてみると実に2粒半分ものナフタリンが出てきたらしい。医者も「どうしてこんなに不味いものを2粒半も食べたんでしょうねえ」と不思議がっていたとのことで、そこから考えると抽斗を漁ってナフタリンを食べた妹もじゅうぶんヘンな奴だったということにはなろう。

 その他、美内すずえさんの有名なホラー・コミック『白い影法師』の一番怖いシーンを真似してダイニング・テーブルの下に潜り込み、そこでお茶を飲んでいた妹の膝にテーブルの下から両手を掛けて死ぬほど怖がらせたこともある。この時も大騒ぎになってしまったので、わたしは事の顛末を聞いた母からまたもやこっぴどく叱られる羽目になった。ともかくこのシーン、お読みになったことがある方にはお心当たりがおありだろうが、非常に印象的で怖い場面なのである。
 お菓子の分け前を横取りしたことは数知れず、その他さまざまな理由で良く喧嘩もした。取っ組み合いになれば1歳上のわたしが大概勝ったが、口で敵わない分、先に手が出るのも妹だった。取っ組み合いに負けた上に親に叱られるという不本意な目にもずいぶん遭っていただろう。
 せめてわたしがもうちょっとお姉さんっぽかったら良かったのだろう。気の毒したなーと思う。

 そんな妹も高校に上がる頃にはわたしの背を追い越してしまった。体力も妹の方が上になったので、さすがのわたしもそれまでほどは口で妹を挑発することもなくなった。以降、付かず離れずのそれなりに友好的な姉妹関係に落ち着いている。
 性格的に多少丸くなった(と末の妹には言われる)わたしよりも、中の妹はより過激な方向へ走っているらしい。内弁慶は変わらないが、マイペース振りには磨きがかかって完全に我が道一直線である。それなりに処世術も身に付けたので、元々良かった外面はさらに「いいお嬢さん」になっている。
 隣家の義父母などには「まとりさんよりもよっぽど気の利いた妹さんね」などと評されて、わたしは密かに吠え面をかいているのだった。結局のところ、妹とはどこまで行ってもライヴァルであり続ける面があるのかもしれない。




06/08 エア・チェックするだけして観られない

2005/06/08 17:57
 加入しているCATVとN○Kの衛星劇場などで、観逃していた&もう1度観たい映画をふんだんに放映している。特にCATVの映画専門チャンネルでは毎月40本ほどのタイトルを3、4回くらいずつ代わる代わるにやってくれるので、ついついアレもコレもと欲張って○印を付けてしまうのだった。特に気になるものは録画予約などもするのだが、大概、放映しているその場で観てしまわないとお蔵入りしてHDDの場所塞ぎと化す。
 特に月始めの10日間ほどは放映タイトルがごっそりと入れ替わった直後なので、アレもコレもの大騒ぎになってしまう。ウチではそれでもWOWOWなどの有料映画専門チャンネルは観られないのだが、CATVの番組表冊子などを見ると、当然のことながら有料チャンネルでの方が「おっこれは!」なタイトルが多い。激しくそそられるのだが、これ以上「録画だけしたけれど」なものを増やしても虚しいし、HDDの残り容量が少なくなると家人の顰蹙をかったりもするので、WOWOWその他の有料チャンネル加入は自粛しているのだった。

 どうしてもじっくり観たいものは仕方なく録画するが、そうでもなさそうだと思ったものについては、最近はBGM代わりに流しながら日常業務を片付けることにしている。1回そうやって流し観て、思いがけず良かったりしたら後日改めて録画してやろう、という算段である。洗濯やアイロン掛け、繕い物、野菜の下拵えやその辺のダス○ン拭き掃除などを、映画をチラチラ観ながらこなすわけである。内容がしょーもないものだと用事はサクサク捗るが、作品が予想外に面白かったりするとつい手が止まり、TVの前に座り込んでしまう。『未来世紀ブラジル』で、西部劇を観ながらサボっている所員たちのような気分になる。
 わたしが最もサボりがちになる日常業務というと掃除機かけなのだが、生憎こればっかりはTVをチラチラ観ながらやっつける訳には行かない。最大のネックはやはりあの暴力的な排気音で、あのヒィィィンという音が鳴っていたら映画どころではない。ヘッドフォン付き眼鏡型の遠焦点タイプスクリーンなどがあって、例えば背中にDVD再生機を背負って歩きながら映画が観られるということだったら、「掃除機をかけながら映画鑑賞」という極道なことも可能だろう。ただしそれだとちゃんとゴミが取れたか確認できないし、階段などではうっかり転がり落ちる危険性もある。
 やっぱりゾウリムシ・タイプの掃除機(安価で静かなやつが望ましい)が早く普及しないだろうか。汗をかいて身体中痒くなるし、とにかくキライなのである、掃除機かけ。

 最近そうやって鑑賞して良かったなあと思ったものには、幼い男の子の目を通してスペイン内戦を描いた『蝶の舌』、離婚後に最愛の子供たちと会えなくなってしまって悩むパパたちが主人公の『バイバイ・ラブ』や『ミセス・ダウト』、再び会えて個人的に大変嬉しい『リベリオン』や『バルカン超特急』、『ベルリン・天使の詩』などがある。日本未公開だったそうな『バイバイ・ラブ』(ほのぼのホロリのコメディ)と、ラストで滂沱の涙に暮れることになった『蝶の舌』が特に印象的である。
 ジャングルで育った男性が主人公の『ヒューマン・ネイチュア』という作品も印象キョーレツだったのだが、傑作と呼んでいいのかキワモノなのかちょっと良く判らない。同じくビミョーな気分になってしまった作品も幾つかあり、いつかまた観たいものだと思っているのだが、果たしていつになったらそういうチャンスが巡って来るものやら。

 録画してまだ観てない注目作には『酔っ払った馬の時間』、『メルシィ!人生』、『バティニョールおじさん』、『アルカトラズからの脱出』、『潜望鏡を上げろ』などなどがあって、残念なことに増える一方だったりする。読みたい本も相変わらず減らないし、おのれの時間の使い方の下手さ加減にはつくづく嫌気が差す今日この頃である。どうして24時間しかないのだろう、1日…。
 劇場公開中の映画にも観たいものは山ほどある。『Shall We Dance?』や『オペレッタ狸御殿』はぜひ観たいのだが、なかなか良いチャンスが巡って来ない。昨日たまたま母が映画を観に行きたいと言うのでお供したのだが、観た作品は結局『ミリオンダラー・ベイビー』に落ち着いてしまった。感想文に書いた通り、これは本当に素晴らしい作品だったので観に行って悔いはないのだが、『Shall We Dance?』と『オペレッタ狸御殿』はどうしよう。

 絶対行くぞと思いつつ『ハイド・アンド・シーク』や『サイドウェイ』は逃してしまった。今後『星になった少年』や『亡国のイージス』などチェック作品もぞろぞろしているのだが、果たして実際に鑑賞できるのは何本だろう。近所のショッピング・モールで今新しくシネコンを造っているのだが、来年そこが完成したら、もうちょっと気軽に映画を観に行けるようになるかもしれない。早く出来上がるといいなあ。




06/09 携帯電話機種変更

2005/06/09 18:20
 それまで使っていた携帯電話が、フル充電しても2日ほどで電池切れしてしまうようになった。どうやら充電池の寿命らしい。愛用していたのは SonyEricsson の A3014S という機種で、キャリアはauである。結構気に入って使っている電話だったので、できれば充電池を交換してこのまま使い続けられたら…と思っていたのだが、電池交換は結構高価くつくらしい。機種変更ならば特典ポイントを利用して1台1050円で買えてしまうという。もったいないと思いつつ、結局機種変更することにした。
 ヨド○シの店員さんは「ご新規ならば1円ですよ〜♪」とおっしゃるが、新規だと電話番号が変わってしまったり面倒臭そうである。PENCKとかいう丸いフォルムの可愛らしいのにちょっとだけ心惹かれつつ、家人とお揃いの SonyEricsson の A1404S に決めたのだった。好き嫌いはあるだろうが、わたしはここの機種に特有のジョグダイアルが大のお気に入りなのである。

 家人とお揃いにするにはいろいろと訳がある。別にまだやろうとは思わないが、表面パネルをお互い取り替えれば時々気分転換ができる。今回は家人は黒で、わたしのは黄緑色である。前回は家人が白でわたしが青。切り替えた後の A3014S の表面パネルを試しに取り替えてみたが、青と白のツートン・カラーというのはなかなかに派手であった。ちょっとぷっくりしている機種なので、何となくカスタネットのようにも見える。
 主な理由は、充電用アダプターを2箇所に分散できるから、ということである。2個の携帯電話に1つずつアダプターが付いてくるので、1つは家に、1つは家人の会社に配備すれば急な電池切れにも対応しやすい。ただでさえ大荷物な家人の通勤用バッグに、常時充電用アダプターを詰め込んで行動する必要もなくなる。
 さらにこれはわたしの個人的理由なのだが、家人と同じ機種にしておけば、いざという時使い方を訊けるだろうという目論見もある。携帯電話の取扱説明書、わたしはハナから読む気などさらさらないのである。マメな家人はきちんと読んでいるらしいので、使っているうちにどうしても判らないことが出て来たらサクッと訊いちゃろう、と思っているのだ(不精)。いじっているうちに大まかな使い方は判りそうだし、訊かなければならない機能は使わないつもりだが。

 今までは頑なに「カメラ機能なんか要らないもん」と主張していたが、最近の機種ではカメラ付きでないものを探す方が難しいらしい。新しくウチにやって来たケータイ君たちも、そういう訳でカメラ付きである。あればあったで使うこともあるだろうが、わたしはそもそも写真を撮るのも撮られるのもあまり好きではない。せいぜいQRコードを読み込む時にしか使わないような気もする(QRコード・リーダーの機能はあったっけ?)。
 画素数にこだわっていないこともあって、A1404A で撮った写真はそれほどキレイなものではない。しかしどの道、携帯電話程度の大きさであれば、焦点距離も知れていると思う。キレイな写真を撮るには、画素数の他にこの焦点距離をいかに長くできるかがポイントだそうなので(家人の受け売り)、そもそも携帯電話のカメラ機能に「キレイな写真」を期待するのが間違っているのだろう。反射率が完全に100%の鏡が安価に作れるのならばその問題も解決かもしれないが、そんな鏡はおそらく実現不可能である。

 ショックだったのは、今までの着信メロディのコレクションが全部パーになってしまったことだった。アドレス帳やスケジュールなどのデータは新しいのに移植してもらえたのだが、着信メロディに関しては著作権の問題が絡むため、そうそう簡単に移植してもらう訳には行かないらしい。リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」とかバッハの「トッカータとフーガニ短調」、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」、フォーレの「シシリエンヌ」などお気に入りの曲がたくさんあった。ムーミンの「おさびし山」やナウシカの「王蟲との交流」もお別れである。
 そうと知っていれば、予めPCのアドレスにでも宛てて着メロを全部、添付ファイルにして送っておくのだったと臍を噛んでももう遅い。どうにかしてこのデータを吸い出す方法はないものだろうか。残念である。
 とは言え、古い方の携帯電話でも着信メロディをいろいろ設定して楽しんだのはほんの最初の頃だけだった。じきにうるさいと感じるようになり、結局ずーっとマナー・モードに設定しっぱなしにしていたので、着信メロディは気の毒にも持ち腐れ状態だったのである。自宅の電話が24時間留守電になっているのとだいたい同じ心理だろうか。それを考えれば、データを移植できないままの方がいっそさっぱりするかもしれない。

 家人が新しいケータイ君たちを受け取りに行ったお店では、古い A3014S を見て「これは人間で言えば120歳くらいですね」などと言われたらしい。確かにもう滅多に見掛けない機種だったけれど、ぴかぴかの新品が3年程度でお払い箱になるなんて、わたしとしてはどうしてももったいなくて仕方ない。資源の節約のためにも、同じ機種をずーっと使い続けられるような充電池の価格設定があればいいのに、と思う。
 そういえば先日、新聞のコラムでチラリと読んだのだが、10年モノのトランシーバーのような携帯電話を今でも使い続けている方もおいでらしい。充電池が寿命を迎えるたびに、お店のセールス・トークにもめげず断固として電池交換を貫いていらしたという。いよいよ交換する電池も生産中止になり、今度充電池がイカれたら止む無く新しいのに変えねばならない。持ち主さんの愛着に応えているのかこのトランシーバー型携帯電話君は結構しぶとく、「さてはもうダメか」という状態から不死鳥のように蘇ったりしているのだという。
 どでかいトランシーバー型携帯電話君、最近では珍しがられて話題の種になったりもするらしい。そういう使い方、いいなあ。持ち歩くには確かに少々重くて嵩張るだろうけれど。




06/10 復刊ドットコム

2005/06/10 18:43
 オン・デマンド・パブリッシュの有名どころに「復刊ドットコム」があって、わたしはここが大のお気に入りである。今は入手困難な絶版本を再び読みたいと思う人がリクエストを出し、賛同する人がそれにどんどん投票する。得票が100票を超えると、かつての版元に「再版希望がこれだけあるんですけどいかがですか?」と代わりに交渉してくれるシステムである。
 今までにずいぶん沢山の絶版本がここのおかげで入手できるようになった。三原順さんの『かくれちゃったのだぁれだ?』とか佐藤亜紀さんの『戦争の法』や『鏡の影』などなどである。後ろ2冊は単行本を持っているのだが(『戦争の法』は文庫も)、未読の人々がもっと楽に入手できてしかるべき傑作だと思っているので、復刊は願ったり叶ったりなのだ。特に『戦争の法』はわたしの中の佐藤亜紀ベスト作品で、硝煙とオペラとノスタルジーが交錯する絢爛豪華な必読書だと思っている。

 オン・デマンドなのでメジャーな出版社から出る書籍よりは若干高価めだが、必死になって古本屋さん巡りをせずに済むのは助かるし、再版されて著者にまた印税が入れば、新作を書いてもらえるモティヴェーションとなるかもしれない。そんな訳でお気に入りの著者の作品が復刊ドットコムで復活すると、もう持っている作品でも買っちゃったりする。さすがにブッキング版『戦争の法』1995円也にはまだ手が出ていないのだが。佐藤亜紀さんの作品には絶版本も多く、この調子でどんどん復活しないかな、と思う。『モンティニーの狼男爵』はいつになったら再々版されるのだろう(しょんぼり)。
 復刊ドットコムで多数のリクエスト票を集めると、時にはブッキング以外の既存出版社さんが「それウチで出しましょう」と名乗りを上げてくれることもある。そういう作品は元々固定ファンが付いていたのに、作者ご本人の都合など何らかの理由でお蔵入りとなっていたものが多い。出せば売れる有望株なので、ある程度の部数が見込めるのだろう。

 わたしの大好きな明智抄さんもそういう作家さんのお1人である。
 『サンプル・キティ』や『砂漠に吹く風』などのSF作品から『毎日のセレモニー』のような日常風景漫画、「始末人シリーズ」のような一見訳の判らないシュール系まで幅広いジャンルを誇る。独特の乾いた人生観と、底辺に流れる人生と人間への肯定と、ピリッと効いているブラック・ユーモアがたまらない魅力を持っている。明智さんご本人も少々変わった性格なのではないだろうか。『パタリロ!』のパタリロ・ド・マリネール8世殿下の行動パターンを「ごく普通」であると認識する辺りに変人ぶりが垣間見えると思う。
 代表作は「これから描きます」とおっしゃる辺り非常に頼もしいのだが、いかんせん今は赤ちゃんが生まれたばかりでご多忙、ファンは新作を待ち侘びて途方に暮れているのだ。『サンプル・キティ』の流れを汲むシリーズの続編も待ち遠しいが、シリーズ最新作『死神の惑星』が掲載誌の廃刊のために不完全燃焼な完結を強いられるなど、なかなか不運な作家さんでもある。

 先々月、絶版になって久しい「始末人シリーズ」の復活が決まった。朝日ソノラマからの文庫版、全5巻である。今までの白○社版コミックスには入っていなかった作品も収録したコンプリート版なのが嬉しい。惜しむらくは普通の文庫本レヴェルのお値段で、200ページに満たない文庫コミックスが1冊580円というのは結構高価な部類に入るだろう。ただし明智抄さんの固定ファンならば30代から40代の女性がメインと思われるので、この価格設定が障害になることはないと思う。売れるといいなあ。
 このシリーズが売れてくれると、明智SFの原点とも言うべき『サンプル・キティ』の復活に弾みが付くかもしれないので、わたしとしては期待大なのである。『サンプル・キティ』ももちろん復刊ドットコムで100票以上を得票し、各出版社への働きかけなども行なわれているらしい。ただしまだ進行状況が「交渉中」と発表されているだけで、いつになったら目処が立つのかやきもきしながら待っている。
 他にも雑誌掲載のみで単行本になっていない「少女忍法帖」シリーズなどへの期待も募る。コミックスになったら買おう、と思っていたので、掲載された当時の雑誌は読んでいないのである(悔しい)。

 復刊ドットコムでリクエストを大量に集めれば必ず復刊されるかというと、残念ながらそうではない。原作者の意向で復刊は遠慮させて欲しいという場合もあるし、原稿が散逸してしまって復刊しようにもできない、という場合もある。内田善美さんの『草迷宮・草空間』や『星の時計のLiddell』などはそれぞれ200票を軽く超える得票数を誇るが、なかなか復刊されない(たぶん無理だろうなと思う)。わたしは読んだことがないのだが、『雪の断章』などの代表作に熱烈なファンが付いている佐々木丸美さんも、作者ご本人の意思で復刊できないらしい。昨年秋にネット・オークションで原稿が売られてしまった白井恵理子さんの作品も、このままでは復刊不可能となる恐れがある。
 子供の頃に大好きだったジュリー・アンドリュースの『偉大なワンドゥードルさいごの一ぴき』やメアリー・スチュアートの『小さな魔法のほうき』も、復刊されたらぜひ買おう(ボロボロになった本をまだ持っているけれど)、と思っている。ポップな色彩イメージの『ワンドゥードル』と、枯葉色の秋の英国という印象の『魔法のほうき』、どっちも非常にヴィジュアルな作品で、ファンタジー・ブームの今なら結構イケるのではないかと思うのだが(懐古組も挙って買いそうだし)。




06/11 20年ぶりのこんにちは

2005/06/11 21:08
 小学校から大学院までの学生生活で、一番楽しかったのは文句なしに高校時代だった。そして3年間の高校生活の中で一番楽しかったのは3年生の時のクラスだった。今日は久し振りにそのクラス(303H)の同窓会が開催されたのである。あの仲間が同じ教室に集まってから20周年の記念、というコンセプトだった(今さらだが歳がバレる)。今は栃木県在住の恩師も駆けつけて下さり、総勢20名余りが集まった賑やかな会となった。楽しかった(にっこり)。
 来年の春には、恩師が栃木県から20年前のお宅へ戻っておいでになるということで、今度は改めて「卒業20周年」のクラス会をという計画もあるらしい。かなりまとまったクラスだったので、未だに2ヶ月ごとに飲み会を開いているメンバーが居て、その人たちが中心になって企画立案をしてくれているのだ。

 本当は10年前にも「10周年記念」のクラス会があったのだが、その時は生憎、勤務先で過労のために身体を壊した後だったりして出席できなかった。実は結構近場に住んでいる元クラスメイトも居て、時々飲み会に誘ってくれているのだが、平日の夜ということだとなかなか家を空けられない。そういえば高校3年生の夏、卒業旅行の計画もあったのだが、父が「嫁入り前の娘が保護者ナシのクラス旅行に出掛けるのは罷りならん」と許してくれなかったので大喧嘩になり、1週間ほどハンストしたことを思い出す(いやー青かったなあ)。
 高校卒業後は長距離通学と実験とバイトでてんてこ舞いで、とても旧交を温める余裕はなかった。そんな訳で、わたしとしては最も愛するクラスメイトたちなのだが、残念ながら年賀状のやり取りだけという状態が続いていた。20年間連絡さえ取れない人も居たりして、ずっとずっと気になっていたのである。企画してくれた幹事団には本当に感謝してしまう。

 場所は横浜中華街のとあるチャイナ・レストラン。JR石川町から徒歩8分ということだったので、方向音痴なわたしには結構際どい距離だと不安に思っていたら、15分前にJR石川町改札で待ち合わせしよう、という連絡が数日前に来た。やれやれと一安心したのも束の間、今度は別の不安が脳裏を過ぎる。20年間1度も会っていないクラスメイトたちの顔、果たして人の顔覚えの悪いわたしにちゃんと見分けられるだろうか? 赤の他人に間違って声をかけちゃったらどうしよう。
 わたし自身は20年前とほとんど変わっていないそうなので、いざとなったらみんなの方がわたしを見つけてくれるのを待つしかないかもしれない。待ち合わせ場所にそれっぽい集団が居たら、周辺をそれとなくウロウロしてみるしかない。そう思っていたのはしかしまったくの杞憂だった。改札口の階段を降りたら、目の前に一目でそれと判る人物が立っていたのである。まったく20年前と変わらない、幹事のI君であった。

 続々と集まる旧クラスメイトたちも全然変化ナシ。そしてやっぱりわたしも全然変わっていなかったらしく、同じく一目で判ってもらえたのだった。女性陣は髪形や化粧があるために男性陣よりも見分け辛かったが、それでも口を開けば懐かしい声がする。20年ぶりというよりも、せいぜい2年ぶりの再会という印象だった。わたしの場合、あれからアタマの中身がほとんどまったく変わっていない(成長していない)ということなのかもしれない(汗)。
 積もる話に花を咲かせれば、やっぱりみんな20年間、出会いを別れを繰り返しつつ過ごして来たドラマがある。母校の写真や卒業アルバム、かつてのクラス会や成人式の写真などを持って来てくれたメンバーも居て、本当に話題には事欠かなかった。近況報告コーナーや集合写真撮影なども含め、あっという間の3時間だった。本当に本当に楽しかった♪

 2次会もあったのだが、ちょっと用事があったためにパスして帰宅。ちょっと名残惜しかったが、今後もちょくちょく飲み会やバーベキュー大会でもしようね、と約束したので、これからそういうチャンスをできるだけ逃さないようにしようと思い直す。
 来春の「卒業20周年」クラス会を本当にやるのなら、今度はぜひ母校にも遊びに行きたいものである。写真を見せてもらった限りでは、多少キャンパス内の木々がより鬱蒼としている他は、まったく20年前と変わっていないようだったので逆の意味で驚いてしまった。旧体育館や旧部室、学食など、当時でさえいい加減ボロだったのにまだ現役なのである。どうやら建て直す予算をもらえなくてそのままになっているらしいが、OGとしてはそっちの方が嬉しいかもしれない。
 ちなみにわたしがかつて「諦めは愚か者の結論」と言って毎日運試しをしていた踏み切りも、『エリア88』が連載されていた「少年ビッグコミック」を立ち読みした本屋さんも健在らしい。しかし駅舎は改装されてコンコース方式(?)の駅になってしまったので、今では踏切の向こう側のプラットフォームへはいつでも渡れるようになったということだった(ちょっと残念)。当たり前だがやっぱり20年経つことは経っているらしい。

 1つだけガックリしたのは、2次会へ向かう皆と別れ、中華街で少々お土産を買ってから独りでJR石川町駅へ向かったら、案の定道を間違えてしまったことだった。迷子にはならずに済んだのだが、「おかしいなあ、こんなに遠かったっけなあ」と思いつつ辿り着いた改札口は、中華街からは遠い方の元町口だったのである。中華街近辺の地理は確かに判り難いけれど、来た道を戻れないというのもナニである(とほほ)。




06/12 またもや本末転倒

2005/06/12 14:53
 梅雨独特の湿度の高さにいきなりゲッソリしているのだった。昨日久し振りに会ったクラスメイトたちとコーフンしてしゃべりまくったために草臥れ果て、しかも身体は確実に20年分トシを喰っている。情けないことだがどうにも抜け切らない疲れがまだ残っている上に、今日はずいぶん気温も高い。正直ヘロヘロである。
 わたしの場合どういう訳か、あまりに疲れていると寝坊ができない。昨夜も床に就いたのは3時前だったのに、今朝は休日には珍しく8時半に目が覚めてしまった。おそらく暑かったこともあるだろう。家人は根性で眠り続け、途中でやっぱり暑くなってクーラーのスイッチを入れ、そのまままた眠り直したらしい。クーラーの効いている中で眠るのは涼しくて気持ちが良いけれど、うっかりすると暑さ負けよりも酷いクーラー負け状態に陥ってしまうので、わたしとしてはなるべく控えている。
 女性よりも筋肉量が多いからか、一般的に言って女性よりも男性の方が暑がりだと思う。家人の場合はさらに自前の皮下脂肪をたっぷり蓄えているので、暑がりの度合いも半端ではない。我が家では毎年、夏になるとクーラーの設定温度を巡ってひと悶着起こるのである。

 今さらな感がどうしても拭えない「クールビズ」運動だが、何でも聞いたところによるとネクタイ業界の方々が小泉首相宛てに「ネクタイを目の敵にするような運動はどうか止めて欲しい(意訳)」という陳情書を出したという。確かにネクタイなぞ、ビジネスマンの需要が減ったら死活問題だろう。成人式の式典が取止めになったら大変だ、と成人式撲滅反対キャンペーンを張った呉服業界さんと心境は似ているかもしれない。
 とは言うものの、わたしとしてはこの陳情書、どうもズレているのではないかと思うのだった。「クールビズ」運動は往年の「省エネルック」と同じく、「夏場の体感温度を少しでも下げてその分クーラーの設定温度を上げましょう」という目的のために行なわれているものである。家人によるとネクタイとは半ば拷問的なアクセサリーらしいが、別に「男性をネクタイから解き放て」という運動でもなければネクタイそのものを目の敵にしている訳でもない。

 温暖化のせいか知らないが、ここ最近の夏場の東京は既に亜熱帯気候である。そんな中で襟元をきっちり閉じていたら暑いのは当たり前だと思う。そういう服装をして、しかも外回りで暑い最中を歩き回った末に汗だくで帰社する男性陣にクーラーの設定温度を合わせるから、22〜23℃などという馬鹿げた気温に女性陣が震えながら耐えねばならないのである。言い尽くされたことだろうけれど。
 昨日も思ったことだが、電車の冷房設定でも同じである。暑いプラットフォームで待っていた後にひんやり涼しい車内に乗り込む瞬間は確かに気持ちいい。けれど、そんな車内に10分も居たら今度は寒くなってくる。平均乗車時間が極端に短い山手線ならば仕方ないかもしれないが、その他の路線だったら、もうちょっと設定温度を上げてもいいのではないだろうか。絶対に身体にも良くないと思うのだが。
 とっくにクールビズ的な服装で働いている家人はそれでも暑そうなので、ネクタイを外せば即座に冷房設定温度を上げられるとは限らない。いつまでも汗みずくなのも気の毒かもしれないし、発想を逆にして「強冷房車」を作るのはどうだろう。デフォルトの車両内設定温度は28℃くらいにして、3〜4両おきに設定温度23℃くらいのを配置するのである。涼みたい人はその車両に乗って、寒くなったら普通車両に移動すればいい。ラッシュ・アワーはどうせどの車両もガンガン冷房を働かせないと間に合わないだろうから対象外とする。

 ともかく「クールビズ」の狙いはあくまでも省エネルギーであり、体感温度を涼しく保てれば別にノー・ネクタイでなくても全然構わないのである。冷房設定温度28℃(できたら冷房ナシ)に耐えられるのであれば、三つ揃いだろうがボウ・タイ&タキシードだろうが勝手に着ていればいい。ネクタイ業界さんも、本末転倒な陳情書を出している暇があったら、きっちり締めていても開襟シャツと同じくらい涼しいネクタイを開発する努力をするべきだと思う。そんなものが実現可能かどうか判らないが。
 ネクタイなしのスタイルを「だらしない」と感じる層も根強く残っているらしい。わたしとしても、ビジネス・シーンに相応しい服装がある、という意見は理解できないでもない。せっかくニーズがあるのだから、ここはひとつ機能性を持つ新種ネクタイの開発しどころだ、と考えて欲しいものである。

 本末転倒と言えばつい一昨日、わたしもやってしまったばかりだったりする。事の発端は隣家の義父母からいただいた大量のタマネギであった。静岡のご親戚が、自宅で栽培なさったというとれとれの大玉が8個もある。大変嬉しいのだが、生憎家人はタマネギが大嫌いである。わたしが昼食でどんなに頑張って食べても、悪くなる前に使い切るとは到底思えない。止む無く母に半分お裾分けしたが、それでもまだ4個もゴロゴロしている。
 どんなメニューならタマネギが入っていても食べられるのかと家人に訊くと、カレーかビーフ・シチューだと答えた。クラス会の日の晩御飯を手軽に済ませるためにも、今回はカレーを作るのが適当だろうと思った。みじん切りにして飴色タマネギになるまで炒めれば嵩がほとんどなくなるから、4個いっぺんに消費してしまうこともできる。ちょっと手間暇はかかるけれど。

 カロリーが高いこともあるので、実はウチではあまりカレーを作らない。市販のルーを使わずに作れば多少のカロリー・ダウンはできるだろうが、とてもそこまでの根性がないのである。そういう訳で、久し振りのカレー作りに当たっては少々カンが狂っていた。市販のルーを使ったカレー作りなら失敗しようもないのだが、今回狂ったのは主に「量」に関するカンである。
 4個分の飴色タマネギ(せいぜいお茶碗1杯分)、にんじん大2本、あらかじめ表面に焼き色を付けておいた牛スネ肉。圧力鍋に全部放り込んで少々炒め、水適当と赤ワイン適当と野菜ジュース適当とブイヨン・キューブ1個を加えて煮立てる。アクを引いたら圧力をかけて30分。牛スネ肉はほろほろに煮崩れて美味しそうになっている。
 後はルーを割り入れ、別に茹でておいたジャガイモ大3個とサイの目に切ったブロッコリーの軸、小分けにして半分に切ったしめじを加えてとろみが付くまで煮込んだら出来上がり。じっくり作ったら半日掛かってしまうが、この手順で作れば実に美味しい欧風カレーが食べられる。

 今回も味に関しては文句なしの出来だった。問題は出来上がったカレーの量で、水の量を間違ったためか、後に加えるジャガイモ&ブロッコリー&しめじの体積を計算に入れ忘れたためか、結果的に圧力鍋つるつる一杯になってしまった。素敵なとろみが付くまでに投入したルーの量は最終的に2箱半である(汗)。
 金曜日の晩御飯と昨日の晩御飯と今朝の朝御飯に食べたのだが、まだ優に1/3は残っている。暑くなる時期なので出来るだけ早く食べ切らねばならず、当然今日の晩御飯もカレー。家人はそろそろ文句を垂れ始め、タマネギ消費のためとは言え本末転倒だとか、キミは中庸とか適量とかいう言葉を知らないのかとぶつぶつ言っているのだった。どうやらいつぞやの餃子事件を思い出しているらしい。悪いねえ(とほほ)。




06/13〜14 不機嫌モード

2005/06/14 12:36
 情けない話だが、昨日から体調を崩して熱を出してしまった。たぶん急に暑くなった上に湿度も高いので、トロい自律神経が体温調整に間に合わないのだろう。我ながらホンットーにイヤになる。季節の変わり目にあまりにもたびたびなので、家人も「またか」と言ってちっとも気の毒がってくれない。掛け布団を蹴っ飛ばして寝ているからだ、恨むのなら自分の寝相の悪さを恨むことだと冷たいのだった。寝相を直す…意識のない間のことだから難しいなあ…。
 大昔、すぐ下の妹はわたしに比べて丈夫だったため、たまには自分も熱を出して学校を病欠したいとボヤいていたものだが、発熱なんぞ全然いいことはないのである。大人になってもこうだと、せいぜい「自己管理能力欠如者」という烙印を押されるのがオチ。わたしだって別に熱など出したくて出している訳ではないのだが。

 そんな訳で昨日は日記を書く元気もなく、家人を送り出した後は解熱剤を呑んで1日ぐったりと床に就いていた。夕方から何とか起き出せる状態になったので、とりあえず必要最低限の用事だけ片付ける。本当は買い物と中規模掃除もしようと思っていたのだが、とてもそんな元気はない。いいや後日で(と言っているうちに家の中はどんどん汚くなる)。
 今日は比較的マシになったのだが、掃除機をかけたり片付けたりと、身体を動かすとまた熱が上がる。熱など幾らあっても元気に動ければいいのだが、こういう時は某ドリンク剤のCMのごとく、椅子とか寄り掛かった壁とかに身体がめり込むように重くなってどうにも能率が悪い。昼ご飯を食べる元気もないから、仕方なく少しソファにでも横になって、動けるようになったら再起動することにした。

 2〜3分後、ちょっとトロトロと眠りかけたところだった。いきなり窓の外から選挙演説が聞こえて来た。来月3日が都議会議員選挙の投票日なので、ここ数日、あっちこっちの政党の宣伝カーが喧しいのである。降って沸いた災難と思い、宣伝カーが通り過ぎるのを待つことにする。不快に感じる時間はやけに長く、体感的に30分も経過しているのに(←さすがにこれは大袈裟で、実際は10分程度だろう)まだ遠ざかる気配もない。
 いったいどういうノロノロ運転してるんだろうと窓から外を覗いて驚いた。ウチの真ん前に3人の女性が立って、幟を2本立てて演説しているのだった。宣伝カーではなかったのだ。どうりで遠ざからない訳である。
 別に大嫌いではないが大好きでもない政党で、ひょっとして気分も体調もいい時だったら特に気にしなかったかもしれない。けれどよりによってこの時に、定置演説(というのかどうか知らないが)をやられては堪らない。気の毒だが窓から声をかけ、早めに切り上げてもらうことにした。

 演説が終わってからやれやれと反省する。やっぱりちょっと狭量だったろうか。各政党の人たちも、自分たちのポリシーをアピールするので一生懸命なのだろう。チラシを撒いても演説会のご案内をしても効果は薄そうだし、こういうゲリラ的な演説会でもするしかないのかもしれない。
 しかしやっぱり個人的には不快感しか覚えない。公園や駅前での演説も、許可関係がいろいろうるさいのだろう。とは言えいきなり個人宅の真ん前でというのはどうだろう。党員さん家の前で演説しているのならば、まあ仕方ないことかと思って近所の人も諦めが付くと思うけれど、ウチは別にどこの政党のシンパでもないのである。
 少なくとも演説を始める前にインターフォンで「やってもいいですか?」くらい訊いて欲しいと思う。今日の体調だったらまず間違いなくお断りするけれど、せめてそういう段取りを踏んでいてくれたら、少なくとも不愉快な気分にはならずに済んだハズである。わたしとしては大人気ないが、今日のこの1件で、この政党にだけは今度の選挙、何があろうとも投票なんかするもんかと思い定めてしまった。応援演説なのにマイナス効果、やらない方がよっぽどマシではないか。

 ひょっとして隣家の義父母宅のチャイムを鳴らしていたりしたのだろうか。しかしやっぱりそんな気配はなかったしなあ。例えそうだったとしても、現場の真ん前だったのはウチである。2世帯住宅だったら念のために両方訊くのがスジな気がする。体調不良の気難しいおばさんで結構ですとも(開き直り)。




06/15 画竜点睛を欠く

2005/06/15 23:26
 中休みとかで梅雨らしくない日が2、3日続いていたが、今日あたりからは本格的に「梅雨!」という雨降りらしい。じめじめするのは困るけれど、とりあえず今日の気温は昨日よりもだいぶ低く、おかげで生き返ったような気分である。体調不良でサボり倒した分の諸々を片付けるべく、朝から結構気合いが入っていたのだった。
 とりあえず食べられる時に食べておこうと、N○Kの「生活ほっとモーニング」を見ながら朝食を摂る。12枚切りの全粒粉パン2枚をこんがりトーストし、先日「オーダーチーズ・ドットコム」の通販で買った塗るタイプのパルミジャーノ・レッジャーノをこてこて載せて食す。んまい♪ このオンライン・チーズ屋さんでの特売とか、近所のスーパーでの賞味期限ぎりぎり見切り品とかを駆使し、ここしばらくウチは塊のパルミジャーノ・レッジャーノも切らしたことはない。
 サイコロ状に砕いておやつに食べてもよし、おろし金ですりおろしてサラダやカレーにかけるのもよし。先日サーモン・ソテーに、食塩無添加の野菜ジュース適量+おろしたパルミジャーノ・レッジャーノ適量をとろみがつくまで煮詰めたものをかけてみたら、メチャクチャ簡単でイタリアンなソースにもなったのだった。これは本当にお勧めである。サーモンだけでなく、メカジキやマグロ、サメなんかのソテーにも合うハズだと思う。

 オーダーチーズ・ドットコムの顧客担当さんに教わったのだが、パルミジャーノ・レッジャーノの皮(堅くて美味しくない)の部分はスープのだしに使ってしまえば無駄にならないという。確かに美味そうである。今度ミネストローネを作る時には絶対試してみようと思っている。
 その他バラカという馬蹄形の白カビ・タイプのチーズや、フルムダンベールという青カビ・タイプのものも買ってみた。バラカは味といい食感といいサンタンドレにそっくりである。つまり大変美味しい。サンタンドレと同じ「トリプル・クリーム製法」で作られているらしいので似ているのも道理だが、ということはこれもアンチ・ダイエット食品である、ということなのだ(涙)。美味しいものは身体に悪いのだろうか。
 冷蔵庫の中には既に3種類もチーズがあるのに、今日買い物に出かけたらサンタンドレが半額になっているのを見つけてしまった。しかも3箱も。全部ゲットしたい気持ちを抑え、自分ちの分と母の分の2箱だけ買って帰る。これで明日からの朝ご飯、トーストに載せるチーズのヴァリエーションが3通りである。嬉しいなあ。

 昨夜暑くて寝汗をかいて気持ち悪いのでシーツも引っぺがして洗濯する。「干し姫さま」で干す分と、乾燥モードに掛けられるタオルや肌着類などを分けて2バッチ回し、2バッチ目でスーパーへ買い物へ行く。帰宅すると洗濯が終了しているので後始末をして乾燥を始め、その間に室内バイクを漕いだり野菜の下拵えをしたりする。室内バイクを動かす時にソファの汚れが気になったので、成り行きでマジック○ンが登場して中規模掃除に突入。掃除機かけとダス○ンかけの後で、ダイニングの椅子とソファ、キッチンのレンジ・フード、家中の電灯のスイッチ・ボードとその周辺の壁などを拭きまくる。
 ついでに最近サボっていたヨーグルトの仕込みも済ませ、昨晩録画した『ザッツ・エンタテインメントPART2』を眺めつつ、出しそびれていたメールの返事などをまとめて書く。『MONSTER』の整理は終わったが『攻殻機動隊S.A.C 2nd』は時間切れで、この辺りで乾燥機が終了の合図をピーピー喚いた。中身を片付けてベッド・メイク。ついでだから布団乾燥機もかけちゃえ。

 そんな調子で平均的な仕事量の軽く1.2倍はこなしてしまった。滅多にないがたまにはこういう日もあるのである。何となく充実感に浸りつつ、帰宅した家人と巨人vs楽天の交流戦をTV観戦しながら晩御飯を食べている時、ふと家人が言い出した。「キミが録画セットしてた今日の映画、夕刊によれば7:50からだそうだけど、ヴィデオ動いてないよ。いいの?」
 慌ててチャンネルを変えてみたが時既に遅く、『ザッツ・エンタテインメントPART3』はとっくに始まって、OVERTUREが終わったところだった。CATVの番組表と新聞の番組表の映画開始時間が異なっていたのである。確かにCATVの番組表には「予定が変更になることもあるのでちゃんと確認しろ」と書いてはあるけれど、あまりにも惨いではないか。PART3が一番マニアックで面白いという話で期待していたのに、肝心のPART3だけ観逃してしまった…。

 さらにCATVの番組表をチェックしていたら、今月10日に『大脱走』の放送もあったことを今更思い出す。絶対観るつもりだったのにコロリと忘れていた。あまりに悔しいので急遽ヨド○シへ出掛けて廉価版DVDがないか探したのだが、『大脱走』も『ザッツ・エンタテインメントPART3』も見つからなかった(涙)。こうなったらいつものネット通販だろうか。
 そんな訳で、1日の最後の最後で哀しいチョンボに見舞われ、何となく画竜点睛を欠く寂しい気分なのである。『大脱走』と『ザッツ・エンタテインメントPART3』、近いうちにまたCATVででも放映してくれるといいのだが…。




06/16 耐用年数超え?

2005/06/16 21:46
 先月だったか、野球のジャイアンツの清原選手が頭にデッド・ボールを受けて、ヘルメットの塗装が剥げてしまったシーンをTVで観た。ベンチに下がった清原選手は、艶消しの黒の下から一部分鮮やかなブルーが覗いているヘルメットを大事そうに抱えていて、わたしは「自分の頭を守ってくれてありがとう、お役目ご苦労様」と話しかけたりしているのだろうかと、何となくじんわりした気分になったものである。
 もしかしたらあの時割れちゃっていたらしいという話も聞こえてくるあの問題のヘルメット、除いていたブルーは下地でも何でもなかったらしい。清原選手がライオンズに居た頃から愛用していたヘルメットを、ジャイアンツに移籍後も黒く塗り直して使い続けているのだという。確かにGとYが組み合わさったロゴの部分は取り外し可能っぽいし、ひょっとすると他にもそういう使い方をしている選手は居るのかもしれない。ドラゴンズに移籍した川相選手はどうなんだろう。

 清原選手はあの後も同じヘルメットを修理して使っているそうで、シロートとしてはそういう使いまわしをしても大丈夫なんだろうか、と心配になってしまう。清原選手と言えばデッド・ボールの多さで有名である。頭部に危ない球を受けたのも、何も今回が初めてでもなかったハズだと思う。割れたかもしれないというほどの衝撃を喰らったヘルメット、今もちゃんと衝撃吸収能力を維持してくれているのだろうか。
 野球のヘルメットをまじまじと眺めたことはないけれど、おそらく強化プラスティックで出来た殻の内側に、選手1人1人の頭蓋骨の形状にフィットするような内張りがしてある構造だろう。内張り部分は張り換えが効くかもしれないが、本体の殻が割れたりしたら、どんなに上手に接いだとしても間違いなく強度は落ちているハズだと思う。きっとその危険性を考えても手放せないほど愛着のあるヘルメットなのだろう。野球道具に対する清原選手の思い入れの深さを見て、ちょっと意外に思うと同時にほのぼのとした気分になった。

 大昔バイクに乗っていた頃、先輩ライダーから「事故ったメットは必ず買い換えろ」ということを、耳にタコが出来るほど聞かされたものだった。例え表面的には無傷に見えても、一度事故に遭ったヘルメットは衝撃吸収能力が落ちているかもしれないから危険だ、というのである。フルフェイスのものだと安くても1万円以上はするのがヘルメットなので、わたしとしては大層無情に響くアドヴァイスであった。
 さらに、仮に事故に遭わずに済んだとしても、一定年数以上が経過したらやっぱり買い換える方が安心だという。そういうことがアタマにあったので、清原選手のヘルメットは大丈夫なのだろうかと不思議になってしまうのだった。バイクで転倒して頭をぶつける時の衝撃と、野球のボールが当たる時の衝撃とではダメージが違うのかもしれないが、硬球の持つ運動エネルギーは案外大きいような気もする。

 後日とあるスポーツ・ニュースを見ていたら、清原選手のヘルメットについての来歴を紹介していた。あのヘルメット、清原選手がライオンズに居た時におニューだった訳ではないのだそうだ。入団当時から頭が大層大きくて、試着してみたどのヘルメットも清原選手には合わなかった。そこでライオンズの倉庫を探してみたらちょうどいいのが出てきたので、以後愛用している、ということらしい。
 ちなみに倉庫で眠っていた問題のヘルメット、前の持ち主はあの野村克也氏だったという。ホークスからロッテ、さらにライオンズと色を塗り替え塗り替えして使い続けた年期ものなのだそうだ。ジャイアンツの艶消し黒の下は、水色と黒と緑が層になっている訳である。
 さらにさらにそれだけではなく、野村克也氏もファースト・オーナーではなかったという。何でも1970年に日米交流野球の試合が行なわれてサンフランシスコ・ジャイアンツが来日した時、野村氏がジャイアンツの選手から譲り受けたものなのだそうだ。ということは黒(読売ジャイアンツ)→水色(ライオンズ)→黒(ロッテ)→緑(ホークス)→黒(サンフランシスコ・ジャイアンツと、少なくとも5回分の塗装が地層のように重なっていることになる。最低でも35年ものである。ひょえ〜。

 そして今日家人がまたまた新情報を携えて帰って来た。サンフランシスコ・ジャイアンツで問題のヘルメットを被っていたのは、ホームラン王に2回も輝き、700号ホームランの記録も立てているバリー・ボンズ選手のお父さんだったらしい、というのである。清原選手はバリー・ボンズ選手を大層尊敬していると聞いたことがある。もしこの話を知っていてあのヘルメットを使い続けているのであれば、ちょっとやそっとのことでは確かに手放す気になどなれないだろうなあ、と納得するのだった。最低35年経過していたとするとおそらくとっくに耐用年数は来ているだろうと思うが、そういう事情であればなるほどバラバラに砕けでもしない限り使いたいのは人情である。
 バリー・ボンズ選手のお父さんも右打ちで、しかも野村克也氏や清原選手と同じくやっぱり頭の大きい人だったらしい。この来歴が事実かどうかは判らないが、もしこれが本当にボンズ・パパさんのものだとすると、こういう特製ヘルメットしか合わない巨大な頭、ここまで珍しいものなのかというのも少々面白い。

 ホンモノ偽物で思い出した。全然関係ない話だが、先日A新聞の土曜版コラムで読んでびっくりした話である。
 中国の大学入試では、解答を書き込むために2Bの鉛筆が指定されているのだという。おそらくコンピュータ処理なのだろう、2Bより薄くても濃くてもちゃんと読み取れないことがあるそうで、2Bの鉛筆は局所的に切実な需要がある。
 最近この2Bの鉛筆のニセモノが出回っているとかで、せっかく正解を出したのに鉛筆のせいで読み取ってもらえず、不合格になってしまう受験生が少なからず出るらしい。受験シーズンには時々ニセ2B鉛筆のニュースが流れ、受験生やそのご両親を戦々恐々とさせているのだそうだ。

 コラム執筆者氏は「中国では日本製品は信頼性が高いため、日本の2Bの鉛筆に“必ず合格”とか“御守”とかいう意味の言葉(もちろん中国語)を刻んで売り出したら人気が出るのではないか」とも書いていた。しかし普通の2B鉛筆のニセモノが出回るのであれば、合格祈願の御守2B鉛筆だって早晩ニセモノが出てきてしまうような気がする。鉛筆の生産国がどこかなんて、1本1本にバラけられたらとてもとても見分けられるとは思えない。
 中国などでは海賊版がたくさん出回っていると耳にしてはいたが、鉛筆にまでニセモノが登場するというのも凄い話である。不思議に思うのは、2Bの鉛筆とそれ以外の鉛筆、製造コストはそんなに違うものなのだろうかということだったりする。仮に2Bが1本10円、それ以外のが5円で作れて原価半分だとしても、利益を出そうとしたら恐ろしい数を売り捌かねばならないことになる。主なターゲットが受験生なら、地域限定・時期限定もいいところなのに、本当にリスクに見合うだけのメリットがあるのだろうか。ううむ…。




06/17 油断大敵

2005/06/17 17:33
 録画し損ねてがっかりしていた『大脱走』と『ザッツ・エンタテインメントPART3』は、再度放映されるチャンスを待つよりはDVDを探してしまえと通販サイトを当たってみた。ヨド○シで見つからなかったので嫌な予感はしていたのだが、『大脱走』のDVDは今のところ、お手頃価格のヤツはどこでも品切れ状態らしい。去年の秋に廉価版が発売になったので「これからはいつでも買えるや」と高を括っていたのだが、どうやらあっという間に売り切れてしまったようだ。ううむさすがに人気作品だけある。
 書籍と一緒でDVDも、ブツがある時にとりあえず買っておかないと後で地団太踏んで悔しがる羽目に陥るものだが、今回まさにその油断大敵状態である。しまったと臍を噛んでももう遅すぎる。何度観たか判らない作品だが、それでもやっぱり欲しいソフトなのだった。

 『ザッツ・エンタテインメントPART3』はヨド○シの他の店舗で在庫があるらしいと判明。Amazonでも取り扱っているが、ヨド○シならば10%割引になるのでこちらを選択。1万円以上買わないと送料無料にならないので、店舗での受け取りにして取り寄せをお願いする。後日ブツが届いたら家人にクルマを出してもらわねばならないが、そこは何とか拝み倒すことにしよう。新型ヴィッツたんにカーナビは付いたものの、最寄のヨド○シがある町田駅周辺には、到底自力でクルマを近づけることなどできっこないのだ。細い道と激しい交通量、傍若無人にも両側に路上駐車している車列、あっちこっちからいきなり飛び出して来る自転車と歩行者。怖過ぎる。
 未公開映像満載の特典DVDが2枚も付いた『ザッツ・エンタテインメント・コレクターズ・ボックス』というのもあるのだが、こちらはやはり去年の秋に発売後あっという間に売り切れてしまった。ヤ○オクなどで市場価格を調べてみると、定価8000円弱のところが1万5千円とかいうプレミア価格になっている。特典映像には惹かれるがとても手が出ない。

 DVDで思い出したが、先日カーロス・スペンサー選手の公式サイトにお宝映像がアップされていた。banana kickという種類のキックをコーチしているところで、どうにかこうにか聞き取れるところだけを必死に聞き取ったところ、バナナのような放物線を描くキックということらしい。気になるのはこれが「No.6 banana kick」だったことだった。先日アップされた映像は「No.4 torpedo kick」だったのだ。No.5はどうしたのだろう。ダウンロードし損ねるほどご無沙汰してはいなかったハズなのだが…。
 良く良く注意書きを読んでみると、これはどうやらアチラで市販されている『Book of Cool』というスポーツ選手のお宝映像を集めたDVD付き写真集に収録されている映像らしい。全部観たかったら本を買ってね、ということなのだろう。
 もちろん全部観たいとも! と思って通販ページを開いてみたが、残念ながら日本向けのリージョン2ヴァージョンはないらしい。発送先国名を選ぶウィンドウにはJapanが入っていないのだった。そんなあっ。リージョン・フリーのヴァージョンを出してくれる望みはないのだろうか。最悪の場合リージョン・フリーのDVDデッキを買ってしまうという手もあるが。

 きっとニュージーランドには国内限定版の「寄り抜きスペンサー」DVDなんかがあるのだろうなあ。今はまさに知らぬが仏状態で、そういうDVDの存在を知らないし、対応デッキも持っていないから何とか我慢できているのである。仮にもしもこの『Book of Cool』を買ってしまったら(日本への発送をお願いするメールを書かなくてはならなくて面倒臭いこと甚だしいが)、じゃあそれを観るために…とリージョン・フリー・デッキも買ってしまうかも知れず、そうすると「寄り抜きスペンサー」DVD探しにも本腰を入れてしまうかもしれない。
 自分でねちねちと編集している「寄り抜きスペンサー」で満足できればいいのだが、最大の痛恨事は2003年のワールド・カップでの映像を集め損ねたことである。あの時あたりの神技プレイ映像、もし本国のどっかで収録したDVDがあるのなら是非観てみたい。同様の動機でリージョン・フリー・デッキを買ってしまった友人によれば、「歯止めがなくなるかも」ということでちょっと恐ろしいのだが…。

 油断大敵で思い出した。DVDとは全然関係ない話なのだが、どうやら先日の発熱の原因が判明したのである。
 昨夜風呂上りに何気なく身体を眺めていたら、どうも胸の辺りに茶色くなった部分がある。白いところと茶色いところの境目が非常にハッキリしていて、ちょっと見にはそこだけ日焼けでもしたような感じだった。ちょうどビキニ・タイプの水着の上着が当たるようなところだけ、前面から脇を通ってぐるぅりと茶色いゾーンがある。
 幾らなんでもこんな変なところだけ日焼けする訳はない。どうしたのだろう…と考え込んで思い当たることが1つだけあった。オフ・ショルダーの服に合わせるために買った、ストラップを外せるタイプの下着である。オフ・ショルダーの服はあまり持っていないからしょっちゅう使うこともないだろうと、近所の外資系スーパーで特売していた500円(!)というびっくり価格のものを試しに買ってみたのである。

 最近アトピーの調子がいいのですっかり油断していたのだが、これを着けていた3〜4日前、どうやらカブレてしまったのだろう。良く思い返してみればその日から、胸〜背中を中心に身体のあちこちが痒くなって困っているのである。1箇所ヤラレると全身にスイッチが入るものなので、頭皮から腕の内側まで万遍なく湿疹が出ている。どこが原発箇所なのかサッパリ判らなかったのだが、おそらくコレが犯人だろう。
 当日気が付かなかったのがつくづくマヌケだが、わたしの場合、アトピーが急に悪化すると大抵熱を出す。皮膚があちこち炎症を起こしているのだから、どうしても体温自体が上がってしまうのかもしれない。どこか1箇所で済んでいれば影響も少ないのだろうが、酷くなる時は大概全身に出るのが困りモノである。

 原発箇所が茶色くなっているということは、炎症もどうやら静まって治りかけているということなので、とりあえず後はクスリを塗りつつ放置するしかない。どちらかというと今は誘発された頭皮の湿疹の方が辛いくらいである。クスリを塗りにくくて大変面倒なのだが、幾らなんでもベリー・ショートにしてしまう訳にも行かない。最近ずっと頭皮は無事だったので、ローション・タイプの薬は切らして久しく、それだけを貰いに医者に行くのもまた面倒である。
 何にせよ「布団を蹴っ飛ばして寝ていたから熱を出したのだ」という家人の仮説に反論することができてちょっと嬉しい。もうしばらく様子を見て、どうしても治まらなかったら止むを得ずに皮膚科に出掛けることにしよう。治まるといいなあ。




06/18 美しい日本語選手権

2005/06/18 22:20
 たまにメチャクチャ面白い企画が出て来るTV東京の「TVチャンピオン」だが、一昨日は「なでしこ中高生 美しい日本語王選手権」という番組だった。日頃間違って使われる表現や、忘れ去られている美しい言い回しなどについての知識を競うというコンセプトである。5人の女子中高生が選手として出場し、1〜3ラウンドおよび優勝決定ラウンドで1人ずつ脱落する。「なでしこ中高生」と冠が付いているためか、5人中4人までがステレオ・タイプな「お嬢さま」なのがちょっとがっかり。
 1人だけ「将来の夢は新聞記者」というちょっと元気そうな女の子が居たのだが、惜しくも第1ラウンドで消えてしまった。このラウンドは「日常会話○×判定対決」というお題で、「情けは人のためならず」などの初歩編から「憮然」の正しい使い方などちょっと捻ったものまで7問(延長戦も含めると9問)を判定する。わたしは「奇特」と「折り紙つき」について、意味は知っていたものの用法を間違えて正解できなかった。悔し過ぎる。もっと勉強せねば!

 第2ラウンドは「乱れた日本語翻訳美化対決」で、ヤンキーとかコギャルの使う言葉を「美しい日本語」に翻訳し、その美しさを競う。個人的趣味だがこのラウンドはあまり面白くなかった。「美しい日本語」ったってTPOと無縁では居られないと思うのだが、お題の1つ、松浦亜弥さんの 「Yeah! めっちゃホリデイ」の歌詞の一部「Yeah! めっちゃホリデイ ウキウキな夏希望」を翻訳して最優秀と判定されたのが「ごめんあそばせ、素晴らしい休日でございます。足取りも軽くなるような夏が来ることを心から祈っております」というのは幾らなんでもどうだろう。
 確かに床しい表現ではあるけれど、元の歌詞のニュアンスはゼロ以下。意訳が目的ではなく、如何に修辞的に美しく言葉の置き換えをするかがポイントなのかもしれないが、とするとこれは既に「翻訳」とは呼べない。ある意味「美化」ではあるかもしれないが、その「美」の概念もずいぶん固定的だよなあと思うのだった。せめて「日本語改造対決」と銘打って欲しかった。半分ギャグとしてならまだ理解できなくもないけれど…「なでしこ」限定だから仕方ないのだろうか。

 第3ラウンドと優勝決定ラウンドは大層面白かった。第3ラウンドは「3ヒント日本語美人対決」で、語源、用法、例文の3つのヒントを順番に出され、そこから連想する床しい表現を当てるのだが、問題はその言葉の漢字表現まで書かなくてはならないという辺りである。「しじま」が「静寂」で「ひとしお」が「一入」くらいまでは何とか思い浮かぶ。しかし「うたかた」の「泡沫」とか「はなむけ」の「餞」になると、言葉は判っても書けなかったりする。第3ラウンドまで残った3人が余りにもすらすらと答えているのに脱帽してしまった。凄いなあ。
 優勝決定ラウンドは「数え方」「ことわざ」「情景語」についてそれぞれ知識を競う。「数え方」と「ことわざ」については時間さえもらえれば結構正解できるかもしれないが、早押しでいきなり訊かれると相当苦しい。「石の上にも三年」と同じ意味のことわざ、咄嗟に脳内検索してもこれがなかなか出て来ないのである。わたしのアタマが老化して柔軟性を失っているだけかもしれないが。

 さらに圧巻だったのが「情景語」についての問題。「水面に花びらが舞い散って春の終わりの寂しさを表す情景」が「花筏」だとか、「初夏にホトトギスが声をひそめるように鳴く様子」が「忍び音」だとか、そういえばそんなような言葉聞いたことあるや…でオワリな表現がたくさん出てきて、本当に勉強になった。やはり言葉とは奥が深いのである。
 選手2人が同点で迎えた最終問題は「わずかに白んできた明け方の情景」で、1人は「曙」、もう1人は「東雲」と答えた。番組内では「東雲」が正解だったのだが、後に専門家に意見を訊いて検証したところ「曙」も間違いとは言えないということになり、結局2人とも優勝という扱いになったらしい。わたしも「曙」しか思いつかなかったので多少ホッとする。とは言え専門家によれば、日本語で夜の明ける様子を表現するには時系列順に「暁」→「東雲」→「曙」→「朝ぼらけ」となるのだそうで、厳密に言えば「東雲」の方がより適切かもしれない…とのこと。

 気象予報士さんの時刻表では「暁…日の出から30分前頃、東雲…日の出から25分前頃、曙…日の出から15分前頃、朝ぼらけ…日の出5分前くらい」となっていて、小学館の『日本国語大辞典』を検証したこのページによると、まんざら的外れでもないらしい。5分から10分刻みで夜明けの名前が変わるなんて知らなかった。おそらくこの使い分け、古代〜中世の通い婚中心の時代に発達したものではないかと思う。「暁」や「東雲」の時間に暇するのはOKだけれど、「曙」とか「朝ぼらけ」まで女性の家に留まっているのは無粋、とか。つくづく奥深いのである。
 明け方の4分類について調べていたら、優勝決定戦で一旦は「負けた」ことになった選手と思われる人物がとある掲示板に、暁・東雲の2つの言葉のニュアンスについて知りたい、という書き込みをしているのを見つけてしまった。やっぱり1つことに熱中している人というのは、何か疑問点があったらとことん納得するまで突き詰めるのだなと、その研究心というか探究心にまたまた感心。「なでしこ」対決だから微妙に古典的お嬢さまのイメージが強調されていて何となくげっそりする気持ちもあったのだが、こういう気の強い一面も見せてくれると「してやったり」な気分になってくるのである。




06/19 床一面のCD

2005/06/19 23:53
 というと少々大袈裟だが、今ウチのリヴィングはえらいことになっている。前々からやらなきゃと言っていたCDライブラリの整頓に、家人がようやく重い腰を上げたのだ。大規模整頓になると予想されたので、予め100円ショップで買えるだけのCD用ケースを買い込み、CD1枚1枚に貼るデータ・ベース用の名前ラベルも用意した。とは言え買ってきた10個のケース(1箱にCD20枚が収納できる)はあっという間に満杯になり、以前から使っていたケース10個(こちらは1箱にCD16枚が入る)も溢れた。
 棚にはまだまだどっさりとCDが残っている上、床にもあっちこっちにCDの塔が立っている。おっかしーなー、わたしとしてはウチのCDライブラリ、せいぜい400〜500枚程度だと思っていたのだが、どうやらそんなものでは済んでいないようである。たぶん1000枚までは行っていないと思うものの、今の在所に越して来た当時とは比べ物にならないくらい増えているのも確かだったりする。書籍と同じくCDやDVDも、人間が見ていない隙を突いて繁殖しているとしか思えない(汗)。

 オーディオ・セットのある部屋にソフトも置いておくのが理想的ということで、CDの格納場所はリヴィングの納戸である。当初からそういう計画だったため、棚1段はCDケース2箱を積んだ高さ(もしくはVHSのヴィデオ・テープの高さ)となるようにお願いしてあった。ところが大工さんが「それでは奥行きに対して開口部が低くて使いにくいだろう」と気を利かせてくれてしまい、出来上がった棚の高さはどう収納してもデッド・スペースが出てしまう微妙な寸法である。
 入居後に良く良く見たら棚の1枚が傾いていることが判明して急遽取り付け直しをお願いする。CDとヴィデオ・テープが詰め込まれた棚を一瞥した大工さんは「ああ、こういう使い方をするおつもりだったんですね」と今さら納得した様子であった(顰蹙)。おいっ、だから最初からそう言ってあったじゃないのと内心ムカッとしつつ、腕の良い職人さんに良く見られる頑固一徹のおやじさんに理解してもらうためには、こちらの言葉も足りなかったのだろうと遅すぎる反省もしてみたりする。

 いっそ棚の高さは可変式にして、棚板も少々余裕を持った枚数作ってもらっておくんだった。ともかく作っちゃったものは仕方がないので、100均ショップでCDケースを仕入れて出来るだけ効率的な積み方を試みる。編み出した収納方法が「棚の奥にCDを2段に積み、前面に1段置く」というスタイルであった。前面のケースを左右に移動させれば奥に仕舞ってあるケースの中身を見ることが出来る。
 最初の頃はごくごく快調であった。ところが1年2年と経つうち新しく買ったCDが増えて、まず前面のケースを左右に移動させるスペースが埋まった。奥の下段のCDを出そうと思ったら前面のケースを取り出さなくてはならなくなり、この頃からCDの出し入れがだんだん面倒になって来たのである。

 そのうち前面のケースの上にもCDが積まれ始め、奥のケースはいよいよ見えなくなってしまった。しかも前面上のCDはケースにすら入っていないバラの状態なものだから、奥を覗くためにあちこち移動させる時、うっかりするとガシャーンと崩れてしまったりする。そうするとごく当たり前の成り行きとして、「奥から出したCDを元の場所に戻すのが面倒臭い」という心理が働き、CDはあるべき場所からどんどん逸脱する。後はお定まりの無法状態である。
 当初は家人なりの分類方法に従って整理整頓されていたものが、最近はどこに何があるのかまったく判らなくなってしまった。お目当てのCDがウチにあるのかないのかさえ不明(そして探そうにも場所すら見当が付かない)という状況も続き、ここに至って抜本的改善の必要をやっと認識し、データ・ベース構築と収納方法の改善に取り掛かったという経緯なのだ。

 収納効率を優先させなければならないので、もう前面からCDのタイトルが見えるという状況は望むべくもない。今後の方針としてそれはスッパリと諦め、ともかく全部CDケースに詰め込んで棚にドカドカ積んで行くという乱暴なスタイルに切り替えることにした。CDの検索をし易くするために、ケースには分類番号を決めてそれを貼り付け、さらに中のCDにも名前ラベルでナンバリングしてデータ・ベース化。こうすれば、どうしてもお目当てのCDの在り処が判らなくなっても大丈夫である。
 問題は、特にデータ・ベース化にかかる膨大な時間をどうやって捻り出すかと、そもそもCDケースをあと幾つ買ったらいいかさえまだ見えて来ないという絶望的な状況である。どう収納してもCDが棚からはみ出すことは確実だし、間違いなく今後もまだまだ増え続けるだろう。DVDのライブラリとか、今までに録り貯めたVHSテープの中身の整理とか、やらなければならないんだけどつい面倒で…ということは山積みである。
 ついさっきも、15年前にラグビーの日本代表がスコットランド代表に史上初の(そして今のところ唯一の)勝利を収めた試合中継の録画テープが出て来てしまったところなのだった。家人の物持ちの良さに、呆れるやら感動するやらだったりする。




06/20 きつねが出て来る童話

2005/06/20 23:28
 子供の頃に好きだった童話のうち、今でも懐かしく思い出す物語が3つある。どれも狐が出て来る童話で、2つは新美南吉氏の作品。うち1つは言わずと知れた名作『ごんぎつね』、もう1つはやっぱり有名な『てぶくろをかいに』である。『ごんぎつね』はたぶん小学校4年生くらいの国語の教科書に載っていた記憶がある。上下巻のどちらだったかまでは覚えていないのだが、新しい教科書をもらったらすぐ全部読んでしまうのが習慣だった当時のわたしは、『ごんぎつね』に引っ掛かって大泣きしたものである。
 どちらかというとハッピー・エンディングのお話は「嘘くさい、世の中そんなに甘くない」と感じて好きではなかった(可愛くない)のだが、『ごんぎつね』のラストは余りに切なくて遣り切れなかった。火縄銃の弾がせめて逸れてくれていたら、兵十とごんはとっても良い友達になれたハズだったのに、あんまりではないかと思った。いっそ兵十が土間の隅に積んであった栗に気が付かなかったら、ただ「いたずら狐を退治してやった」とだけ思っていたら良かったのに、と。
 国語の単元で『ごんぎつね』に辿り着き、最初に先生が物語を朗読した時、クラス中が言いようのない静けさに包まれたことを覚えている。今でも国語の教科書に載っているのだろうか。今の子供たちが読んでも、きっと感動してくれると思うのだが。

 『てぶくろをかいに』は打って変わって可愛らしいハッピー・エンディングのお話だが、最初は『ごんぎつね』と同じ作者が書いたものだとは知らなかった。多分これも国語の教科書に載っていた物語だったと思うのだが、どこで最初に読んだのかは覚えていない。子狐が生まれて初めて雪が積もった景色を眺め、その眩しさに「目に何か刺さった」と思い込む冒頭のエピソードが大好きだった。神奈川県で生まれ育ち、親戚一同は全員関西圏住民だったわたしは、痛いほど眩しい雪景色など見たことがなかった。どんなに美しい情景だろうと、子供心をときめかせたものだ。
 子狐が手袋を買いに行く「シャッポ屋さん」とか、お母さん狐が子狐に持たせる「白銅貨」とか、耳慣れない単語にエキゾチシズムを感じて、これも何度も何度も読み返したものだ。もちろん当時はエキゾチシズムなどという言葉は知らなかったが。そのせいもあってか、当時のわたしはこれを何となくヨーロッパが舞台のストーリーだと思っていたのだが、実際のところどうなのだろう。
 物語の中ではどこが舞台であると明確に記されてはいなかったと思うのだが、果たしてヨーロッパの狐も木の葉で贋金を作って人を騙すのかという疑問はある。イソップ以来「狐=ずる賢い」という図式は出来上がっているようだけれど。

 お気に入りの童話3つ目は、実は正確なタイトルも作者も覚えていない。おそらく教科書に載っていた物語ではなくて、小学生時代に大好きだった学研の「学習と科学」の付録に載っていた話だと思う。「読み物特集」とかいうタイトルで、年に2、3回分厚い短編集がおまけに付いて来るのである。妹たちと奪い合いで読んだ記憶がある。
 ある時その中に、狐と娘さんが出て来るお話が載っていた。子狐があるところで薄いカードを拾う。実はそれは定期券で、おそらく新入社員と思われる娘さんが買ったばかりの通勤定期なのである。子狐が物知りな仲間(お母さんだったかもしれない)に「この薄っぺらいカードは何だろう」と訊くと、その相手は「これはどこへでも行ける魔法のカードだ」と答える。子狐は嬉しくなって、噂に聞く外国へもこれで行けるのだろうかとわくわく想像するのである。
 子狐が楽しい計画に胸を膨らませつつ駅へ行くと、若い娘さんが半泣き状態で「ないわ、ないわ、どうしましょう」と下を向いて歩いている。定期券の落とし主だと気が付いた子狐は、どうしようかと悩みに悩んだ末に娘さんに定期を返してあげる。娘さんは喜んで、子狐を電車に1回だけ乗せてくれる、というお話だったと思う。

 読んだ頃はまだ定期券というものを知らなかったので、わたしもてっきりそれを「どこへでも行ける魔法のカード」だろうと思い込んだ。物語のラスト近くで娘さんがちゃんと「これは決まった区間を乗るのにしか使えない」という説明をしていたような気もするのだが、「どこへでも行ける」というインパクトが強過ぎて、その後もかなり大きくなるまで定期券について誤解していたものだ(恥ずかしい)。
 小中学校と最寄の公立学校へ通い、高校に上がってから初めて通学定期なるものを手にしたのだが、その時の拍子抜け感は結構印象的だった。子供の頃、あんなに憧れてわくわくした「定期券」なるものは、実は魔法のカードでもなんでもなかったのである。当たり前の話だが。

 子狐と娘さんと定期券の物語、できたらもう1回読んでみたいのだが、相変わらずタイトルも作者も不明なままである。時々思い出して検索エンジンにキイワードを打ち込んでみたりしているものの、未だにそれらしいものにヒットしたことがない。「子供の本の探偵」赤木かん子さんのコーナーで訊いてみたいと思いつつ、あれが掲載されているのは読売新聞の夕刊で、ウチでは残念ながら取っていないのだった。インターネットのサイトで同じようなコーナーがあるといいのだが…。




06/21 真昼の夜の夢

2005/06/21 16:33
 天気予報のコーナーで気象予報士のお姉さんが「今日は夏至です、紫外線対策を充分に」とおっしゃっていた。1年で1番夜が短い日、英語では「midsummer」と呼ばれることもある。「真夏」と紛らわしくない、もうちょっと難しい熟語もあったハズだが覚えていない(とほほ)。シェイクスピアの『真夏の夜の夢』は原題『A Midsummer Night's Dream』なので、実は『夏至の夜の夢』と訳すのがベターというのは結構有名なトリビア…と呼べるのだろうか?
 夏至の夜は1年で精霊の力が最も強くなる時だとかで、妖精の王様オーベロンや女王タイタニア、妖精パックたちが大活躍するのはそういう理由からなのだろう。とは言え劇中に出て来る台詞によれば、この物語の設定は「5月祭」の前夜だったらしい。つまり4月30日〜5月1日の間に起こった出来事ということになっているのだという。そうでなくてはならない特別な理由があるのだろうけれど、夏至と5月祭ではずいぶん離れているような気がする。うっかり「真夏」と訳しちゃった最初の人も苦笑しているかもしれない。響きが良いので、わざと「真夏の夜の…」とやった可能性も大きいと思うけれど。

 そんな訳で『真夏の夜の夢』が起こったのは実は春である、という矛盾したことになっている。この矛盾が面白かったから誰かが触発されて作ったのかどうかは知らないが、似たようなタイトルのポエム(?)で『真昼の夜の夢』がある。少なくとも25年は昔、当時の小学生の間で大流行した奇妙な不条理詩である。最近同じタイトルのライトノヴェルが出ているらしいが、こちらとは無関係だと思う。
 「遠い昔のつい最近/今日も朝から夜だった/どんより曇った日本晴れ/生まれたばかりの婆さんが/85〜6の孫連れて/海から崖へと転落し」…という具合に、詰め込めるだけの矛盾するフレーズが詰め込まれている。アタマの中でヴィジョンを描こうにもついつい「あれれ?」となってしまう、何というかちょっぴり「マザー・グース」の謎掛け歌のような独特の雰囲気を持つポエムだった。

 小学生の間をずーっと口承で伝わっていたので、わたしが覚えているものがコンプリート版かどうかは判らない。全体像を知りたいと思わなくもないが、途中でいわゆる放送禁止用語というか、ハンディキャップを持つ人々に対する配慮の足りない表現が3箇所ほど出て来るので、雑誌などで大っぴらに検証特集を組む訳にも行くまい。埋もれているのはちょっともったいない気もするのだが。
 ともあれ部分的に改変しようにも不可能なほどにカンペキに作られた不条理シチュエーションなので、マイナー・チェンジして生き残ることもなかったのだろう。もしかしたら子供たちの間では今でも語り継がれているのだろうか。小学生の誰かに訊いてみたい気はするのだが、生憎わたしの周囲には小学校のお友達はほとんど居ない。そもそもあの当時小学生だった人たちでももしかしたら覚えている人は少ないかもしれない。誰が作ってどういう経路で流れたのか、本当に不思議に思っている。
 この『真昼の夜の夢』、転落した2人連れを探すためにお巡りさんがやって来るシーンで終わる。とは言えそれは「1人の警官ぞろぞろと/黒い白馬に跨って/曲がった道を真っ直ぐに/前へ前へとバックする」という描写なので、出張って来たお巡りさんが1人なのか複数なのか、乗ってきたのはどんな馬なのか、結局来たのか来なかったのか、やっぱり訳が判らないままなのだった。

 訳が判らないと言えば、今日もらったメールもちょっぴり意味不明で困っているのだった。
 内容は、先日ニュージーランドのとあるお店へ出した「リージョン・フリーの版は売ってませんか?」という問い合わせメールに対する返事である。とりあえずブツだけ買っといちゃって、もしウチのDVDデッキで観られないようだったらマルチ・リージョンのデッキをGETするか…と思っていた『Book of Cool』というDVD付き書籍なのだが、通販サイトでは発送先に「Japan」を選択することができない。どうしたらいいですか? という質問も一緒に書いてあったのである。
 出だしが「Sorry for the dealy in getting back to you.」だったのでしばし悩む。通例こういう時は「お返事が遅くなってすみません」と理解すべきだが、はて「dealy」って何だろう。知らない単語だし、辞書にも載っていない。まさかオージー英語では良く使う最近の表現の1つなのだろうか。画面を3分睨んでふと思いついた。もしかしたらこれは「delay」のミス・タイプかもしれない。というかそうとしか考えられない。もっと早く気付けよと自分のアタマをぶん殴りたくなる。

 のっけで躓いたのが良くなかったのか、メールの全文も理解できたようなできないようなビミョーな感じである。こちらの質問は通じているらしく、NTSC版をご注文いただければ、お手持ちのデッキで再生できます、と書いてある。つまりこれはもともとリージョン・フリーのDVDだったのかもしれない。そうなら喜んで注文したいところなのだが、肝心の注文先はやっぱり書いてないのだった。注文フォームからオーダーを出せないというくだり、わたしの貧弱な英語は通じていなかったのだろうか(とほほ)。
 それとも「このメールを読んだら、ご注文するかどうかお返事下さい」なのだろうか。文中に出て来る「it」が何のことを意味しているのか今ひとつ不明である。メールなのか、ブツなのか? こっちの英語力がプアなのはメール読めば判るだろうから、もうちょっと親切に教えてくれると嬉しかったのだが…。




06/22 携帯の新機能

2005/06/22 18:07
 昨日の『真昼の夜の夢』にはどうやら続きがあるらしい。そして配慮の足りない単語を差し替えた改訂版もあるようで、これらは一括りに「逆様言葉の伝承」として知られているそうである。面白いので判明したところまで載せてみる。もしかするとまだまだ続きがあったりするのだろうか。

 『真昼の夜の夢』
 遠い昔のつい最近
 今日も朝から夜だった

 どんより曇った日本晴れ
 生まれたばかりの婆さんが
 85、6の孫連れて
 海から崖へと転落し
 見てない人が発見し
 急いでのろのろ電話した

 1人の警官ぞろぞろと
 黒い白馬に跨って
 曲がった道を真っ直ぐに
 前へ前へとバックする

 山に生えてるサンゴショと
 海に生えてる椎茸を
 水であぶって火で練って
 明日つけたら今日治る

 で、本題である。今日ネット・ニュースを眺めていたら、auの新機能に「聴かせて検索」というのが出たらしい。参考ページから引用すると「聴かせて検索とは、携帯電話に音楽を聴かせることで、曲名やアルバム名、アーティスト名を検索できるサービス。曲の波形データを元にサーバ側のデータベースに検索をかける仕組みだ。検索できる楽曲数は、スタート時に約50万曲。100万曲以上まで順次追加される予定」…だそうである。
 もちろん対応アプリ内蔵の携帯電話でないとダメらしく、今のところ「W31T」、「W32SA」、「A5511T」の3機種がこの「聴かせて検索」に対応しているらしい。曲の波形データをサーバ側のデータ・ベースで検索というのがどういう仕組みか良く判らないが、オリジナル曲とカヴァー曲の聴き分けもできるというからなかなか大したものだと思う。

 もちろんデータ・ベースにない曲はヒットしないし、聴かせる曲がBGMだった場合、セリフや雑音などがかぶってしまうとやっぱりダメらしい。人間の耳であればターゲットとなる音とそうでない音を意識的により分けて聞き取ることができるが、まだまだその点に関しては改良の余地があるのだろう。議事録やインタヴューなどのテープ起こし(今はほとんどMDだろうけれどまだこう呼ぶのだろうか)でも、本当にゴチャゴチャして面倒臭い録音データは人間に任せるに限るということである。
 人間の目や耳が持つ、「見たいものだけ」「聴きたいものだけ」受け止めるあの我が侭なオプション、いったいどういう仕組みで成立しているのだろう。本当に不思議になってしまう。

 いいなとは思うが、もちろん機種変更したばかりだし、「この曲何だっけ」という状況がそうそう数多く発生する訳でもない。「この曲何だっけ」と思ったとしても、そのほとんどは別にスルーしてもどうということもない。次に機種変更する時期までこの「聴かせて検索」システムが生き残っていて、選んだ機種がちょうど「聞かせて検索」対応だったとしたら、もしかしたら使ってみるかもしれないが。
 おそらくまた3年くらいは先の話だろうが、携帯電話にとっての3年というと一昔に相当すると思う。きっとその頃にはデータ・ベースの曲数もずいぶん増えてくれているに違いない。できたらクラシック曲にも対応していて欲しいものである。

 ただしクラシック曲の場合、演奏しているオーケストラやソリスト、指揮者によって微妙にテンポやアーティキュレーションが違う。1つの曲でも多数の音源が存在する訳で、その辺の揺らぎを検索エンジンがどう処理するのか疑問に思うのだった。曲の波形データを参照するということは、音源1つ1つによって認識できたりできなかったりという可能性が当然あるだろう。同じ編成・同じ楽器の同じ曲ならば多少の揺らぎに対応できるとしても、例えばサン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」のようにピアノ伴奏版とオーケストラ伴奏版が存在する場合はちょっと難しそうである。
 カヴァー曲を聴き分けられるという「賢さ」は、クラシックのジャンルにおいては却って障害となる訳で、そこから考えるとやはりスッパリと「クラシックやジャズには対応していません」ということになってしまうのだろうか。ちょっと寂しいのだった。




06/23 懐かしい童話の消息

2005/06/23 18:45
 相互リンクしていただいている「どんぐりの過剰な王国」のどんぐり2号さんから、先日の「子狐が拾った新入社員の娘さんの定期券」の童話についての情報をいただいた。掲示板に書き込んで下さったところによれば、読売新聞のサイトの「本よみうり堂」の中にある「本の探偵」コーナーは、月曜夕刊で赤木かん子さんが受け持っておいでのコーナーをそっくりそのまま載せてくれているとのことだった。こんなに目立つところに正解があったのに、さっさと自力で到達できないなんて、まだまだ未熟者である。本当にどうもありがとうございました>どんぐり2号さん♪
 正解に辿り着いてからとっくり考えるに、どうもキイワードを「狐・定期券・紛失」とか「子狐・定期・拾う」とか設定していたのがマズかったようである。この童話のタイトルは『きつねの子のひろったていきけん』だったのだ。子供向けの本だというのに、TPOを考えないキイワード設定をするからこういうことになる(とほほ)。

 作者が著名な童話作家の松谷みよ子さんだったというのも、今回改めて認識できて嬉しい。言われて見れば定期を落とした娘さんの立ち居振る舞いというか言葉遣いというか全体から漂う雰囲気というか、いかにも松谷みよ子ワールドの住人だったなあ、と思う。教えていただいたページにはリンクが張ってあって、『きつねの子のひろったていきけん』は今は「光村ライブラリー」という教科書掲載の物語を集めたアンソロジーの第3巻『小さい白いにわとり』に収録されているらしい。わたしが読んだのは確かに「科学と学習」に付いて来た「読み物特集」でだったハズなのだが、その前に小学校2年の教科書に掲載されていたようである。
 松谷みよ子さんの物語で真っ先に思い出すのは何と言っても「モモちゃん」シリーズ。横長楕円形の顔をした可愛らしい人形が挿絵(というか写真)だったような記憶がある。最初はモモちゃんだけだったのが、後に妹のアカネちゃんが生まれていたりするところで、自分自身と妹の物語であるように思えてお気に入りだったのかもしれない。

 登場時の細かいストーリーは覚えていないのだが、印象的だったのは雲のアイスクリーム「アイシューモ」。子供心にさぞや美味だろうと夢膨らむ食べ物であった。
 そして仄暗い気持ちになったのが、途中からモモちゃん両親の別居シーンが出て来る辺り以降。当時のわたしはまだ「別居」とか「離婚」とかいうことを何一つ知らなかっただけに衝撃的だった。確か1つの植木鉢に植えられた2本の木のうち1本が、根っこを伸ばせなくて息絶える寸前になっている様子をモモちゃんに示し、「今お母さんはこんな風に窒息しそうになっているので、少しの間よそで暮らした方がいい」と誰かが言い聞かせるのである。「死」のイメージがリアルと言うか生々しくて、しばらく怖くて仕方がなかった覚えがある。
 大人になってからも時々思い出す。プーとか、靴下のタッタちゃんとタアタちゃん、嫌われ者のにんじんさんなどなど可愛いキャラばかりだったけれど、その底には哀しい「死」や「別れ」のイメージがずっと流れていた。子供の頃のわたしは、それらのイメージをすべて理解することはできなかったけれど、とにかくこれは重大な物語なのだと朧気に感じていた。『ふたりのイーダ』もそうだったけれど、大人になってから読み返すとまた違う印象を受けるシリーズだと思う。

 赤木かん子さんの「本の探偵」コーナー過去ログを読んでみると、いろいろと懐かしい書物についての捜索依頼が出ていて楽しくなる。懐かしいところでは『チックとタック』とか『ながい鼻の小人』、『くぎスープ』、『かたあしダチョウのエルフ』などなど。有名どころではオルコットの『若草物語』やワイルダーの『農場の少年』、ルイスの『とぶ船』についての依頼もある。ポーの『モルグ街の殺人』、児童合唱曲の定番『チコタン』までもが守備範囲。赤木かん子さんにお尋ねすれば、判らない児童文学関係のネタはないように見える。
 とするとアタマに浮かぶのは、小学校1年生の夕暮れの図書室で読んだとある物語である。サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」と絶妙にシンクロし、強烈な記憶となって残った、マッド・サイエンティストの父親とその息子の物語。人体実験の結果巨大化してモンスターになってしまった息子が、父親を呼びながら緑の牧場を駆けるクライマックスは、相当に独創的かつ特徴的だと思う。誰の何という作品なのか、ひょっとしたら判るかもしれない。

 読売の夕刊を取っていなくても、本の捜索依頼を出してもいいものなのだろうか。過去にそれらしい依頼があったかどうかも判らないのだが、とりあえずウェブに掲載されている分には該当するものはない。結局あの息子がどうなったかも知りたいし、今でも入手可能な本ならばぜひもう1度読んでみたい。ううむ。どうしようかなあ…。




06/24 意識の下の行動

2005/06/24 18:06
 相変わらず金曜日になると、前日の「バレエ体操」と「パワー・ヨガ」のクラスの後遺症で全身筋肉痛に苦しんでいるのだった。「バレエ体操」は以前も書いた通り、バー・レッスン的な筋肉トレーニングが中心の通常クラスである。「パワー・ヨガ」はオプションのクラスで、なにがしかの追加料金を払っての受講となる。スポーツ・クラブの会員であれば1回1000円とかなり割引価格なので、1日2コマはちとキツイかと思いつつ、継続2か月目が終わろうとしているのだった。
 本当だったら金曜日にもインナー・マッスル強化の「マット・サイエンス」のクラスがあるのだが、筋肉痛が辛くてここしばらくサボってしまっている。もう少し経って筋肉痛の出方がマシになってきたら、金曜日の「マット・サイエンス」通いも再開しようと思っている。体幹深部にあるというインナー・マッスルが鍛えられたら、基礎代謝もアップするし姿勢も良くなるハズである。数字的な体重の多い少ないよりも、最近は「外側から見てスタイルが良いかどうか」が重要だと思うようになった。体重を減らすことよりも体型を締めることの方に意識を向けるようにしているのである。

 面白いもので、同じように「身体の中心部分にある筋肉を鍛えましょう」というコンセプトなのに、バレエ体操とパワー・ヨガとマット・サイエンスでは辛い部分が違う。パワー・ヨガとマット・サイエンスは多少似ているのだが、バレエ体操と後者2つは完全に違う。
 昨晩N○K教育TVの「おしゃれ工房」とかいう番組だったかで、大人向けのバレエのお勧めを放送していた。何を隠そう、昨日のレッスンで、同級生の方に「こんな番組やるらしいわよ」と教えていただいたのである。スタジオにバーを持ち込み、女性キャスター2人がバットマン・ジュテ(脚を空中に浮かせた状態で伸ばすポーズ)やプリエ(脚を曲げてしゃがむポーズ)やルルヴェ(爪先立ち)に挑戦していた。どれもクラスで習っていることなので興味深く拝見する。日常の動作を行なう時、キレイなポーズを取れるよう常に意識していると、長い時間では体型が全然違って来ますよ、というポイントも同じだった。ふむふむ。
 バー・レッスンの大部分が脚を中心としたメニューで、バレエ体操もそれを踏襲している。そのため翌日(というか数時間後)に辛いのは、太ももの裏側、ふくらはぎ、時にはお尻や腹筋の辺りである。わたしが絞りたいと思っているまさにジャック・ポットなパーツなので、バー・レッスンの時間がせめて週にもう1回あったらいいのになあと切望している訳である。

 一方パワー・ヨガの方はもうちょっと上半身も使う感じである。基本的なウォーム・アップは「太陽礼拝」という一連の動作により行なわれる。太陽礼拝の動作から発展して、初心者向けのヨガのポーズへ移行したり、またクール・ダウンとして太陽礼拝の動作に戻って来たりする。1動作1呼吸が大原則なので、動作は1つ1つが単独で存在するのではなく、必ず「流れ」として構成される仕組みである。
 その「太陽礼拝」の動作の中に「チャットランガ」というポーズがあって、簡単に表現すると「腕立て伏せで地面に伏せた時の状態」である。どうしても支えていられなければベチャッと潰れてしまってもいいと言われているのだが、講習6回目ともなるとかなり筋肉がついて来たのか、1呼吸の間だけなら伏せたまま保っていられるようになったのだ。ただしその姿勢から「腕を立てた状態」に持ち上がることは出来ないと思う(汗)。
 他にも「英雄のポーズ」という基本動作から、前後に開いた前脚に上体を伏せ、後ろの腕を背中から脚の下を通して前の腕と繋ぐというポーズや、TTという形のように片腕と片脚だけでバランスというポーズを取ったりする。これが腕とか背中の筋肉をものすごーく使う。だいたい木曜日の晩から金曜日いっぱいくらいまで、肩といい背中といいパンパンに張ってしまう。

 バレエ体操とパワー・ヨガのある曜日が違っているとか、それぞれ週にもう1回ずつあると、もっと効率的に筋トレできるのだが。ともあれそういう調子で、今のところ週1回の集中的インナー・マッスル鍛錬(いずれは金曜日のも出られるようにしたい)、後は週3日くらいの自転車漕ぎ(これはクラブへ行くことも家で漕ぐこともある)を目標としている。
 3月以降、胃の調子が良かったので油断して5kgほど太ってしまった。つまり去年(一昨年?)の体重に戻ってしまったのだが、不思議なことにサイズはそれほど増えていない。確かにパンツやシャツがキツくはなっているのだが、去年(一昨年)よりは多少マシなのである。これはやはりスポーツ・クラブで少しは筋肉が付いたということなのだろうと、微かな光明を見出したつもりになっているのだった。

 そんな訳でここ2、3ヶ月ほど、出来る限り腹筋や背筋、大臀筋などを意識した立ち居振る舞いを心掛けている(つもりである)。まだまだ無意識下でもキリッとした姿勢を保てるようにはなっていないが、とりあえず立っている時、歩いている時、気が付いたら「お腹を入れて、胸を開いて、耳と肩は出来るだけ遠く」するように努めているのだった。
 効果のほどはまだ確かではなく、「締まって来た」という実感はあまりない。意識の下の行動で何をやっているのか、相変わらず身体のあちこちに、知らない間にどこかにぶつけて作った生傷ばかりが増えて行くのだった。今も左膝にでっかい赤あざと、右の向こう脛に黄緑色のあざが出来ている。美しい立ち居振る舞いをしていたら、どこかにぶつけるヘマも減るのではないかと思うのだが、ぶつけた記憶もないのでなかなか改善もしづらいようである。とほほ。




06/25 春のラグビーオープン戦・早稲田大学 vs 関東学院大学

2005/06/26/ 00:10
 このシーズンを占う重要な試合が今日、横浜は三ツ沢球技場で行なわれたのだった。三ツ沢というと、一昨年、21対52で惨敗した嫌な思い出のある競技場である。あの時は帰りのクルマの中、家人と2人ほとんど口を利く元気もないまま、黙然と過ごしたものだ。今日の先発メンバーを見ると、FWでは重要な選手が3人も(LO内橋徹選手、FL松本充選手、NO.8佐々木隆道選手)負傷欠場している。BKでもWTB首藤甲子郎選手、SO曽我部佳憲選手を欠いている。
 要するにチームとしてはベスト・メンバーからはほど遠い、まだまだ試運転状態の出来上がりである。一方のカントウは打倒ワセダに向けて春から着々とチーム状態を整えて来ている、という噂。わたしとしては先月の早明戦で内橋選手が負傷するシーンを目撃し、その後キャプテンの佐々木選手までが膝を故障してしまったという話を聞くに至って、恐らく春シーズンはカントウには敵うまい、そんな風に半分諦めていたものである。

 まずBチーム同士の試合が16:30から、そしてナイターで18:15からAチーム同士の試合が行なわれた。チケットぴあでの前売りが完売状態だと聞いていたので、念には念を入れて14時到着を目標に家を出る。予想より所要時間が短かったので、現地には13:50には着いてしまった。(当然というか)1番乗りである。仕方がないので会場前の階段に腰を下ろし、15:30の開場まで1時間半も延々と待つ。発売されたばかりの明智抄さんの『鳥類悲願始末人』を持って行って良かった。
 メイン・スタンドのほぼ中央、放送席直下というベスト・ポジションに4人分の席を確保して陣取る。今日はわざわざ四国から、ラグビー観戦仲間のKさんがおいでなのである。Kさんとお連れのNさんと合流し、4人で下らない話をしながら試合開始を待った。

 BチームもAチームも、この春観戦したオープン戦の中では飛び切り良い出来であった。Bチームは38対19で、勝てるような気がしなかったAチームも19対7で、カントウを下したのである。ブラボー!
 Bチームと言っても、先日までのAチームの試合に出場していた選手もたくさん居る。特にSH茂木隼人選手やリザーヴのWTB三原拓郎選手はAチームのリザーヴ・メンバーにも入っているくらいだし、ほとんど実力的にはAチームに引けを取らない選手ばかりだった。その茂木選手や、SO高橋銀太郎選手、WTB巴山儀彦の素晴らしさは注目に値する。さらに後半途中で交代出場したFW第1列のPR瀧澤直選手と同じくPR橋本樹選手は、2人共1年生とは思えないほどの存在感。2人が入ってからのスクラムはカントウを圧倒し、停滞していたゲームに弾みを付けたのだった。これは上級生たちもうかうかできない逸材である。今後が楽しみでたまらない。

 Aチームの試合は前半リードを許すなど、ハラハラドキドキの内容だった。下馬評ではカントウの圧倒的優位は間違いない、と言われていたこともあり、風下だった前半を5対7で乗り切れた辺りで「もしかしたら多少の目はあるか?」という気分。ほとんど防戦一方の苦しい展開、前半唯一のトライはSH矢富勇毅選手のチャンネル・ゼロ(というかチャンネル1くらいか)の突破から生まれた。突破力は本当に素晴らしいのだが、個人的にはSHとして、BKのラインをもっと活かす方向での活躍を願う。スタート・ダッシュで縦に突破したら、その後BKに展開させるようにパスを出してくれると縦横無尽の攻撃パターンが望めると思う。
 今のところはSH縦突破→ステップ切って走り回る(確かにこのステップは素晴らしい)→BKおいてきぼりでフォローゼロ→孤立して相手選手に囲まれる→ラックになってボールを奪われる…という哀しいパターンに陥るケースが多過ぎる。ボールが渡って走り出すと、思わず観客から苦笑が漏れるという状況は、きっとご本人も改善すべきだと思っているハズなのだが…。あれだけの突破力があるのだから、そこで周りを見てパスを出せるようになれば、去年の諸岡組のSH後藤翔太選手に匹敵する怪物SHになれると思う。ディフェンスは格段に良くなったのだから、パスや球捌きもぜひぜひ頑張って欲しい。

 ともあれ後半はSH→SOへのパスもきちんと出されていたし、BKへの展開もかなり素早かった。ラックやモールでのFWが頼もしかったため、球出しに手間取らなかったことも大きい。FWとHBとBKの連携がきれいに取れた、ほぼ(今の段階で)理想的な試合展開に持ち込むことができた。
 モティヴェーションの高さゆえだろうか、とも思う。やっぱりカントウ相手だと、ワセダの選手たちも燃えるに違いない。カントウの選手たちではSO田井中啓彰選手、FB有賀剛選手、WTB北川智規選手が良かったのだが、FWの選手たちのプレッシャーは思ったよりも圧倒的ではなかったかもしれない。おそらく今後、夏合宿を経て秋にシーズン・インするまでに、春口監督がぎゅうぎゅう絞り上げて来るだろう。今日の勝利に油断することなく、夏〜秋を充実させていって欲しいと思う。

 そしてWTB首藤甲子郎選手とSO曽我部佳憲選手の黄金コンビがピッチを走り回る姿を早く見たいなあ。恐らく怪我の具合はもうそれほど悪くないと思うのだが、今無理をさせて長引いたらコトだし、やっぱり夏のオープン戦まで温存なのだろうか。これは今年も夏の菅平、何が何でも馳せ参じなくてはなるまい(えへ)。




06/26 パセリ入りのチーズ

2005/06/26 18:01
 ずーっと前から疑問に思っていることがあった。大好きな映画『未来世紀ブラジル』で、主人公のサム・ラウリーがコネによる配置転換をした先のお役所を、何と訳すのが気が利いているのだろう、ということである。映画館&DVDで何度観たか判らない映画なのだが、どんなに耳をダンボにして聞いても「Information Retrieval」としか聞き取れず、わたしの持っている辞書の「retrieve」の項目には「(名誉・信用などを)回復する;(過失を)償う,訂正する;取返す,回収する;(猟犬が獲物を)捜して取って来る;救う ((from, out of));思い出す;【コンピュータ】(情報を)検索する」という程度しか載っていなかった。
 字幕では「情報剥奪局」となっているのだが、辞書に載っている意味合いからすると「剥奪」とは少々やり過ぎの意訳である。もちろん映画の中では「剥奪局」に相応しいことをするコワーイお役所なのだが、そういう所がわざわざ自分から恐ろしげな名称を名乗るだろうか。むしろ「情報検索局」とか「情報収集局」などやや直訳気味に訳した方が、名と実の乖離がより一層おどろおどろしくて良いような気がする。

 もう数ヶ月前の話だが、『オペラ座の怪人』を観に行った時も、ところどころ「?」と疑問に思う訳があった。わたしの場合、字幕ナシで映画を観てちゃんと理解できるだけの英語力はさらさらなく、字幕の援けを借りてようやっと、登場人物たちのセリフが耳に入って来る程度である。早口だったり訛っていたりすると途端にお手上げとなる。だから字幕で「?」となる場合も、おそらく自分の聞き間違いなのだろう、そう思っていた。
 先日ふと気が付いて『未来世紀ブラジル』と『オペラ座の怪人』の字幕担当の方を見比べてみたら同じ訳者さんだった。他にも膨大な数の映画に字幕を付けていらっしゃる大御所中の大御所で、わたしもしょっちゅうエンド・クレジットでそのお名前を拝見している方である。こんな有名な方の訳ならば間違っていることもあるまい…と納得し、念のために某巨大匿名掲示板の映画関係のスレッドを読みに行ったら驚いてしまった。なんとこの方の訳、今では超訳・珍訳が目白押しの、いわゆる「ウォッチ」対象となっているというのだ。

 わたしが疑問に思った「情報剥奪局」や『オペラ座の怪人』の中のセリフについても細々と検証されている。指摘されて気が付いたのだが、そういえば以前『アポロ13』でも「?」となったことを思い出した。やっぱり同じ方が日本語訳を担当なさっていたらしい。検証サイトで論われているほどには、例えば「ストーリーがまったく変わってしまう」ほどの影響力はないと思うのだが、確かに少々混乱の元となる誤訳もあるようで驚いてしまった。この翻訳者さん、わたしが子供の頃には文句ナシの実力派として知られていたからである。
 この方の日本語訳ならば間違いあるまいと安心して観ていたものだったが、英語が得意な人々には容認し難い部分もあったのかもしれない。字幕が邪魔なほど英語に達者でなくて良かったのか、今まで観た映画でも「ニュアンスを曲げられて」しまったのかと悔しく思うべきなのかは良く判らない。よっぽどメチャクチャになっていなければちゃんと物語も判るし、作品のニュアンスはセリフだけではなくて映像・音楽・役者さんの表情などすべてで受け止めるものだろう。だからそんなに目くじら立てなくても…と、正直そんな風に思う。

 今はもうないが、昔、サンリオSF文庫というシリーズがあった。カルト的な人気を誇るがややマイナーな作家とか、埋もれている作家の名作・迷作を重点的に出してくれる貴重な文庫だったのだが、惜しむらくは翻訳がスゴかったらしい。読んでいたわたしには誤訳を誤訳と疑問に思えるだけの英語力がなくて、いちいち引っ掛かりながら読む羽目に陥らずに済んだのである。全体のリズムから言えば確かに激しく読みにくい日本語が多かったような記憶はあるが、P.K.ディックの未訳長編を出している出版社は他になく、日本語で読めるだけ有り難い、と思っていた。
 そういえば大昔読んだシャーロック・ホームズ・シリーズの『瀕死の探偵』にも結構大きな誤訳があった。青息吐息でゼーゼー言っているホームズが、ワトスンの呼んで来たカルヴァートン・スミスがやって来る時間、ワトスンを「ベッドの頭のところに部屋があるから」とそこへ隠れさせるのである。最初に読んだ時は何とも思わなかったのだが、後に「それは一体どういう部屋だろう?」と疑問を抱いた。結構苦労して原書を参照したら、「部屋」は「room」だったのである。つまり「頭のところにある部屋」とは「頭のところにある隙間」と訳すのがより適当である。ものすごい大発見をしたような気になったものだが、ファンの間では超有名な話であった。もちろん今では改訂されて直っているハズである。
 ちなみにグラナダ版の日本語訳にも、時々大笑いものの誤訳があるらしい。自分で見つけられるかどうかちょっと楽しみである。

 先日思い返した『真夏の夜の夢』も、誤訳と言えば誤訳なのかもしれない。けれど今さら「夏至の夜の夢」と言われてもちょっとピンと来ない。実際に物語の起こったのが真夏どころか遅い春〜初夏であっても、わたしはやっぱり『真夏の夜の夢』と呼びたいなあと思うのだった。
 むしろ誤訳の方が想像力を掻き立てる言葉、というものもある。タイトルの「パセリ入りのチーズ」とは、戦前に訳されたフランス語の書物に時々出て来た表現だそうである。元のフレーズは「Fromage a pate persillee」、直訳すればまさに「パセリ入りのチーズ」。ニンニクやコショウ、種々様々なハーブ入りのチーズもあるくらいだから、別にパセリ入りのチーズがあっても不思議ではない。しかし実際はこれは「パセリ入りチーズ」ではなくて「ブルー・チーズ」のことなのだそうだ。
 言われてみればブルー・チーズのクリーム地に深緑のマーブル模様はパセリにそっくりである。種明かしされると「なーんだ」になってしまうのだが、個人的には「パセリ入りのチーズ」がほんとにあったら食べてみたいのにな、と思ったりもする。バジルやクミン入りのチーズだってあるし、パセリの香りとチーズの風味も結構合うのではないだろうか。どこかのメーカーがほんとに作ってみてくれないかなあ。

 ともあれそんな風に、誤訳1つでいろいろ調べたり想像したりできるのも、ある意味面白いことである。おかしいと思ったら自分で徹底的に追求するのもまたファンの醍醐味かもしれない。誤訳したって仕方がないと開き直られても困るけれど、あまり細々としたことに目くじら立てるのもどうかなあとチラリと思ったりもするのだった。




06/27 魔女のいたずら

2005/06/27 17:07
 ついさっきまで手に持っていて、あと10分くらい後に使うから判りやすいところに置いておこう…と思ったものが消えてなくなることがたまにある。わたしの場合、それは「ついで整頓法」を実践している時に起こりやすい。「ついで整頓法」とは、行動のたびに何か1つずつ「あるべき場所」へ移動させることを習慣づければ、片付けものの苦手な人間でも少しずつ整理・整頓が実現できるのではないか、とわたしなりに編み出した方法である。
 2階に上がる用事ができるたびにその辺を見渡して、読み終わった本などを適宜荷物に加える。降りる時には今度は何か1階で使おうと思っていたものを持って来ることができるとなお効率的である。運輸業界で配送トラックが、帰りは空荷にならないようにスケジュールを調整すると聞いたことがあり、そこから思いついた整頓法だったりする。
 単純に計算すると効率は2倍になっているハズなのだが、何を持って行くつもりだったのか、そもそも最初は何をするつもりだったのか忘れることも多い。なぜならわたしは激しく鶏アタマだからである。

 今日もさっきまで、家中をうろついて探し物をしていた。夕方から少々出掛ける用事があり、朝から洗濯したり早めに晩御飯を作ってしまったりと結構忙しかった。郵便局にも行かねばならない用事もある。あれやこれやと2つか3つの用事を同時進行させながら、出掛ける予定時間までのカウント・ダウンをアタマの中で刻む。ある1点(出掛ける予定時間)に向けて総てがギューッと収束するようなこういう忙しさ、わたしは必ずしも嫌いではない。
 およその日常業務も片付き、いよいよ出掛ける準備に取り掛かった辺りで脳みそがパンクしたらしい。洗濯&乾燥が上がった枕カヴァーその他を2階の寝室へ持って上がり、ついでに読み終わった『鳥類悲願始末人』など数冊を仕事部屋に片付ける。最近気に入ってずっと飲んでいるコントレックスをこの間12本入りの箱で買ったので、それもいい加減収納場所に片付けなければならない。代わりに2階からは外出の際に持って出るハンカチその他を持って降りよう。往復いずれの場合も空手ではないので、「ついで整頓法」大成功である。

 我ながら効率的な時間の使い方をできたなとにんまりして支度に取り掛かり、ハッと気付いた。持って出るつもりで箪笥から出して来たハンカチはどこへ置いたのだろう? 煮物の火加減を気にしながら、階段を降りた後、荷物を固めてある辺りに放出したハズなのだが、どこにも見当たらない。手からバッと放した記憶はあるのだが、それが果たしてどこでのことだったか、幾ら考えても思い出せない。
 別のハンカチを持って行けばいいやと捜索を2の次にするという手もあるのだが、後で忘れた頃にとんでもないところから探し物が出て来ることになる。その瞬間の「あっこんなところに!」がどうしてもイヤなので、むきになって探し回ってしまった。過去数十分間の自分の行動をアタマにプレイ・バックし、その辿った道筋をトレースするのである。
 寝室、クロゼット、仕事部屋、洗面所、台所、リヴィング。おかしいなあ、どこを探しても見つからない。忙しさにアタマが混乱し、間違って次回の洗濯物に紛れ込ませてしまったのか、とか、ひょっとしたらうっかりゴミ箱に捨ててしまったのだろうか、と、さっきは触らなかったあちこちまで開けて回る羽目に陥る。こうなると「ついで整頓法」で効率良くお片付け、どころの騒ぎではない。2度手間よりもよっぽどヒドイ(とほほ)。

 子供の頃、こういった状況を「魔女のいたずら」と呼ぶのだと教わった。ふとした意識の隙間をついて、いたずらな魔女が細々したものを隠してしまうのだという。確かにさっきまでその辺にあったのに、今はもう見つからない。そんな時は「にんにく」と呟き続けながら探し物をすると良いらしい。
 別にそういう戯言を信じている訳でもないのだが、あまりに見つからなくてイライラしてくるとついつい無意識に「にんにくにんにくにんにく…」と呟いてしまう。このおまじない、特に霊験あらたかでもないが、簡単なのでひょいと思い出すようである。他にもこんなことをやっている人が居るかどうか知らない。さっきまで持っていたものが見つからないなど、少々恥ずかしい状況なので、そういう時にどうするか他人に訊いてみたことはあんまりないのだった。

 呪文のおかげか、持って行く予定のハンカチは寝室の枕カヴァーの下から出て来た。荷物を拾ったり落としたりが複雑だったので、ついうっかりハンカチごと枕カヴァーを置いてしまったらしい。この探し物のおかげで無駄に費やした時間は20分以上、つくづく効率どころではないのだった。やれやれ…。




06/28 一風変わった構造改革特区

2005/06/28 17:22
 かぶとむし特区やどぶろく特区など、ちょっと奇抜な提案も認定されていて面白いのが構造改革特区である。もともとは地域限定で試運転してみて調子良かったら、それを全国規模の規制緩和に繋げようというコンセプトらしい。幼稚園は余っているのに保育園は足りないという不思議な状況を改善するための「幼稚園・保育園一元化特区」や、小学校のうちから英会話を授業に取り入れる「英会話特区」、9年間で計画的教育プログラムを組もうという「小中一貫教育特区」、有償ヴォランティア・タクシーを認可して介護関連産業の発展を狙う特区などが目立つ。この辺は早晩、全国規模へ移行するのではないかと思う。
 別に文句を付けるつもりはないが、英会話特区に関しては、頼むから国語教育にも同じくらいの熱意を注ぐことを前提にして欲しい。先日の「美しい日本語選手権」のように極端な境地まで達しなくても構わないから、せめてちゃんと、友達言葉・丁寧語・敬語を使い分けることができるようなカリキュラムを望むのだった。とはいえ首相官邸ホームページで堂々と「ここをクリックすると参考資料が見れます」などと書いてあるようでは、美しい日本語もへったくれもない気もする。それとも「見れます・食べれます」は日本語として公式にアリになってしまったのだろうか(嫌過ぎる)。

 ともあれ各地域ごとの特色を生かした特区は、上手に運用すれば観光産業の目玉ともなりそうで魅力的である。農業体験とかグリーンツーリズム(具体的にどんなことをするのか不明)など、割に同じような名前やコンセプトだったりするのがちょっと苦しいが、そうそう奇想天外かつ革新的なアイディアなど思い付くものではないから、まあ仕方がないのだろう。
 ちなみに今まで耳にした特区の中で最もインパクトの強かったのが、冒頭に挙げた「かぶとむし特区」であった。久留米市にお住まいの酪農家・内田龍司さんが申請した特区である。この方、家畜から出る排泄物や寝藁などを野積みして堆肥を作っていた。その中にかぶとむしがじゃんじゃん卵を産んで丸々とした見事な幼虫がたくさん住み着いたので、その幼虫を近隣の子供たちに無料であげていた。ところが「家畜排泄物処理法」が強化されて野積みが禁止されることになり、カブトムシの幼虫を殖やすことができなくなってしまった。
 そこで申請したのが「かぶとむし特区」で、認可されたことにより晴れて「かぶとむしおじさん」は継続することになったのだという。いつだったか、TBSの『噂の東京マガジン』という番組で知ったトピックである。

 今日ネット・ニュースを眺めていたら、とある自治体で「原チャリ2人乗り特区」とかいうものが提案されて警察が怒っているという項目を見つけた。海辺の街であるこの自治体、毎年夏になると膨大な数の海水浴客やサーファー達が訪れる。当然、中心の駅付近は二進も三進も行かないほどの渋滞が起こり、大変な問題となっていたらしい。
 この自治体が昨日付けで9項目の構造改革特区申請をしたのだが、その中に「原付2人乗り特区」が入っているのだという。原付の2人乗りを解禁すればその分クルマで訪れる人が減り、交通渋滞が緩和できるだろうと考えたようである。これに対し地元の警察署長は「喜ぶのは暴走族だけですよ」とコメントを出したという。

 アイディアとしては結構面白いと思うが、個人的にもこの特区はあまり歓迎しないよなあ、というのが正直なところである。原付2人乗りが解禁されるのがどのくらいの範囲に及ぶのか良く判らないが、その特区に辿り着くまでは当然2人乗りが出来ない。とするとそこまでは人数分の原付に乗って来ざるを得ない。原チャリ用の駐車場を整備しておいたとしても、おそらく特区の外側に原チャリの違法駐車が増えることだろう。
 交通渋滞が減らせる、というのも疑問である。原チャリの全長は確かに自動車よりも短いが、どんなに頑張っても2人しか乗れない訳である。2人乗りした原チャリが横に2台並んで停車しても、4人乗りの自動車よりも多少短いスペースで済みます、程度のことにしかならない。横に3台以上は絶対無理だし、走り出したらやっぱり安全上、縦1列に並んで走行するだろう。どう転んでも交通渋滞の解消には繋がるまい。
 原チャリ2人乗りは当然のことながら相当に不安定なものである。とするとむしろ、ふらふら走っている2人乗り原チャリを怖がって、後続のクルマは車間距離を取ってしまうのではないだろうか。わたしが2人乗り原チャリに遭遇したら、例え目前ですっ転ばれても回避できるように車間を空ける。走行途中ですり抜けの2人乗り原チャリが隣に来たりしたら、やっぱり怖いから先行させて車間を取るだろう。どういう状況を考えても、原チャリ2人乗り解禁が渋滞解消に、という発想には疑問符がついてしまう。

 それよりむしろ、いろいろなところで試みられているパーク&ライドを取り入れるとか、最も混雑する駅前や駅周辺はマイカーの進入を禁止するとかいう方がマシな気がする。渋滞が激しくなる範囲の外にキャパシティの大きな駐車場を設けて、その内側へ行くには鉄道やバスなどの公共交通機関を利用してもらうのである。鉄道を新しく整備するのはお金がかかるだろうから、実質的にはコミュニティ・バスの充実ということになろうか。多少不便かもしれないけれど、交通渋滞解消を狙うのなら、こちらの方がよっぽど有効だろうと思う。原チャリ2人乗りを解禁するよりは間違いなくずっと安全だし。
 かなり昔の話だが、鎌倉市の国道1号線(だったか)沿線でこういった「パーク&ライド」の大規模実験が行なわれたことがあった。クルマに乗って来た観光客に1日駐車券を買ってもらってクルマから降ろし、街中へ行くには江ノ電に乗ってもらうのである。駐車券1枚で4人分の「江ノ電乗り放題チケット」になっていたような記憶がある。あれからかなり経つのに「パーク&ライド」が全国的に普及したという話は聞かないから、あの実験は上手く行かなかったのだろうか。

 目的地周辺までマイカーで乗り付けられれば楽には違いないが、大抵そういうところは駐車場が足りないものだし、駐車場に入るにも延々と待たされたりするのが常である。それよりはサクッと外縁部で電車に乗り換えてしまう方が精神衛生にはすっきりするような気がする。駅前のマイカー進入禁止と「パーク&ライド」を徹底させたら違法駐車だって減るだろう。有効性が疑われる原付2人乗り解禁よりもよっぽどいいと思うのだが…。




06/29 チャレンジ!

2005/06/29 17:56
 先日郵便局へ行った時のことだった。月末が近いせいか、窓口の順番待ちが大変な数になっている。混んでるからやめた、と言えない用事だったので、仕方なく番号札を取ってその辺をぷらぷらしつつ待つことにした。窓口は3つがフル回転しているが、順番はまだ8つも先なので、下手すると10分くらいは待たされるかもしれない。こういう時にすることと言えば、販売中の記念切手に可愛い or きれいなものがないかのチェックと(暑中見舞とかバースデイ・カードなどを送る時に重宝する)、地域向け掲示板の冷やかしである。
 ポケモンの記念切手があったのでシート1枚購入。姪っ子へのグリーティング・カードを出す時に使ったらきっと喜ばれるだろう。そして掲示板に向き直った時、まず最初に目に飛び込んで来たのがバレエ教室開催のチラシだった。ウチの近所のコミュニティ・ホールで開かれる教室の生徒募集である。

 ついまじまじと読み耽る。ウチの近所のホール(というより集会所)でのクラスは木曜日だから出席できないのだが、その他に月曜日・水曜日のクラスもあるらしい。そっちは3つ隣の駅近所でやっているとのことだったが、どちらにしろ近いのが嬉しい。さらに喜んだのはレッスン料で、大人コースならば月4回(週1回)が6000円、月8回(週2回)で9000円だという。入会金も多少かかるが、バレエ教室で1レッスン1500円以下というのはかなりのリーズナブルさである。
 1レッスンはおおよそ1時間半。ということは今のスポーツ・クラブでオプション選択している「パワー・ヨガ」のレッスン料と、分あたりのコストは同じである。「パワー・ヨガ」は1時間のレッスン1回につき会員価格で1000円なのだ。バレエの場合、大人の初心者クラスで週1の月謝が6000円から、というのが今まで調べた中の最低ラインだが、そういうところでもここ以外はレッスンの曜日や時間帯が合わなかったりして入門しづらかった。しかも月謝の他に維持費がかかったり、入会金が月謝2か月分くらいかかったりするところもある。さらにスタジオが遠い場合、プラス電車賃と通学時間を取られてしまう。入門からいきなりというのでは、ひょっとすると通い切れないかもしれない。

 今まで問い合わせをしたものの結局踏ん切りがつかなかったバレエ教室は幾つかあって、1つは安くて近いのだが大人向けクラスが木曜日の午前中と金曜日の夜しかない。当面スポーツ・クラブのバレエ体操に通い続けるのは大前提で、もうちょっと本格的にやってみたいと思って探し始めたバレエ教室なので、やろうと思えば掛け持ちできるとしても木曜日は嬉しくないのだ。金曜日夜というのは訊いてみたら19:45〜21:00だというので問題外である。
 もう1つは水曜日の午前中に大人向けクラスがあるのだが、ウチから電車で通うとするとえらくかかってしまう。クルマなら10分というところだろう。良く行くスーパーの近所なので多少見当も付くのだが、問い合わせたところ駐車場はないらしい。「皆さん研究所の前の道路に駐めてらっしゃいますよ」と言われてもなあ…。ついでにここは週1で月謝7000円、維持費1000円、入会金が1万4000円なのでだいぶ高価くつくパターンだった。

 そういうところに降って沸いた良い話である。他の教室はたいてい1レッスン1時間15分というのが多い中、ここの「1レッスン1時間半」というのは相当動けそうで楽しみでもある。ううむと考え込み、とりあえずケータイに連絡先を記録する。帰宅後しばし検討した結果、とりあえず問い合わせだけしてみるか、という気になった。電話で訊いたら月曜日と水曜日のレッスンが18:00〜19:30というのがやや遅めだが、出掛ける前に晩御飯を作ってしまえばギリギリOKな時間帯ではある。
 1回なら体験も無料ですよ、というので、こうなったらチャレンジあるのみと行ってみることにした。駅から徒歩4分と近いのと、1クラスの生徒数が5人程度で小規模なのが嬉しかった点。困ってしまったのは更衣室が使いにくい点だけれど、他の生徒さんは皆さん、レッスン着の上にTシャツや綿パンを着て来て、レッスンになったらスタジオで脱いでしまうという裏技を使っていらした。前のクラスのジュニア・コースに来ているお嬢さんたちやそのお迎えのお母さんたちを含め、男性は先生ただお1人なので誰も何とも思わないらしい。レッスンが終わったらまた上からTシャツと綿パンを着てとっとと帰って行く。なるほどこれなら身支度にかかる時間も節約できる。

 バー・レッスン、ストレッチ、フロア・レッスンとみっちり1時間半。しかも15分ばかり延長されたので、結局解散したのは19:45くらいだった。わたしはそれからさらにお月謝や入会金、レッスンの曜日や時間帯についての説明を改めて受けたので、駅に辿り着いたのはほぼ20時に近くなっていた。急遽「行ってみよう」と思ったことだったので、家人にはケータイのメールで簡単な事情を説明してあったのみである。20時くらいには帰ると言ってあったが帰宅は15分ばかり遅くなってしまった。案の定家人は微妙に不機嫌だった(汗)。
 バレエ教室としてはまだ開いたばかりで、ウチの近所の集会所でのレッスンも実は7月から始まるのだという。今後は随時、レッスン開催日を増やして受講しやすくするのが目標だそうな。とすると火曜日あたり、ウチの近所の集会所で真昼間に大人クラスが設定されるという可能性もある。そうなったら願ったり叶ったりである。

 問題の集会所、原則として地域住民のユーティリティのために解放される施設なので、バレエ教室の生徒さんに近隣住民が含まれていなければならないらしい。わたしが住所を言うと、モロにその区域だそうで、何だかえらく歓迎されてしまった。7月から開講と言ってはいたけれど、実はまだその対象区域に住んでいる人物が入会していなくて、どうしようか困っていたところなのだという。
 小ぢんまりとしたクラスの雰囲気も気に入ったし、ちょうど来週から7月なので、とりあえずしばらく通ってみることに決めた。スポーツ・クラブのバレエ教室に半年通った成果なのか、それとも先生のリップ・サーヴィスなのか、自己申告よりは身体も柔らかいし身体能力も高いです、と言われて気を良くしていることもある(他愛もない)。レッスン代を捻り出すために、当分大好物の臭いチーズやスウィーツの通販は御法度なのがちょっと寂しいが、やはり汗をたっぷりかいた後のあの爽快感はクセになるのである。
 来週から楽しみだなあ♪




06/30 奇妙な事件のニュース

2005/07/01 00:15
 木曜日のバレエ体操のクラスに出席するために、昼間独りでスポーツ・クラブへ行った。レッスンが始まる前に身体を温めておこうとエアロバイクを漕いでいたら、ジムに備え付けのTVでちょうどニュースを放送していた。聞くともなしに聞いていた中に、1つどうにも奇妙な話があった。
 若い男性ばかりを狙った「眼鏡・コンタクト泥棒」が多発している、というのである。

 その時は「なんだそりゃ」と思ってスルーしてしまったのだが、帰宅後ふと思い出して急に興味が湧いた。アナウンサーさんが読み上げるニュースを小耳に挟んだだけだったので、その事件がどこで起こったのかも良く判らない。とりあえずローカル・ニュースだったような 気がするのだが、Yahooのローカル・ニュース一覧を覗いてみても載っていない。「眼鏡 コンタクト泥棒」で検索をかけ、ようやく事件発生は川崎だったことが判った。どうやら元々は読売新聞の神奈川県版に載った記事だったらしい。
 YOMIURI ON LINEで検索できるかと思ったら、お目当ての記事はもうデータ・ベースに引っ込められてしまって、ログインできる人間でないと読めなくなっている。たぶん一般人でも登録するか何かすれば入れるのだろうけれど、とりあえずキャッシュは生きているので、大元の記事はいいやということにした。キャッシュで知った事件の概要は以下の通りである。

 事件が起こったのは川崎市宮前区。今までのところ8件が報告されている。昨年1月〜今年6月というから、1年半というかなりの長期間に渡っているらしい。最初の1件は去年の1月2日の22時頃、歩いていた男性にバイクに乗った男が道を尋ねて来て、いきなり眼鏡を引ったくって逃げたという。ニュースで聞いたのは「軽トラックに乗っていた男が男子学生に道を訊き、ついでに目が悪いから眼鏡を貸してくれと頼んだ。男子学生が眼鏡を手渡すと、軽トラックの男はそのまま走り去った」ということだった。ほとんど同じ筋書きである。
 道を訊かれるだけならともかく、「目が悪いから眼鏡を貸してくれ」という口説はいかにも妙である。目が悪かったら運転なんてできないハズなのに…。まあ、免許を取得できる年齢ではない場合、「そんなもんかな」と思ってしまうのだろうか。

 さらに不思議なのは、眼鏡だけではなくコンタクトを引ったくられた人も居る、という点である。まさか嵌めているコンタクトを引ったくれる訳はないから、おそらくケースに入った状態のものだろうとは思う。普通、コンタクト・ケースを剥き出しで手に持って歩いている人は居ないだろう。とすると「コンタクトを見せてくれ」とか何とか言われて荷物から取り出したのだろうか。わたしの感覚からすると、全然知らない他人にいきなりそんなことを言われて「いいですよ」と返事するなんて、なんと素直な子たちなのだろう、という印象である。
 被害に遭った8人は17歳〜23歳。そのくらいの年齢の子たちならば、世の中をヒネていなかったりスレていなかったり、他人を警戒し過ぎるという悪癖に染まっていない、ということなのかもしれない。
 中には「コンタクトを貸してくれ」と言われて断り(まあ普通の反応ではある)、その結果、犯人の男に殴られるケースもあったという。生半可な執着振りではない。夜間だったこともあり、目撃者の証言は「年齢が20〜40歳、身長が1m65cm〜1m78cm」とかなり幅があるらしい。しかし内容がこれだけ特殊なので、警察では同一犯の仕業と考えているようである。

 どうにも判らないのはこの犯人がどういうつもりで眼鏡やコンタクトを集めているのだろうか、という点。老眼鏡やサングラスならばある程度の汎用的ニーズがあるから、盗んで行ったものを使い回すこともできなくはない。しかし視力矯正用の眼鏡やコンタクトだと、よっぽどの偶然がない限り、他人のものを借りて役に立つということは考えられない。右眼と左眼の度の入り方、近視なのか遠視なのか、乱視はどの程度混ざっているのか、1人1人全然違うからである。
 ブランドものの高級なフレームばかりということなら、フレームの転売ということも考えられるが、一端誰かに販売した後のフレームは多かれ少なかれ変形しているのではないだろうか。少なくともわたしの眼鏡フレームは、調整してもらうと微妙に左右非対称な状態になってしまう。左右微妙に非対称なわたしの顔に合わせるからである。きっと他の人も多かれ少なかれそういうことがあるだろう。

 ごくごく素直に考えると「若い男性の眼鏡・コンタクトをコレクションしている人」ということになるが、そういう趣味も何だか気持ちの悪いものである。眼鏡を盗られた8人は、さぞかしイヤな気分を味わったことだろう。お気の毒に…。
 度が合うかどうか判らない眼鏡、と言うと思い出すのは草上仁さんの短編である。短編集『くらげの日』(残念ながら絶版状態)に収録されている『眼鏡探し』というお話で、途中に出て来るさり気ない伏線がラストのどんでん返しを呼ぶというカタルシスが大のお気に入りである。あの物語に出て来る世界であれば、眼鏡泥棒が横行しても無理はないのだが、現代ニッポンのこのご時世。やはり動機が不思議で仕方がないのだった。