映画感想文倉庫3

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THE 有頂天ホテル(三谷幸喜)
2006年・日 THE WOW-CHOTEN HOTEL
2006/01/26 18:34
ストーリー:新年のカウント・ダウン・パーティまであと2時間少々に迫った大晦日。都内の高級ホテル「アヴァンティ」では様々なトラブルが発生しつつあった。副支配人・新堂平吉(役所広司)はパーティで披露する「謹賀新年」の垂れ幕の手配に大童。国会議員・武藤田勝利(佐藤浩市)は汚職事件でマスコミに追い回され、その元愛人で今は客室係の竹本ハナ(松たか子)は我侭ゴージャス娘の尻拭いに走る羽目に。アヒルのダブダブは逃げるわ総支配人(伊東四朗)は行方不明になるわ、舞台裏は大騒ぎに…。

出演:役所広司、松たか子、佐藤浩市、香取慎吾、篠原涼子


 エンド・クレジットで桜チェリー(YOU)と一緒に「If, they, could, see me now〜」と歌って踊りたくなる素敵な作品。2時間16分、たっぷり笑ってちょっぴり切ない思いをして、何だか自分まで生まれ変わったようなフレッシュな気分になって映画館を出て来ることが出来るだろう。
 『ラヂオの時間』も『みんなのいえ』も大好きだったけれど、前2作に負けず劣らず三谷監督のあったかくて照れ屋でサーヴィス精神旺盛なキャラクターを味わえる。ちょっと落ち込んで苦しい状況にハマっている人が居たら、何はともあれコレを観ましょう。

 映画ってやっぱり脚本だなあ、としみじみ満足に浸ってしまった。本作品に出て来るのはどこにでも居るようなごく普通の人々。それぞれに小さな幸せと不幸せを抱えていて、守りたいプライドと立場の間に挟まってもがいている。そんな人たちが巻き込まれるちょっとしたトラブルと、七転八倒の末に巡って来るささやかなハッピー・エンド。嘘っぽくも説教臭くもないのは、エピソードのデフォルメ具合がまた絶妙だからだろう。
 パンフレットによれば多くのシーンがワン・カット(実はものすごい長回し)だったりと、映画というよりは舞台を思わせる作られ方をしているらしい。視点の置き方も「観客席からすべてを見渡せる舞台のように」敢えて俯瞰的にしてあるという。言うなれば観客は「神の視点」から、2時間少々のリアルタイム・ドラマをどきどきわくわくしながら観る、という趣向である。よって、無駄なアップもほとんどない。これまたわたし好みだった。

 役者さんたちがまた素晴らしい。佐藤浩市さんや松たか子さんの演技力には惚れ惚れする。もちろん役所広司さん演じる新堂副支配人の、敏腕とトホホが交錯するスリルも面白い。さらにアシスタント・マネージャー(戸田恵子)の気配り、ホテル探偵(石井正則)の怪しさ、総支配人(伊東四朗)の三枚目っぷり、実は情の深いコール・ガール(篠原涼子)の行動力などなど、キャラクターそのものに個性が呆れるほどにドンピシャリ。
 そうかと思うと筆耕係の右近(オダギリジョー)とか芸能プロ社長(唐沢寿明)などは、普段のイメージからかけ離れてたりして、こちらもなかなか味わい深い。もちろん忘れてならないのが、神出鬼没のあひるのダブダブである。彼(彼女?)が要所要所でキメてくれる役割がキイだったりする辺り、いかにも三谷作品っぽくてイイ。

 小道具も凝っていて、さらに気の利いた伏線を張り巡らせる役割をしていたりして、憎い演出だったりする。ベルボーイ・只野憲二(香取慎吾)のギターや幸運人形、バンダナが転々とする様子と、最後に集まって来る時の密かな感動。ケータイ待受けの「くねくね踊り」や、ようこさんのカツラとコート、盗まれた衣装一式、洗顔クリーム。
 カウント・ダウン・パーティで歌われる桜チェリーの歌とか、只野君が大物演歌歌手・徳川膳武(西田敏行)の前で熱唱する「天国生まれ」、新堂さんがご指名を受ける「ハッピー・バースデイ」なども幸せ感を倍増させてくれる。
 本当に、観る人すべてをハッピーで楽しい気分にさせるためだけに作られた、三谷監督のお名前通りの、幸せで喜ばしい、最高のエンターテインメント映画である。今年の映画館初鑑賞が本作品で、わたしも大変ハッピー♪

 ちょっとだけ残念だったのが、香取慎吾さんの演技はやっぱりもう一歩かなあ、と感じてしまったのと、ウェイター・丹下(川平慈英)と客室係・野間睦子(堀内敬子)のカップルが少々鬱陶しかったこと。香取慎吾さんの只野君は初々しい感じが出ていて悪くはなかったのだが、丹下君・野間さんコンビの暑苦しさには閉口した。あのお2人は設定しなくても良かった、かも…(ごめんなさい)。
 あとは製作側の落ち度ではないのかもしれないが、なぜ公開を大晦日にしてくれなかったのか、という点。まあ今後は間違いなく、年末の定番映画となると思うけれど。

 ともあれ、誰かの感想文を読むよりも、まずは映画館へ走って行って観るべき作品。主要人物がこれだけ沢山出て来るのに全然判りにくくないストーリーと、それが大団円に向かって収斂して行く見事さを、ハッピーに笑い転げながら堪能しましょう♪
 ちなみにわたしの一番好きな台詞。倉庫のクリスマス・ツリーの下で桜チェリーが総支配人と2人して、マン・オヴ・ザ・イヤー堀田衛(角野卓造)に呟く「お金かなあ…?」でした♪




博士の愛した数式(小泉堯史)
2006年・日
2006/02/03 01:14
ストーリー:派遣家政婦の杏子(深津絵里)の新しい仕事先はとある屋敷の離れ。依頼主の未亡人(浅丘ルリ子)は「10年前の事故で記憶障害を負った義弟の世話を」と語った。将来を嘱望される数学博士であった義弟(寺尾聰)は、事故以来、記憶が80分しか続かなくなっている。「毎日初対面」という状況にとまどいつつ杏子が仕事を始めてしばらく後、博士は杏子に息子(綽名はルート)(齋藤隆成)が居ることを知り、一緒に連れて来るように命じた。3人の間には心の交流が生まれる。

出演:寺尾聰、深津絵里、齋藤隆成、吉岡秀隆、浅丘ルリ子


 特に盛り上がりとか山場もないまま、ただひたすら地味に淡々と物語が進行する。けれどしんしんと降り積もる雪のように、何故だか心が切なく温かいもので一杯になってしまった。杏子が博士に向ける親近感、博士がルートに注ぐ無償の愛情、ルートが博士を慕う心、そして物言いたげな寂しそうな瞳で佇む未亡人の複雑な胸の内。そういったものが、静かに語られるストーリーの中で、次第に明らかになって行く。合間合間に出て来る神秘的な数学の美しさも良い。
 原作は「面白そうだなあ」と思ったまま今に至るまで未読なのだが、本作品を観終わった後で絶対に読みたい、と思うようになった。早く文庫になってくれないだろうか(セコい)。…と思っていたら、友人から「去年の12月に文庫になっている」と聞いた。ラッキー。読まねば!

 1箇所を除けば博士が自分の記憶障害について慟哭する場面もなく、80分しか続かない記憶のせいで危機に陥ったり…というトラブルもない。それなのに、何と言うことのないシーンで、どうしてか涙がほろほろ零れて困ってしまった。特に泣けたのは、博士におんぶされたルートが、母・杏子に被せられた野球帽をはらいのけるシーン。自分を心配するあまりの母親の言葉と理解しつつ、子供なりの義憤というか博士に対する信頼と愛情を示す場面である。
 子供時代のルート役の齋藤隆成君は特別上手い訳ではないのだが、雰囲気が成人後の数学教師・ルート(吉岡秀隆)に似ているためか、授業風景と回想シーンを交互に並べられても違和感がまったくない。素直で心優しい少年が、少々気弱だけれど芯のしっかりした青年に育って行く過程までが容易に想像出来る。少年ルートを齋藤君に設定したことそのものが大正解、という印象だった。

 母・杏子役の深津絵里さんはその透明感が素晴らしい。シングル・マザーで派遣家政婦をしながら女手ひとつで息子を育てる…というと、どうしても疲れた女性のイメージが沸いてしまうのだが、気丈さや孤独さを垣間見せながらも「杏子」のイメージはどこまでも澄み切っていた。彼女の透明感が作品にファンタジー的な印象を与えつつ、それでいて決して絵物語的な嘘臭さに繋がらないのである。
 博士役の寺尾聰さんは完璧の一言。一歩間違うと「小汚い」に転がってしまいそうな「変人の数学博士」と、その内に潜む愛情豊かな人物を、見事に融合させて演じ切っていた。さらに義姉である未亡人の浅丘ルリ子さんの静かな眼差しにはやられた。彼女の寂しさ、諦観、罪の意識、どうしても抑え切れない嫉妬心を、台詞ではなくて目で語るあたり、凄みすら感じられる。

 舞台が春の信州なので、桜の舞い散る様子とか、雪解け水で流量が増えて(るのだろうと思う)きらきら流れる川面の映像も美しい。そして途中に出て来る観能のシーンは、最近まれに見る、切なくて美しいラヴ・シーンであった。音楽も控え目かつ印象的で、本作品にぴったり合っていたと思う。

 友愛数とか完全数、オイラーの法則と言った数学的薀蓄も、非常に効果的に使われていた。高校1年生の数学の授業で、最初にこういう物語を聞かせてもらえたら、数学嫌いなんか居なくなるんじゃないかと思った。ルート先生が語り終えた時、「ありがとうございました」という言葉がごく自然に生徒たちから出るところとか、皆が立ち上がった後でも1人だけ、余韻に浸るように着席したままの男の子が居たりするところなど、個人的にはお気に入りである。
 一番好きなのはやっぱりラスト・シーン。開かれた木戸と、海辺に集う皆の光景は、寂しい目の義姉に救いが訪れたと言う事を意味すると信じたい。「父親」というキイ・ワードの元に、登場人物たちが完璧な数式のように美しい関係を築いた瞬間、それがあのラスト・シーンだったと思う。ウィリアム・ブレイクの詩も効果的で良かった。

 しんみりと温かい気持ちに浸れる、冬の夜には炬燵で蜜柑、みたいな作品。足の先までほこほこになれます。こういう作品を、海外の映画祭で紹介してもらえると嬉しいなあ、と思ったりする。




ミュンヘン(スティーヴン・スピルバーグ)
2006年・米 MUNICH
2006/02/10 14:00
ストーリー:1972年ドイツ、ミュンヘン。オリンピック選手宿舎をパレスチナ系テロ・グループ「黒い9月」が襲撃し、11人のイスラエル人選手が犠牲となった。イスラエル政府は報復を決定、モサドのエージェント・アヴナー(エリック・バナ)、スティーヴ(ダニエル・クレイグ)、ロバート(マチュー・カソヴィッツ)、ハンス(ハンス・ジシュラー)、カール(キアラン・ハインズ)の5人を秘密裏に暗殺グループとして組織する。

出演:エリック・バナ、ダニエル・クレイグ、ジェフリー・ラッシュ、マチュー・カソヴィッツ、アイェレット・ゾラー


 何とも言えず重たい重たい作品。PG-12のレイティングが示す通り、ただひたすら殺しと爆破のシーンが続く。とは言え、160分を超える上映時間を「長いなあ」と思わなかった。無駄なエピソードや無駄なシーンはない。それだけに、鑑賞後の遣る瀬無さがいや増す印象だった。
 スピルバーグ監督の「シリアスもの」には、今まで主張の過剰さが鼻に付く感じがして素直に入り込めなかったのだが、本作は、観る者の心の中にぐさりとストレートに刺さって来る。重さ1トンくらいあるような巨大な槍に、訳も判らないまま突き刺されつつ押し潰されたような苦しさと痛みが残る。

 原作はジョージ・ジョナス氏の『標的(ターゲット)は11人 モサド暗殺チームの記録』だけれど、出来ることなら未読のままで、何の予備知識もナシに観るのが良いと思う。と言うのは、単なる個人的な印象だけれど、スピルバーグ監督はこの舞台を、本当はどこでもないところに置いているつもりだったのではないか、と感じるからである。
 予備知識ナシに観ると本作品はとにかく不親切な作りをしている。辛うじて主要キャラクターたちの名前は覚えられるけれど、メンバー5人が活動している場所がどこでターゲットの名前が何なのか、ものすごく判りにくい。そうかと思うと情報屋・ルイ(マチュー・アマルリック)と会っている背後にでかでかとエッフェル塔が映っていたりする。たぶん意図的に。わざと「何処の誰と誰が殺し合っているのか判らない」ように作ってあるのだと思う。

 子供を使った演出はやっぱり出て来るのだけれど、本作ではそのシーンが非常に効果的。パリ(もしくはその近郊)の「パパ(ミシェル・ロンズデール)」の家での子供たちや一家揃っての食事シーンは数少ない息抜きとなっていて救われる。ターゲットの娘と会って動揺するロバートの心優しさや、生まれたばかりの娘の喃語を電話越しに聞いて涙するアヴナーの心境には胸突かれた。
 『トロイ』のヘクトルしか観たことなかったのだが、主人公アヴナー(苗字なんかほとんどラストになるまで出て来ない)の心の揺れ具合を、エリック・バナは非常に好演していた。「英雄」の父を持つイスラエル人なのだけれど、周囲の人間たちのようには祖国に対する愛着を保てない。本当に大切なのは家族だけ。何が真実なのか判らないままひたすら任務をこなし、次第に追い詰められて行く。

 本当なら幾らモサドのメンバーでも、適性検査とか心理傾向とかで、もっと「愛国的」な人物をリーダーに据えるのが正解だと思う。何故敢えて心揺れ動くアヴナーが主人公だったのか。イスラエル対パレスチナではなく、単なる暴力の応酬を浮き立たせて描いたのか。考えると深い。

 ひたすら続く爆破と殺しと報復のシーンに「もういい」と思ってしまうのだけれど、実は観る者をそういう気持ちにさせることが、スピルバーグ監督の意図だったのかな、と思った。わたしにとって「自分が居る場所がホーム」である。祖国とか「約束された地」への思い入れは全然ない。それが良いことか悪いことかはともかく、イスラエルだパレスチナだと拘り過ぎては皆が不幸になる、それだけは確かなように感じる。
 「こんなことの果てに平和はない、それが真実だ」というアヴナーの言葉が非常に印象的だった。

 ラスト近く、アヴナーが妻ダフナ(アイェレット・ゾラー)を抱くシーンは何ともやり切れない。生きながら修羅に落ち、苦悶を誤魔化すように行為に及ぶ。でも目と心は全然違う惨たらしいシーンに囚われている。ダフナが自分の手でアヴナーの目を塞ぎ、「愛してるわ」と囁く心境を考えると胸が痛くなる。
 自分の愛するパートナーがそんなに苦しんでいるのに、自分には何をしてやることも出来ない。それもまた非常なる苦しみである。暴力の連鎖がもたらすものは、そういう苦しみの拡大に他ならない。

 ラスト・シーンでワールド・トレード・センターの双子ビルが映ったことも印象的。「暴力の連鎖」に、アメリカのやられたこととやったことが含まれているのは確かだと思う。
 目を背けたくなるような映像だけれど、補うように音楽は非常に美しい。ともかく、映画館で観るべき作品である。本作品がアカデミー賞を獲るとしたら、それは皮肉なのか救いなのか、ちょっと判らなかったりする。




ナルニア国物語 第1章 ライオンと魔女(アンドリュー・アダムソン)
2005年・米 The Chronicles of Narnia: The Lion, The Witch and The Wardrobe
2006/03/08 15:50
ストーリー:1945年英国。第2次大戦の空襲が激しくなるロンドンから、ペベンシー家の4人の子供たち…ピーター(ウィリアム・モーズリー)、スーザン(アナ・ポップルウェル)、エドマンド(スキャンダー・ケインズ)、ルーシィ(ジョージー・ヘンリー)は田舎へ疎開する。疎開先のカーク教授の屋敷にはいわくありげな衣装箪笥。ある日かくれんぼの最中、衣装箪笥に隠れたルーシィは、全くの異世界へと足を踏み入れてしまう。

出演:ジョージー・ヘンリー、スキャンダー・ケインズ、ウィリアム・モーズリー、アナ・ポップルウェル、ティルダ・スウィントン


 知人が「面白くなくはなかったけど、あれは自分の『ナルニア』ではない」とコメントしていたらしいので、相当覚悟して観に行った。期待値が低かったのが良かったのか、思ったよりもずっと楽しめた。丁寧に作られた、上質のファンタジー映画と呼んで差し支えないと思う。
 ディズニー映画らしく、残酷&グロいシーンはほとんど出て来ないので、お子様連れでも安心して観られるだろう。話題性も充分だし、春休みのヒットとなるのではないだろうか。白い魔女の軍勢を、アスラン=ピーター軍の楔形陣形が迎え撃つシーンなど、絶対TV画面ではもったいない。是非映画館での鑑賞をお勧めします。

 小学校3年生の時、初めて『ナルニア国ものがたり 1 ライオンと魔女』を読んだ時の衝撃は忘れられない。没頭するあまり食事の時間にも気が付かず、呼びに来た母の姿に「きゃーっ、人間だ、どうしよう」と一瞬本気で驚いたものだ。何回も何回も読み返し、その度にアスランの犠牲と復活のシーンで心震わせた。続きがあると知った時の有頂天な気分も忘れられない。
 読み返し過ぎて表紙が取れてしまった後は、自分で小遣いをはたいて買い直した。『指輪物語』と『ゲド戦記』に並び、まさに子供時代のバイブルだった。中でも一番好きだったのが『ライオンと魔女』である。

 という訳で、誰か他人が映像化した「ナルニア」を、はいそうですかと受け入れることは到底出来ない。わたしのアタマの中にはわたしだけの「ナルニア」がしっかりあって、絵も音も匂いも手触りも完璧に揃っている。どんなに凄い映像を出されても、思い入れがあり過ぎて、到底「わたしのナルニア」には敵わない。
 その辺を自覚して観たのも良かったのだろう、冒頭に書いたように、自分でも意外なほど楽しんで観ることが出来た。ただし『ロード・オヴ・ザ・リング』3部作の時のように、「これはわたしの“あの作品”じゃないなあ」という違和感(と言うか一歩引いた感じ)を拭えないのも確かである。仕方のない話で、それは映画作品としての『ロード…』3部作や『ナルニア物語』が悪い訳ではないし、映画の作り手の責任でもない。

 原作を読まずに映画から入った子供たちが、原作の『ナルニア国ものがたり』7冊も読んでくれると良いなあ、と思う。衣装箪笥から始まって、シリーズを読み進めるに連れて判明する隣国との関係にドキドキしたり、新しいキャラたちの冒険にわくわくしたりして欲しい。あの衣装箪笥や街灯の来歴が判明した時には、伏線のハマる瞬間の「そうだったのか…!」という感動を味わって欲しい。
 そして何よりも、アスランという偉大なライオンの設定に触れて、人間以上の「大いなる存在」を意識してみて欲しい。原作者のC.S.ルイスはもちろんこれをキリスト教的世界観に擬えて書いたのだけれど、キリスト教に拘らず「神様」は居るんじゃないかと思ってみることは、全ての人にとって悪くない心境に違いない。

 「第1章」と銘打っていて、興行成績もなかなからしい所を見ると、もしかしたら本当に7冊全部を映画化する予定なのだろうか。ファンタジー的にちょっと地味な巻もあるのだが、大丈夫だろうか。…映画化されるのなら全部観るつもりだけれど。
 大人になった4兄妹がしっかり別の俳優さんたちで出て来ていた(字幕には反映されてないけど、ちゃんとお貴族言葉だったのが嬉しい)ので、『ハリー・ポッター』シリーズのように、通して全部同じ役者さんでという拘りはなくて済むのかもしれない。それならそれもアリかな、と思う。

 先入観を出来るだけ入れずに考えても、映像的にそこそこイイ線行っているのではないだろうか。美形過ぎない4兄妹はいかにも「普通の子」っぽくて良い。やや難しい役回りのエドマンドは、役柄に合った繊細さと陰りがあった。下膨れのスーザン&ルーシィも可愛い。そしてフォーンのタムナスさん(ジェームズ・マカヴォイ)があまりにもそれっぽくて素晴らしい。
 戦に赴くピーターが面頬を下ろすところなどうっかり「格好いいじゃん」と思ってしまったし、副官役のセントール・オレイアス(パトリック・ケイク)も渋かった。アスランはもうちょっと神々しく大きくしちゃっても良かっただろうかと思うけれど、声のリーアム・ニースンはなかなかだったし、キツネの声のルパート・エヴェレットも良かった。

 CGがちょっとショボかったのと、ストーリーがやや平板だったことが少々不満。逃避行シーンを削って、アスランの犠牲と復活をもっと盛り上げる訳には行かなかったのだろうか(くどいかなあ)。割れた石舞台の向こうから朝日が昇るシーンなんか引っ張り甲斐がありそうだと思うのだが。あんまり宗教臭さを出すと嫌われるのかしらん。
 あとは石舞台が小さ過ぎたこと、白い魔女ジェイディス(ティルダ・スウィントン)のイメージがあまり合ってないのが残念。わたしの脳内では、石舞台はストーン・ヘンジのような巨大な岩で出来ているのである。そしてもちろん白い魔女は「黒髪・白い肌・真っ赤な唇」でないと雰囲気が出ない。特殊メイクとか白塗りにして欲しかった。二刀流で渡り合っちゃう魔女なんてイヤだ。
 以上はあくまでも「わたしのナルニア」の拘りだけれども(汗)。

 あ、それと最後に1つ。映画版『ロード…』と比べて観るのはヤメましょう。『ロード…』がなければ『ナルニア』はもっと驚嘆を持って迎えられたハズだし、しかし『ロード…』が作られなければ『ナルニア』映画化の企画もなかっただろう。ともかく、作られた目的が全然違う作品2本を、主観的にどうこう言っても無意味だと思う(まあでも比べるなって方が無理かなあ。わたしも頭の中で比べちゃってるし…)。




リバティーン(ローレンス・ダンモア)
2005年・英 The Libertine
2006/04/11 17:25
ストーリー:1660年代、王政復古期のイギリス。恩赦により追放を解かれてロンドンに戻る2代目ロチェスター伯爵のジョン・ウィルモット(ジョニー・デップ)は、その奔放な生活と言動により、良くも悪くも人目を集める存在だった。ある日、観客のブーイングを浴びる駆け出し女優リジー・バリー(サマンサ・モートン)の中に眠れる才能を見出し、ロンドンいちの大女優に育て上げようと決意する。しかしジョンの奔放さは留まることを知らず、過激な表現による政府批判の作品をフランス大使の御前でぶち上げてしまう。そしてジョンの転落が始まった。

出演:ジョニー・デップ、サマンサ・モートン、ジョン・マルコヴィッチ、ロザムンド・パイク、トム・ホランダー


 ネズミ花火みたいな主人公だ、と思った。我が身を燃やしながら派手なパフォーマンスを繰り広げて注目を集め、最後にパンとはじけて消える。ネズミ花火を見ていると、その必死さとか、裸電球のように一種寒々しい喧しさがどうにも物悲しくなって来るけれども、そういうところも何となく似ている。
 醜悪に、露悪的に、libertine=放蕩者としての役割を一生涯演じ続けた、それがジョン・ウィルモットという人物なのだろう。本作品はキワモノ二枚目俳優ジョニー・デップの面目躍如、本領発揮な1本である。ジョニー・デップはまさに2代目ロチェスター伯爵そのものだった。演技と言い雰囲気と言い素晴らしいの一言である。

 ジョニー(紛らわしいけれど主人公の方)の魂には穴が開いていたのかもしれない。人の行動や現実に意味を感じない。だからどんなに愛されても賞賛されても足りなくて、ついつい「これでもまだ好きだと言うのか」と悪趣味な方向へ突っ走る。自分の人生にリアリティも感じないから、想像を絶する無茶ばかりする。たった1つ掴みかけた「本当に欲しいもの」も、半分くらいは彼自身のせいで、無情に手の中をすり抜けて行ってしまう。
 もうちょっと賢ければ、もうちょっと世の中と折り合う術を知っていれば、また違う結末も有り得ただろうに。あれだけの才能と美貌(ホンモノもたぶんハンサムだったに違いない)を持ちながら、ひたすら自己破滅と崩壊の道を突き進むのだ。
 周囲の人間の愛情を確かめるために悪さをするのは子供、と相場が決まっている。ジョニーの放蕩にも間違いなくそういった面があっただろう。そのツケをすべて自分自身で引き受ける不器用さというか潔さが、ガキで愚かなジョニーに、どうしようもない哀れさとシンパシーを感じる理由だったのかもしれない。

 振り回されてほとほとうんざりしながら、それでもまだ夫を愛している妻エリザベス(ロザムンド・パイク)も、物語が進むにつれてその毅然とした美しさが際立ち素晴らしかった。ズタボロで失禁さえしつつ、そんな妻の前でまだなけなしの見栄を張らずにいられないジョニーの意地にもホロリ。
 もう1人のキイとなる女性、ジョニーの見立て通り今やロンドン切っての大女優となったリジー・バリーも、その気丈さや独立心が魅力的だった。ジョニーのような男性と関わって自分を失わずに居るというのは、実は物凄く大変なことに違いない。さらりと演じてのけたサマンサ・モートンに脱帽である。

 人づてに聞いたのだが、昔お世話になった、大学最寄の教会で主任司祭をしていらしたチェレスティーノ・カヴァニヤ神父の言葉にこういうのがある。「神の存在を疑うということは、神の存在を本気で求めているということ」。物語終盤、ジョニーと(作中の)神父とのやりとりを聞きつつ、この言葉を思い出した。どうしても素直に生きられなかったジョニーが、最後に漏らした弱音だったのだろうか。
 エピローグで、それから思い返せばプロローグでも、へそ曲がりなジョニーが繰り返した言葉は、正反対の意味を持って響いて来た。どうしようもなく愚かで、だからこそどうしようもなく哀れに感じずにいられない。本当は馬鹿な男なんて嫌いなハズなんだけど。

 画面が暗くて、最初のうちは誰が誰なのか判別するのに一苦労だったけれど、とにかく映画館に観に行って良かったと思える作品だった。マイケル・ナイマンの音楽をバックに流れるエンド・クレジットを眺めながら、もう泣けて泣けて困ってしまった。これほど泣けるなんておかしい、と思いつつ涙が止まらないのである。
 動揺するあまり、劇場を出る時に手荷物を一切合財忘れて席を立ち、途中で気が付いてさらに動揺して、下りエスカレーターを逆行して駆け上る(!)という大失敗を演じてしまった。それもこれも本作品のパワーに当てられたからだと言い訳しておく(汗)。




ブロークバック・マウンテン(アン・リー)
2005年・米 Brokeback Mountain
2006/04/17 00:40
ストーリー:1963年、ワイオミング州ブロークバック・マウンテン。季節労働者として羊の放牧の管理人となったイニス(ヒース・レジャー)とジャック(ジェイク・ギレンホール)は、過酷で寂しい大自然の中で、いつしか心身ともに愛し合うようになる。山を降りた後も関係は続くが、イニスはジャックが望むように、一緒に暮らそうとは決してしなかった。

出演:ヒース・レジャー、ジェイク・ギレンホール、ミシェル・ウィリアムズ、アン・ハサウェイ、ランディ・クエイド


 不思議に余韻が残る作品だった。淡々と進むストーリーに、身を切られるような悲哀を感じることもなく、ただ振り返ると20年という時の流れがずしーんと重たい感じ。たったひと夏だけ過ごしたブロークバック・マウンテンの思い出が、時が経つに連れ、イニスの中で理想化されて行くのが遣る瀬無い。(後の「デート」はもちろんイニスにとってあの夏の追体験だろう)
 劇中で過ぎる20年の重みを感じた割に主人公2人に感情移入をあまりしなかったのは、イニスが何を考えているのか今ひとつ判らなかったためかもしれない。自分のセクシャリティを自覚しつつ、それでは社会的にやって行けないからと、表面を取り繕って暮らそうとして、でも上手く行かなくて七転八倒する、それは理解出来る。
 イニスのトラウマの原因となった事件にしても、息子の性癖に薄々勘付いていた父親が、敢えてああいった行動をしたのかもしれない。その目論見は大成功、「ゲイ・カップルは受け入れられない」という信念は、終生イニスを縛ることだろう。

 しかしその割に出来上がっちゃう時は随分お手軽だったなあとか、町に降りて来た後も比較的無用心だなあとか、何となく煮え切らない。ブロークバック・マウンテンでの生活が人肌の温もりなしにやって行けないほど厳しかったのだろうな、2人の思い出は忘れ捨てることなど出来ないほど強いものだったのだろうなと、アタマでは判るのだけれど、ハートが納得しない感じ。
 20年間、心底から思い続けたのはたった1人の男だった…と、字面はキレイなのだけれど、どうも「純愛」的なものは感じられなかった。

 60〜80年代アメリカのゲイ・バッシングの厳しさを、わたしが丸っきり知らないからだとは思う。けれど、ジャックが何度も誘っていたように、2人で牧場を経営しつつ一緒に暮らすのって、そんなに世間体が悪いものなのだろうか。ワイオミングを出て、どこか遠くの州で兄弟とか親戚とでも偽ったら、そんなに怪しまれないんじゃないか。そんな風に感じてならない。
 とすると実はイニスが恐れていたものは何か別のものだったんじゃないかと、観終わって4日目の今日、ふと思い付いた。無口で無愛想であんまり賢そうではないイニス。ジャックは比較的明るくて、イニスよりは社交的。この2人が仮に一緒に牧場経営して暮らしたとして、果たして長続きするだろうか。

 最初の別れの時、ジャックのクルマが遠ざかるや否や慟哭してしまったり、ジャックがメキシコにボーイ・ハントに行ったと聞くや逆上してしまったり、イニスの愛し方は非常にシャイで一途。もしもジャックの心が自分から離れてしまったら、イニスが本当に恐れたのはそのことだったのかもしれない。
 そう考えると、町へ降りて来ても年に数回焦らせに焦らせて逢瀬は続けたり、でも頑として一緒に暮らそうとはしなかったり、の理由が判るような気がして来る。まあ一番の理由はやっぱり「ゲイ・カップルは受け入れられない」の思い込みだったのだろうけれど。

 イニスにとって昨日の続きが今日であり、今日の続きが明日である。延々と同じような日々を繰り返す、まさに十年一日の人生。観客は娘たちの成長具合で、辛うじて劇中の時間経過を感じるくらいだから、本当に変わり映えのしない毎日が続く。その十年一日の中に、イニスの平安はあったのだろう。近くにこんな男が居たらぶっ飛ばしたくなるに違いない。
 やや安易に感じられる2人の関係の終わりも、だからひょっとしたらイニスにとっては悲劇ではなかったのかもしれない。クロゼットの中に吊るしたジャックの衣類と、ブロークバック・マウンテンの風景写真。最後の台詞の通り、ジャックは永遠にイニスのものとなった。イニスの理想郷がそこに完結した訳だ。

 きっとイニスは死ぬまでおんなじような毎日を過ごすことだろう。朝起きて、仕事に行って、帰って来て、クロゼットを開けて、そして眠る。ほんのり哀しいような、でもそれなりに平穏な心を抱えて。一皮剥いた下には底知れない虚無があるのだろうけれど。
 そんな訳で、わたしにはどうしてもイニスは好きになれないまま、やっぱり振り返るのは20年という時の重みである。130分を越える上映時間だし、ストーリーも比較的淡々としていてドラマ性は薄いのだけれど、長いと感じさせずに描き切るアン・リー監督の力量は素晴らしい。「理想郷」ブロークバック・マウンテンの美しい風景と、控え目ながら印象的なBGMも良かった。画面いっぱいの羊の群れのシーンは壮観だったので、可能ならば映画館で観るべき作品である。




ナイト・ウォッチ(ティムール・ベクマンベトフ)
2004年・露 NOCHNOI DOZOR
2006/04/26 23:34
ストーリー:太古の昔、世界は「光」と「闇」の両勢力に別れ、熾烈な覇権争いを繰り広げて来た。共倒れの懸念から両陣営は協定を結び、お互いを監督しつつ共存すると決める。「闇」を統べる者たちを見張る「光」の者は「ナイト・ウォッチ」と呼ばれ、その逆は「デイ・ウォッチ」と呼ばれた。微妙なバランスの上に成り立つ世界の秩序だったが、崩壊の兆しが現れる。古の予言に言われる「偉大なる異種」とは誰か。またその人物は「光」と「闇」のどちらを選ぶのか?

出演:コンスタンチン・ハベンスキー、ディマ・マルティノフ、マリア・ポロシナ、ガリーナ・チューニナ、ヴィクトル・ヴェルズビツキー


 「光」と「闇」の対立と言うと、先入観として「光=善玉」で「闇=悪玉」みたいな思い込みがあるのだが、この世界だと両方とも「人間とは違うもの」として「異種」と呼ばれている。両者は常に敵対しているのかと思えばそうでもなくて、例えばふとした事件がきっかけで「異種」として目覚めた主人公のアントン(コンスタンチン・ハベンスキー)のアパートの向かいに住むのは「闇」の者で、2人は服だのモノだのの貸し借りをしたりと結構仲良しである。
 善悪二元論じゃないというか、ハッキリ言って「光」も「闇」も何やら胡散臭い。どうやら「闇」の手の者はヴァンパイアということになっているらしいのだが、「光」の者も、能力をフルに発揮するためには血を飲まなきゃいけなかったりして、ひたすら怪しい。印象的には、オカルト系ロシアン・マフィア同士の抗争(サイコ・ウォーズ付き)、みたいな感じ。

 元々3部作の第1作目ということもあってか、ストーリーは今ひとつ判りにくく、ロシア映画だけあって映像は地味で暗く、アントンたち「光」の者たちもどことなく貧乏臭くて華がない。とは言え、これが妙にわたしのツボにはフィットしたのだった。
 コスチュームとか小道具とか、モロに『マトリックス』シリーズを意識しているのだが、物真似ではなくてきちんと消化されている。怪しさ加減が、暗くてジメジメのモスクワの夜景に実にマッチしていてイイ感じ。何より、「ロシア映画これから頑張っちゃいますYO!」というエネルギーのようなものが映像から漂って来てわくわくする。

 帰宅後パンフレットを読んでみたら、「光」の者たちの地味さ加減は意図的なものらしかった。監督のイメージでは「光の者=責任」を、「闇の者=自由」を表すのだそうだ。納得。災いを呼ぶ聖処女・スヴェトリャーナ(マリア・ポロシナ)なんか、「通りを歩いている普通のロシア娘」というイメージだという。その辺のファンタジーとリアリティの絶妙なバランスがまた、良い意味で居心地悪くてイイのである。
 一方「闇」の者は怪しさも個性も爆発的でこれまた良い。特に「闇」のリーダーのザヴロン(ヴィクトル・ヴェルズビツキー)には惚れ惚れする。『ブレードランナー』のルトガー・ハウアーを彷彿とさせる「イッちゃった」目付き、矢鱈に挑発的なその態度などなど。わたしはザヴロンを観たいというそれだけのために、次作『デイ・ウォッチ』も観ることになるだろう(汗)。

 入念に張られた伏線が、ラストでハマって来る辺りもなかなか良く考えられている。もう1人のキイ・パーソンとなるイゴール(ディマ・マルティノフ)も生意気でいたいけで可愛らしく、『デイ・ウォッチ』ではどういう風に出て来るのか期待が募る。
 ロシア語の響きもエキゾティックな異色ダーク・ファンタジー、観る人を選ぶ面は否定出来ないけれど、ハマった人なら非常に楽しめることだろう。頼むから第2作第3作も、きちんと劇場公開してくれますように(祈)。




立喰師列伝(押井守)
2006年・日
2006/04/28 23:36
ストーリー:第二次大戦直後の東京。闇市にある閉店間近な立喰い蕎麦屋に、1人の老人が現れた。銀髪を靡かせて月見蕎麦の「景色」を語る老人…「月見の銀二(吉祥寺怪人)」。時代は下って1960年代の東京。日米安保条約で荒れる永田町の立喰い蕎麦屋に、1人の美女が現れた。彼女は「ケツネコロッケのお銀(兵藤まこ)」。さらに時代は下っても、1杯の蕎麦や牛丼やカレー、1個のハンバーガー、1本のフランクフルトを得るために全知全能を傾けるゴト師は滅びることはない。彼らこそ「立喰師」…立喰いのプロであった。

出演:吉祥寺怪人、兵藤まこ、石川光久、鈴木敏夫、樋口真嗣、川井憲次


 戦後とか安保闘争とか高度経済成長期とか、押井監督のキイ・ワード満載な本作品。ともかく「異色」である。抑えた色調の、ちょっと滲んだ映像は、スーパーライヴメーションと呼ばれる手法によるものらしい。一言で説明すれば実写写真を素材とした超高度なパタパタ・アニメである。役者さんや小道具、背景などをそれぞれ撮影し、切り出して軸を付け、3D空間上に配置して動かす。
 モーフィング(変形)やストップ・モーションなど、デフォルメの効いた演出はまさにドタバタ・コメディなのだが、全体的には不思議と静けさというか内省的な印象を受けた。夢の中でもがいているようなアヤフヤさ、確実に捉えられそうで捉えられないもどかしさがあって、なかなか魅力的だった。

 そこに加わるのが押井監督一流の薀蓄満載の長台詞。しかも前半は「偽昭和戦後史」と言うことで、立喰師たちをポイントとして時代時代の解説が延々と繰り広げられる。嘘っぱちの歴史もあるけれど、中には本当に起こったことも混じっていたりして、虚々実々の混沌に翻弄された。白状すると、前半の最後の方はちょっぴり気が遠くなりそうだったけれど(汗)。
 次から次へと出て来る引用とか人名など、詳しく知っていたら前半でももっと笑えたのかもしれない。帰宅後パンフレットを眺めながら、己の無知をひとしきり悔やんだのであった。

 後半は、これまた押井監督のキイ・ワードの1つである「戦争」である。それは戦後の高度経済成長を象徴するファストフード業界と、対するテロ集団(?)たる立喰師たちの熾烈な戦いで、わたし個人はこっちの方が断然面白かった。俄然緊張感を増すBGMはもちろん川井憲次氏(作中では「ハンバーガーの哲」役もこなしている)。
 圧巻はやっぱり牛丼チェーンおよびロッテリアでの戦いだろう。ロッテリアの方は昔懐かしいやぎざわ梨穂さんの『戦場で…!?』を彷彿とさせる、馬鹿馬鹿しいながらもリアルなバトルだった(笑)。その他、ディズニーランドやら「インド人もびっくり」やら、もう何でもアリで場内爆笑。2つ離れた右隣に座っていたお兄さんが大受けしていたので、わたしも心置きなく爆笑することが出来たのだった。

 そんな調子で、最初から最後まで「押井流」の大きなスタンプが押してある。ダメな人は徹底的にダメだろうが、好きな人は何度も観に行きたくなる危ない作品である。実写とアニメ、ドキュメンタリーとファンタジーの狭間を自在に行き来する映像世界は必見。
 ただしパンフレット一部1000円はちと高かった…。




Vフォー・ヴェンデッタ(ジェイムズ・マクティーヴ)
2005年・英独 V for vendetta
2006/05/04 23:41
ストーリー:第3次大戦後、アメリカは植民地となり、アダム・サトラー総議長(ジョン・ハート)が君臨する独裁国家と化した近未来のイギリスが舞台。世論は操作され、当局による盗聴や監視がおおっぴらに行なわれていた。極秘の人体実験により超人的な能力を身に着けた“V”(ヒューゴ・ウィーヴィング)は、自らを生み出した者たちへの復讐と、ファシズム国家の転覆を図るテロリスト。テレビ局に勤めるイヴィー・ハモンド(ナタリー・ポートマン)は、ふとしたことが切っ掛けで、“V”の活動に巻き込まれる。

出演:ヒューゴ・ウィーヴィング、ナタリー・ポートマン、スティーヴン・レイ、ジョン・ハート、スティーヴン・フライ


 予想外の大ヒット。予告編を観た時は「どうせ派手派手アクションとギミックが売りのアクション映画だろう。笑いどころを探すために観る、かな」と思い込んでいたのだが、それは良い方向へ裏切られた。テーマもストーリーも在り来たりと言えば言えるけれど、鑑賞後に腹の底から希望が沸き上がって来るような、狂った世の中でも最後はきっと大丈夫と思えるような、頼もしいパワーに溢れている。
 ちょっと単純かもしれないが、わたしはラスト近く、無数のアノニマスたちが沈黙したまま整然と集合し、広場を埋め尽くすシーンで思わずじーんとしてしまったのだった(汗)。

 良く考えれば「そんな馬鹿な」な展開とか、説明不足な部分とか、いかにも「原作はコミック」的なぶっ飛び方はしているものの、パワーと勢いでそういう辺りを気にせずに済む。代わりに、いちいち魅力的な“V”のキャラクターや、イヴィーの翳と可憐さと頼もしい成長っぷり、迸るメッセージ性などにのめり込んで132分間を駆け抜けることが出来るだろう。
 ここぞというところで出て来る「罪ある者を見たくば鏡を見よ」とか、「民衆が政府を恐れるのではなく、政府が民衆を恐れるべきなのだ」などの名台詞も非常に効いている。いつもだったら、こんなにストレートな表現には反射的に「わざとらしさ」とか「作り事臭さ」を感じてしまうのだが。

 何よりも素晴らしいのは、“V”を演じたヒューゴ・ウィーヴィングの名演技。ガイ・フォークスのマスクはとうとう1度も外さないまま、声音と身体と雰囲気だけであれだけの感情表現をやってのける力には舌を巻く。頭にはつばの広い帽子を被り、さらにワンレンのウィッグを着け、黒尽くめの服装に手袋まで嵌めている。素肌が見える場所はどこにもない。この状態で、復讐心と使命感、イヴィーに対する揺れる想いまでがびしびし伝わって来るのだ。
 傷心の少女時代を過ごしたOLから「革命の母」へと成長するイヴィーを演じたナタリー・ポートマンも素晴らしいし、複雑な事情をおちゃらけで包み隠しているゴードン・ディートリッヒ(スティーヴン・フライ)や、政府高官でありながら真実を追究せずにいられないフィンチ警視(スティーヴン・レイ)も忘れ難い印象を残した。

 さらに、文学的、文化的あるいは音楽的な薀蓄が密かに満載なのも魅力的。クライマックスで流れるチャイコフスキーの大序曲「1812年」は、この映画のために作られたように思えるほど効果的に使われている。出だしが流れたところでもう「キターーー!」という高揚した気分になれること請け合いである。
 『岩窟王』のメルセデス、イヴィーが好きな曲「Cry Me A River」、『1984年』や『未来世紀ブラジル』を彷彿とさせる設定や小道具、『モンティ・パイソン』や『マクベス』や『十二夜』などなど。そういえば“V”が最初にイヴィーと会った夜の自己紹介も非常に凝っていて、“V”の知的レヴェルを垣間見る仕掛けになっていたっけ。

 我ながら驚くほどハマってしまい、2度観て「まだ観たい」と考えているほどである。反骨精神というか、イメージ的に「英国的精神」とでも呼べるもの(作中ではどうもイングランド限定で纏まっている感じだけれど)、そういうものに惹かれたのかもしれない。
 2度目の鑑賞時、何かの予告編で「地球人は優秀だから、優れた指導者さえ居れば素晴らしい世界を築ける(大意)」というフレーズが登場した。個人的に、こういう発想は寒気がするほど嫌いである。その対極にあるものが本作品、自由と責任についてエンターテインメントの手法で見事に語る、訳判らないけど勢いがあって不思議と胸に迫る野心作である。騙されたと思って映画館へ行くべし♪




LIMIT OF LOVE 海猿(羽住英一郎)
2006年・日
2006/05/10 17:39
ストーリー:鹿児島第十管区所属の海上保安官・仙崎大輔(伊藤英明)は、潜水士として海難救助任務に当たっていた。遠距離恋愛中の伊沢環菜(加藤あい)とは婚約しているものの、心に仕事上のわだかまりを抱え、結婚への最後の一歩が踏み出せない。不安に陥る環菜。そんな時、鹿児島港沖3kmで大型フェリー・くろーばー号座礁の一報が入り、仙崎たちは乗客620名の救出任務に出動する。そしてその船には、偶然、環菜も乗り合わせていた。

出演:伊藤英明、加藤あい、佐藤隆太、大塚寧々、吹越満


 2004年の前作も、2005年のTVシリーズも、まったく観ていないままの鑑賞。もしかしたら訳が判らないのではないかとの心配は杞憂で、良く練られた脚本の過不足ない背景描写ですんなりと設定を呑み込むことが出来た。本作単独でも充分楽しめるけれど、前作やTVシリーズを観ていたらもっと面白かったかもしれない。観たい…と突き上げる衝動の激しさが、本作の完成度を物語るだろう。
 『海猿』効果で海上保安官志望の若者が急増し、海上保安庁は大喜びしているらしい。こういう映画を観て「よし俺も!」と思う若い男性がそんなに沢山いらっしゃるということに、一抹の苦笑気分と共に、清々しい頼もしさを覚えた。確かに本作には、目指すべき「男の姿」のスタンダードが描かれている。スポ根が決して嫌いでないわたしとしてはうっかり惚れそうである。

 ストーリーは徹頭徹尾お約束通り。大型フェリーの座礁で危機に晒される620名の乗客たち。積載されている車両のガソリンに引火したら、浸水だけでなく、火災の危険性も増す。一刻を争う状況下、混乱する船内でふとすれ違う恋人たち。「必ずまた会えるよね」と交わされる約束。思い掛けない急展開。辛い決断を迫られる上司たち。「俺たちバディだろ」。そして決死の脱出劇。
 特に最後の方では「それは幾ら何でも出来過ぎでは」と思う部分もないではないものの、やはりラストはああでないと、鑑賞後のあの気持ち良さには繋がらないので良しとしたい。どこからどこまで「ほら泣けそら泣け」なシーンてんこ盛りで、わたしは他愛なく号泣してしまった。それでも「不本意にも泣かされた」という気分にはならないのでこれも良しとしたい(照)。

 要救護者の本間恵(大塚寧々)が、気丈さとパニックの間を行き来する心境も説得力があったし、何より最初は「良くありがちな我が侭トラブル・メイカー」かと思った蛯原真一(吹越満)の、次第に明らかになる複雑な事情と心境の描き方も良い。吉岡潜水士(佐藤隆太)とラスト・シーンで交わす会話には思わず笑ってしまった。仙崎のかつての上司であり、今回の事件で救難専門官として霞ヶ関から派遣されて来る下川いわお(時任三郎)も存在感あり。自由自在に動く左右の眉毛に感心していたら、ちゃんとエンディングでも披露されていた(笑)。
 何より、海上保安庁の全面協力の下、怒涛のように出て来る船とヘリコプターと潜水士たちの映像が素晴らしい。海難救助員たちの熱い絆とか、断腸の思いで残していく空気のボンベとか、腕力だけでロープを滑り降りる格好良さとか、最前線はこうもあろうという迫力満点。微塵も嘘臭さを感じなかったのは、鍛え上げられた大輔君の肉体の賜物だろう。音楽も良かった…♪

 という訳で、海難パニックものとラヴ・ストーリーとスポ根ものの、それぞれ良いところが上手にミックスされた、大変良く出来たスペクタクル巨編である。美味しゅうございました。
 強いて難癖を付けるとすると、たまたま乗り合わせた女性レポーターさんは必要だったのかとか、「報道やってて良かった…」の台詞は臭過ぎるから止して欲しかったとか、そういった重箱の隅の細かい部分。環菜ちゃんの悲鳴や、不安のためにいつも半開きの唇よりも、同僚潜水士たちの「潜水許可を願います」コールの方により感動が迫ったのは、これは大輔君と環菜ちゃんの過去の物語を知らないせいだろう。後は、「一緒に空を見よう」の空を、きちんと映して欲しかったかなあ、という点だろうか。
 迫り来る水と炎、これでもかと襲い来る危機、TV画面では絶対に勿体無い。大切な人と映画館へ急ぐべし♪




ナイロビの蜂(フェルナンド・メイレレス)
2005年・英独 The Constant Gardener
2006/05/19 22:50
ストーリー:英国外務省一等書記官のジャスティン・クエイル(レイフ・ファインズ)は妻テッサ(レイチェル・ワイズ)と共にケニアのナイロビに赴任中。二世外交官で、どちらかと言うと事なかれ主義なジャスティンと違い、妻のテッサは人権問題などにも敏感でパワフルな活動家。ある時活動家仲間のアーノルド・ブルーム(ユベール・クンデ)と共にロキに行ったテッサは、数日後、変わり果てた姿で発見された。警察は強盗に遭ったと片付けるが、腑に落ちないジャスティンは、独自に真相を探り始める。

出演:レイフ・ファインズ、レイチェル・ワイズ、ダニー・ヒューストン、ユベール・クンデ、ビル・ナイ


 搾取の上の繁栄。鑑賞後にはそんな言葉がぐるぐるとアタマの中を回って止まらなかった。映画館を出た後も、アイス・クリーム屋に並んでいる自分を省みて「呑気な日本人でスミマセン」と落ち込んでしまう。現実世界にも、この作品に描かれているような状況がきっとあるのだろう。途中に出て来た「African guinea pig」という言葉が非常に印象的である。
 重たくてショッキングなテーマを、抑制された演技で雄弁に語っている。ストーリーとしても派手なところはあまりなく、むしろどこかドキュメンタリー風に淡々と描いているのだが、それがまた説得力を増している印象だった。フラミンゴが舞い飛ぶ湖、延々と続くスラム、アフリカが持つ陰陽両面を、努めて中立的な立場でただ目の前に差し出す。非常にけれん味のない演出である。

 愛する妻が「不実な女」の汚名を着せられたことに納得行かず、1枚のカードに不審の念を抱いて調査を始めるジャスティンの心の移り変わりの描き方が自然で良い。テッサが独身時代に住んでいたチェルシーの家で慟哭するシーンとか、しばしば挿入される回想シーンの幸せな様子から、ジャスティンが妻をどれだけ深く愛していたかということは見て取れる。
 テッサが自分の活動についてジャスティンに何も語らなかった理由は「巻き込みたくなかったから」であり、ストーリーが進むにつれ、その配慮は正しかったのだな、と言うことも判って来る。とは言え、テッサの方がジャスティンをそれほど愛していたかどうか、観ているわたしには今一つピンと来なかった。何と言うか導入部、ジャスティンの人脈を利用するために、そしてアフリカに来るために結婚したように見えてしまったのだ。この辺、原作を読めば掘り下げて書いてあるのかもしれないが。

 「仕事と僕とどっちが大切なんだ?」とか「夫婦の間に隠し事があるなんておかしい」などと言う紋切り型はもちろん出て来ないのだが、それにしてもテッサに取って一番重要なのはやっぱり社会運動だったのではあるまいか。仮に重要度はどっちが上と決められなくても、少なくともテッサは、夫への愛情と、自分の社会的使命とを別個のものとして割り切るドライさを持っていた。
 そんな風に思ってしまうと、身の危険に晒されつつ調査を続け、妻への理解と愛情をさらに深めて行くジャスティンが、どうにも哀れに見えて来る。テッサがジャスティンに望んでいたことは、自分への愛情に殉ずることではなかったハズなのだから。という訳で、本作品の「ラヴ・ストーリー」的側面には、どうも今一つのめり込めなかった。男性だったら感情移入しまくりかもしれないけれど。

 陰謀が暴かれる過程についてもちょっとハテナなところは拭い切れない感じ。最初の殺人は「事件」で済むとしても、その調査に当たるジャスティンが早々と狙われたりするのでは、ラウド・スピーカーで「裏には何かありますよ」と宣伝しているようなものではないか。その一方で重要な証人は野放し。そもそも良く考えると、途中から、ジャスティンを「消す」必要性は事実上なくなっているような。
 どちらかと言うとスキャンダルを自ら倍増しにしてしまっているようで、事件の黒幕がどういうつもりだったのかサッパリ判らない。「巨悪」の真意がハテナなものだから、それに立ち向かうジャスティンの行動も、何となくドン・キホーテ的に見えて来る。主人公なのに本当に気の毒である。演技としては文句ナシだっただけに哀れさもひとしお…などと思ってしまうのは、わたしの心が穢れているからなのだろうか。

 夫婦愛とか陰謀とかに感情移入出来なくても、ただアフリカの映像が全てを語っている、わたしに取って本作品はそんな1本だった。何よりも印象的だったのは、赤ん坊を抱いたキオコ少年とその母親を車で送ってやりたいと言ったテッサにジャスティンが返した言葉が、部族民の襲撃から逃げるセスナの中で、ジャスティン本人に帰って来るシーン。自分の呑気さと無力さを痛感しつつ、やっぱり現実に何も出来ない不甲斐なさは堪らない。
 この作品を観ただけで「アフリカの現状」を理解したつもりになってはもちろんいけないが、それでもやっぱり、観ておいた方が良い1本かなあ、と思う。そして『ナイロビの蜂』という邦題は非常に暗示的で良かったな、とも思う。原題直訳の「誠実な園芸家」の方が、ジャスティンその人に焦点を当ててはいるのだが。
 ともあれケニア・ロケのシーンは非常に美しいし、アフリカン・ミュージックも効果的。可能ならば大画面の迫力を味わうべきだろう。




ダ・ヴィンチ・コード(ロン・ハワード)
2006年・米 The Da Vinci Code
2006/05/23 16:54
ストーリー:夜のルーヴル美術館で、館長のジャック・ソニエール(ジャン=ピエール・マリエール)が殺された。遺体は何かを象徴した異様な姿をしており、フランス司法警察のベズ・ファーシュ(ジャン・レノ)は、講演のためにパリ滞在中のハーヴァード大学教授ロバート・ラングドン(トム・ハンクス)に協力を依頼する。ラングドンは暗号解読官ソフィー・ヌヴー(オドレイ・トトゥ)と共に謎の解明に当たる。

出演:トム・ハンクス、オドレイ・トトゥ、イアン・マッケラン、ジャン・レノ、ポール・ベタニー


 2時間半が終わった後、ぐったり草臥れて「ああやっと帰れる」と思ってしまった。こんなことも久し振りである。何が哀しいって全てが中途半端な点。思わず惹き込まれて夢中で観た訳でもなく、「がはははは、バカだこの映画」とトンデモとして楽しめた訳でもない。ハラハラドキドキするでもなく謎解きの快感もなく、ヒューマン・ドラマでホロリとすることもない。
 カンヌ映画祭のオープニングで失笑が漏れたと聞くけれどそこまで駄作でもなく、その後報じられた「スタンディング・オベイションで称えられました」というニュースに見合うほど出来が良い訳でもない。

 原作未読、でも前以て幾つか特集番組を観て予備知識は一応仕入れておきました、という母は「それなりに面白かった」そうなので、観るならそういう方針が良いかもしれない。「あんたはカトリックだから、こういう作品は受け入れられないのかしら」とは母の談だが、そーゆーんじゃなくて、作品として可もなく不可もなく、フツーにつまらなかった。期待しないでおこうとしたのだけど、まだ覚悟が足りなかったのだろうか。
 ルーヴル美術館とか、ウェストミンスター寺院とか、折角ホンモノでロケしたのならもうちょっと見栄え良く映して欲しかった。そうかと思うと最後の見所ロスリン礼拝堂はピンチ・ヒッター(多分)で、しかも内部の「秘密」があまりにチャチく描かれている。「何千年も昔からの書類」がその扱い? 歴代総長コーナーはさらに脱力モノ。まあ、ホンモノのロスリン礼拝堂は崩壊寸前でロケどころではないだろうが、それにしても、カメラ・ワークや美術方面、もっと何とかならなかったのだろうか。

 原作はアトバシュ暗号やアナグラム、鏡文字などの謎解きを1つ1つ丹念に解き明かして行く過程に重点が置かれ、1つ解読したと思ったらまたその次が…と、次第に核心に迫る手応えを感じつつのスリルを味わうことが出来た。わたし個人としては、この謎解きのワクワク感こそが『ダ・ヴィンチ・コード』の醍醐味であり、最大の魅力だった。残念ながら映画版では、その謎解きのスリルはほとんど失われている。
 映像で言葉遊び的な謎解きを表現するのは難しかろうが、それにしても端折り過ぎである。特に鏡文字の謎解きはなぜあんな風にしてしまったのだろう。原作では専門家2人がお手上げだったものを、ソニエールの習慣を良く知るソフィーがたちどころに見破るシーンである。今は絶縁しているけれど、祖父と孫娘とのかつての親密さを示す良いエピソードだったのだが。

 アクションとしても観るべきシーンはあんまりないし、オプス・デイや「影の評議会」やヴァティカンやらの入り乱れる思惑がどうなっているのか、原作を読んでいてさえ今一つ判り難く、サスペンスとしての魅力も落第点。主要キャラたちそれぞれが背負っている過去やらトラウマも、描き込みが足りないものだから全然伝わって来ない。シラス(ポール・ベタニー)なんてあれじゃ単なる変態である。
 ヴァティカンがクレームを付けたとか、フィリピンでは成人指定になったとか、そういうことさえもPRとして上手く利用した感じ。アメリカ映画の常なのか、必要以上に宗教とか信仰とかを仰々しく神秘的でアヤシイものだと扱い過ぎ。ヴァティカンの「常識」も、これまでに色々変わっていたりと結構フレキシブルだったのではないのだろうか。キリスト教に馴染みのない日本人だから判らないのかもしれないけれど。
 最後に取って付けたように「何を信じるかが問題なのだ」って言われてもねえ…。

 そんな訳で、「はあ〜宣伝ってこうやるものなのねえ」ということだけが印象に残った不思議な後味となった。2時間半、ただひたすら淡々と冒険と謎解きを並べ、メリハリに欠けたのが致命的。札びらで頬っぺた引っ叩いて無理を通すリー・ティーヴィング(イアン・マッケラン)が、最後に喚き散らしてその妄執の程を示すシーンと、オドレイ・トトゥが「不思議少女」じゃなかった点の2つが個人的な注目点。
 ともあれこの後味、やっぱりなあ、と、心のどこかで納得している自分が居るのが一番悔しかったりする。




明日の記憶(堤幸彦)
2006年・日
2006/06/09 18:26
ストーリー:広告代理店でやり手部長として精力的に働く佐伯雅行(渡辺謙)は、身体の不調に悩んでいた。それは次第に身体だけではなく記憶をも蝕み、あちこちで不手際を仕出かすまでになる。妻・枝実子(樋口可南子)に勧められてしぶしぶ病院に行った彼に告げられた病名は「若年性アルツハイマー病」。絶望しつつ、彼は精一杯に日々を送ろうとするのだが…。

出演:渡辺謙、樋口可南子、吹石一恵、大滝秀治、及川光博


 これほど「泣かされた」映画も久し振りである。主人公が病院の階段で座り込むところへ妻の枝実子が「あたしがずっと傍に居ますから」と告げるシーンとか、担当の吉田医師(及川光博)が必死の説得をするところとか、一人娘の梨恵(吹石一恵)の結婚式のスピーチとか、部下たちがくれるポラロイド写真とメッセージとか。
 途中まではそんな風に、この調子で泣いてたら鑑賞後は酷い顔になるだろうなとアタマの何処かで心配するくらい涙ボロボロだったのに、どうしてか、後半はそれほどでもなかった。というか、個人的な好みからすると、後半はなくても良かったのではないかとさえ思ってしまった。

 それどころか、帰宅して余韻を反芻すると「泣ける映画だったけれど、不本意に泣かされた気分も大きいかも…?」という気分がムクムクと。後半部分が冗長に感じたから不完全燃焼を起こしてしまったのかもしれないが、心のどこか片隅に、この題材、このストーリー、この役者陣だったら「泣かされて」当然だし、本当ならもっとインパクトのある作品に仕上がったのではないか、と思う気持ちがあるのも否めない。誰にでも起こり得る不治の病という設定に寄り掛かる、言葉は悪いが一種「あざとさ」を感じてしまった。
 鑑賞後しばらく時間を置いてみたのだが、やっぱりそういう「納得し難い」気持ちが拭えない。巷は絶賛レヴューで溢れているようなので、もしかしたら自分はとんでもない冷血漢なのだろうかと心配になったりしている(汗)。

 個人的な印象としては、本作品のクライマックスはどう見ても「結婚式のスピーチ」から「部下たちのポラロイド写真」の辺りで、そこから先はいわばほとんど後日譚である。病気と闘う主人公にしてみれば、そこからが本当の物語の始まりなのだろうけれど、惜しむらくは画面からそういう切迫感とか悲壮感が漂って来ない。いつのことかは不明だけれど、確実に負けると判っている戦いを、主人公がどういう気持ちで闘っているのかが伝わって来ないのだ。
 施設の見学に行くシーン、慟哭するシーン、焼成代を二重取りされて傷付くシーン…。画面には淡々とそういう「哀しい」シーンが登場するけれど、それはあくまでも観察者から見た佐伯である。画面からは佐伯の苦悩よりもむしろ、佐伯を支えつつ必死で家計を維持しようと頑張る枝実子の姿が、ついには病に敗れる夫を見届ける妻の苦悩が、より心に迫って来た。それはそれで感動的なのだが、どうも途中から物語が変わっちゃった気分が拭えないのである。

 やっぱり「部下たちのポラロイド写真」から後をもうちょっと短くした方が良かったような気がする。佐伯が「これはどうしても忘れたくない名前なんです」とカップに名前を彫るシーンは印象的なので、早目にそこへ繋いで一気にオープニングに戻してしまってもスッキリしたように思う。そのラスト・シーンからオープニングまで、佐伯と枝実子が2人で一生懸命頑張る過程は、観客にだって容易に察することが出来るだろうし。
 もう1つ惜しいなあと思ったのは、佐伯が「必ず毎日書くこと」と自らに課した日記が、いつの間にかストーリーから消えてしまったこと。頼り過ぎると説明調に堕ちるし、うっかりすると『アルジャーノンに花束を』のように仕上がってしまうが、「主人公は佐伯」というポイントを強調するには良い設定だったろう。

 つまらなかった訳では決してない。題材も役者さんも素晴らしかった。自分の愛する者をもしこんな運命が襲ったらと思うと、それだけでうるうるしてしまう人だって多かろう。だからこそ安心せずに、今一歩の洗練を目指して欲しかったような印象を受けた。とは言え、佐伯夫妻の歳に近付いてから観たら、もっと胸に迫るのかもしれないなあという気もする。難しい後味である。




ポセイドン(ウォルフガング・ペーターゼン)
2006年・米 POSEIDON
2006/06/14 15:21
ストーリー:大晦日、大西洋を航海中の豪華客船「ポセイドン」は、突如として発生した巨大高波「Rogue Wave」によって転覆してしまう。船内に残された多くの人々はホールに集まって救助を待つが、プロ・ギャンブラーのディラン(ジョシュ・ルーカス)を始めとする1グループは、救助が来るまでに沈没するだろうと判断、別行動で脱出を試みる。

出演:カート・ラッセル、ジョシュ・ルーカス、ジャシンダ・バレット、リチャード・ドレイファス、エミー・ロッサム


 ええと(汗)。つまらなかった訳では、決して、ない。ストーリーをあらかた知っているからラストも想像出来るのに、やっぱり各シーンでは手に汗握ったり、深呼吸して息を止めたりしてしまった。心拍数も相当上がっただろうと思う。とは言え、オリジナルと比べて一番物足りなかったのは、別行動グループの面子が揃ったほとんどその瞬間に「誰々が死ぬか」が判っちゃうところ。つまりそれだけキャラ設定がいい加減で深みがない。
 それと、折角の「転覆してすべてが逆さまになっちゃった豪華客船」の設定を活かし切れていない点。メチャクチャになった船内をしつこく演出するとああなるのか、と思うけれど、観ていて天地が逆になっているような印象があまりない。ほぼ『Limit of Love 海猿』と同じにただ散らかってるだけである(汗)。

 『ポセイドン・アドヴェンチャー』を観たのは遥か昔の話なので、実はストーリーの詳細とか細かい映像とかはあまり覚えていない。しかし子供心に強烈だったのは、引っ繰り返った船内の異様さとか、まさかと思った登場人物が死んでしまうショックとか、時には止むを得ず協力し合い、時には醜くいがみ合い、葛藤しながら船尾(船首だっけ?)を目指すグループ一行の人間ドラマだった。
 こうやって書き出してみると、オリジナルに感じた魅力のほとんどを、本作はどこかに振り捨てて来ているのかもしれない。何よりも、牧師なのに今一つ「弱い自己を神に委ねることの意味」を理解出来ていなくて、最後の最後にやっと「弱さ」というものを納得したオリジナル主人公のような存在が本作にはなかったのが致命的。子供の時はそこまで判んないで観たけれど。

 まさかそんな都合の良い…と言う設定がボコボコ出て来るのも、最後の方になると笑ってしまうレヴェルだった。それは例えばオリジナルの『ポセイドン・アドヴェンチャー』もそうだったのだろうし、先日観て面白かった『Limit of Love 海猿』も同様なのだけれど、本作品での説得力が一段と乏しく感じたのは何故だろう。元市長が元消防士程度ならまだしも、ディランは実は昔は潜水艦乗りでしたとか、恋に破れて自殺志望のネルソン(リチャード・ドレイファス)が船の設計士だったとか、果ては救命ボートとか。
 そもそも巨大客船が天地引っ繰り返るのも、オリジナルでは「船の設計ミスで重心が高くなっていたから」と言う人災的要素があったような気がするのだが、これは同時期に観た『タワーリング・インフェルノ』と混同しているのかもしれない。

 お誂え向きに行き詰る大ピンチも、ここぞと言う所で何故お前は単独行動を取るよと呆れ返るコナー少年(ジミー・ベネット)も、あまりにも予想通りの方向に解決してしまうのでスリルと呼ぶにはインパクトが弱い。総じて、終盤に向かえば向かうほど、予定調和クサさを感じて「引く」気分に陥った。どうにも淡々と優等生的に、転覆〜決死の四苦八苦〜脱出をなぞっているだけに見えて来るのである。
 最大の萎えポイントは、父と不良娘とその恋人の組み合わせからイヤな予感がしていたのに、モロにそのまんまなオチを付けられた「クライマックス」。娘のシアワセの為ならば、パパ例え火の中水の中飛び込んじゃうぞってのはもう食傷である(汗)。誰一人として感情移入出来るキャラが居ないのも痛い。

 アメリカでは大コケしているらしいが、さもありなん。オリジナルと比べるのはとんでもなく申し訳ないし、個人的シュミからすると『Limit of Love 海猿』の方がずっとすっきり爽やかカタルシスだった。
 ただし繰り返しになるけれど、景気良く爆発しまくる炎とか、容赦なく迫り来る水とか、テンポが良くてハラハラドキドキな感じは味わえるので、アタマ空っぽにして観れば充分楽しめると思う。ドラマを期待するのではなく、あくまでもアクションと映像を見所にすべきだろう。故に、DVDを家庭のTV画面で観るのではほぼ無意味。出来るだけ大きいスクリーンと高性能音響設備のある映画館を選ぶのが吉。そういえば品川IMAXでやってるっけね。




デスノート 前編(金子修介)
2006年・日 DEATH NOTE
2006/06/16 18:00
ストーリー:在学中に司法試験一発合格する程の優秀な法学部学生・夜神月(藤原竜也)は、将来は警察庁長官と囁かれるエリート。しかしある夜、彼は法律の及ばないところで犯罪者がのうのうと生き永らえている現状を目撃し、法による正義に疑問を感じるようになる。そんな時拾った1冊の黒いノートは、表紙に「DEATH NOTE」と書かれていた。最初のページにある説明によれば、このノートに名前を書かれた者は必ず命を落とすとのことだった。

出演:藤原竜也、松山ケンイチ、瀬戸朝香、香椎由宇、鹿賀丈史


 主人公の名前が「夜神月」と書いて「やがみらいと」と読む、と言う辺りで既に個人的にはギリギリ追い詰められてる感じだけど、百歩譲って不問にしても良い。キラ様信者たちが典型的過ぎて気色悪いとか、殺人犯が心神耗弱で不起訴になっても野放しは無理があり過ぎないか? とか、そもそも凶悪事件多過ぎやろとか、FBIショボっとか、その辺の突っ込み所も満載だけどまあ目を瞑れる。だって原作がそうなってるのかもしれないんだし。
 ただ、原作はその辺を「ちょっと無理はあるけれど読ませる」構成にしていただろうのに(でなければこんなに人気は出ないと思うので)、本作には、多少の無理を問答無用で納得させるパワーがない。

 そしてどうにも我慢出来ないのは、演ずる俳優さんたちの余りの下手さ。藤原竜也さん、法学部在籍の大学生にさえ見えないのに、在学中に司法試験一発合格する秀才にはとてもとても。行き過ぎた正義感が横滑りして「悪魔以上に悪魔のような」存在に…ってのも無理があり過ぎ。振り返っても、どうしても納得出来ない。正義感&使命感がいつ何故変質したのか、その変容が一番の見所だろうと思うのに、全然表現出来ていない。
 少々挑発されたって、あの時点ではリンド何某の名を書くのは変ではないか。彼はまったく「法で裁き切れない罪人」とは違うではないか。逡巡も罪の意識もまるでなさそうなのは何故なのだ(これは脚本にも問題アリなのだろうけど)。そもそも何故ライトはああまでして「対キラ捜査本部」に加わりたいのか。あの演技では、何もかもが例えようもなく薄っぺらく、ご都合主義に見えてしまう。
 恋人・秋野詩織役の香椎由宇さんも『ローレライ』の時よりヘボンな感じ。…あの時はほとんど喋らない役どころだったからなのか(汗)。鹿賀丈史さん、藤村俊二さん、津川雅彦さんらヴェテラン勢のフォローがあってもどうにもならないくらい。とにかく、ライトと詩織と南空ナオミ(瀬戸朝香)の演技が全てを耐えられない学芸会にしてしまった感じである。

 最後の最後になってLこと竜崎(松山ケンイチ)との火花散る対決が出て来て、ここからはちょっと面白いかな? と思ったらそこで前半終了。判っていたことではあったけれども、ガクリと脱力せずにはいられない心境だった。摂取する糖分は全て頭脳を働かせるために使われているであろうエキセントリックな名探偵が、今後どうやってキラを追い詰めて行くのかがちょっと気になる。
 弥海砂(戸田恵梨香)のピンチを救ったあの状況が、後編にどう繋がるのかもちょっとだけ気になる。ちゃんと説得力のある伏線になっていると良いなあ。

 そんな訳で、物語そのものとしてはもしかしたら結構面白いんじゃないかと思うのに、映画になったらもったいなかったかな、という1本。
 後編はどうしようかなあ。タイミング良くポイントが溜まって無料鑑賞出来るならあるいは観るかもしれないが、前後編出揃ったところでDVDレンタルでじゅうぶんなような気もする。




嫌われ松子の一生(中島哲也)
2006年・日 MEMORIES OF MATSUKO
2006/06/28 17:14
ストーリー:昭和22年11月25日、川尻松子(中谷美紀)は福岡県大野島に生まれる。両親やしっかり者の弟・紀夫(香川照之)と病弱な妹・久美(市川実日子)と共に暮らす彼女は、長じて中学校の教師となった。しかしある事件を切っ掛けに失職。以降、男を見る目のなさも手伝って、壮絶なまでの転落人生を辿る。

出演:中谷美紀、瑛太、伊勢谷友介、黒沢あすか、香川照之


 やや過剰にコントラストの効いた映像にポップな音楽、歌あり踊りありCGありのノリノリなテンポ。『下妻物語』のスタイルを踏襲しつつ、さらにカット数は倍増しているらしい。画面のどんな細かいところにも遊びとギャグをちりばめるサーヴィス精神と、それが煩わしくならない絶妙のバランス感覚。鑑賞後の何とも言えない切なさ。素晴らしい。『下妻物語』に続いて「参りました」である。
 相変わらず役者さんの配置の妙にも唸らされる。語り手である川尻笙(瑛太)のイマドキっぽいヘタレっぷり、その彼女である明日香(柴咲コウ)の決断と行動。中谷美紀さんと柴咲コウさんがあまりにも似ている(とわたしには思える)ので、この対比がまたドキリとさせられるものだった。弟・紀夫の香川照之さんもハマリ役だし、父・川尻恒浩を演じた柄本明さんも、少ない登場シーンながら存在感を残した。

 原作は未読なのだが、とにかく暗くて重い作品らしい。確かに、小説にはダンス・シーンも歌も入れられないのだから、このストーリーだと果てしなく落ち込みそうな作品だろうな、と思う。原作のファンだと言う観客には、本作品のあまりに軽くてポップな雰囲気は受け入れられないかもしれないけれど、わたしはこういうの、断然アリだと思う。
 松子の転落はほぼ自業自得な出来事から始まったことだけれど、彼女がそれを恨むでもなく、自虐に陥るでもなく、ただ自分が愛する者のために生きようとする姿勢が、鑑賞後の一種独特な「爽やかな切なさ」に繋がるのだろう。わたしだったらこの場でこういう事はしないなとか、この期に及んでこの男は選ばないなとか、正直言って松子の行動に親近感は覚えない。けれど、それまでの彼女の生き方を丁寧に描いてあることで、松子の選択にもちゃんと説得力を感じられる。

 細かいギャグやネタ満載の中から、松子の孤独や寂しさが迫って来て切なく哀しい。父親の日記がいつも同じ言葉で終わっていることを知った時の松子、空想の中で妹の髪を切る時の松子、塀にそっと頭をもたせ掛ける時の松子、子供たちに「早く家に帰りなさい」と注意する時の松子。元々は中学校の先生だったくらいだから根は非常に真面目な松子が、結局は最後までその性格を変えていないことが、全編を通じて良く判る。優等生然とした美貌の中谷美紀さん以外考えられないキャラかもしれない。
 中島監督の要求する演技と演出に、主演の中谷さんは時に泣きながら従って、撮影中はかなり険悪な関係だったと漏れ聞く。しかし鑑賞後、これは女優・中谷美紀の懐の深さを良く表す、ひょっとすると代表作の1本となるだろうなと感じた。少なくとも、どんなに「転落した」シーンでも、松子の本質が汚れないものであることがひしひしと伝わって来るのだから。演じた中谷美紀さんも、演技を引き出した中島監督も、まさに天晴れである。

 そして忘れられないのは松子の親友・沢村めぐみ(黒沢あすか)。やっぱりこの監督、女同士の友情を描くのが上手いなと感服した。友情と嫉妬に揺れ動く女心も実に良く判っている。酔っ払っためぐみが自宅に松子を誘うシーンは、「ただいま」と「おかえり」に拘ってしまう松子の心情がさり気なく出ていてまた切ない。
 他にも観ながら「あれっ」と思う役者さんが出演していて、またそれぞれが上手くハマッていて良かった。龍洋一を演じた伊勢谷友介さんは、めでたく『キャシャーン』のイメージを払拭してくれた。

 昭和から平成にかけての文化風俗がちょこちょこ出て来る辺りも良い味を出している。ノスタルジーとギャグに彩られた、実は非常に前向きな「人間っていいよね」なメッセージ溢れるファンタジックな1本である。ラスト近く、ちゃんとおかっぱ頭の久美が「おかえり」と松子に微笑みかけるシーンで我慢し切れず爆涙してしまった。「まげてのばして」の歌に浸りながら家に帰るために、ぜひとも映画館で観たい作品だと思う。




パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト(ゴア・ヴァービンスキー)
2006年・米 PIRATES OF THE CARIBBEAN: DEAD MAN'S CHEST
2006/08/01 15:55
ストーリー:不死の呪いを掛けられた海賊・バルボッサを破ってブラックパール号の船長に返り咲いたジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)だったが、身辺がまた不穏に。13年前、ブラックパール号を手に入れる際にデイヴィ・ジョーンズ(ビル・ナイ)と交わした「血の契約」の期限が近付いていたのだ。事態を打開するのは1本の鍵とそれに合うチェスト。一方、ポート・ロイヤルの提督の娘エリザベス・スワン(キーラ・ナイトレイ)と鍛冶屋のウィル・ターナー(オーランド・ブルーム)は、スパロウ船長を逃がした咎で死刑を宣告されてしまう。

出演:ジョニー・デップ、オーランド・ブルーム、キーラ・ナイトレイ、ビル・ナイ、ジャック・ダヴェンポート


 決して面白くなかった訳ではない。ものすっごく楽しかった。細かいギャグとかコミカルなシーンではずっと笑いっ放しだったし、スパロウ船長は登場シーンから「ああいかにも〜♪」な格好良さで思わずにんまりした。ウィル青年は相変わらず真っ直ぐで黒目勝ちでかわゆらしく、令嬢エリザベスはやっぱり勝気でオットコマエで行動力あった。
 エリザベス・パパのスワン提督(ジョナサン・プライス)も前作と同じくシマリス君めいてキュートだったし、ジャックたちのせいで底辺まで身を持ち崩したノリントン君(ジャック・ダヴェンポート)の執念と根性の一発逆転狙いもなかなか。TVや劇場での予告編に出て来た水車ゴロゴロ格闘シーンとか、ロープでぐるぐる巻きにされたスパロウ船長が火を吹き消そうとするシーンとか、文句なしに面白かった。笑えた。

 でも、上映が終わって館内が明るくなって、席を立つ時にわたしの胸に兆したのは「ああ面白かった」という爽快感よりも「どうしてこんな風にしか作れなかったのだ」という、むしろ怒りだった訳で。いかにスパロウ船長やウィル青年が格好良かろうと、エリザベスのきっぱりした顎から首のラインに惚れ惚れしようと、ラストでビックリドッキリの再登場をしたあの方に期待感を掻き立てられようと、どうにも消すに消せない肩透かし感、「こんなもので喜ぶと思われたのか」と舐められて悔しい気持ちが募ってしまった。いや、ちゃんと喜んだは喜んだのだが(汗)。
 3部作だから、今回の『デッドマンズ・チェスト』は多少繋ぎっぽい性格の作品だろうと予想はしていたけれど、必要最低限の起承転結くらい付けようよ。アタッカで「PART3に続く!」ってやるのは良いけれど、ここまでストーリーが置いてけぼりなのは、「映画作品」としてどうなのか。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』3部作のような「引き」のクオリティを望むのは酷かもしれないけれど、観客に150分の時間と1000〜1800円のチケット代を費やさせるのだという事を、制作サイドは何と心得ているのか?

 場面場面の切り替わりが唐突過ぎてテンポが崩れるとか、アレとかコレとかは幾ら何でもあんまりご都合主義ではないのかとか、見せ場作りとは言え原住民の村でのエピソードが丸っきり無意味なのはどうだろうとか、ついでに原住民の描き方はあまりにエグくないかとか、観終わってふと我に返ると後から後から突っ込み所が沸いて出る。百歩譲ってそういう諸々は不問にしても良い。
 でもどうしても納得し難いのは、主人公たちのキャラがまったく統一されていないために、彼らが何を考えてるのかさっぱり判らなくなってしまったこと。ある意味崩しようのないウィル君は例外だったけれど、スパロウ船長とエリザベスの右往左往っぷりはちょっと許せない。
 一番ショックだったのは、スパロウ船長にとってブラックパール号が命にも代えられないほどの大切な存在である…という設定が、これ以上ないというやり方で汚されたことだった。

 スパロウ船長の帽子が持ち主を転々として最後に戻って来るところとか、コンパスの針の動きとか、細かい設定遊びやファン・サーヴィスは確かにふんだんに散りばめてあった。全部は判らなかったけれど、気が付けばそれなりに「あ、ここは」とほくそ笑むことが出来て楽しかった。マニアックなファンならばそういうところだけでも充分なのだろうな、という気もする。
 でもやっぱり「映画作品」として考えた場合、それだけでは何とも寒々しい。アンチョコなりパンフレットなりを読んで(あるいは前作を観返して)初めて「あああれにはこういう意味があったのか」と気付く楽しみは、本編を単独で楽しめてこそのプラス・アルファではないだろうか。細かい遊びにあれだけ凝っているのだから、全体としての出来がショボくても許してね、と言うのは、あまりに本末転倒である。
 個々のシーン、キャスト個人としては非常に水準高いけれど、結局は「キャラ萌え」や「シーン萌え」の連続でしかない。だからきっとキャラの性格にも統一性がなかったのだろう。観ながら「どのシーンを抜き出してもキャッチーで予告編にぴったり」と思った感想が、まさか的中するとは心底トホホである。

 音楽も、良かったのだけれど、前作ほどのインパクトはなかったかなあ、と言うのが正直な感想。ブラックパール号の乗組員たちが宙吊りになるシーンなど、あまりにも音楽と映像がドンピシャでメチャクチャ楽しかったのだが、印象に残ったのはそこくらい。折角壮大なテーマ曲があるのだから、もっと「ここぞ」という場面で使って欲しかったなあ、と思う。
 そんな訳で、「カリブの海賊」のタイトル通り「ネズミーランドのアトラクションみたいな映画だった」という感想である。1つ1つのシーンは凝っていて楽しいが、全体としてまとまったストーリーを構成している訳ではない。観客は移動車に乗って次々と展示物を見せられるだけ。「鑑賞」後の満足度は、観客個人が、展示物にどれだけ思い入れがあるかで決まってしまう。

 それでも「第3作目もきっと観る」と思えるのだから、制作サイドとしてはしてやったりなんだろうな(悔しい)。願わくば本作で感じた欲求不満を解消してお釣りが来るくらいの完結編と大団円が観られることを祈ってやまない。
 (PART3では「ジャックとリズは実は兄妹!」と判明するのではないかと思っているのだが、ハズレだろうか。パロディっぷりと「スパロウ」に「スワン」のネーミングが、PART1からどうにも気になって気になって…)




ローズ・イン・タイドランド(テリー・ギリアム)
2005年・英・カナダ TIDELAND
2006/08/02 18:00
ストーリー:両親共にヤク中のジェライザ=ローズ(ジョデル・フェルランド)。ある日ママ(ジェニファー・ティリー)がクスリによるショックで急死してしまう。慌てたパパ(ジェフ・ブリッジス)は娘を連れて、今は荒れ果てた亡母の家へ逃げる。見渡す限りの草原にぽつんと建つその家の近所には、デル(ジャネット・マクティア)とディケンズ(ブレンダン・フレッチャー)の姉弟しか住んでいなかった。

出演:ジョデル・フェルランド、ジェフ・ブリッジス、ジェニファー・ティリー、ジャネット・マクティア、ブレンダン・フレッチャー


 原作は未読、トレイラー等も観ずに、ただ「ファンタジーらしい」という認識のみで観に行ってしまった。当然、エラい目に遭った(汗)。どの辺から『フィッシャー・キング』になるんだろう…と思いつつ、結局最後まで『ラスベガスをやっつけろ!』だったのだから大変である。『ラスベガス〜』の時は物理的に目が回って気分が悪くなった記憶があるけれど、本作はとにかくひたすら生理的嫌悪感に苛まれつつの鑑賞。
 鑑賞と言うよりも既に我慢大会だったかもしれない(汗)。
 本作品を好きだと言う方がいらしたらちょっと人間性を疑ってしまう気がするし、鳥肌が立つほどキライな作品なのに、やっぱりどこかに「これ、凄いは凄いよな…」と感服するキモチもある。徹頭徹尾ギリアム作品、とでも表現するしかない。

 主人公のジェライザ=ローズはヤク中の両親に育てられてほとんどネグレクト状態で(パパとママは彼らなりに我が子を愛してはいるのだが)、もちろん学校にも行っていない。友人と呼べるのは、ミスティーク、サテン・リップス、ベイビー・ブロンド、グリッター・ガールという名前の「バービー人形の頭」たちだけ。
 これ以上ない孤独と不遇の中で、ジェライザ=ローズは不幸を不幸と認識することもなく、空想の世界に遊びながら平穏に暮らしている。悪臭漂う家、埃とゴミだらけのベッド、空腹を紛らわすのはピーナッツ・バターのみ。他に違う世界があるなんて知りもしないから、そういう境遇を「当然のこと」と受け止めている彼女に胸が痛む。ちゃんと「辛いひもじい寂しい」と感じてくれ、と思ってしまう。

 4つのバービーの頭はそれぞれ違った性格を持っていて、演じ分けるのはもちろんジェライザ=ローズ本人である。ともかく素晴らしいのはやっぱり主演のジョデル・フェルランドちゃんで、例えばこの4つのバービー頭の演じ分けだけを取っても、到底10歳やそこらとは思えない。デルに窮地を助けて貰って安心の余り抱き付こうとしてたじろがれ、ハッと身を引いた時のショックと遠慮と哀しみの表情と来たら!
 ジョデル・フェルランドがジェライザ=ローズを演じているのではなく、ジョデルがジェライザ=ローズその人に見えると言う、そんなレヴェルの驚異的演技力である。ここまでなり切っちゃって大丈夫か心配になるほどだった。彼女なしにはこの作品は絶対に成立しなかっただろう。

 最後の最後のとある出来事まで、本編中に「まともな人物」はただの1人も出て来ない。何かのレヴューで「ギリアムが描きたかったのは“どんな窮地にあっても逞しい子供の想像力への讃歌”」とあるのを読んで、ちょっと違和感を覚えた。ジェライザ=ローズも、あの境遇に適応してしまえるという点で、間違いなくどこか異常なのだ。全てが終わった後も、彼女はきちんと「正常な」世界に適応出来るかどうか…疑問である。
 異常なジェライザ=ローズが得も言われぬ程可愛らしかったり、ディケンズとの危なっかしい擬似恋愛が痛ましくも微笑ましかったり、偽の大海原が途轍もなく魅力的だったりする辺り、「異常の中に美を見出す」ギリアム流なのかな、などと思ったりもする。とは言え、やっぱりちょっとやり過ぎ感は否めなくて、「あんなことを10歳の少女にやらせちゃイカン!」と引くばかりだった。ギリアム監督としては間違いなく狙った演出だろうが。

 という訳で、わたしにとってはこれは「ファンタジー」と呼ぶよりも「ホラー」だった感じ。もっとジェライザ=ローズの空想世界シーン(これがまた美しいのである!)を中心に見せて貰えたら、後味もここまで悪くなかったろうとやや残念に思う。
 ギリアム監督が「夢を創造する人」であるなら、本作も間違いなく彼一流の「夢」である。ただしちょっと他にないくらい情け容赦なしの悪夢なので、興味のある方は覚悟の上で臨むべし。




ゲド戦記(宮崎吾朗)
2006年・日 TALES FROM EARTHSEA
2006/08/02 18:00
ストーリー:家畜に流行り病が頻発したり、魔法使いが魔力を失ったり、世界のバランスが崩れかけたアースシー。エンラッドの王子アレン(岡田准一)は父王(小林薫)を殺害して国を出奔する。「影」に追われるまま彷徨い窮地に陥ったところをハイタカ(菅原文太)に助けられ、世界のバランスを取り戻すため、以後彼と行動を共にする。

声の出演:岡田准一、手嶌葵、菅原文太、田中裕子、香川照之


 周囲から酷評しか聞こえて来ないので、1mmも期待せずに鑑賞。おかげで予想以上のダメージというかショックは受けなかったものの、「はあ…やっぱり酷評もむべなるかな」とガッカリして帰って来た。『ゲド戦記』ファンとしても「ジブリ」ファンとしてもアニメーション愛好者としても到底満足出来ない完成度である。

 いきなりの父親殺しは結局何だったんだとか(監督の立ち位置を考えたら洒落になってないじゃん)、キャラたちが怒った時の顔があまりにも気持ち悪いとか、絶体絶命に困るとピカーッと光って解決はあまりに厨房的だろうとか、ああでも背景はやっぱり良かったなあ(これだけは「流石ジブリ」と惚れ惚れした)とか、いろいろ思いは乱れる。
 「良かった探し」をするとしたら、予告編で観た時に「何だか懐かしい香り」と期待した背景と、クモ役の田中裕子さん。後は挿入歌の「テルーの歌」くらい。これにしても2コーラスは多かったような(汗)。

 『ナルニア国ものがたり』でさえ「アスランが蘇ったのは何故か判らない」と言われることがあった。物語の背景に何が「常識」として存在するのか、説明せずに話を進めるのは時として危険である。特に今回は『ゲド戦記』と銘打っているのだから、観る方は「この映画を観れば原作がどんな話か判るだろう」と予想している訳だ。
 本作品はどうだろう。「真の名を知っていると相手を支配出来る」とか「ローク島の大賢人」とか「テハヌーの正体は実は」とか、まだまだあるけど、原作を読んでなければ判らないことがあまりにも多くないだろうか。しかも、判らないでもとりあえず大丈夫なトリビアではなくて、知ってなければどうして話がそうなるのか判らない、極めて重大なポイントばかりである。こういうことをやって許されるのは『ゲド戦記〜Another Story』のような、完全に二次的作品としての立場に立った時に限るのではないか。
 宮崎駿監督も「原作を跡形もなくオリジナルなものに作り変える」ので有名だったけれど、どうも本作品の性格はそれとはまったく違う。

 『ゲド戦記』ではなく『シュナの旅』ではなく「ジブリ作品」ですらない、この3者のファンが設定とキャラクターと作風を拝借して作ったような、何とも中途半端な作品だった。好きなんだな、ということが朧気に感じられる部分はあるが、完全にオリジナル化に失敗しているので、到底プロの作品とは思えない。あれだけの宣伝と「ジブリ」ブランドの冠で観客を動員しておいてコレというのは、道義的にちょっとどうか、と思う。
 原作を知らずに映画を観た人たちが、『ゲド戦記』や『シュナの旅』ってつまらなそう…と思ってしまわないでくれることを心から願っている。それにしても、先に観て来た友人たちから「エンド・クレジットに原案:『シュナの旅』って出てた」と聞くまで、そんなことになってるとは全く知らなかったぞ。こういうやり方もやっぱりちょっとどうかと(怒)。




王と鳥(ポール・グリモー)
1979年・仏 LE ROI ET L'OISEAU
2006/08/14 00:01
ストーリー:暴君シャルル16世が支配するタキカルディ王国。シャルル16世の秘密の部屋には、羊飼いの娘、煙突掃除の青年、そしてシャルル16世自身のものと、3枚の肖像画が掛けられていた。羊飼いの娘と煙突掃除の青年は恋人同士。そして「シャルル16世」は娘に横恋慕する間柄。ある夜、3枚の絵から3人が抜け出した。恋人2人は王から逃れるために、そして王は2人を捕らえるために。

声の出演:パスカル・マゾッティ、ジャン・マルタン、アニエス・ヴィアラ、ルノー・マルクス、レイモン・ビュシェール


 観終わって、着席したまま震えるような、凄い作品観ちゃった…! と叫び出したくなるような、そんな1本だった。どんな言葉を尽くしてもこの作品の素晴らしさを伝えることは不可能である。万難を排し、何を措いても、観ておくべき作品。今なら渋谷と大阪で、期間限定で劇場上映もされている。チャンスがあるなら上映館に走って損はない。
 観れば判るのだが、この作品はかの『ルパン三世/カリオストロの城』のオリジナルである。『カリ城』にオリジナルが存在した、ということだけでも驚きなのだが、物語が進むにつれ『カリ城』はオリジナルの『王と鳥』を超えていなかったのかと、更なる驚きが襲って来る。『カリ城』の完成度の高さを思えば、本作の凄まじさも想像していただけるだろう。

 元々は『やぶにらみの暴君』という1952年公開のアニメーションだったのだが、これは予算の関係で、グリモー監督と脚本のプレヴェール氏の納得が行かないまま発表されてしまった曰く付きの作品である。しかし公開後は各方面に大反響を呼び、ヴェネチア映画祭では審査員特別大賞を受賞。若き日の宮崎駿氏や高畑勲氏にも多大な影響を与えたと言われている。
 そしてこの『王と鳥』は、意に沿わぬ形で発表された『やぶにらみの暴君』の権利とフィルムを取り戻し、27年後の1979年に執念で完成させた「作者完全版」。構想からは実に34年の歳月が流れているらしい。

 自分の肖像画を描かせるに当たり、敢えて「本当の姿」を描写した絵描きを処刑、望み通りに自分で描き直してしまうシャルル16世。周囲の人間は全て、主君を恐れかつ嫌っている。それを知っている王は誰のことも信用出来ない。王が安心して眠れるのは、周囲から隔絶された秘密の部屋でだけ。
 そこに飾られている3枚の肖像画の中の人物が、実際に物語を動かすキャラクターである。絵の中の「羊飼いの娘」と「煙突掃除の青年」が駆け落ちし、それを「シャルル16世」が邪魔しようとして追い掛ける。城の天辺に住む「鳥」は、シャルル16世に妻を殺されて恨んでいる。駆け落ちする2人と出会った鳥は、もちろん王を出し抜こうと知謀を巡らす。
 そんな風に、最初は単なるドタバタ恋愛劇かとも思える滑り出し。とは言え随所に、思わず唸るようなキャラやアイテムがちりばめられていて楽しい。秘密の部屋へのエレヴェーターや、水路を走る王の乗り物、懲りもせずに何度も罠に掛かる小鳥。公式サイトの宮崎駿氏のインタヴューにもあったが、王の不興を買った大臣が処刑を逃れようとして、モザイクの床をぴょんぴょん逃げ回るシーンも素晴らしい。

 やがて逃げる2人は城を脱出し、長く長く続く階段を駆けて地下街へ下りて行く。城の地下には、太陽や月や鳥の存在さえ知らないような虐げられた人々と、罪人を処分するために飼われている猛獣たちが暮らしている。そこへ逃げ込んだ鳥たちは、地下街の住人たちに外界の様子を伝え、やがてその影響が大きなうねりとなって噴出するのである。
 何よりも感服したのは、扇動者である鳥の描き方。こういったストーリーでは徹底的に「良い者」として扱われがちだが、この作品では「目的のためなら多少の嘘も辞さない」小狡さをも持っている。その結果としてやって来るラスト・シーンには、きっと誰もが複雑な印象を覚えることだろう。朝日へ向かって延々と続く幾筋もの足跡。あれは、鳥が吐いた嘘が招いたシーンなのである。

 虚構の権威、否応なく人々を縛る格差社会、それを破壊したいと望む者。とは言え、全てを跡形もなく破壊し尽くすことは、果たして「望ましい」結末だったのか。『V フォー・ヴェンデッタ』の「V」が「結局のところアイツは私怨で動くテロリストではないか」と謗りを受けるように、鳥もまた、単なる私怨で人々の生活を変えてしまったのではないか。その是非をどう考えるべきか。いやそもそも是非など決められるまい。そんな思いが、鑑賞後、アタマの中をぐるぐると回って止まらなかった。
 全編を迸る自由なイメージ、溢れるメッセージ性。散りばめられた隠喩と風刺と皮肉。切なく美しい音楽と、いかにもフランス風の洗練された映像。30年近く経ってもまったく古びていないどころか、ますます重大な意味を持つ完璧な作品である。
 発表直後から「知る人ぞ知る」作品ではあったのだが、どうせならもっともっと早く知りたかったと、己の無知が悔しくてならない。DVDも絶対に買うだろう。

 同時上映された短編も素晴らしかった。わたしが観たのは徴兵された青年を待ち続ける娘と、彼女に横恋慕する道化が出て来る『小さな兵士』。思えば『王と鳥』に通じるモティーフであった。台詞が一切なく、全てを映像と音楽で語り尽くすこの短編も驚嘆すべき作品である。短編は期間ごとにあと3本上映されるそうなので、残りを観るために、また渋谷へ通ってしまいそうである。




太陽(アレクサンドル・ソクーロフ)
2005年・露伊仏瑞 The Sun
2006/08/31 18:15
ストーリー:1945年、第二次世界大戦末期の東京。昭和天皇ヒロヒト(イッセー尾形)は地下壕で孤独な退避生活を送っている。やがて終戦、マッカーサー元帥(ロバート・ドーソン)との会談を経て「現人神」である身分を捨てて人間宣言に至る。

出演:イッセー尾形、ロバート・ドーソン、桃井かおり、佐野史郎、つじしんめい


 父方の祖父は太平洋戦争で戦死した。どこかの海で戦艦ごと沈んでしまって、墓には遺骨も入っていない。「お祖父ちゃんへの感謝状(?)よ」と、母が内閣総理大臣の署名入り賞状(?)を見せてくれたことがあったが、飾られたことはなかったような記憶がある。単に場所がなかっただけかもしれないが。
 幼かった父の弟妹(わたしにとっては叔父叔母)は戦中の劣悪な食糧事情の下で病死した。父親と弟妹を奪った戦争について、父は具体的なことをあまり語らないまま他界したが、特に妹の死については随分と責任を感じていたらしい。当時は自らも子供だった父がどうにか出来る状況ではなかっただろうに。

 昭和天皇には会ったこともないが、伝え聞くところの人となりが多少なりとも正確なのであれば、数多くの国民の死について責任を感じなかった筈もないと思う。自らの名において何万人もの人々を死なせてしまった「現人神」。文字通り神のごとくに崇め奉られながら、戦争回避に関しては徹底的に無力だった。
 マッカーサー元帥と食事を共にしつつ、ヒトラーとの同盟について問われるシーンでは「ヒトラーとは会った事もない」と答える。必ずしも史実に忠実とは言えないかもしれないが象徴的なシーンである。責任回避と受け取られる危険性もあるだろうに、そう言わずにいられなかった心境が痛い。きっと事実、昭和天皇は蚊帳の外に置かれていたのだろう。

 全編を通じ、殆ど地味とも言える昭和天皇の私的生活が淡々と描かれる。御前会議や午睡時の悪夢、敗戦後のマッカーサーとのやり取りなどから、昭和天皇の諦観と孤独が伝わって来て切なかった。もちろん本作品はあくまでも「事実に基いたフィクション」なのだけれど、現実の昭和天皇も、無力感と諦観と孤独を同じように感じていたのではないだろうか。
 抑えたトーンの画面に、聞こえるかどうかのかすかなチェロ。ストイックな静けさがピンと張り詰めた緊張感を醸し出し、1945年8月から「人間宣言」までの時の流れを淀みなく駆け抜けさせてくれた。「午睡時の悪夢」の映像は恐ろしくもファンタジック。

 尾形イッセーさんの外見や「あっそう」などの言葉遣いはホンモノの雰囲気を良く出していたし、極めて抑制的な演技は「昭和天皇」の苦悩にリアリティと説得力を持たせて素晴らしい。登場シーンこそ少ないものの、香淳皇后を演じた桃井かおりさんも流石の存在感であった。
 圧巻はラスト近く。「人間宣言」を録音した人物についてのやり取りのシーンでは、侍従長(佐野史郎)、昭和天皇、香淳皇后の3人が無言で見詰め合う。眼差しで詰る皇后、自分の得た「自由」がまた新たな代償を要したことに打ちのめされる天皇、平然と構える侍従長。わたしはここでどうしても耐え切れず、泣いてしまったのだった。

 ノブリス・オブリージ、高貴なる者の責任。下賤の生まれであるわたしには想像も付かない世界だけれど、昭和天皇に課せられたような「責任」は、1人の人間に負わせるには余りにも重い。いっそ戦争責任を問われたいと思ったかもしれないし、自殺したいと考えたとしても不思議もない。重圧に耐え切れなくても、逃げ出すことも許されなかったのだろう。
 日本にとって「皇室」が必要不可欠かどうか、わたしには判らない。けれども昨今の報道などを目にするにつけ、崇め奉られる残酷というものを、ぼんやりと感じずにはいられない。

 靖国神社に関するメモの「それが私の心である」という言葉も、本作品の鑑賞後はずっしりと重く思い出された。祖父の名前も靖国神社のどこかに記録されているはずだけれど、記憶にある限り、父が靖国神社に参拝したことはない。
 本作品のような映画が、日本で上映されたことに驚く。機会を見付けて、是非多くの人に観て貰いたい作品である。