徒然過去日記・2006年12月

今日の日記へはこちら・TOPへはこちら


12/01 月跨ぎっ(汗)(承前)

2006/12/01 22:34
 バレエ教室のレッスンが今週は2回あった。今日がその2回目で、先ほど帰宅したところなので結構ヘロヘロである。ちょっとした事情で、レッスンが月曜日から金曜日に変更になっただけなのだが、11月最終週〜12月第1週で、当然のことながら同じ週にかち合ってしまったのだった。
 月曜日のクラスは大人初心者が中心の比較的易しい内容である。本当の入門クラスはまた別の曜日なので、月曜日は「初級〜中級」と言った風情だろうか。一方、金曜日のクラスは姉弟子さんたちが中心の結構ハードな内容。いつだったかスポーツ・クラブS支店の75分クラス(木曜日夜)を受けに行って厳しかったことがあるが、感じとしてはあんなものだと思う。

 バー・レッスンは何とかなる。センターも前半はどうにか付いて行ける。問題はセンターの後半で、まだ慣れていないこともあって、アタマと身体の処理能力&処理速度が全然足りないのだった(汗)。先生が連続ステップを口頭で説明し、ちょっとややこしかったりしたら実際にやってみせて下さる。姉弟子さんたちはそれをふんふんと見て、手振り身振りで覚え込み、実際に曲を流しておさらいすればもう自分でも踊ることが出来る。
 しかし当然のことながら、わたしはその程度の説明では何がどうしてどうなってステップがどう繋がるのか、足がどうでポール・ド・ブラ(腕の動き)がどうなのか、さっっっぱり覚えられないのだった(涙)。上級者の第1グループが先に踊る姿を見て必死に理解しようとするのだが、焦りも手伝ってなかなか判らない。そうこうするうちに第2グループの番になり、問答無用で鏡の前に並ばなくてはならない。

 第2グループの中でも上手な方の動作を必死で真似しつつジタバタするのだが、どうしてもテンポがズレたり迷いが出たりする。同じシークエンスを3回4回と繰り返してやらせて貰えれば、ひょっとしたらだんだん覚えられるかなあとも思うのだが、限られたレッスン時間中はせいぜい2回である。ぎょえーわっかんないよー(汗)。
 かくしてパ(ステップ)は呪文の塊と化し、処理落ちしたわたしはタコ踊り状態に陥るのだった。出来ないものは仕方ないので、とりあえず毎週1シークエンスずつ覚えてウチに帰って、1週間でどうにか復習しようと思う。もうちょっと慣れたら多少はマシになるだろう。少なくとも以前よりは進歩しているのは間違いないのだし(多分)。

 おのれのニブさに結構凹みつつ、ちょっぴり暗澹たる気分に浸りつつ、負けないもんと気合を入れ直している。とりあえず今週の宿題は「ジュテ・ソテ(×3回)、バロネ、パ・ド・ブレ、シソンヌ(×2回)、回転(名称不明)、トンベ、前へのアッサンブレ、シュス」。
 シソンヌの方向と回転の辺りがどうも怪しい。特にシソンヌなど、単品でやったら出来るのに、連続するシークエンスの中に出て来ると途端に出来ないのは何故なのだろう。悔しいなあ。いつまで経ってもピルエットは回れないし、まったく運動神経が鈍いこと、我ながら呆れてしまう。でも諦めないもんね(ガッツ)。




12/02 事実は小説より奇なり

2006/12/02 16:45
 ネット・ニュースを読んでいて、昨日の「壁に隠したロックウェルの絵、17億8千万円で落札」というのに興味を覚えた。絵画を壁に隠すってナニ?
 詳しい記事を読んでみると、米国の画家ノーマン・ロックウェルの『息子の旅立ち』を、生前に知人が900ドルで買った。その知人は自分で模写して複製を飾り、本作はその後ろの壁に隠した。知人の死後、鑑定で真作ではないと判り、何も知らなかった息子さんが家捜ししたら壁の中から真作が出て来た。オークションに掛けたら元値の17000倍の値が付いた、ということらしい。

 問題の『息子の旅立ち』だが、パッと見ただけでは誰も複製だと判らなかったと言うことは、この知人氏も相当の絵心があるのだろう。小さい画像では良く判らないが、タッチは独特だし、色彩も繊細なので、ロックウェル本人の作風を良く知っていたに違いない。専門家に見せるまで判らない複製なんて愛がないと描けないと思うが、複製を作った動機にちょっとガックリしてしまった。
 なんと「離婚をめぐる財産分与の争いで奪われることを恐れていたらしい」からなのだそうだ(汗)。本当の動機は亡くなった知人氏御本人だけがご存知だろうが、この理由が本当なら何とも世知辛い話である。

 相続人(推定)であろう息子さんが何も知らなかったと言うことは、仮にこの知人氏がその時離婚していたとしても、財産分与で『息子の旅立ち』は渡さないで済んだに違いない。本来の隠し場所も、複製の飾り場所も変わっていないのなら、随分長い間引っ越しもしなかったことになる。ひょっとしたらそもそも離婚しなかったのかもしれない。
 どんな状況に陥っても『息子の旅立ち』は手放したくないと思っていたのだから、随分絵に対する愛情は深かったのだと推察は出来るが、買った値段は900ドル。何かもっと金目の物を代わりに譲るとか、そういう対応策に出る訳には行かなかったのだろうか。ただし奥方も『息子の旅立ち』に惚れ込んでいたのだとしたら話し合いは難航しそうである。

 そしてもしも仮に離婚して財産分与でこの絵を譲り渡す羽目になっていたとしたら、素知らぬ顔で複製を渡したのだろうかと考えると、個人的な感想だけれど「そんなヤツだから離婚話が出るんじゃないか?」と思わずにはいられない。いや、人の価値観は様々だし、愛着の絵を手放すくらいなら騙りくらい屁でもないものなのかもしれないが。
 仮に奥方が金銭的価値ではなくて絵そのものを好きだったのだとしても、複製を渡されて影で「しめしめ」と思われているとしたら、少なくとも良い気分はしないに違いない。

 それにしても隠し場所、壁の中なんて、良く発見したなあと思う。壁板を叩いても、柱の在り処探しではないのだから、中に何かが隠されているかどうかは判らないような気がする。まさかとは思うが漆喰の壁だったりしたらもっと大変だろう。ヒントは何もなかったのだろうか。
 思い出すのはアシモフの「黒後家蜘蛛の会」のエピソードの1つである。とある老人が今際の際にヘソクリの在り処を息子さんに渡したくて指差した場所がどこか、というミステリだった。確かタイトルは『指し示す指』だと思う。いつも通り給仕のヘンリーが見事に謎を解決したのだが、この『息子の旅立ち』発見には、ヘンリーのような名探偵は関与しなかったのだろうか、ちょっとわくわくしたりする(阿呆)。




12/03 早明戦と迷子

2006/12/03 23:59
 第82回ラグビー早明戦が今日だった。天気予報では最高気温10℃とかだったので念入りに着込んで参戦。厚手のタイツを履き、ジーンズを履き、綿シャツを着て腹巻(背中に貼るカイロ付き)を巻いてタートル・ネックのシャツを着た上にセーター。さらにその上にダウンのロング・コートを着て足元はもこもこブーツ。アタマにはもこもこ帽子。
 国立競技場に着いたら靴下を重ね履きしてジーンズの裾を入れてしまい、ついでに中にカイロを仕込んで、みっともないから上にジャージの部屋着を履く予定だった。早稲田マフラーと早稲田手袋も持参した。

 ところがバック・スタンドは弱々しいながらも日差しがあって、思ったよりは寒くない。風がないのがラッキーである。手袋と膝掛けは使ったけれど、靴下とジャージのズボンと足用カイロとマフラーは要らなかった。これが北風ピューピューだったり完全な曇天だったり、最悪雨降りだったりすると死ぬほど寒かっただろう。大学選手権は暖かいと良いなあ。
 試合展開はワセダのペースで無難に勝利。これで関東大学ラグビー対抗戦43連勝の新記録達成、ついでに6年連続の全勝優勝(新記録)も達成。後は12月中旬から始まる大学選手権の3連覇を残すのみである。お願いだから勝って下さい>ワセダ 大贔屓のWTB・首藤甲子郎選手が復帰するのはいつなのだろう。今日貰った「早稲田スポーツ」で、予想以上に怪我が重かったという事実を知ってかなりショックである。

 神宮外苑で行なわれていたイチョウ祭(正式名称不詳)を通り抜けて青山一丁目まで歩き、無事地下鉄乗車。土日は最寄り駅に急行電車が停まるので楽である。駅前のスーパーで買い物をして、ショッピング・モールを抜けてウチへ向かう途中、1〜2歳くらいの小さな男の子がお母さんを呼んでいるのに出会った。
 土日はお子様とお犬様の天下となるこのモール、母親を呼ぶ幼児なんてのはそこら中に居るものだけれど、今日の子はちょっと様子が違った。必死に呼んでいるのにお母さんもお父さんも傍に居ない。ホンモノの迷子っぽい。
 振り返りつつ歩いて、やっぱり通り過ぎることが出来なくて、男の子の所へ戻った。ほとんど同時に同類項な女性が2人やって来たので、3人で迷子対応。わたしとお1人で職務質問(?)、もうお1人が近くのお店へ報告という役割分担だった。

 代わる代わる名前や年齢などを訊くけれど、ビビったのか、男の子はすっかり無言になってしまった。もう1人の女性は小さなお子さん連れで幼児の扱いもずーっと上手で慣れていらしたのだけれど、それでもやっぱり駄目である。これは迷子センター(と言うか事務所?)に連れて行っても保護者探しが大変だろうなあ、と内心思っていたら、慌てた様子の若い男性がやって来て、男の子はタタタッと走り寄ったのだった。お父さん現る、助かった(安堵)。
 一部始終を眺めていた家人「あんな小さい子から目を離すなんて」とご不興らしい。確かにそうだけれど、陽が落ちて薄暗くなったモールで、しかもかなりの人混みである。あの男の子なら一瞬目を離した隙にどこでも行きそうなので、幼い頃は同じようなガキだったわたしとしては、まあ目溢ししてやろうよ、な気分だった(汗)。

 迷子防止の子供用リードもあるらしいが、流石に本人が嫌がることも多いと言う。そういえば姪っ子1号が使っていたっけと思い出すのだった>子供用リード。
 迷子札を着けておくのも、最近は却って物騒らしいので、小さい子を持つ親御さんは苦労しているだろう。聞いた話では、もしも迷子になっても無事に帰って来られるように、自分の名前と年齢と親の名前を答える訓練をさせるケースもあるらしい。親からはぐれて動転すると、今日の男の子のように、名前その他を答えられなくなってしまう場合が多いからだと言う。

 今日のモールのように、迷子案内の放送を流せる場所なら見付け易いけれど、街中で迷子になった場合は名前その他は必須だろう。いつぞやは5歳の男の子が単独で新幹線に乗っちゃったニュースもあったっけ。長野在住の男の子が新幹線と地下鉄を乗り継いで新宿かどこかで保護されたというニュースで、本人が名前も住所も言ってくれないからどこの誰だか判るまで大変だったらしい。
 道に迷うのは今でもしょっちゅうだったけれど、そういえば、親からはぐれて困った経験はわたしにはない。はっちゃけているようで実は用心深い幼児だったのか、単に忘れているだけなのか、どちらなのだろう(汗)。




12/04 電子音が嫌い

2006/12/05 01:30
 我ながら狭量でイヤになるのだが、今日(もう昨日か)皮膚科で不愉快な思いをした。待合室で、小さな女の子が、DSの音を消さずに延々とゲームしてくれちゃったのだ。わたしはあの手のゲームの電子音が大嫌いである。自分でやってる時なら辛うじて我慢出来るが、他人がやってるゲームの音はイライラの原因以外の何物でもない。
 電車に乗っている時など、たまに隣に座った人がゲームを始めることがある。音を出さずに楽しむ分には何も気にならないが、ピコーンピコーンが聞こえると迷わず席を移動する。

 携帯電話の操作音も同じくらい嫌いである。着信音ならまだどうにか我慢出来るが、操作音のピコピコはいつ終わるとも知れないためにイライラも爆発しそうになる。ヘッドフォンから漏れるシャカシャカ音はもっと嫌いなので、乗り合わせた隣の人がシャカシャカの発生源の場合はやっぱり場所を移動する。移動出来ない時は、ヘッドフォンを毟り取りたい欲求と戦うのに必死となる。
 ゲームの音も、携帯電話の操作音も、ヘッドフォンの音漏れも、やっている人は何とがさつで鈍感なのだろうと思う。子供ならともかく、大抵の場合は皆さん常識を備えていて然るべき立派な大人である。それとも、わたし以外の人はあんな小さいピコピコ音は気にならないのだろうか。シャカシャカ音は車内放送で注意を呼び掛けているから、イラ付く人も多そうだけれど。

 ともかく待合室でまでゲームのピコピコ音を聞かされる羽目に陥ろうとは思っていなかった。女の子に付き添っているのは父親と思しき男性だが、どーして注意しないのだろう。皮膚科とは言え病院である。わたしの感覚からすると非常識極まりないマナーなのだが。
 よっぽど「ゲームをするなら音を消してくれ」と頼もうかと思ったが、余りに大人気ないような気もするし、結局声を掛けることは出来なかった。子供さんに絵本を読み聞かせているお母さんの声や、親御さんが必死で宥める甲斐もなく騒いでいる小さい男の子の声の方がよっぽど大きかったのも理由の1つである。デシベルから言ったらずっと小さいピコピコ音に目くじら立てるのもどうかと思ったのだ。

 ただしわたしの感覚からすると、電子音は音量が小さくても、喧騒を劈いて耳障りである。聞こえるかどうかの音量がまたイライラする。もっと大きく鳴っていれば却って無視出来るような気がする。わたしにとって、ゲームや携帯のピコピコ音は、夏の寝苦しい夜に微かに聞こえて来る蚊の「ぷぃ〜〜〜ん」に匹敵する不愉快な音なのだ。
 それに、読み聞かせやお喋りは声を出さずに行なうことは出来ない。小さい子が騒ぐのも、まあある意味仕方のないことである。しかしゲームや携帯の操作は、やろうと思ったら音を出さずに簡単に行なえるのだ。それを敢えて、操作する御本人がそうしたいからという理由だけで、不必要な音を発生させるとはやはり無神経の極地だろう。

 先日『パプリカ』を観にチネチッタへ行った。隣席に若い男性がやって来て、映画の始まるまでの時間潰しのためか、鞄からDSを取り出した。音を出されたら売店へ逃げよう、と思っていたら、男性は続けてイヤホンを取り出した。DSにセットして耳に嵌めて、楽しそうにゲーム開始。もちろん音漏れなんかしていなかった。
 こういう人もちゃんと居るんだ、と思って大層嬉しくなった。ゲームを楽しみたいのなら、周りに迷惑が掛からないようにやってくれ、と思う。どちらかと言えばわたしだってゲームは好きな方である。DSの「脳を鍛える」なんて是非やってみたいとさえ願っている(買ったが最後ハマるのは見え見えなので自粛しているのだ)。

 ゲームが大好きなわたしでも、外でもしも携帯ゲームを楽しむ時は、周囲に音が聞こえないようにするだろう。自宅でも、例えば家族が同じ部屋に居て違うことをしていたら音は消すだろう。それがエチケットだと思う。
 それともあんな小さい電子音にイライラして仕方のないわたしの方が、やっぱり口喧しくて狭量なのかなあ。嫌いなものは嫌いなんだけど…(しょんぼり)。




12/05 読書量

2006/12/05 23:10
 昔と比べて減ったなあ、と最近少し情けない。改めてそんなことを思ったのは、本日発表されたらしいトーハンの「2006年 年間ベストセラー」のラインナップからの連想である。ベスト20内では、15位の『生協の白石さん』と19位の『容疑者Xの献身』しか読んでないぞ(汗)。
 元々ベストセラーにはあまり食指が動かないタイプが多いのだが、3位の『東京タワー』と13位の『陰日向に咲く』にはちょっと心惹かれる。図書館がウチから近ければ借りに行くのだがなあ。早く文庫に落ちないだろうか。

 個人的に今年読んだ中で記憶に残っているものは、やはり小川一水氏の著作である。『第六大陸』と『復活の地』、『ファイナルシーカー』の3作を手に取り、『復活の地』の3巻はボロボロ泣きながら読んだ。あんなに泣いたのは福井晴敏氏の『亡国のイージス』下巻以来、暫くぶりのことであった(汗)。『ファイナルシーカー』も良かった♪
 SF積ん読解消にも励んで、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』、グレッグ・イーガンの『しあわせの理由』、キイス・ロバーツの『パヴァーヌ』、アシモフ&シルヴァーバーグの『アンドリューNDR114』その他ロバート・J・ソウヤーなどを読んだ。『パヴァーヌ』と『アンドリューNDR114』は正確には再読だけれど、後者は今読んでもやっぱり泣いてしまう。

 最近は母が東野圭吾さんにハマっているので、『宿命』や『嘘をひとつだけ』や『容疑者Xの献身』など。物覚えの悪いわたしは、最初に名前を見た時、東野司さんと東野圭吾さんをごっちゃにしてしまったものだった。今でもついうっかり「とうのけいご」と読んでしまう(恥)。
 それから忘れてはならない期待の新人、第17回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した西條奈加さんの『金春屋ゴメス』とその続編の『芥子の花』。恐らくまだまだ続きがありそうなので、第3作が早く出ないかと楽しみである。非常にエンターテインメント性に富んでいて、しかも映像的にも美味しいストーリーなので、そのうちドラマ化されるのではないだろうか。…ゴメスを誰にするかが難題だけれど(汗)。

 『ゼンダ城の虜』や『蠅の王』、『ジェーン・エア』を摘み喰いのように再読したのを入れても、平均して月に4〜5冊そこら。エッセイと漫画と特殊ジャンルは数に入れていないけれど、もうちょっと頑張って読まないとな、と反省。面白い小説に関するアンテナもすっかり鈍ってしまった。
 来年はせめて週に1冊くらいは新規読了本を増やしたいと思う。読む時間をどうやって捻出するか、それが問題である(汗)。




12/06〜08 拘りの数字

2006/12/08 16:20
 ちょっと気を抜くとすぐサボりそうになる。本人としては、日記をサボっているという感覚はなく、毎日毎日どうにかこうにかやり過ごしているうちに3日経ってしまった、というキモチである。気分的にはまだ最前の日記から24時間経過していないような感じで、流石にそこまでのんびりというのもちょっとどうかと思う(汗)。
 さて懸案事項だった喪中欠礼も出し終わり、姪っ子たちへのクリスマス・カードも何とか間に合った。本当は今年こそアドベント・カードを贈ろうと思っていたのだが、こちらは気が付けば〆切はとっくのとうに過ぎてしまっている。カウント・ダウンが1ヶ月前から始まるんだもんなあ…(とほほ)。

 カレンダーの日付とか、デジタル時計の時刻表示とか、自分や家人や姪っ子たちの誕生日と同じ並びになるとちょっとシアワセである(カレンダーは当たり前か)。例えばふっと時計を見た時、11時25分や12時20分や3時31分や7時24分だったりすると思わずにこりとする。我ながら少々阿呆かと思うのだが、個人的にはこういうの「何の役にも立たないけどシアワセな瞬間」には違いない。
 で、誰それさんの誕生日ではないけれど、何となく気になっている数字もまだ他に存在する。54とか88とか680とかが好きだというのは、2004年5月4日の日記に書いた通り。そしてさらに221とか、2501とか、813とかの数字の並びにも反応してしまう。

 大学時代、たまたま2月21日生まれの同級生男子が居た。研究室が同じになったその彼の誕生日は、わたしにとっては忘れようにも忘れられない数字である。雑談の弾みに「あの人の誕生日は2月21日だったよね♪」と話したら、なぜまとり(仮名)は打てば響くように彼の誕生日を思い出せるのか、ひょっとして彼に好意を持っているのではないか…♪ と勘繰られて面喰ってしまった。
 さて困った。誤解を解こうにも、221の由来はあまりにも一般向けではない、ような気がする。しかしそこで言い淀んだら、ゴシップ好きな連中に「まとり(仮名)の意中の人」と噂されて当の御本人にも迷惑を掛けてしまう。事実ならまだしも、当時わたしはまったくのフリーだったのだ。
 仕方なしに白状するしかなかった。「ええとね、シャーロック・ホームズの下宿先が、ベイカー街221のBっていう番地でさ」。その途端、お茶室を支配した白々とした雰囲気、未だに忘れることが出来ない(とほほ)。

 2501は言わずと知れた数字だが、813と言うのはわたし本人にも謎が多かったりする。出所はモーリス・ルブランのアルセーヌ・ルパン物『813の謎』で、これは間違いない。ただしその813が、結局何の数字だったのか、どういう謎だったのか、読了からン十年が経過した現在、わたしのアタマの中からはきれいさっぱり消えてしまっているのだ。
 途中でルパンが「813、813…」と、半ばノイローゼになりつつ苦悩して考え込んでいたのは覚えている。何か時計が絡んでいたような幽かな記憶もある(間違っているかもしれない)。ただし、事の起こりがどうで、ルパンは何故関わって、謎をどう解き明かしたのか、その一切合財は忘却の彼方である(とほほ)。

 8月13日とか8時13分になるとふと脳裏を過ぎる「813の謎」。下二桁「13」の不吉さも手伝って、わたしとしてはかなり強烈なインパクトを持つ数字だったりする。ちょっと阿呆っぽいが。一体「813の謎」と言うのは何だったのだろう。もう一度読み返そうと思いつつ、未だに手に取らないまま、ささやかなミステリーは日々続くのだった。




12/09 一応結婚記念日(汗)

2006/12/09 22:50
 例によって例のごとく、ほとんど忘れそうになっていた(汗)。しかも、昨晩ふと思い出した時にも、わたしと家人2人揃って10年目だと勘違いしていた。会話の途中でふと違和感を覚え、「阪神淡路大震災の年の12月」というメルクマールを思い出し、間違いに気付いたのである。やれやれ。
 子供が居れば、その子の年齢が「結婚○周年」の目安となるのだろうかと思っていたが、お子さんのいらっしゃる友人・知人のお話によれば、必ずしもそういう訳ではないらしい。結局のところ、記念日その他に思い入れのあるかないか、記念日その他をマメにお祝いする性格かどうか、なのだろう。

 ウチは2人とも思い入れしないタイプだし、ついでにアニヴァーサリーでどこかへ…というのも面倒に思うクチなので、円満に何もしないで済んでいる。どちらか一方がマメなタイプだったりすると大変だろうなあ(汗)。
 まあ、15年とか20年記念の年くらいなら、何かお祝いしても良いかと考えたりしないこともない。とは言え、ちょっとお洒落をしてちょっとお洒落なレストランへ…という柄でもない。大体家人がその手の堅苦しい食事を嫌うだろう。何せフレンチや会席料理のお店を「ほんのぽっちりの皿を勿体ぶって小出しにするから、次を食べられるまでに消化しちゃう。喰った気になれない」とのたまうのである。やれやれ。

 Yahoo!JAPAN のトップ・ページを見ていたら、ちょっとタイムリー(?)なコーナーが目に付いた。「心理テスト“あなたの離婚パターンは!?”」だって。幸いにも離婚したいと本気で考えたことは皆無だが、やってみたらどういう結果が出るのだろう。面白そうである。
 診断ページはこちら。わたしの結果は「男前離婚……頑張ったすえに三くだり半!?」らしい。

>> 面倒みがよくて情に厚いあなた。縁あって夫婦になったからには添い遂げたいと思うタイプです。
>> 彼が独身時代と多少態度が変わってきても、お互いの価値観の違いが見えてきても、
>> なるべく上手くおさめようと努力するでしょう。そんな古風なあなたが離婚を決心するのは、
>> 堪忍袋の緒が切れたとき。借金や女グセの悪さなど相手の過失が明らかになったとき、
>> バシッと三くだり半をつきつける、これがあなたの離婚パターンなのです。

 面倒見が良いかどうかはともかく、多少古風な感覚がある点は自覚している。家人の価値観と自分の価値観の違いに時々うんざりしつつ、丸きり同じだったら却ってつまらないしなーとプラス思考するのもアタリ。
 幸い家人は借金するようなタイプではないし、根が面倒臭がりなので女性にちょっかいを出すとも思えない。と言うことは、わたしから愛想を尽かす心配はしなくて良さそうである(笑)。
 問題は逆から見てどうか、かもしれない。特別に悪妻である自覚はないが、かと言って非凡なる良妻であるとは口が裂けても言えないだろう。ある日突然「僕もう我慢出来ない」と言われないよう、せいぜい気配りしようかな、などと思ったりしている。…まあ大抵三日坊主なのだけれども(汗)。




12/10〜11 満ち足りているのか(汗)

2006/12/11 23:50
 家人がポイント・カードを持っている某家電量販店で、今週の金曜日まで、ポイントを1.5倍に計算してくれるキャンペーンをやっているらしい。1000ポイント持っていたら1500ポイント分のお買い物が出来るという訳で、なかなか太っ腹で、購買意欲を掻き立てるフェアである。
 そんなに沢山は溜まっていないけれど、ちょっとしたものなら買えると思うよ、何にしよう。家人がそう言うので、ここ2、3日、2人揃ってアタマを捻っている。

 とは言うものの、いざとなると、本当に欲しいものはあまりないことが判った。
 最初は食器乾燥機にしようかと言っていたのだが、今使っているものはまだ健在である。それにわたしとしては、次にもしも買い換えるとしたら、今度こそ食器洗い乾燥機が欲しいなあ、と思ったりする。家人は「手で洗った方がキレイだと思う」と、機械洗いの精度に不信感を覚えているようだが。
 しかし特に冬場は手荒れが辛い。炊事用ゴム手袋をしていても、どーしても食器洗いの際に洗剤に触れるせいか、関節部分は常にどこかしらがひび割れ&あかぎれ状態になっている。痛くて痒くて見苦しく、薬やハンド・クリームを塗ってもなかなか追い付かない。食洗器でこれが改善されるのならば御の字なのだ。

 残念ながら家人の手持ちのポイントは、食器乾燥機だけ買うには多過ぎて、食洗器には少な過ぎるのだった。同じことは電子レンジにも掃除機にも当て嵌まってしまう。現役の電子レンジや掃除機はまだ健在で、買い換えるとしたら「スチーム・レンジなら欲しいかなあ」とか「サイクロン掃除機なら欲しいかなあ」というパターン。
 そしてスチーム・レンジもサイクロン掃除機も、ポイントで買うには高価過ぎるのだった。デジカメがもう1台あったら、古いのはわたし専用に払い下げて貰えるかなと思った案も没。家人がいいなあと思う機種は、やはりどれも、ポイントで買うには(以下略)。世の中なかなか上手くは行かないものである(とほほ)。

 ダメ元で「ニンテンドーDSはどうかな」と訊いてみたが案の定却下されてしまった。以前見掛けて心惹かれていた「脚温器」もあえなく却下。「こんなもの買っても邪魔になるし、キミのことだからどうせ、2、3度使ったら飽きちゃうに決まってる。ゲーム機なんて論外!」だそうである。
 じゃあどうするか。家人の髭剃りがそろそろヘタり気配が見えているので、思い切ってうんと良いのを買ったらどうかと提案しても「でもこれまだ使えるんだよな…」。夫婦揃って、いざとなると貧乏性らしい(汗)。

 ううむ何が良いのだろう。金額だけで言えば、ポータブルのミシンなんか範疇内なのだが、ミシン…ミシン、ねえ。たまに欲しいなあ、ミシンがあればなあ、と思うことはあるが、それこそマッハの飽きっぽさを誇るわたしのこと、年に数回使うかどうかの押入れの肥やしとなるのは火を見るより明らかだし…(悩)。




12/12〜13 謝れない人々

2006/12/13 16:30
 今朝方の夢は変てこりんであった(いつものことだが)。
 何故かウチの前の川が海辺になっている。その海は深々とした群青色をしていて、それは黒潮が流れているからなのだと、夢の中のわたしは知っている。そしてどういう訳か、黒潮の黒さは「ひじき」のせいだったりするのである(阿呆)。波打ち際に寄せては返す海水を良く見ると、沢山のひじきがふわふわ漂っているのだ(汗)。
 黒潮(?)の中に漂うのはひじきだけではなく、わたしの大好物の「海ぶどう」までもが犇いている。わたしは膝まで海水に浸かり、片手に抱いた竹籠の中に、海ぶどうを掬っては放り込み、掬っては放り込んでいるのだった。大漁大漁♪

 目覚める直前まで見ていた夢がソレなので、起きてからも大変良く覚えていた。あまりに笑えるので家人に報告、朝から脱力させてしまった(すまん)。何故そんな夢を見たかの理由は簡単で、昨日所用のために町田駅近辺に出掛けた家人が、お土産に沖縄物産コーナーで海ぶどうとじーまーみー豆腐を買って来てくれたからなのだった。
 夢に出て来るくらいだから、自覚していたよりもよっぽど、海ぶどうとじーまーみー豆腐は好物であるらしい。黒潮の海で獲れるのが海ぶどうだけだったのは、わたしの無意識のギリギリ踏み止まった常識レヴェルなのだろうか。何にせよ、黒潮の黒さはひじきの黒さ、ということになっている辺り、無意識もいい加減なものである(汗)。

 根が単純なので、海ぶどう大漁の夢程度でニコニコ良い気分で過ごせるのだが、反面ちょっとしたことでムッとし易いのは自覚のあるところだったりする。短気は損気と判っているのものの、なかなか鷹揚な態度で物事に当たれない(反省)。つい先ほどカチンと来てしまったのは、どうやら最近担当が代ったらしい郵便配達さんに対してであった。
 以前はそれなりに、隣家宛の郵便物とウチ宛の郵便物がきちんと選り分けられていたのだが、ここ数日は全部一纏めに隣家の郵便受けに配達されちゃうのである。理由は判らないでもない。ポストに書いてある住人の名前はだいぶ薄くなっているし(とは言え、見る気になって見ればちゃんと見える)、ウチのクルマが郵便受けのすぐ傍に駐めてあるのでそもそも表側からは入れにくい。

 今日も一切合財纏めて配達だったので、戻って来た郵便屋さんを待って、一言お願いした。2軒分一緒になっているので、出来たら分けていただけませんか、と。もう20年ほども前になるが、とある事件で郵便配達のおじさんに窮地を救っていただいた経験のあるわたしは、全国でもおそらくトップ100には入るくらいの郵便配達屋さんのシンパなのである。特に丁寧にお願いしたつもりであった。
 返って来た最初の言葉は「わたしもそうしたいんですが、表示が見えないんで」というエクスキューズだった。うんうん、そうでしょうとも、すみませんすみません。そう思って「では表示を貼り替えておきますので」と言うと、再びエクスキューズ。「クルマが駐まっているので裏側からしか入れられないんですよ。表示が見えないんで」。
 うんうんそうでしょうとも。では裏側からも見えるように、蓋のところに住人名を貼っておきますのでどうかよろしく。返って来たのは三度の言い訳だった。「いやわたしも分けたいんですがね、表示が見えないんで」。

 結局最後まで「すみません」の一言はなし。別に謝らせたい訳ではなかったが、事ここに至ってなんとなくモニョり感が押し寄せた。最初に一言「いやーすいませんね。ただお宅の表示、ちょっと見えにくいんで、貼り替えておいて貰えますかね」…とでも言ってくれれば、気分的に随分違っただろうに。何なのその喧嘩腰。
 郵便配達屋さんと住民と言うと、お店屋さんとお客の関係みたいなものだと思っていたのだが、違ったのだろうか。別に平身低頭して謝れと言うつもりもないし、実際、ウチの表示が見辛いのは確かなのだ。表示が薄く見辛くなってから随分経つが、その間に何人か代替わりした配達担当さんが、その都度ポストの表示をそれなりに確認して分けてくれていたので、こちらも油断していた部分もある。

 お客さん商売という感覚がない人だったのかな、とちらりと考えたりした。バイト等で何度か接客をしたことがあるけれど、その時の大原則は「非が明らかにお客様側にあったとしても、まず“申し訳ございません”と言うべし」だったんだけどな。まず一言謝っておいて、お客様の気持ちを落ち着かせてからでないと、正当な理由なり状況説明なりを聞いていただけないから、なのだそうだ。
 自分がいざクレームを付ける側に立ってみてそのシステムが良く判った。しょっぱなに言い訳を聞かされるほどムカッと来ることはそうないものである。そんなこと、別にお客さん商売でなくても同じだとも思う。日本以外の国では「ごめんなさい」と先に言った方が負け、ということになっているようだが、あくまでここはなあなあと中庸の国・ニッポンなのであるからして。

 別に「ごめんなさい」でなくても「あなたの苛立ちはご尤もである。わたしも出来たらきちんと仕分けをして配達したい。ただしそうするにはやや、お宅の住人表示が見辛いのが難点である…」的論理展開してくれてたらなあ。「あなたの苛立ちはご尤も」を意味するフレーズがあるかないかで、第一印象は相当変わっちゃうと思うのだけれど。
 ともあれ早速、半ば意地になって、家人とわたしの名前をポストの裏蓋に貼り付けた。ついでなので「まとり」も書き添えておいた。時々「まとり様」宛で郵便物が届くこともあるからである。これでどうだコンニャロメ。今度纏め配達したら集配局にクレーム入れて進ぜるからそのおつもりで(心が狭い/汗)。




12/14〜15 久々に風邪っぴき

2006/12/15 16:23
クリスマス・カード  家人の職場でも、わたしの行く先々でも、風邪が大流行している。やれ誰某さんは9度の熱を出したとか、娘さん&お孫さんがダブルで倒れたので面倒を見に行かねばならないとか、死ぬほど辛いのに仕事を休めないとか。本当に皆さん御自愛下さい、と思う。中には風邪ではなくてノロウィルスにやられたという話までちらほらと。
 やっぱり嫌だよな、この時期。ノロウィルスだろうが風邪ウィルスだろうが、ともかくウィルスと名の付く諸々とは無縁でいたいものである。ただでさえバタバタしている師走も半ば、うっかり寝込んでも居られないのが一般的なのだからして。

 そう思っていたのに、一昨日辺りからどうも咽喉が変。鼻も変。おお神よこれはもしかして風邪ウィルスの邪悪なる仕業なのでせうか。わたしは阿呆にも、スケジュール目一杯詰め込んでしまっているのです(ほとんどが遊びの予定だけど)。お願いです神よ、わたしを地に打ち倒したりなさらないで下さい。あなたの御手をわたしに置いて下さい…。
 などという殊勝な祈りを唱えていたらまだ少しはマシだったのかもしれないが、状況はどんどん悪化。昨日の朝などは、起きてすぐには声が出ない始末であった。マズい。非常〜にマズい。
 幸いなのは、まだ食欲が結構あること。わたしの場合、体調が本当に悪くなると食べられなくなるのだが、ダウン寸前には補給部隊への大号令が掛かるためか、むしろ普段より食欲が増したりする。特に甘いものを無闇に食べたくなったりする。

 食べられる限りのアレコレをともかく口に詰め込みつつ、市販の「ルル」なんぞ呑んだりして、これ以上の悪化を食い止めようと奮闘中である。どうやら昨日の晩辺りがどん底だったらしい。今朝はだいぶんマシである。良かった、熱を出さずに済んじゃったよ♪
 木曜日のスポクラのバレエ・レッスンもお休みしてしまった上、キャパシティ超過量の昼御飯をガバガバ食べたせいか、どうも身体が重い。ほんのり体調が悪いなあ…と危機感を感じていた水曜木曜の2日間で、なんと2kgほども体重が増えているのである(びっくり)。風邪太りってマジですか。年末年始と食べ過ぎる機会が目白押しのこの時期に先駆けて2kgのプラスとは(とほほ)。

 まあ増えちゃったものは仕方ない。これも風邪の前兆段階を乗り切るための自然な防衛本能と考えることにしよう。それよりも、体調不良でどうやら落ち込み気味のメンタル面を、どうにかして高揚させなければ。このまま「何をする気も起こらない〜」などとヘタレていては大変である。
 まずは先日bk1で購入したよしながふみさんの『大奥』2巻を読んでみた。男女逆転した大奥での人間模様を描いた歴史ファンタジー、主人公の8代将軍吉宗公(もちろん女性)が矢鱈と格好良いのである。吉宗公の活躍を読んだら、ぐじぐじした気分もすっきり爽やかに晴れることだろう。
 …と思ったのだが、2巻は3代将軍家光公の時代に遡っちゃっていた。少女と元僧侶の、哀し過ぎる悲恋物語らしい。2巻では途中で終わっているけれど、どう考えたってこの恋がハッピー・エンドに収まるとは考えにくい。落ち込んだ…(涙)。

 そんな時に届いたのがこの画像。知り合いの娘さんに、折に触れてわたしは一方的にバースデーやらクリスマスやら、カードを送り付けているのだが、お返事にカードを送って貰ったのだ♪
 桜が満開の清水寺(たぶん)と京都タワー(たぶん)の情景に、何故かちっちゃなサンタがわらわらと紛れている。裏にはメッセージ。「まとりへ。げん気ですか、わたしはげん気です。(中略)サンタのおじさんきてくれればいいな〜v」。おお可愛い♪ 自分の名前とか、「げん気」とか、漢字で書けるようになったんだ♪

 ちょっとシュールなクリスマス・カードのおかげで、たちまち元気が沸いて来た現金なわたしであった(汗)。さて、風邪なぞに負けずに頑張らなければ。泣いても笑ってもあと2週間で2006年も終わるぞ〜(汗)。




12/16〜18 やーまの鐘が鳴るー♪

2006/12/18 11:24
 底は打ったものの、体調は未だに良くならない(とほほ)。熱は出なかったので体力を消耗してはいないのだけれど、鼻と咽喉がまだイガイガである。ついでに気管支もイガイガしている模様。風邪を引くといつものことだが、ラッセル音と胸痛も来ている。呼吸の度にゴツゴツ言わなくなると収束宣言を出せるので、早く収まらないだろうか。

 さて昨夜は衛星放送(?)のG+というチャンネルで『トゥーランドット』を放送していた。初めてこのオペラの名前を知ったのは『エロイカより愛をこめて』19巻。詳しい粗筋は出て来なかったが、氷のように冷たい姫と王子(テノール)のお話だと理解した。その後、CD等で一部を聴いたことはあったけれど、全曲通してちゃんと鑑賞したことはなかった。
 トリノ・オリンピック後に人気がブレイクしたせいか、演目として取り上げられることも増えたのだろう。TVで観られるとはラッキーである。

 全体の印象としては「派手なオペラだなあ」の一言だった。印象的なアリアが「誰も寝てはならぬ」くらいで、後は派手だけど好みではない感じなのが残念。確かリュウの自害後くらいから先はお弟子さんか誰かが作ったのではなかったか。作風の違いはまったく判らなかった。
 最初にCDで聴いた時、皇帝の登場シーンなど宮廷内の重々しさを表すフレーズ(?)に「ミーミソラドドラソー」(ドは上がる)があって、何故かこれにアタマの中で「やーまの鐘が鳴るー」と歌詞が付いてしまった。実際にそういう歌はないと思うが、イメージ的には「夕焼け小焼け」の「山のお寺の鐘が鳴る」的ファンタジーである。

 改めて昨夜観るまですっかり忘れていたのだが、1度思い出したらもう止まらない。「やーまの鐘が鳴るー」。「やーまの鐘が鳴るー」。ああ、厳粛な中国の宮廷の雰囲気が、オレンジ色の夕焼けをバックに飛び交うカラスと、シルエットになって浮かぶ鐘楼のイメージに塗り潰されて行く…(汗)。
 エンディングも初めて観た。わたしはてっきり、カラフが名前をトゥーランドットに明かした直後、トゥーランドットは「ほーっほっほっほ、語るに落ちましたね」とか何とか態度を豹変させて、結局カラフを斬首刑に処してしまうのだと思っていた。違った。氷の姫、トゥーランドットは、いつの間にか絆されていたらしい。

 個人的シュミからすると、この流れにはやや不満が残る。リュウの純愛に心打たれる部分が無かったとは言えないトゥーランドットだったとしても、根本的に人が変わった訳ではないではないか。カラフが怒涛のように口説いている間にも「わたしに触れるな」ばっかり言ってたではないか。
 それが無理チュー1つであんなに簡単に陥落って、アリなのか? 難攻不落の氷の姫君ともあろう者が、あまりに簡単ではないか(ぶーぶー)。

 オペラ的にはラストでいきなりカラフの処刑シーンだったりすると、それは確かに後味とか居心地というか座りが悪かろうなあ、と思う。あの簡略化がオペラの流儀なのだろうとも思う。けれど、やっぱり、もうちょっと説得力が欲しかった…。
 と言う訳で、聴いて楽しめる作品としては、同じプッチーニではやはり『マダム・バタフライ』の方が好きかもしれない。そして笑撃の事実。ピン・ポン・パンって、『トゥーランドット』が起源だったのか。知らなかった…♪




12/19〜20 大失敗(汗)

2006/12/20 16:50
 水曜日で、レディス・デイなので、映画を観に行こうと思った。体調はまだ万全とまでは言えないが、とりあえず動けるだけの体力が回復して来た感触はある。早く観ないと終わってしまわないかということも心配だった。目的はシネセゾン渋谷の『スキャナー・ダークリー』。奇才P.K.ディックの長編『暗闇のスキャナー』の映画化である。
 原作は非常に複雑で難解。わたしも以前読んだがかなり苦労した覚えがある。そしてどういう内容だったか既に記憶アヤフヤだったりする(とほほ)。ともかく、独特の居心地悪さと、現実/幻想の入り混じるヴィジョン、悪夢的世界が、それこそドラッグのように病み付きになる作家である。個人的には短編の方が好きだけれど。

 一昨年だったかその前の年だったか、誕生日プレゼントに買って貰ったワイン色のロング・ブーツを、昨日引っ張り出して来た。ヒールが磨り減っているのを、行き着けの大規模スーパー内の修理屋さんへ持って行って直して貰った。気分は悪くないし天気もまあまあ、となるとたまにはこういうブーツを履いて出掛けようか、という気が沸いて来る。
 渋谷に出るとなるとその辺に出掛ける時よりは多少マトモな格好をする。ピンクのセーターにグレイのキュロット、ワイン色のブーツを履いて意気揚々と家を出た。

 ヒールが高いので、駅まで歩く間に結構草臥れたらしい。とは言えほんの10分足らずの道のり、それほど汗もかかずに辿り着いた。3つ隣の駅で急行に乗り換えて目指すは渋谷。ラッキーにも端っこの席を確保することも出来た。母に借りた東野圭吾さんの『手紙』でも読んでいよう…と、文庫本を開いたところで意識が途切れた(汗)。
 思った以上に疲れていたらしい。わたしはコトリと眠り込んでしまい、そのまま延々と電車に揺られること実に1時間半。気が付いたら全然知らないところを走っていた。とっくの昔に地上に出ているらしい。密かに慌てる耳に響く車内アナウンスと、血走る目に映る駅名表示。何故か出発した駅も次の駅もナントカ越谷だそうなのでますます混乱する。ここはどこ? わたしは誰? おーまいがーっ。

 とりあえず次の駅で降りて引き返した。地下鉄に戻って知っている駅名が出て来た辺りで、ケータイに家人からの着信が入っているのに気が付く。しかも2回も(汗)。いつもならCメールを寄越すのに電話を掛けて来たということは何か緊急事態なのだろうか。心配になるがどうしようもないので、渋谷を過ぎたところでこちらからCメール。
 流石に、もうシネセゾンで『スキャナー・ダークリー』という気力は失せていた(汗)。これだけの長時間電車内居眠りをやらかしたのは、大学時代、武蔵野線全区間制覇(汗)以来の出来事である。

 どうしてまた目が覚めないかなあ。途中、それなりに賑やかな駅や乗客の乗り降りもあったようなのに、我ながら寝汚いにも程がある。やれやれ…(とほほほほ)。




12/21〜23 沈没中…(汗)

2006/12/23 23:15
 どうにも咳が抜け切らず、まったく困った状況に陥っている(汗)。
 空咳なら特に気にしないでも良いのだが、治まらないのは湿った重たい咳で、胸のゴツゴツ(というかブツブツというかゼロゼロというか…要するにラッセル音)も出たり引っ込んだり。あんまり苦しい時には、引き出しに放り込んでそのままにしてあったベロテックを使ってみた。有効期限1999年と書いてあった(汗)のだが、一応効いた。
 ここ数年間、喘息の発作が出ることもほとんどなかったし、たまにゼイゼイしても暫く大人しくしていれば治まったのだが、今回のはちとしつこいようである。咳以外は特にしんどいこともないので、鬱陶しいの一言に尽きる。

 明日はラグビー大学選手権の2回戦で、大贔屓のワセダは慶応大学と対戦する。これまた大贔屓のWTB・首藤甲子郎選手がいよいよスタメン復帰すると発表があったので、何が何でも観戦に駆け付けなければならない。右膝の故障を再発することなく、対面の山田章仁選手をぴしゃりと封じ込めて、「音速の翼」の二つ名の面目躍如たる活躍を見せて欲しい。
 イヴェントの時にしか行かない教会にも顔を出さなければならないし、相変わらず仕事以外の用事で色々と忙しいのだった(汗)。

 それにしても咳がいい加減に治まってくれると良いのだが。電車に乗ったりした時にこの咳が出ると、風邪大流行のこの時期、周囲の人々に申し訳なくて仕方が無い。マスクをしていればマシなのだろうが、マスクを着けると眼鏡が曇るのでつい鬱陶しくてサボってしまう。
 自分だって隣の席等で派手なくしゃみや咳をされたら不愉快に感じるのだから、我侭を言わずに諦めて立体マスクでも買って来ようか。鼻のところに金属バンドが付いているタイプのものであれば、眼鏡の曇りもそれほど気にならないかもしれない。

 子供の頃から、身体のどこかが常に痒かったり痛かったり、でなければ鼻が詰まるだの咳が止まらないだの、何かしら調子が悪かった。アタマの天辺から爪先までどこも悪いところがない、という状態は稀だった。ほんの小さい時は、誰でも皆そういうものだと思っていたのだが、多少大きくなるにつれてそうでもないと判るようになり、随分不公平に思ったものだ。
 三原順さんの『ロング・アゴー』に出てくるロナルド・グレンマイヤー氏のように、「あんたはすぐ風邪を引くのだから」等々と多少過保護に扱われたのがどの程度実態に沿ったものだったか不明としても、体調不良で学校を休まねばならない回数は、2人の妹たちより多かった。

 中の妹が「わたしもたまには熱を出して学校を休みたい」と言ったことがある。内心「代われるものなら代わってあげるよ」と思ったものだが、それを口に出すほど無分別ではなかった。ともかく少女時代は、思うようにならない自分の身体が大嫌いで仕方なかった。自分の肉体はある種の「檻」であると感じていた。
 精神生命体が出て来るSFを読んだ時など、自分もそうだったらどんなに自由だろうかと羨ましかったものである。今では流石に、スタミナや体力の有る無しも、その人の個性の一部であると納得するようになった。体力がないものはない、それは仕方のないことなのだ。「もうちょっと体力があればあんなこともこんなことも出来るのに」という言葉を、内心でも呟かずに済むようになったのは、ほんのここ数年のことだけれども。

 という訳で、「自分の身体を思う通りにコントロールする」のが究極の目的であるバレエに、ここまで惹かれる理由もその辺りにあるのだろうな、と最近思い当たるようになった。踊るのが楽しいことももちろんあるが、姿勢や腕、脚などを、きちんと美しい形に維持出来ることそのものが、わたしには楽しくて仕方ない。
 先生が振付けたパ(ステップ)も、まだ即座にはリピート出来ないけれど、何度か繰り返すうちに時々「出来た♪」と嬉しいこともある。今後も、無理せずマイ・ペースで、「自分の身体のコントロール」に励みたいと思う。

 第一線級の運動選手が故障した時など、きっと同じように、思うようにならない自分の身体にイライラしたり焦りを感じたりするのだろう。故障前は一般人以上に高い身体能力を持っていた人たちなのだから、苛立ちも焦りも想像を絶するものに違いない。
 明日復帰する首藤甲子郎選手が、自分の思い通りに軽々と動けるようになっていると良いな。もちろんまだ完調ではないらしいので、とにもかくにも、無理をして再び故障するようなことだけは避けて欲しい。でもやっぱり大活躍を観たいので、その辺はジレンマなのだった(阿呆)。




12/24〜27 喘息再来

2006/12/27 18:37
 先日来、どうにも抜け切らない咳は、実は喘息だったらしい(汗)。この数年、喘息の発作が出ることもなかったし、先の日記に「古いベロテックを使ってみた」と書いたクスリなど、有効期限は1999年ではなくて実は1996年11月だったりしたのだが(汗)、喘息のゼイゼイだと思い当たらないとは何とも呑気である(とほほ)。
 ほぼ10年ぶりにマトモな発作が帰って来た訳で、嬉しくも何ともない(涙)。出来れば自分が喘息持ちだということなぞ忘れたままで過ごしたかった。
 一番酷い状態は抜けたのだが、まだ少し、息が浅い感じがする。肺に何か詰まっているような、気道の奥の方が痒いような、不愉快な感覚。懐かしいと言えなくもない。

 今回の切っ掛けが風邪を引いたことなのは間違いないが、急に悪化したのは、昨日関東地方に大雨を降らせた低気圧も一役買っていることだろう。「爆弾低気圧」と呼ばれるほどの、冬場には珍しいものだったらしい。どういう理由か知らないが、低気圧が接近する時には、喘息が悪化するのが子供の頃からの常だったのだ。
 家人もそうだと言うし、mixiでも同じと仰る友人がいらっしゃった。検索してみたら、低気圧が来るとゼイゼイが始まる人は、それこそ山のようにおいでだと判った。喘息の子供さんをお持ちの親御さん向けに、「小児喘息天気予報」のサーヴィスまであるらしい。花粉症や紫外線についての予報もしてくれるので、結構重宝しそうだ。早速ブック・マークに入れたのだった♪

 低気圧で喘息が悪化するのが何故かは、調べてみたものの、これだという理由は判らなかった。とあるサイトでは「気圧が下がると相対的に人体内の圧力(例えば血圧)が高くなる。すると炎症部分の浸潤圧力が高まるから」と説明していた。そんなものかなあ、とも思うが、個人的にはどうもこの説は怪しい気がする。
 気道炎症部分の浸潤圧力が高まる=炎症の悪化と言いたいのだろうが、外気に接している部分の炎症と言えば他にも鼻炎とか湿疹がある。低気圧の接近時に慢性アレルギー性鼻炎やアトピーの湿疹が悪化する、という話はあまり聞いたことがない。「低気圧で喘息悪化」がこれだけポピュラーならば、同種の体験談がもうちょっと引っ掛かっても良い気がする。もちろんわたし個人としても、低気圧接近時に鼻炎やアトピーが悪化するという実感はない。

 加えて、喘息の悪化は予報的に起こるらしいこともある。わたしの場合はどうやら「低気圧接近の数日前〜去るまで」が要注意期間と思われる。同じように、低気圧がやって来る「前に」、喘息が悪化するケースが多々見られる。天気予報よりも正確に台風の接近を予知出来る、という方々が沢山おいでなのだ。気圧が下がるために炎症部分の浸潤圧力が云々という説はまったく当て嵌まらないことになる。
 予報的な理由は不明だが、とするとやはり純粋に「気圧の低下」で酸素分圧が下がり、肺の運動負荷が増えるために、ヒューヒューゼイゼイが始まってしまうのだろうか。日本近辺だと平均的に1000hPa程度(理科的な1気圧は1013hPa)だけれど、超弩級の巨大台風でも、900hPaを切るようなものは滅多にあるまい。大抵は980hPaとかその程度、950hPaで「大型台風」という感覚だと思う。

 せいぜい下がって5%の気圧変化で、喘息患者の肺は機能に支障を来たすのだろうか。そう考えるとちょっと悲しい。そこまで敏感でなくても良いのになあ(涙)。そして、その程度の気圧変化なら、日常的シーンでも他に見られるのではないだろうか。そう思って調べてみたら、エレヴェーターで急に上階へ上がった時とか、飛行機に乗った時、スキー旅行で山頂コースへ行った時に、調子が悪くなる方もいらっしゃると判明。
 やはり直接の引き金は急激な気圧の低下であるようだ。反応が即時的なことからも、炎症部分の浸潤圧力が増大して…という1ステップは関与していないような気がする。

 ついでに、喘息の発作時に、横になると苦しいのは何故かも良く判らない。検索してみると同じように感じていらっしゃる方々も多いようなのだが、何故そうなのかの理由はやっぱり引っ掛からなかった。皆さん、発作が起きた時には、わたしと同じように布団を身体に巻き付けて座った状態で眠るらしい。身動きしにくくて大嫌いな体勢だが仕方ない。
 そういえば大昔に観た『エレファント・マン』の主人公も、横になって眠ると死んでしまう、という設定だったような気がする。喘息とは関係なかったハズだが、「あ、これ自分と似てる」と思ったので記憶に残ったのだった。

 発作時に立位(もしくは座位)が良いとは、どういう理由によるのだろう。仰向けに横になると重力で肺が潰れるから? ついでに検索してみたら、「俯せ寝をすると喘息発作が起き難い」というページも発見。俯せ寝をすると、呼吸筋が鍛えられたり、痰の排出がスムーズに行ったり、肺の血行が改善されたりするらしい。やはり憎むべきは重力であるようだ(汗)。
 あれっ。と言う事は、無重力空間では喘息が良くなるのだろうか。まさか今までに喘息持ちのアストロノーツは居なかっただろうから、誰も調べていないのではあるまいか。ちょっと気になってしまう。




12/28〜31 今年も今日で終わり

2006/12/31 21:34
やわらか  年の最後になって体調不良だったりしたせいで、何とも締まらない年末となってしまった(汗)。そして咳は治まったものの、相変わらず息の浅い感じが続いていて、どうにも不機嫌が直らない。こんなことになる前に、きっちり早目の手当てをしていれば、今頃はもうとっくに完全復活していただろうのに(顰蹙)。
 そして発作が出てしまえば、効きが弱いとはいえメプチンエアーを使えるのに、発作未満のしつこい不快感には吸入を使う訳にも行かない。結果、いつまでもいつまでも不快感が続くのであった。ちぇっ(汗)。

 28日は今年最後のスポクラのバレエ・レッスンであった。いつも一緒に受講しているお姉様方に伺った話にびっくりさせられた。違うバレエ教室に通っているご友人のお話である。
 64歳のAさん。乗馬教室にも通うアグレッシヴなこの方は、ある時、落馬して右腕を負傷してしまった。普通ならバレエもお休みするところだが、Aさんは「わたしの歳で、ここで休むと取り返しが付かないから」と仰り、根性でレッスンには通い続けた。リンバリング(バー・レッスンの最後に行なうストレッチ)では、先生に「Aさんは無理しないで下さいね」と釘を刺される熱中振りだったと言う(汗)。

 40代のBさん。現役看護婦さんである彼女は、ある時足首を捻挫してしまった。業務も休めず、痛む足をかばいつつの夜勤明け、それでもレッスンは休まなかったらしい。しかもBさん、勤務先のお医者さんにガッチリと足首をテーピングして貰って、ポワントまで履いたというからオドロキである。痛くないのか?
 BさんのおっしゃることもAさんと同じで、「ここで休むと取り返しが付かないから」だったと言う。定期的な運動を続けて作り上げた身体を鈍らせるのは、それまでの苦労を考えると、あまりに悔しいことなのだろう。特にバレエ、しかも大人のバレエの場合、「取り返しが付かない」と焦る気持ちも良く判る。

 そういえば風邪を引いて、熱が40度近くあるのに、やっぱりレッスンは休まなかった方のエピソードもある。喘息程度でヘロヘロしているおのれを考えると、やっぱりちょっと根性が足らないのかなあ…などと情けなくなってしまう。が、情けなくなってしまってはいかないのだ。他人と同じことを、自分も出来ると思ってはイケナイ。遊ぶにしても仕事にしても。
 『プラダを着た悪魔』を観た時にも思った。わたしには、ああいう働き方は出来ないなあ(寂)。どんなにやり甲斐のある仕事でも、あのペースで働いたら、間違いなく2ヶ月で病院送りとなる。あれだけ全力投球出来るのは、それを支える基礎体力があればこそなのだ。昼夜問わずバリバリ働けて、しかも活き活きし続けるアンディ(いやフィクションなんだけどさ)。良いなあ。羨ましいなあ。

 学生時代には、横浜中華街で年越しして、そのまま初日の出を観に行ったりしたものだという家人の話にも羨望。わたしにはそんな遊び方は出来なかったよ(汗)。そもそも学生時代、大学へ行って実験するだけでいっぱいいっぱいだった。飲み会とかバイトをする体力も残らなかった。クラス・メイトは冬休みにスキー旅行も企画していたけれど、わたしにはそんな元気もお金もなかったのだ(とほほ)。
 もうちょっと体力があれば、ドクターも諦めないで済んだかな、などと考えることもしばしばだった。体力だけではなく、お金も才能も根性もなかったのだが(汗)。「もうちょっと体力があれば」の願いが、「もうちょっと背が高ければ」と同レヴェルだということに納得行ったのは、「研究者になる」という夢に本当にきっちり訣別出来たのは、ほんのここ数年のことである。

 何だかんだ言いつつまだ未練がましいのだが、まあゆるゆると、マイ・ペースで来年も過ごせれば良いな、と思う。やわらか戦車のごとく、とにかく生き延びることを最大の目標として、退却魂を貫こう。
 ということで、画像の上段は29日にイ○ーヨーカドーで見付けた特大やわらか戦車ぬいぐるみ。中段は小型ぬい他関連グッズ。どうやらイ○ーヨーカドーと提携して、限定グッズを展開しているらしい♪ そして下段は、今日、町田で見掛けたゲーセンのUFOキャッチャーである。ちょっとやってみたくなってしまった。

 そんな訳で、やや愚痴っぽくなってしまったが、来年はもうちょっとマメにいろいろやりたいな、と思う。積み残したアレコレも、せめて1月上旬には着手したいなあ…。
 では、皆様、どうか良いお年を。そして来る2007年もどうぞよろしくお付き合い下さいませ(ぺこり)。