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スーパーサイズ・ミー(モーガン・スパーロック)
SUPER SIZE ME(2004年・米)
2005/01/17 18:42
ストーリー:2002年11月、TVのニュースで「肥満の原因はマクドナルド」と訴訟を起こしたティーンエイジャー2人のことを知ったモーガンは、本当にファストフードはそんなに健康に悪いのかと疑問を抱く。彼は自分自身を被験者にして、1ヶ月毎日3食マクドナルド製品しか食べないとどうなるか実験することにした。

出演:モーガン・スパーロック


 この実験のアイディアを聞いたモーガンの友人は、大笑いした後「最高で最悪の思い付き」と評したのだという。何せ主な設定条件が 1:マクドナルドで売られているものしか口にしてはいけない。 2:例えイヤでも3食きっちり食べなければいけない。 3:各メニューは一通り制覇しなければいけない。 4:スーパーサイズを勧められたら断ってはいけない…というものである。しかも平均的アメリカ人の運動量に合わせるため、1日5000歩程度を守るように万歩計まで付けている。もちろん実験前の体調チェックは念入りに行なわれ、途中経過は主治医4人プラス管理栄養士によって監視される。
 菜食主義者の恋人・アレックスの顰蹙もものともせずに実験はどんどん進む。最初のうちは「子供ならば夢のような食生活だよね」と案外楽しそうだったモーガンも、だんだん「マクドナルド・ダイエット」に苦痛を感じるようになる。実験前はぴかぴかの健康体だった彼だが、定期的に行なわれるメディカルチェックでは、各種のバロメータはどんどん悪い数値を示すようになる。こんな食べ方をすれば健康に悪いのは当たり前だろうが、その転落具合は医者でさえ驚くスピードだった。

 確かに恣意的な部分は多く見受けられるが、トータルとしてかなり公平なスタンスを守ろうとしているので説得力がある。実験が進むに連れ、モーガンの顔つき身体つき、表情までが激変していく様子が手に取るように判る。その変貌ぶりは恐ろしいほどだった。実験終盤のどんよりとした目、精彩に欠ける表情、あれらが演出だとしたら大したものだが、まさかそんなこともあるまい。
 いくらなんでも冒頭のリヴァース激写とか、「美しき青きドナウ」に乗った内視鏡ダンスはやり過ぎじゃないかと思うし、スーパーサイズを勧められたら断ってはいけないというルールがあったとしても、満腹を超えてまで食べなきゃいけないというのはあんまりである。もう食べられないと思ったら残したっていいんじゃないだろうか。そんな疑問は出て来るけれど、この作品、単なるゲテモノ映画という訳ではない。
 実験の合間合間に語られる、米国の肥満人口や各州の統計的数字、食品業界の思惑と各種圧力団体(特に最大のものはMGA:アメリカ保存食品製造業者協会)の言い分、問題の訴訟の原告・被告双方の弁護士のコメントなどなど。綿密なリサーチと突撃取材により、相当に重大な問題、深刻な状況があくまで軽いタッチで語られる。こういう比較はありふれているだろうが、マイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』の正統たる後継者という感のある、真面目で高品質なドキュメンタリーである。個人的な印象としては『華氏911』よりも面白かったし、観る価値もあるのではないかと思う。

 病気による肥満を除けば、確かにある人が限度を超えて太っているかどうかは個人の自己責任に負うものだろう。そういう意味ではわたしも、訴訟を起こした2人の主張には首肯しかねるものを感じる。「店が見えるからと言って、入って喰わなきゃいけない義務はないだろう」。なるほどその通り。
 けれども手を変え品を変えして行なわれるキャンペーン、客単価を少しでも上げるための「スーパーサイズはいかが?」攻撃が、米国の肥満事情に無関係だとはやっぱり思えなくなってくる。特に子供を対象にした「ハッピーセット」等のキャンペーンが悪質であるという告発にはハッとした。ウチには子供は居ないし、そもそもファストフードを食べるのは年に数回程度なのでまったく気にもしなかったのだが、小さなうちから「マックご飯が当たり前」になってしまったら、やはりそれは憂慮すべき事態だろう。
 大人が自己責任で何をいくら食べようが、その結果どんなに太ろうが健康を害そうが、それは自己責任と言えるかもしれない。けれど判断力の甘い子供をCMで洗脳し、さらにオモチャで釣って来店習慣を付けさせるのはどうだろう。MGAの会長は「親に対する情報提供はきちんとしている」と話していたが、子供はどうしたって誘惑に弱くなる。作中で「マクドナルドは目立って子供の来店率が高い」とコメントされていたのが印象的であった。そういえば近所のマックも、平日休日を問わず、小さい子供で溢れかえっている。あの子たちが必ずしも毎日ファストフードを食べている訳でもあるまいが。

 小学校や中学校での給食の現状にもちょっとした寒気を覚えた。カフェテリア方式で選ぶメニューはピザ、フライドポテト、スナックにチョコバーにゲータレード? 「それだけではなく、ちゃんと家からお弁当を持って来ているハズです」と語る先生のコメントはいかにも無責任。ミルクとフライドポテトを取って「ミルクと野菜だからバランスは取れてる」と言う女の子にも衝撃を受けてしまった。
 1日に5種類の野菜と果物を食べよう、という「five a day運動」は、日本よりもアメリカでしっかりと根付いているのだと聞いたことがあった。健康に関する意識はアメリカの方がよっぽど高いのかと思っていたが、それは一部の知的階級・富裕階級に限ったことであるらしい。むしろ問題は一定以下の貧困層で、安価で手軽なファストフードに頼らざるを得ない低所得の母親も間違いなく存在するのだという。さらにブッシュ政権流の「ゆとり教育」で保健体育関係のカリキュラムが削減され、「カロリー」という言葉の意味さえ良く判らない子供たちが増えていく。体育の授業は週に1回だけ。この状況で将来の自己責任を問うとしたらやはり無意味である。

 肥満からの脱却方法として紹介されるのが各種サプリメントや外科的手段、というのが何ともアメリカ的。寝ていて痩せるなどということが物理的に有り得る訳はないし、胃袋を切除して摂取カロリーを減らすのは、良く判らないが絶対どこかに無理があるような気がする。その辺り、さらりと流すのではなくてもうちょっと掘り下げても良かったように思う。モーガン自身が「バランスの取れた食事と適度な運動が一番」という主義を繰り返し語っているから重複になるのかもしれないが。
 実験終了後、「モーガンの解毒プログラム」を組む恋人・アレックスがかなりの菜食主義というのもまたいかにもアメリカ的。ファストフード三昧か菜食主義かという両極端さがある意味ちょっと怖い。食に関しては中庸が一番だと思いますです。

 ともかくこのドキュメンタリー、日本でも対岸の火事と笑ってはいられないのではないだろうか。情報格差についてはアメリカほど極端ではないかもしれないが、おそらく「ゆとり教育」の弊害はこういった点にも出ているはずだろう。スローライフとか食育という言葉が最近ようやく人口に膾炙し始めているようだが、これはもうちょっと徹底的に展開すべきものかもしれない。親や周囲の大人たちがどんなに阿呆でも、子供自身がきっちりと「バランスの取れたご飯を食べなきゃ」と思えるように、いろいろなことを教えてあげなければならない。できたら子供たちにこの映画を観ることをお勧めしたい。
 とりあえずわたしは、この作品の鑑賞後、ファストフードを食べるのは今までのペースに留めようと決心したのだった。ついでに家人に食べさせる御飯も、今まで通りできるだけ手作りのメニューを心掛けよう…と。肥満人口60%というアメリカのショッキングな数字と想像を超えたおデブさんの映像が、我が家の明日とならないようにするために。




ネバーランド(マーク・フォースター)
Finding Neverland(2004年・米)
2005/02/04 18:29
ストーリー:1903年のロンドン。新作舞台が大不評で落ち込む劇作家ジェイムズ・バリ(ジョニー・デップ)は、ある日公園で父を亡くしたばかりの親子に出会う。4人の子供たちと仲良くなり次第に肩入れするうちに、妻メアリー(ラダ・ミッチェル)との間には隙間風が吹き始める。そんな中で、一家にインスパイアされたバリは新作『ピーター・パン』を書き上げるが…。

出演:ジョニー・デップ、ケイト・ウィンスレット、ジュリー・クリスティ、ラダ・ミッチェル、フレディ・ハイモア


 どうしてなのだろう、とても後味悪い。映像も音楽も美しかったし、ジョニー・デップの演技は抑え気味ながら深く、それでいて彼独特の可愛らしさも仄見え、いかにもジョニデ風味で良かったのだ。ケイト・ウィンスレットの静かな演技にも好感、子供たちには大絶賛を贈りたい。けれど肝心のストーリーがどうもなあ…。個人的シュミだが、物語としてわたしはこういう作品は正直好きではない。レディスデイということもあって満員御礼、周り中から聞こえるすすり泣きの中、微妙に白けた居心地の悪い思いをしてしまった。
 どこでそんなに嫌な気分になったかというと、ともかく主要キャラ3人が全員「潔くない」点である。「子供の心を残した大人」っていうのはね、「無責任でも許してね」っていうのとは意味が違うのだよジェイムズ。立場には同情するけど、自分だって努力しなくちゃ人間関係上手く行く訳ないでしょうメアリー。自分の望みや本音を隠したまま、最後には思うとおりの展開に持ち込もうなんて図々しいにも程があるぞシルヴィア。…とまあ、内心そういう突っ込みを入れまくりながら観るのは辛かった。
 子供たちを除けば、共感できたのはシルヴィア母だけ。ジェイムズ役がジョニー・デップでさえなかったら、おそらく途中で席を立っただろうと思う。

 子供の頃に観た『ピーター・パン』の舞台が胸ときめくものだっただけに、その裏側にああいった傷つき方をした人間が居るということを知りたくなかった感じ。パンフレットによれば、ジェイムズとシルヴィアはちゃんとした「既婚者同士の恋愛」(というのもヘンな言い方かもしれないけど)で、本作品のように妙に言い訳がましく演出されていなかったらしい。それだけがちょっと救いである。
 文芸分野に限らず、作品の素晴らしさとその作者の人格の善し悪しには何も関係はない、と判っているつもりでも、本作品のようにそれをあからさまに美化して差し出されると閉口するのだろうか。どれだけ周りを傷付けても、生み出された作品が素晴らしければ「その苦しみはこの傑作が作られるための犠牲」で「仕方ない」と納得させる。古今東西そんな例は山ほどあるし、ある意味本当にそれは仕方ないことなのだろう。とは言え、『ピーター・パン』初演の夜、ジェイムズを祝福しつつ別れを告げるメアリーの姿はあまりに痛々しく見える。

 人間誰しも、理に適った賢い行動ばかり取れる訳ではもちろんないが、それにしてもやっぱり、主要キャラ3人にはもうちょっと考えて行動してよ、と思ってしまった。メアリーもジェイムズもお互い、結婚生活がすれ違うのを相手のせいにばっかりしているように見える。メアリーは最後通告した後でも、せめて言い訳くらい聞いてやってから家出すればいいのに。ジェイムズは出て行かれた後、ちゃんと呼び戻すなり話し合いなりの努力をしろよ。夫婦なんて元々他人なのに、そういうやり方じゃ誰と結婚したって上手く行く訳ないじゃないかと思う。
 わたしがシルヴィアだったら、夏のコテージに世話になりになんか絶対行かない。現代だってそんなことしたらあらぬ噂を立てられるに決まっている。20世紀初頭のイギリスだったらなおさらだろう。特に本作品の舞台となる1903年のロンドンと言えば、お堅いので有名なヴィクトリア朝の残り香がたっぷりと漂う場所だった筈である。一見厳しすぎるように見えるシルヴィア母の言動は、その辺りを考えるとごくごく当たり前のものだったのではないだろうか。

 建前が厳しいほど内幕は爛れるものだし、特に上流階級はそーゆートコいい加減なのかもしれない。けれど、あそこまでやっといて「Just friends」では通るまい。メアリーにしても、病人にムチは打てないし、ましてや子供たちに鬱憤晴らしする訳にも行かないし、少々気の毒なのではないだろうか。いっそキッパリ「キミより彼女を愛してるんだ」と言われた方がなんぼかマシである。
 この舞台から30年ほど後だが、メアリー・ポピンズの世界のバンクス家を参考にすれば、バリ家の社会的地位は「中流の上」というところだろう。落ちぶれたとは言え格上のデイヴィズ家にリネンや銀器を貸してあげたらどう、と皮肉を言わざるを得ないメアリーの苦しい心境、そしてその言葉を軽く受け流してしまう夫・ジェイムズ。自分が女だからかもしれないけれど、どうしてもジェイムズの行動が事態をより悪化させたと思わずにいられない。

 本作品のキモであるところの、子供たち4人は文句なく素晴らしい。あどけないマイケル、やんちゃなジャック、バリが思い入れる繊細極まりないピーターも良かったが、特に一生懸命に母親や弟たちを守ろうとするジョージの「大人になる瞬間」や、初めて祖母に反論する場面では胸をつかれた。とは言え、なぜ『ピーター・パン』がピーターの名前を借りたのか、特別ピーターに思い入れた理由というか必然性がいまいち描かれていないように見えるのが惜しい。
 ラスト近く、デイヴィズ家で上演される『ピーター・パン』の劇中、ティンカー・ベルを救うために観客に呼びかけられる「妖精を信じるのならば拍手して!」の場面で、真っ先に手を叩き始めたのがシルヴィア母のデュ・モーリエ夫人だったシーンで、唯一ホロリとしそうになった。このお母さんだって、全然意地悪婆さんということではなかったのである。本当に心から娘や孫たちを心配し、口やかましくして嫌われてしまっても、良かれと思うことを実行し続けただけ。こんなにも「いい人」であるお祖母さんを、孫息子4人がちゃんと慕ってくれるようになるといいな、と願ってしまった。ジュリー・クリスティの存在感と達者な演技の賜物だろう。

 それから残念に思ったのが、なぜこんなにカメラワークが単調なのかという点。上品でシンプルで良いことは良いのだけれど、人物のアップを繋げてばかりというのは映画としていかがなものだろう。今にもメアリー・ポピンズやシャーロック・ホームズが現れそうなあの時代のイギリスの美しい風景を、なんでもうちょっとちゃんと見せてくれないのだろうとフラストレーションが募ってしまった。さり気なくコナン・ドイルが出て来ていたのには後からニコリとさせられたけれど。
 子供たちが宙に浮くシーン、マイケルが凧揚げに成功するシーン、もっとロングでばーっと魅せて欲しかった。いつだったか、何か別の作品でも思ったことなのだけれど、DVD化する時のことを意識し過ぎているのかどうか、画面があまりにもTVサイズなのである。せっかく大画面なのだから、思い切って広く使ったらいいのに…。

 そんな訳で、少々期待が大きかったのがいけなかったのか、何となくモヤモヤして帰って来てしまった惜しい作品。素直に感情移入して心動かされない自分が、なにかとんでもなく偏屈でアタマの固い唐変木に思えるのが辛かった。ジョニー・デップは大好きだけれど、2度目を観に映画館へ行くことはおそらくないだろう。




セルラー(デヴィッド・R・エリス)
CELLULAR(2004年・米)
2005/03/09 22:00
ストーリー:ごくごく普通の母親であり、生物の教師であるジェシカ(キム・ベイシンガー)。ある朝突然自宅に乱入してきた男達に拉致され、とある屋根裏部屋に監禁されてしまう。男達の一人によってハンマーで粉々に砕かれた電話の配線を繋ぎ、当て図法にかけた電話は能天気青年・ライアン(クリス・エヴァンス)の携帯に繋がった。必死に助けを求めるジェシカと、最初は不審に思いながらもやがて救出に奔走するようになるライアン。そして事態は思いがけない重大事件に発展していくのだった。

出演:キム・ベイシンガー、クリス・エヴァンス、ジェイソン・ステイサム、ウィリアム・H・メイシー、ノア・エメリッヒ


 映画が始まって5分(正確な経過時間は覚えていないが、体感的にはそのくらい)でいきなりジェシカが誘拐されてしまうのである。イントロというか状況説明がほとんどないまま薄暗い屋根裏部屋に放り込まれ、備え付けの固定電話をハンマーでドカン。ジェシカも観客も、どこの誰が一体どういう理由でこんなひどいことをするのかさっぱり判らずにパニックに陥る。荒っぽいけれど、つかみとしてはなかなかの吸引力である。
 出だしの5分でこんなに飛ばしちゃったら、後が尻すぼみになるのではないだろうか…と最初は心配しながら観ていたのだが、それは見事な杞憂だった。エンドロールまでほとんど息つく暇もないほどの謎とアクションの連続で、95分間はあっという間に過ぎてしまった。「どこの誰か知らない人から助けを求める電話がかかってきたらどうする?」という、確かにワン・アイディア・ストーリーではあるのだけれど、そのアイディアを過不足なく肉付けして上出来のサスペンスドラマに仕立ててある。素晴らしい。

 キム・ベイシンガー演じるジェシカは作中ほとんどのシーンが「屋根裏部屋で震えながら泣いている」場面である。わなわな震える手と恐怖に見開かれた目は真に迫って、さすが演技派と名高いだけあるなあと感心してしまった。恐怖のあまり言葉がちゃんと出て来ないところなど、これってアドリブなんだろうか、と思うほどに自然極まりない。そうかと思えば、泣きながらも結構色んな悪あがきをしている。息子・リッキーや夫・クレイグを救うためにと相当冷静な計算もしているし、千載一遇の反撃チャンスも逃さない。母は強く、生物の先生は怖かった(汗)。
 ケータイにかかってきたヘルプコールを、最初はいたずらだと思って取り合おうとしないライアンも、ジェシカの必死の説得にだんだん事態の深刻さを理解するようになる。彼は「あなたは軽すぎてウンザリ」と恋人・クロエに振られてしまうくらいのC調男(古っ)だが、根はどうやらイイヤツらしい。良くも悪くもシンプルマインドで、物事を深く考える習慣がない。なるほど「イマドキの若い人」に多そうなタイプである。しかし「単純である」ということは「純粋・一途である」ということでもあり、ジェシカを何とかして救い出そうとともかく必死にL.A.中を駆け回る。その一生懸命さ、七転八倒ぶりが、可笑しくも格好良かったりする。

 そして忘れてはならないのが、ひょんなことから事件に気付き、事件解決に尽力してくれるヴェテラン刑事・ムーニー(ウィリアム・H・メイシー)の渋さである。日常生活では奥様の尻に敷かれ、勤務時間中も引退後のライフプランに没頭する「頼りないおぢさん」に見えていたのだが、引退間際の彼が疑問点を素通りさせてしまっていたら、ライアンの機転に応えてくれなかったら、一体どうなっていたことやら。渋いおじさんファンのわたしとしては、本作品のMVPは文句なくムーニー刑事なのであった。
 他にも、得体の知れない怖さと迫力満点の犯人グループリーダー・イーサン(ジェイソン・ステイサム)とか、ライアンにポルシェを横取りされる弁護士さんとか、ムーニー刑事の同僚・タナー刑事(ノア・エメリッヒ)などもいい味を出していたと思う。警察署の刑事さんたちとかノキアの特設フェア会場のお客さんたち、空港で人違いされるどこかのおじさん、タクシーの運転手さんなども程好いコミカルポイントになっていて面白かった。

 本作品のキモはともかく脚本の面白さで、芯となるアイディアをいかに上手に膨らませて観客に面白く見せるか、徹頭徹尾その点に拘っているのが良かったと思う。95分間という尺の長さもちょうど良く、無駄な状況説明はバッサリ省いている分アクションや謎解きにウェイトが置かれている。かと言って説明不足という訳でもない。俳優さんたちが変に自己主張していないのも、ドラマの説得力を醸し出すのに一役買っている印象。例えばライアンがもっと名のある売れっ子俳優さんだったとしたら、取って付けたような「見せ場」の1つや2つ、挟み込まれてしまったのではないだろうか。
 上質な材料を、程好い塩梅で、装飾過剰になることなく上手に料理してあるような、最近ちょっと珍しいほどのシンプルで実は洗練された1本だったと思う。あんまり動員していないような感じを受けるのがもったいない。もう少し長期間上映し続ければ、口コミでじわじわ売れるのではないだろうか。

 もちろんパーフェクトかというとそういうこともなく、例えばストーリー的に「そんな馬鹿な」な点も結構あったりする。最大の疑問点はやはり、犯人グループの動機がちょっと弱いのではないかと思えることである。ジェシカ一家3人とライアンの総勢4人を皆殺しにしようかという動機がたったのあれだけってどうだろう。もっと深刻な事情を期待していたのだが、その辺りはもしかしたら日米で感覚が違うのかもしれない。

 そんな訳で、思わぬ拾い物をして大ラッキーな気分になれた1本だった。上映期間の関係で、映画館にもう1度という訳には行かないだろうけれど、例えばTVで放映したら間違いなく楽しみに観るだろう。ただし家庭用TVの画面のサイズだとやっぱりちょっと哀しいかなというシーンもあったりするので、時間に都合の付く場合はぜひとも映画館へ向かうべし。ハラハラドキドキを存分に堪能できる95分、入場料以上の値打ちはあると思います。




オペラ座の怪人(ジョエル・シューマッカー)
the Phantom of the Opera(2004年・米)
2005/03/14 18:45
ストーリー:1919年パリ。廃墟と化したオペラ座でゆかりの品々のオークションが開かれていた。そこにやって来たラウル・ド・シャニー子爵は、古い知り合い、バレエ教師のマダム・ジリーと再会する。小猿のオルゴールや有名なシャンデリアなどを目にした2人は、1870年代の奇怪な事件を思い出す。特にシャニー子爵にとっては忘れ難い事件、それが「オペラ座の怪人」騒ぎだった。

出演:ジェラルド・バトラー、エミー・ロッサム、パトリック・ウィルソン、ミランダ・リチャードソン、ミニー・ドライヴァー


 ファントムがあんな鼻詰まりテノールでは「音楽の天使」なんて過剰広告もいいところだとか、原作より多少マシとは言えラウルが坊ちゃん過ぎてイライラするとか、クリスティーヌとカルロッタの歌唱力を比べたら、オペラ歌手として上なのは断然カルロッタだろうよとか、突っ込みどころは多々ある。わたしとしてはこの作品、いかなる意味でもキャラ萌えはできなかった。よって、キャラ萌え度が判断基準である場合、本作品は実につまらない映画として受け止められてしまうかもしれない。
 全編が歌また歌とほぼ歌いっぱなしのシーンの連続で、しかもそれがオペラっぽかったりミュージカルっぽかったりとちゃんぽん風味なので、台詞で状況説明等がないと理解しづらい人も、ちゃんぽん風味が居心地悪く感じる人も居ただろう。好みによって評価が相当分かれるのではないかと思う。ただしわたし個人の感想としては、この映画、久しぶりに観る「映画らしい映画」の1本で、非常に気持ちの良いものだった。満足至極である。

 モノクロームの「1919年」でシャンデリアの覆いが外され、見る見るうちに色彩が蘇りガス灯に次々と火が入る冒頭のシーンにはやはりぞくりと来た。ごった返すオペラ座の舞台裏の様子、『ハンニバル』リハーサル風景や『イル・ムート』のシーン、「プリマドンナ!」のシーンなどの猥雑&悪趣味スレスレの豪華絢爛さには惚れ惚れ。そうかと思うと「1919年」のモノクロシーンや、クリスティーヌとラウルが屋上でデュエットする場面、ダーエ家の墓地へ向かう雪のシーンでは抑えた色調の美しさを楽しめる。ファントムの「湖の家」に燦然と煌めく何百本もの蝋燭は恐ろしくも妖しい雰囲気たっぷり。
 何よりもやはり「マスカレード!」のシーンだけで「大画面を観に来て良かった」と思えた。豪華絢爛な群舞にうっとり、上下・左右・奥行きのそれぞれをフルに活かし切ったカメラワークに大感動。カメラが動くということは、観客の視点が動くということである。視点が動く時のあの何とも言えない浮遊感、非日常感。あの浮遊感なくて何の映画かと思う。本当に久し振りに、スクリーンに納まりきらないスケールの映像美を堪能することができて大満足。できたら品川IMAXの超巨大スクリーンに浸りたかったくらいである。

 そんな訳で本末転倒かもしれないけれど、わたしにとってストーリーは割合どうでも良かった。ただひたすら各シーンシーンの完成度の高さに惚れ惚れしていた。例えばなんということのないシーンだけれど、新しくやってきた2人の支配人がファントムについて相談しながらオペラ座の正面階段を昇る場面。美しい曲線を描く階段と、広大な玄関ホールのあちらこちらで床磨きをしているメイドさんたちが、何とも贅沢に支配人さんたちと同じ画面に同居していたりする。それがロングのままグーッとパンして、茶色と蜂蜜色の複雑な床の幾何学模様が万華鏡のように見え方を変えるのである。光の当たり方にもうちょっとコントラストがあったら、まるでレンブラントの絵画のようではないか。
 他のどのシーンも、おそらく相当に練られたコンテを切ってあるハズだと思う。「湖の家」へ降りて行く螺旋階段や、ファントムを追ってメグや警官たちが隠れ家へ踏み込むシーン。それらが小難しく「お芸術」っぽい演出ではなく、いかに観客の目を愉しませるかというそれだけを追求しているのが大変に心地良い。基本的に美しいのだけれど、適度に世俗性を残している味付けというか、いかにもエンターテインメントですよ、というスタンスを見失っていないのが天晴れである。

 主役3人のメロドラマがどうでもいいので、いくらファントムが「音楽の天使」と呼ぶには少々魅力不足でも、それゆえクリスティーヌが2人の男の間で心揺れ動く様子が説得力皆無でも(単なる優柔不断娘にしか見えない…)、ラウル(とファントム)がクリスティーヌのどこにそこまで惚れ込んだのか全然判らなくても、そんなことはまったく無問題。この作品の主役はあくまでも「パリ・オペラ座」という場所と設定、そこで繰り広げられる諸々のスペクタクルそのものだと言えよう。
 つまり「ファントム」が生身の人間の事情を背負っている、ということを下手に描かない方が良かったのかもしれない。わたしは不幸にも舞台の『オペラ座の怪人』を観たことはないのだが、映画パンフレットによれば舞台では、ファントムの生い立ちや苦悩については少々仄めかされる程度で詳しく描かれていなかったらしい。個人的考えだけれど、おそらくそっちの方が賢い方針だったのではないだろうか。マダム・ジリーの若い頃とファントムがオペラ座にやってくる顛末の辺りでは、流れがはっきりとダレていたような印象だった。

 映画が始まって割にすぐ「ファントム」の全身像が映ってしまったのも興醒めかもしれない。翻るマントの裾だけとか、悪さを仕掛ける黒手袋だけとか、ギリギリまでそういう謎めいた見せ方をした方が格好良かったような気がする。原作のように、どこからともなく朗々とした完璧な歌声が響いてくる…というのでもイイ。というか、ジェラルド・バトラー本人に無理に歌わせることもなかったのではないだろうか…(こそこそ)。
 映像的に唯一、惜しいなあ、あそこがもーちょっと…と思ったのは、各カットが気持ち短めだったこと。「マスカレード!」のシーンや『イル・ムート』上演中など、そこでもう1呼吸長く溜めてくれたらなあ、と慌しさを感じた。仮面舞踏会でのダンスシーン、ひらめく扇や足さばきをもうちょっとだけねっちりと観たかった。『イル・ムート』のバレエ・シーンでも、踊り子たちのステップをあと1秒だけ長く映して欲しかった。

 ともあれわたしとしては、全編これ映像を音楽を愉しむための1本であり、その出来栄えは上々だったと思う。音楽としては「The Phantom the Opera」のテーマが妙にロック調にアレンジされていてずっこけたのと、やはりクリスティーヌの歌声があまりに「ミュージカル声」だったのがいただけなかったが。カルロッタの歌は吹き替えだったと言うし、この際ついでだからファントムやクリスティーヌも吹き替えにしちゃったら良かったのにな、とチラリと思う。サラ・ブライトマンのクリスティーヌなんか聴いてみたかったかも…。
 TVの画面ではこの作品の魅力は半分以下に減少してしまうので、まずは映画館へ走るべきだろう。この世界が好みに合うかどうかは個人のシュミによるので万人向けとは言わないが、もしも幸いにして波長が合ったならば、得も言われぬ幸福なひと時を過ごせることだろう。そして映画を観終わったら、ぜひ舞台の『オペラ座の怪人』も観に行きたいと思うようになるのは間違いない。




ローレライ(樋口真嗣)
(2005年・日)
2005/03/18 17:54
ストーリー:1945年8月、第2次世界大戦末期。敗色濃厚な日本海軍は、ナチスドイツの新型潜水艦「ローレライ」を譲り受け、伊-507潜として就航させた。今までに何度も神出鬼没の活躍を見せたこの潜水艦は、アメリカ海軍などから「魔女」と恐れられていた。何としても新兵器の秘密を奪いたいアメリカと、日本を守る使命に燃える伊-507艦長・絹見真一(役所広司)、この戦争を無益なものと断じて独自の終戦工作を企む海軍エリート・浅倉良橘(堤真一)。それぞれの思惑が広大な海で複雑に絡み合うのだった。

出演:役所広司、堤真一、妻夫木聡、柳葉敏郎、香椎由宇


 例えば潜水艦に回頭式の砲台(というのか知らないけれど)が付いていたりしたら、水の抵抗を受けてどうもならんだろうとか、索敵方法だっていろいろあるんだし「ローレライ・システム」だけでそれほど優位に立てるだろうかとか、CGがあまりにチャチくて泣けてくるとか、無駄に出てきたとしか思えないキャラクターが多過ぎるとか、突っ込み所には事欠かないだろう。特に軍事マニアな方々にしてみれば、こんなの問題外とハナも引っ掛けられない恐れもある。
 とは言え、そういう瑕疵を補って余りある迫力と物語性が、本作品には満ちていたと思う。原作は未読なのだが、壮大なスケールの物語を、良くまあ2時間少々の尺にこれだけきっちり納めてみせたものだと感心する。映画を観て感動し、激しく原作も読みたくなっている今日この頃なのだった。プッシュしてくれた友人によれば「原作はもっと深くてイイ」そうなので、読むのが楽しみで仕方ない。

 絹見艦長(役所広司)に与えられた伊-507の任務は「ヒロシマに続く原爆投下を防ぐこと」。元エリート候補の絹見は、特攻作戦を「若い戦力の無駄遣い」と言い切って作戦本部の不興を買い、「腰抜け艦長」と呼ばれて左遷されていた人物である。そんな彼を伊-507の艦長に抜擢したのは、海軍軍司令部のエリート中のエリート浅倉大佐(堤真一)。物語が進むにつれ、伊-507の作戦出動は浅倉の抜け駆けとも言うべき独断専行であることが判明する。
 なぜ浅倉はそのような行動に出たのか。彼の真の目的は何か。「ローレライ・システム」の秘密は何なのか。少しずつ明らかになってくるディテールが、伊-507の根本的任務や各キャラクターの行動、敗戦直前の日本軍の混乱ぶりと絡み合って飽きさせない。2時間以上ある上映時間があっという間に感じられるほどのテンポと迫力を最後まで保ったのも素晴らしかった。

 腰抜けと呼ばれようが部下に「最後まで諦めるな、死ぬな」と説き続ける絹見艦長は「永遠の父親像」を感じさせ、最初は絹見に反発しつつも次第にまとまっていく伊-507の寄せ集め乗員たちはちょっとスポコン風味。渋い軍医・時岡(國村隼)とか、終戦交渉に尽力をする元駐米大使・西宮(橋爪功)もいい味を出している。事件の目撃者役である若者・折笠征人(妻夫木聡)も、濃ゆいおぢさん俳優に押されながらもなかなか好演していた。「青島ぁぁぁッ」と叫びだしそうでハラハラした木崎航海長(柳葉敏郎)も、期待通りの熱演である。
 個人的に最もヤラレたキャラクターは、言わずもがなの浅倉大佐。冒頭で絹見に語ったドストエフスキーの『罪と罰』に関するエピソードが、後に軍医長・時岡によって解説されるシーンでは思わず爆涙。多感な少女時代(汗)に受けた『罪と罰』読後の衝撃が、浅倉大佐の使命感、情熱、絶望、哀しい狂気とシンクロしてしまって胸が痛かった。「神殺し」、まさにソレなのである。そして救われないと判っていてもなお進まずにいられない浅倉大佐の追い詰められた心が辛い。堤真一さんの演技もメチャクチャ良かったし。
 友人によれば原作には、浅倉大佐と『罪と罰』のエピソードは出て来ないのだそうだ。ちょっと寂しい気もするが、わたしの印象によればやっぱり原作でもキイとなるキャラクターは浅倉大佐だと思える。映画では描き切れなかった彼の複雑な内面とか、ああいった行動に出るまでのさまざまな葛藤、野心と挫折などなど、激しく期待してしまうのである。

 その他の設定では『新世紀エヴァンゲリオン』とか、秋山瑞人氏の『イリヤの空、UFOの夏』とか、最終兵器ナントカあたりを彷彿とさせる。まあ言わばある程度使い古されたネタなのだけれど、味付けの仕方はまずまず好印象である。パウラ(香椎由宇)はあくまで謎めいてエキゾチックだったし、折笠青年との日向ぼっこシーンはやっぱり微笑ましかった。水を媒介とするというアイディアも効果的。
 余韻を残したラストシーンも良かった。「魔女」が「魔女」のまま消えるその時の小さな偶然と、アメリカ海軍の目撃者・マイノット中尉のモノローグ〜エンディングが、普通に考えれば絶望的な運命に救いを与えていたと思う。あのラストシーン、きっちり見せられてしまったら、恐らく後味が耐え難いまでに辛くなってしまったハズである。甘いかもしれないけれど、個人的にはああいうまとめ方に拍手を送りたい。エンディングがその分ちょっと説明し過ぎかなとは思ったけれど。腕時計はちらりと見せるだけで良かったのではないだろうか。

 ともあれ個人的には、昨年夏の『スウィング・ガールズ』以来のスマッシュヒットといった印象(性格は全然違うけれど)。エンターテインメントと一言で括るのは申し訳ないくらい、鑑賞後にさまざまな思いを呼び起こす1本で、その割に後味が爽やかなのも有り難いのである。絵コンテ協力に庵野秀明氏が名を連ねていたり、B-29のマークデザインが押井守氏だったりと、各方面の興味も引いたのだろうなーというあたりも見もの。ぜひ映画館の大きなスクリーンで堪能したい作品である。




ピッチブラック(デヴィッド・トゥーヒー)
PITCH BLACK(2000年・米豪)
2005/04/10 19:00
ストーリー:辺境航路を行く宇宙船が、隕石群の衝突のためにとある惑星に不時着した。太陽が3つあるその星には、見渡す限り延々と砂漠が続くのみで生物の影はなく、やっと発見した学術調査隊のキャンプも無人の廃墟。生き残った乗客たちは、キャンプに残されていた小型艇を修理して惑星からの脱出を図るが、夜の訪れと共に恐ろしい試練に見舞われる。

出演:ヴィン・ディーゼル、ラダ・ミッチェル、コール・ハウザー


 22年に1度しか「夜」が来なかったら? というワン・アイディア・ストーリーだが、これが思いの他良くまとまっている良質B級SFサスペンスであった。評判を小耳に挟んでいたのでCSで放映されたのをチャンスにTVで鑑賞。なるほど本作品の続編として『リディック』を観たならば、そりゃあ怒髪天を衝くであろうと大納得。

 コールド・スリープ状態の乗員・乗客を積んだ宇宙船が航路を外れ、とある惑星にじりじりと近づくシーンにタイトルがカブるのだが、まずこの情景が美しい。そこに降りかかる隕石群、明滅するアラート、叩き起こされる乗員たち。隕石群のせいで船体が破損し、航宙士フライ(ラダ・ミッチェル)の必死の奮闘によって辛うじて地表面への激突・大破だけは免れる。いかにも辺境定期便っぽく古ぼけたコックピットとか、やたらと古めかしい手動のブレーキ・レヴァーなどのディテールもいい雰囲気を出していて、この不時着シーンだけで内容にグーッと引き込まれてしまった。
 生き残った10名弱の中には護送中の凶悪犯も居て、これがリディック(ヴィン・ディーゼル)。リディック以外の乗客たちは、いかにして凶悪犯に出し抜かれないようにこの惑星を脱出するかに虎視眈々とする。とはいえもちろん目的のために一致団結しているハズもなく、メンバーそれぞれが腹に一物ある感じで、危ういバランスの上にチームワークがやっとこさ成り立っている。基本的にパニック物なのだが、パニックの元凶そのものよりもそれを受け止める「人間たちのドラマ」に重点が置かれている印象である。

 スケールは違うとして、かの名作『エイリアン』を髣髴とさせる状況設定も面白いのだが、何より映像が独特で美しい。黄色い双子の太陽が沈むと青い太陽が昇ってくるシーン、遠くに見えるゴツゴツとした山、基本的に抑えた色調なのだが、それが不毛の惑星という世界観を非常に良く表わしていた。何と言うか、本当に「リアル」なのである。こちらの咽喉まで渇いてくる気がするほどだった。
 リディックや、後半に登場するモンスターの視野に乗ってみるという、視覚チェンジの試みもちょっと面白い。水滴と共に切り替わるなどシーンとシーンの繋ぎ目もなかなか凝っていて好印象。制作費は相当ケチられていたらしいのだが、そういう中でも良く頑張ってヤリクリしていたと思う。「闇」の使い方がまたイイのである。

 予算のせいかモンスターの造形はちょっとトホホな感じだったけれど、先述の通り物語の重点が「モンスターとの戦い」ではなくて「極限状況に置かれた人間たち」なので問題はない。独りではどうにもならない状況下、とりあえずそこそこのところまではと皆が共同作業に励む。ポイントとなるのは「じゃあ伸るか反るかの土壇場になったらどうする?」という点であろう。その「土壇場」でのキャラクター性が描き分けられていて良かったのである。
 誰もが恐れる凶悪犯リディック役のヴィン・ディーゼルは常に冷静沈着で何とも格好いい。『リディック』を観ちゃっていたのでどのキャラが生き残るかも大体見当が付いてしまったのだけれど、それでもワンパターンに陥ることのない「キャラクターの減らし方」が上手くて毎回ドッキリする。ライターの灯で浮かび上がる全方位モンスターのシーンには思わずゾーッとしてしまった。そしてクライマックスの悩めるキャプテンとリディックの対決シーンは必見。リディックが思わず漏らす「Not for me, not for me!」にはちょっと胸を突かれた。

 問答無用の凶悪犯を謳っていた割にはリディックが結構善人じゃないかとか(もうちょっと極悪人として描いていても良かったかも)、一見善人実は小悪党というサブキャラの使い方がもったいなかったとか、細かいところでいろいろ不満はある。しかし一発アイディアを大事に魅せるストーリー、極限状態の人間模様に絞った見せ場、いかにもSF好きが造りましたという映像美に文句なく合格点。冒頭のシーンとか日食のシーンはぜひとも劇場で観たかった…。




ロング・エンゲージメント(ジャン・ピエール・ジュネ)
A VERY LONG ENGAGEMENT(2004年・仏)
2005/04/10 22:42
ストーリー:第1次世界大戦下のフランス軍、故意の負傷により軍法会議にかけられた5人が死刑を宣告され、ドイツ軍との最前線「ビンゴ・クレピュスキュル」に置き去りにされた。一番若い兵士・マネク(ギャスパー・ウリエル)の婚約者・マチルド(オドレイ・トトゥ)はマネクの生存を信じ、わずかな手掛かりを元に行方を捜し始める。

出演:オドレイ・トトゥ、ギャスパー・ウリエル、ドミニク・ピノン、クロヴィス・コルニャック、アルベール・デュポンテル


 のっけからジメジメでグチャグチャで血みどろなシーンの連続に、スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』を観た時のような違和感に襲われた。これはもしやハズシてしまったのだろうかとチラリと思ったのだがそれはまったくの杞憂、やっぱりジュネ作品の映像美は凄いと、スクリーンにのめり込むような133分を過ごすことができた。何が素晴らしいと言って、1つ1つのシーンが計算し尽くされた色彩と構図とテンションを保っている点で、まさに「映像の魔術師」の面目躍如といったところ。
 ブノワが徴兵されるシーンで風に舞い散る牧草、灯台の螺旋階段、図書館の本棚、戦後の「ビンゴ・クレピュスキュル」平原、一面の墓標の立ち並ぶシーン。ちょっと思い出すだけでももっともっとたくさんの印象的なシーンが浮かんでくる。空撮やCGを駆使したダイナミックなシーンとの対比もまた素晴らしい。

 登場するキャラクターの一風変わったエピソード紹介など、少々悪趣味&ブラックなジュネ・テイストもちらほら見える。ただし全体的にはそういった味付けは薄く、「思うところに着地しないでゾーッとする」ジュネ監督一流のブラック・ユーモア好きなわたしとしては少々物足りない。フランス人に取って第1次世界大戦の悲惨な記憶は特別な意味を持つものだと聞いた事があるのだが、もしかしたらそういう理由でさすがのジュネ監督も、少々真面目に作ってしまったのだろうか(普段が不真面目だという意味にあらず)。
 個人的に一番のお気に入りは郵便配達のおじさん。登場するたびにシルヴァン(ドミニク・ピノン)とやり取りする掛け合いが非常に楽しく、シリアスなストーリー展開中の息抜きとなっていた。

 物語はラヴ・ストーリーというよりも、マネクの行方を捜すマチルドによって掘り起こされる、脇役キャラクター1人1人の背後にある人生模様紹介と呼びたい感じ。大袈裟な言い方をすれば、あの一面の墓標の下に眠る兵士たちそれぞれが、人間1人分のドラマを生き抜いて来たことを忘れないでいるために、わたしはこの作品を観たのだと思う。謎解きそのものは特別入り組んでいると感じなかったが、転々と持ち主を替える「ドイツ兵の長靴」や「認識票の名前」に、関わる人々の悲喜交々を感じて胸が痛かった。
 おっかない顔をしてマネク捜しに一生懸命なマチルドと対照的に、涙も涸れ果てた冷静な表情で淡々と復讐を続けるティナ(マリオン・コティヤール)のエピソードが絡んでくる終盤も見所。どちらかというと個人的には、ティナが主人公の物語を観てみたい気がする。チョイ役で出て来るジョディ・フォスターの流暢なフランス語にも、相変わらずの存在感にも驚いたが、個人的には彼女の役はなかった方が物語がダレなかったと思う。

 オドレイ・トトゥのマチルドが20歳という設定はちょっと無理があった感じだし、徹頭徹尾ヘタレなマネクは正直シュミではないのだが、幼い2人の馴れ初めから可愛らしい告白の様子、初々しいラヴ・シーンは、2人のハッピー・エンドを願う気持ちを誘ってやまない。マチルドの験担ぎの癖は覚えがあることなのだが、マネクの無事を占うマチルドの必死な様子はわたしなどとは比べ物にならない切実さで、「車よりも先にカーヴに辿り着けたら」の場面の彼女の表情にはもらい泣きしそうになってしまった。
 マネクの無事を祈りながらテューバ(と字幕にはあったが、あれはどう見てもユーフォニウムではないだろうか)を吹くシーンも印象的。奏でていたのはもしかすると「ソルヴェイグの歌」ではなかったかと思い、その選曲にまたホロリと来た。
 ラスト・シーンはやっぱりああするしかなかったのかなあとちょっとだけ不満。生死不明なまま連絡もなかった理由がどうにも安易な気がする。マチルドの微笑みにはほんのりと暖かい気持ちになったけれど、「いやー大変なのはこれからだと思うなあ」と内心突っ込みを入れてしまったのが我ながらちょっとヤな感じである。

 特別に印象的だったのは、やはり偏執的なまでに繰り返される戦場のシーン。砲弾が着弾する度に降り注ぐ土砂、耳をつんざく爆音、身体の芯まで冷え切らせる冷たい雨などなど。戦地へ送られたたくさんの兵士が心を病んで帰って来たというけれど、映像で観ているだけで口の中がジャリジャリしてくるような気がするこんな地に長く居たら、確かに正気を保って居られる方がおかしいのだろう。
 『西部戦線異状なし』を観た時にも思ったのだが、自分の父親や夫や兄弟や息子をこんな場所に送りたい人間など居るハズもない。軍隊を指揮する立場の人間だって、大事な部下を悲惨な目になど遭わせたくないだろう。現代の戦争が精密爆撃やロボット兵器中心の「遠隔戦争」に移りつつあるのはそういう理由もあるのかも。判らないでもないけれど、そのせいで命を落とすのが今度は名もない一般市民になってしまうのだろうかと考え、どうしようもない遣る瀬無さを感じて帰宅したのだった。

 なにはともあれ映画好きなら必見の一本。ぜひとも映画館のスクリーンで映像美に酔いしれていただきたい。




愛してる、愛してない…(レティシア・コロンバニ)
A La Folie... Pas Du Tout(2002年・仏)
2005/04/11 12:30
ストーリー:フランス、ボルドー。美術学校に通うアンジェリク(オドレイ・トトゥ)の恋人は心臓外科医のロイック(サミュエル・ル・ビアン)。彼には弁護士で妊娠中の妻・ラシェル(イザベル・カレ)が居るが、アンジェリクは「もうじきちゃんと離婚してくれる」と信じている。あまりにも一途な彼女に、友人エロイーズ(ソフィー・ギルマン)や男友達ダヴィッド(クレマン・シボニー)も心配を通り越して困惑するようになる。

出演:オドレイ・トトゥ、サミュエル・ル・ビアン、イザベル・カレ、クレマン・シボニー、ソフィー・ギルマン


 何よりもまず、この作品に出演を決めたオドレイ・トトゥの度胸というか女優根性というかチャレンジ精神に脱帽。観客が『アメリ』を観ていることを大前提にし、なおかつ「裏アメリ」とでも呼ぶしかないサスペンスフルな本作品を叩きつけているも同然である。先日観た『ロング・エンゲージメント』の主演繋がりでCSの放送をTV鑑賞したのだが、今までのオドレイ主演作品で観た3本の中では、これが一番好みかもしれない。

 前半はともかくオドレイ・トトゥの可愛らしい魅力全開でストーリーが進む。街のお花屋さんで薔薇に埋もれるアンジェリクのシーンで始まり、ロイックに夢中な彼女の日常生活、カフェでのバイトの様子、うきうき念入りにメイクしてデートに出掛けるシーン、公園でのスケッチなどなど、小洒落たボルドーの風景とあいまって実に綺麗で可愛らしい映像が続く。監督・脚本のレティシア・コロンバニ氏はこれが劇場長編デビュー作だというが、到底そうとは信じられないほどのセンスである。
 やっぱりフランス映画はお洒落だけど、この後どうせすれ違ったり痴話喧嘩したり横恋慕されたりいろいろあって、結局は仲直りしてハッピー・エンドにまとまるのだろう。そういう作品もたまにはいいけれど、わたしの好みにはあまり合わないから、ちょっと時間を無駄にしてしまっただろうか…と思った辺りでドンデン返しの後半が始まった。前半の視点を「アンジェリク」のものから「客観的第三者」に替えただけで、エピソードも登場人物もすべて同じなのだが、何もかもがガラリと様子を変えてしまう。「主観」と「客観」の違いを上手く活かした手法という点では、文豪・芥川龍之介の『藪の中』を髣髴とさせる…というのは褒めすぎだろうか。

 ディテールに触れるとネタバレになってしまうが、「夢見る乙女」がこんなにも恐ろしい存在であるということを、情け容赦なく突き付けるコロンバニ監督のポリシーというかスタンスをちょっと訊いてみたい。言わぬが花の部分も世の中にはあるではないですか(涙)。次回作もぜひ観てみたいと思った監督さん登場である。
 コラージュの「猫ちゃん」とか名前入り合鍵の謎などなど、複雑で凝っているけれどもちゃんと終盤には種明かしが用意されている伏線もいい。アンジェリクが美術専攻の学生という設定を活かしきったラストには、思わず背中の産毛が逆立つほどゾッとした。怖っ。

 また個人的には、オドレイ・トトゥの演技力を改めて認識した1本でもあった。黒目がちの大きな目を向けてにっこり笑うあの可愛らしい笑顔、どうしてこんなに怖いのだろうと思っていたのだが、実は多くの場合「目は笑っていない」ということに初めて気付いた。観る者の解釈と演出によっていかようにも表情付けができる不思議な笑顔だと思う。『アメリ』や本作品では「猶予付き笑顔」の不気味さが上手く出ていたし、『ロング・エンゲージメント』の重要なシーンではちゃんと幸福な笑顔を使い分けていた。個々の作品だけでなくキャリア全体を考えて意図したことだとしたら凄いと思う。
 今までに観た3本とも全部「夢見がちな乙女」の役回りだったので、空想系不思議ちゃんが定着してしまったら困らないだろうかとチラリと思うのだが、案外と抽斗の数も深さもまだまだ余裕がありそう。個人的にはコロンバニ監督・脚本、トトゥ主演での『ジャンヌ・ダルク』を観てみたいと激しく期待。「信念」の持つ裏表それぞれの性格、その素晴らしさと恐ろしさ両方を描き出せるんではないかと思うのだが。…フランス人には神聖な話題だから無理だろうか。

 そんな訳で、『アメリ』はなかなかなんだけどちょっとどうも…と思った人なら、騙されたと思って1度ぜひ観ていただきたい作品である。わたしとしてはやはり『アメリ』については、ジュネ監督独特のシュールさやブラック・ユーモアを「観ると幸せになれる」というコピーが台無しにしてしまったと未だに悔しく思っているのだが、情状酌量の余地ない本作品はその辺のモヤモヤを吹っ飛ばしてくれた。
 既存作品を前提にする辺り多少ズルい部分もあるし、作品全体の洗練という点ではジュネ監督にまだまだ及ばないのだが、フランス映画の懐の深さとウィットを存分に楽しめるだろう。




交渉人 真下正義(本広克行)
(2005年・日)
2005/05/11 16:30
ストーリー:2004年、クリスマス・イヴ。「特別な日」のために街に繰り出す人々で普段よりも一際混雑する東京の地下鉄だったが、管理・運営する東京トランスポーテーション・レールウェイ(TTR)はトラブルに見舞われていた。オート・パイロットのシステムがダウンし、マニュアル運転で過密ダイヤを捌かなくてはならなかったのだ。さらにクモE4-600と呼ばれる試作車両がハッキングを受けて暴走を始め、「弾丸ライナー」と名乗る犯人は日本初の交渉人・真下(ユースケ・サンタマリア)に名指しで挑んでくる。

出演:ユースケ・サンタマリア、國村隼、寺島進、小泉孝太郎、水野美紀、柳葉敏郎


 このシリーズくらい長い付き合いになると、ストーリーの面白さを味わう以外にも例えば「真下君は元気でやってるかな?」というような、いわば遠縁のおばちゃん的親近感で劇場に足を運ぶことになる。特に本作品は「踊る大捜査線シリーズ」の本筋からはやや外れた立ち位置にあってその性格が濃厚だったかもしれない。サブ・キャラの真下警視が結構お気に入りのわたしは「誰も怪我しませんように」などと妙な思い入れをしつつ、全編に散りばめられた小ネタや脱線、お遊び探しも楽しみながら、127分間わくわく観ることができた。
 逆に言えばそういった固定ファン的な楽しみ方が出来ない人には向かない作品とも呼べるだろう。フリの客を100%楽しませることが出来る作品かというとやや疑問が残るが、今さらこのシリーズに、敢えてここから足を突っ込む人がどれだけ居るかと考えれば、スタンス的には合格点だと思う。

 細かい突っ込み所を数え上げればキリがないし、観終わった後に感動の涙で前が見えないということもない。けれどわたしとしてはかなり満足で、爽やかで温かい気持ちに浸ることができた。作品規模としては必ずしも大作ではないけれど、いかにも真下警視らしい真面目でちょっとトボけた仕事ぶりを覗かせてもらった、という印象である。
 まあその割に仕掛けは相当大掛かりなので、あれだけ大騒ぎしてこういう終わり方をするの? と拍子抜けすることもあるかもしれない。特に謎解きに関しては不満を感じる人もだいぶいらっしゃるだろう。わたしとしてはおそらくこの夏公開の『容疑者 室井慎次』に向けてのスピン・アウトだと思っているので、別に不完全燃焼な気分も感じない。しかも『容疑者 室井慎次』が別に続編になっていなくても許してしまうような気もする。手ぬるいだろうか。
 つまりプロモーションとしてより「良心的」にするならば、この作品は「初夏の交渉課準備室スペシャル」とでも銘打った2時間ドラマに仕立てるべきだったかもしれない。ただそうするとここまでお金をかけられないだろうし、驀進するクモE4-600はやっぱり大画面ならではだし…。

 パニック・シーンでは嫌でもJR西日本のあの脱線事故を思い出して心穏やかでは居られなかった。その点ではタイミング的に不運だったとしか言いようがない。しかしそれを除けば後は、文句の付けようない手綱捌きでテンポの緩急を自由自在に操り、スリリングなストーリー展開を楽しませてもらった。場面転換やカメラ・ワークもなかなかだったと思う。
 内容に絡んで来るので詳細は語れないが、今回は特にBGMの選び方も秀逸だった。クライマックスにかけてのシーンでは、ジリジリと上がって行く緊張感とBGMがどんぴしゃのシンクロをしていて心拍数が急上昇。上海太郎舞踏公司の「聴くな。〜Bravissimo〜」以来条件反射的にアタマに轟きわたる「♪麻雀やりたいやりたいぞ〜」が、いつの間にやらすっかり蹴散らされていたのには驚いた。エンディング・テーマの入り方もぴったりで、季節としては全然正反対ながらクリスマスの浮き立つ気分を掻き立てられてしまった。

 そしていつものことながら、ユースケ・サンタマリアの地味な演技達者ぶりが光る作品だったと思う。真面目で善良だが、どこまで本気でどこからふざけているのかなかなか判らない底知れない1面をも持つ、一筋縄では行かないとっぽいエリート・真下正義を良く表現していた。長く演じているハマリ役だからこその面もあるだろうけれど、一歩間違うと単なるヘタレ男になってしまうキャラクターをここまで愛すべき人間として演じるのは、実はなかなか難しいことなのではないだろうか。
 最初は楚々としたお嬢さんだったのに、シリーズを重ねるごとに芯の強さを見せ付ける雪乃さんとの、なかなか進展しない恋路も見どころ。実は雪乃さんの本心は…というのが読み取れる劇場の空席シーンは微笑ましかった(ただしアレは1度で良かったと思う)。ラストで間違ったケースを開けた時の雪乃さんと真下さんの表情には大爆笑必至である。個人的な大贔屓のSAT・草壁中隊長(高杉亘)も出て来て大萌えできたし、TTR総合指令長・片岡さん(國村隼)や線引屋・熊沢さん(金田龍之介)のおじさんコンビも味わい深かった。指揮者・前主十路(西村雅彦)や広報主任・矢野さん(石井正則)にも笑ってしまった。
 惜しむらくはどの人も「ここぞ」という見せ場がなかったこと。団塊の世代が一斉に定年を迎える「2007年問題」に絡めて、熟年組から若年組への伝統や技術の継承というような描き方をしてくれたら格好良かったのにと思う。そしてできれば真下さんは徹底的に安楽椅子探偵に徹した方がより緊迫感が増したかもしれない。ただしそうするとあの爆笑ラスト・シーンへ繋がらないのだけれど。

 「鉄」な方々がどうご覧になるかは判らないけれど、フリーゲージトレインのアイディアはなかなか面白いし、例の都市伝説を絡める展開にもハラハラできた。ちなみに「クモ」とは「ク=運転台付き車両」、「モ=モーター付き車両」で、自分で走れる先頭用車両を表す(ハズである)。他に鉄道マニア御用達な専門用語もいろいろ出てきたので、「鉄っちゃん」ならまた違った楽しみ方も出来るのではないだろうか。
 小ネタやお遊び探しもまだまだやり残しているので、できたらあと2、3回は観たいなあと思える作品だった。自他共に認める「鉄っちゃん」な家人を連れて行ったらいろいろ解説(?)もしてもらえるかもしれない(ケチも付けられるだろうが)。
 そして言うまでもないが、エンディング・テロップもきっちり最後まで観ましょう(笑)。




ミリオンダラー・ベイビー(クリント・イーストウッド)
Million Dollar Baby(2004年・米)
2005/06/07 18:57
ストーリー:ボクシング・ジムを営む老人・フランキー(クリント・イーストウッド)に押し掛け弟子入りしたマギー(ヒラリー・スワンク)。31歳まで働きながら自己流のトレーニングを積んできた彼女は、渋々トレーナーを引き受けたフランキーの指導の下、めきめきと力を付けて連戦連勝のボクサーに成長する。とうとう女子ウェルター級タイトル・マッチへ挑むマギー。しかしそこには思いがけない試練が待っていた。

出演:ヒラリー・スワンク、クリント・イーストウッド、モーガン・フリーマン


 エンド・ロールのBGMを聞きながら、切なく、痛い、何とも言いようのない涙が、後から後から零れて困ってしまうような作品。『ミスティック・リヴァー』以前は「良くも悪くも強いアメリカの男」的イメージが強くて、どちらかというと苦手だったクリント・イーストウッドという人に、今回それこそ心からのリスペクトを捧げたくなってしまった。ラスト・シーンについては賛否両論あるだろう。信条的にどうしても受け容れられない人も居るだろうと思いつつ、フランキーの最後の選択さえもある意味祝福できるような、そんな気分になって帰宅した。
 個人的にはあのラスト・シーン、フランキーとマギーの愛の成就であると思っている。ハッピー・エンドの1形態と呼んでもいい。ただしイーストウッド自身には、ひょっとしたらハッピー、アンハッピーの区別はないのかもしれない。そこにそういう1つの人生があるということ、ただそれだけを淡々と語り聞かせ、後は観る者がどう受け止めるかに任せているように見えた。

 娘に絶縁された父と、父親を亡くし、母親や弟妹には疎まれている娘。フランキーもマギーも真の意味での「家族」を持っていない。家族に弾かれた彼らが、ボクシングという「血」を通じて強固に結ばれていく過程が、ただひたすら地味な(しかしカメラ・ワークが光る非常に美しい)映像と音楽で過不足なく丁寧に描かれている。大袈裟なアクションも過剰な演出もなく、はっきりと口に出しての I love you の言葉すらない。けれどシンプルな1つ1つのシーン、ギターの爪弾きのような慎ましやかなテーマ曲を思い浮かべるたび、そこにあまりにも断ち難い絆と信頼と愛情を感じ取ることができるだろう。
 ストイックでシンプルでアルティメットな愛の物語である。ヤラレてしまいました…。

 フランキーがなぜ実の娘ケイティに拒絶されているのか、マギーが母や弟妹となぜあそこまで亀裂を深めてしまったのか、作中で語られることはない。マギーの母や弟妹はともかく、ケイティに至っては「差出人へ返送のこと」という何十通もの手紙以外、ほとんど登場さえしないのである。フツーのハリウッド映画だったら、エピソードの1つとしてその辺を事細かに描き出し、場合によっては和解させちゃったりするかもしれない。本作品は観客を、そういう意味で甘やかしてはくれない。
 カタルシスはないし、何となく座り心地も良くないかもしれない。けれど、レモン・パイへのフランキーの拘りとか、マギーへ贈った緑のガウン、背中に刺繍されたアイリッシュ・ハープと「モ・クシュラ」、そういったディテールから彼の心に隠されている「ホーム」への愛しさを汲み取ることができたように思う。そして印象的だったのは、自分の誕生日をスピード・バッグで祝う時のマギーの輝くような笑顔。彼女がどんなにボクシングに賭けているか、そのボクシングのトレーナーであるフランキーへの思い入れがどれだけ強かったかをさり気なく示したいいシーンだった。

 23年前からフランキーと組んでいる元ボクサーのスクラップ(モーガン・フリーマン)の、静かだけれど愛情に満ちた眼差しもいい。孤独な2人の老人と、同じく孤独な1人の女。寂しい人間が3人揃ってもやっぱり寂しいのだけれど、3人が集まるジムにはひっそりとささやかな「ホーム」の気配が間違いなくあった。
 スクラップの最後の試合でタオルを投げられなかったことへの負い目が生きてくる終盤は圧巻。最後の最後まで壮絶な闘いを続けたマギーがとうとうファイティング・ポーズを取れなくなった時、フランキーとしてはやはりああするしかなかったのだろうな、と思う。自分がその立場になったらどうするかは判らないし、善悪も軽々しく量れることではあるまいが。
 最後の最後、なぜスクラップが語り手だったのかが判明するシーンも素晴らしい。

 「家族」について、「人生」について、鑑賞後に静かに考えたくなる珠玉の1本である。陰影の効いた映像がとにかく美しいので、ぜひとも映画館で鑑賞することをお勧めいたします。




スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐(ジョージ・ルーカス)
Star Wars:Episode III−Revenge of the Sith(2005年・米)
2005/07/13 15:28
ストーリー:ドゥークー伯爵やグリーヴァス将軍の率いるドロイド軍と共和国との戦いが続いていた。共和国の英雄として名の高いオビ=ワン(ユアン・マクレガー)とアナキン(ヘイデン・クリステンセン)は誘拐されたパルパティーン議長(イアン・マクディアミッド)を救い出す任務に成功するなど活躍していたが、アナキンはパドメ(ナタリー・ポートマン)を失うのではないかという予感に不安を覚え、彼女と共に過ごす時間でさえも心を完全に安らがせることは出来なかった。その不安に付け込み、ダーク・サイドが誘惑を仕掛けて来る。

出演:ユアン・マクレガー、ヘイデン・クリステンセン、ナタリー・ポートマン、イアン・マクディアミッド、フランク・オズ(声)


 一応、感無量…という気持ちも沸き起こる。EP4から30年近くを経て、ようやく一大叙事詩の輪が閉じた。オープニングで、テーマ曲の管楽器が「ジャーン♪」と鳴り響く時には、否応なしに心躍ってしまった。ダース・ヴェイダーがシュゴゴー・パーを最初に発するシーンでは、それなりに「おお!」という感慨もあった。EP1やEP2を観た後のような「何だこれ」という脱力感もあまりなかったし、とりあえず新3部作の中では一番面白かったと言っておこう。

 だがしかし。「ああここからあれこれあって、EP4に繋がって行くんだな」という期待感が、不思議なまでに自分の中に沸き起こらないのである。何故だろうととっくり考えてみると、どうもわたしの中では、本作で誕生したダース・ヴェイダー卿とEP4で圧倒的な存在感を誇った悪の権化・ダース・ヴェイダー卿とが、同じ人物としてしっくり来ないというのが一番の理由だろうか。
 最初にEP4を観たのが子供の時だったからかもしれない。強大な悪の帝国とそれに対抗する少数の反乱軍の物語を、生まれて初めて自分でそう意識した上で、大きなスクリーンで目の当たりにした衝撃が余りにも強かったのだろうとは思う。しかし、信じられないほど巨大な存在、それこそパルパティーン皇帝をそっちのけにして「悪」を体現していたダース・ヴェイダーには、出来ればもうちょっと止むを得ない切実な過去を背負っていて欲しかったと思うのが正直なところである。その問答無用な存在感の故に、子供だったわたしは「悪役・ダース・ヴェイダー」に惹かれたのだ。

 EP2の時からアナキンには1mmも共感を覚えなかったけれど、本作でもやっぱり彼にはイライラしっ放し。アナキンがああだったからこそダーク・サイドに付け込まれたのだとは言えるだろうが、「1人の女のために全てを失う」のがメイン・ストーリーならば、やっぱりもうちょっと切実感というか「他にどうしようもなかったんだ」という苦悩と葛藤が見たかった。うっかりするとアナキンは、勝手に悪夢に怯えた挙句に自業自得で墓穴を掘った信じられない阿呆に見えてしまうのである。
 EP2で母を助けられなかった後悔や、その時のオビ=ワンに対する不満、ひいてはジェダイ評議会に対する不信感、その諸々が全部悪い方へ悪い方へ向かったのだという「因果」を、もう少し丁寧に描いて欲しかった。おかしいおかしいと思いつつパルパティーン議長に傾いてしまう心の動きに今ひとつ説得力がない。ジェダイ評議会は確かにアナキンに多少厳しかったかもしれないけれど、「卓袱台を引っ繰り返す」に充分なほどだったかというとやっぱり違うと感じるのである。

 漫画だけれど清水玲子さんの『月の子』で、主人公が「全世界と引換えにしても彼女が大切なんだ」と悲愴な決意をする、素晴らしく印象的かつ感動的な場面がある。アナキンが「パドメは僕の命です」と訴えるシーンで、何故かあの時のアート・ガイルを思い出した。アートに感じたシンパシーをアナキンにも感じることができれば、彼がダーク・サイドへ堕ちて行く成り行きにも納得が行ったのだろうけれど…。ううむ…。

 旧3部作ではあれだけストイックで強かったジェダイたちがなんだかあまりにも呆気なく倒されてしまうのも切ない。この時の不手際を教訓とし、マスター・ヨーダが明かした秘密に則って新たに修行をやりなおした結果、EP4以降の「ジェダイの騎士たち」の魅力が醸し出されたのかもしれない。その辺は「そうかあと20年経たないとああいう渋みは出て来ないのか」と納得。どちらかと言うとむしろ、EP4までのオビ=ワンの修行ぶりを見たいかもしれない。
 己を完全に律し、死さえ超越し、宇宙のフォースを自在に操る修験者として印象的だった「ジェダイの騎士」が、新3部作では欲も迷いもある単なるエスパー集団になっていたということが、わたしが今ひとつ新3部作に没頭できない理由の1つなのは間違いない。物語の進行上、仕方のない設定ではあったのだが。

 とは言えやはり超大作のキャッチ・フレーズに恥じることなく、娯楽作品としてだけ考えればまずまずいい線には行っているとも思う。冒頭の宇宙空間でのドッグ・ファイトの場面、コルサントへの不時着シーンの迫力などは掴みとしては文句ナシ。ヨーダ様は本作品でも格好良くてそれにも満足。ヨーダ様とダース・シディアスの一騎打ちのシーン、大会議場にグイーンと迫り出すところはヴィジュアルとしても好みでゾクリとした。
 オビ=ワンとアナキンの師弟対決も見せ場としての迫力をちゃんと持ってはいたと思う。ただし別に舞台設定にあそこまで凝る必要性もなかったのでは、と感じないでもない。そして息の根を止めなかったのは何故なんだ! という辺りで多少ずっこけてしまった。トドメを刺そうとしたけれど、どうしても捨てきれない師弟としての愛情の故に出来ませんでした、という迷いがあっても良かったのではないだろうか。「これから起こること」を観客はみんな知っているのだから、「もしもあの時」という岐路にはそれなりの重みが欲しい。

 そんな感じで、特に大きな不満もない代わりに、30年読み続けた長編の最後のページを閉じるに相応しい満足感もないという、ちょっと中途半端な印象が残った。ひとまずレディス・デイ(+ネット予約手数料)1100円分の値打ちはあったな、という感じである。お祭りなので観るならやっぱり劇場の大スクリーンとゴージャスな音響を選びたい。
 ただし個人的には『スター・ウォーズ』の物語として新3部作は「なかったこと」にしてしまおう、とも思っている(ごめんなさい)。




逆境ナイン(羽住英一郎)
(2005年・日)
2005/07/17 19:16
ストーリー:「全力でないものは死すべし」が校訓の全力学園。弱小野球部は部員9人ぽっきりで負け続きのため、校長(藤岡弘、)から廃部を言い渡されてしまう。キャプテン・不屈闘志(玉山鉄二)の粘りで、「甲子園出場を決めたら廃部は撤回」という約束を取り付けたものの、赤点、バイト、失恋などなど、立ちはだかる「逆境」は引きも切らない。何とか漕ぎ付けた三重県大会決勝戦、強豪・日の出商業相手のスコアは112対0。残るは9回裏の攻撃のみ、選手たちはボロボロ。全力学園に勝機はあるのかっ!

出演:玉山鉄二、堀北真希、田中直樹、藤岡弘、


 もう大爆笑。そして原作者・島本和彦氏の独特の(暑苦しいまでに濃ゆくて迫力満点な)世界が、ここまで見事に映像化されたということに大感動。115分間、わたしはずっと涙が出るほどに笑い転げていた。鑑賞後の爽快感で言えば、この夏に観た(そして観るだろう)作品の中でピカ1の場外ホームランである。日常に行き詰まりを感じている人、何となく心が晴れない人はぜひ観るべし! 映画館を出る頃には、不屈闘志なみの高笑いが込み上げることだろう!

 『炎の転校生』の頃から島本和彦氏のファンだったわたしにとっては100点満点の作品で、誰かれナシに「騙されたと思って観てよ」と勧めて回りたい快作なのだが、もしも島本ワールドを今まで覗いたこともないという場合、楽しく鑑賞するにはある心構えが要るかもしれない。それは「馬鹿馬鹿しい展開を“馬鹿馬鹿しい”と言って切り捨ててはいけません」というただ1点である。
 本作品は最初から最後まで、ひたすら「馬鹿馬鹿しさ」に溢れている。まず主人公の名前が「不屈闘志」。有り得ない。舞台となる全力学園の校庭には西部劇よろしくタンブル・ウィードが転がり、野球部の新任監督・榊原剛(田中直樹)は悪役プロレスラー真っ青のコスチュームに身を包んで現れる。夢想の中のマネージャー・月田明子君(堀北真希)は老婆になってもなぜか制服姿。教訓を刻んだモノリスが宇宙空間から降ってくるわ、同じく教訓を刻んだ巨大な岩がベンチ裏から浮上するわ。絶っ対有り得ない。

 けれどそれを「有り得ない」と言ったら物語が終わってしまう。その有り得なさ、馬鹿馬鹿しさがどこまで極められようとしているのか、見届けるべく身体を乗り出すのが正しい楽しみ方なのである。なにせ原作連載中、島本氏は「次の回に“こうなるだろう”と予測の付くようなプロットは捨てていた」という。ハチャメチャで奇想天外なストーリーはもちろん狙い通りなのだ。
 言うなれば『ほら吹き男爵』を楽しむような心構えで臨むなら、本作品は思う存分の笑いと、不思議にスカッとした爽快感を残してくれるだろう。間違っても「地区予選で112対0? コールド・ゲームじゃないの」などと理路整然と無粋なことを考えてはいけない。溢れる馬鹿馬鹿しさに身を委ね、スポコンもののパロディか? と思ってしまうほどの熱血青春ドラマに浸ってみれば、いつしか不屈闘志のような「根拠のないポジティヴ・シンキング」が心を満たすだろう。

 正気では口にするどころか耳にするのも恥ずかしい「名言」がばんばん飛び出すのもある意味カイカンである。「無茶は承知の上!」とか「野球は知らんが、人生は知っている!」、校訓の「全力でないものは死すべし!」だってある意味「名言」だ。ましてや「男の魂、充電完了!」なんて、今時「少年ジャ○プ」の煽り文句からも消えてしまったのではないだろうか。
 真面目に熱血することは、端から見たらじゅうぶんに滑稽に映る。本作品のコンセプトはそれを逆手に取ったギャグであり、その捻った中にも「青春は、熱血だーっ!」というストレートなメッセージが込められている…と思うのは穿ち過ぎかもしれない。けれど変に斜めに構えたキャラが1人も居ないという判り易さが、エンド・ロールで正々堂々と流れる主題歌が岡村孝子さんの『夢をあきらめないで』だったりする辺りが、臆面もない熱血を「ダサいもの」ではなく「爽やかなもの」に昇華させているのだ。

 ともあれ、しのごの考えずに理屈抜きでまずは観るべき作品。良く良く注意して観れば、細かい遊びもちょこちょこ出て来ていて探すのが楽しい。三重県大会決勝戦のゲストは絶対に見逃してはいけません。パンフレットによればあれは原作者の島本和彦氏その人で、コスチュームはすべて自前だというからまたまた笑ってしまう。
 鬱陶しい梅雨気分を吹き飛ばす本作品、できたらもう何回かは映画館で観たいものである。DVDが出たら絶対買う。そして映像化不可能と言われた『逆境ナイン』がここまで完璧に映画化されたのならば、ファンとしては『炎の転校生』映画版もぜひ観てみたい。実現しないだろうか。




宇宙戦争(2005年版)(スティーヴン・スピルバーグ)
WAR OF THE WORLDS(2005年・米)
2005/07/24 18:58
ストーリー:ある日、雷を伴う嵐に乗って、宇宙のどこかから異星人が襲来した。何百万年も前から地底深くに埋められていた「トライポッド」の圧倒的攻撃力に、地球人類はたちまち絶滅の危機に瀕する。離婚後、子供たち、ロビー(ジャスティン・チャットウィン)とレイチェル(ダコタ・ファニング)との面会日にこの襲来に遭遇したレイ・フェリエ(トム・クルーズ)は、親類の居るボストンへ向かうべく、子供たちと一緒に決死の逃避行に出発する。

出演:トム・クルーズ、ダコタ・ファニング、ジャスティン・チャットウィン、ティム・ロビンス


 もうメチャメチャ怖い。トライポッドが発するレーザー光線で人間が消滅するところなど、まさに「跡形もなく」という感じで妙にリアリティがある。トム・クルーズ演ずる父親のレイ・フェリエが、ヘンにスーパーお父さんではなかった点も好印象。スピルバーグ監督ならではのテーマ「家族愛」も確かに出て来たけれど、いつもの「もう判ったからいいってば」的な暑苦しさはそう鼻に付かない。
 個人的な印象としては、『未知との遭遇』に感じた「圧倒的に優れた宇宙人への畏怖」とか『ジョーズ』の容赦ない恐怖感の描写など、かつて好きだった「スピルバーグもの」のエッセンスが本作にはあったように思う。『シンドラーのリスト』以来、スピルバーグ作品はもういっかなー…という気分になっていたのだが、こういう作品ならばまた撮って欲しい。パニック映画としては間違いなく傑作の部類に入るだろう。

 1953年版では出て来なかったトライポッドの設定や異星人の吸血シーンなども登場し、1953年版とはまた違った魅力を持つ「恐怖の描写」が成されている。原作『宇宙戦争』にはない設定が出て来る点も、それほど違和感なく仕上がっている。わたしとしては、原作も1953年版もスピルバーグ版も、それぞれ別の作品としてどれも傑作だと思った。
 蒼白な顔を引き攣らせて怯えるダコタ・ファニングちゃんの演技は時としてトム・クルーズをカンペキに喰っており、子供を使った恐怖の演出はやっぱり上手いなスピルバーグ! と思いつつも大拍手。彼女を守るために、超いい加減で自己中心的だった父親レイが一皮剥けて行くというストーリーにも納得が行く。反抗的だったロビーと最後にぎこちなくハグするシーンも良い。子供が「親の背中を見て育つ」様子、嘘っぽくなくて清々しかった。でもロビー君、いつの間に君は先回りしたんだい?(という疑問は措くべし)

 何百万年も前から(字幕では100万年とあったが、台詞は「Millions」だった気がする)地球侵攻を準備して来た宇宙人たちの背景はさておいて、ひたすら虐殺される地球人側の恐怖と右往左往を描くのに徹したのもマル。生きるか死ぬかの瀬戸際に立った時、人間がいかに醜悪に自分勝手になれるものか。けれどそうしないと生き延びられないという残酷な状況。
 家族を皆殺しにされたオギルビー(ティム・ロビンス)の家に逃げ込んでからも良い。狂気スレスレの土壇場に追い込まれたオギルビーの切羽詰った精神状態を、渋いながらに熱演していたティム・ロビンスには「さすが」という溜め息が漏れた。
 潜伏後初めて地上に出てみた時の、真紅と灰色に塗りつぶされた情景も圧倒的。妙に美しいと感じてしまった。

 という訳で、予想していた以上に魅力的な作品だったので、非常に得した気分である。桁違いに発達した文化を持つ異星人がなぜあんなに無防備なのか、などなどの疑問が出ているようだが、あれは原作がそうなんだから仕方ないではないか。現代の常識に合うようなまた別のオチを考えるとしても、余程のものでないとまた不満がバクハツしてしまいそうな気がする。敢えて変えなかったのは正解だったのではないだろうか。
 どうにも対抗しようのない絶体絶命の恐怖とパニックを味わうのが醍醐味なので、ぜひとも大画面と、身体にびりびり響く豪華音響の設備が整った映画館へ出向くべし。おそらくDVD&家庭のTVで観るのでは、本作品の迫力が半分以下になってしまうと思う。




亡国のイージス(阪本順治)
(2005年・日)
2005/08/03 23:55
ストーリー:海上自衛隊所属の最新鋭護衛艦であるイージス艦「いそかぜ」が、演習中に突然日本政府に向けてある要求を突き付けて来た。人質は1000万人を下らないであろう東京都民。米軍が密かに開発した毒ガス兵器「GUSOH」を弾頭に仕込み、ミサイル攻撃をすると脅迫する「いそかぜ」占拠メンバーの中心人物は2人、副長の宮津弘隆2等海佐(寺尾聰)とホ・ヨンファ(中井貴一)。それぞれの思惑と共に、艦内の状況は刻一刻と変化する。果たしてカタストロフを防ぐことは出来るのか?

出演:真田広之、寺尾聰、勝地涼、佐藤浩市、中井貴一


 もしかしたら本作品は、原作を読まずに観た方が楽しめるかもしれない。原作未読状態で映画を観て、それからおもむろに原作に手を伸ばせば、1粒で2度3度と美味しい思いが出来るのだろう。そんなことを考えてしまうほどビミョーな後味であった。
 面白くなかった訳では、もちろん、ない。GUSOHを搭載したミサイルがいつ東京に撃ち込まれるのか、それを阻止するための隠密工作員や潜水艦「せとしお」からの潜入作戦は成功するのか、ハラハラドキドキの展開で127分を飽きさせることなく突っ走ってくれる。仙石恒史先任伍長(真田広之)の決死のアクションは見応えあるし、如月行1等海士(勝地涼)のナイーヴなキャラクターは非常に魅力的である。
 戦闘機やヘリコプター、もちろんイージス艦等の豪華キャストもふんだんに登場し、戦闘機への憧れ止まないわたしは思わず血が騒いでしまった。やっぱり戦闘機って格好いい! 序盤「いそかぜ」がハープーンをぶっ放すシーンは禍々しくも美しく、これぞ大作映画の醍醐味と身を乗り出したものだ。

 一緒に観に行った母(原作未読)は絶賛していたので、登場人物たちの背景にある様々なドラマを匂わせる程度でばっさりカットされた脚本も、それほど致命的な欠陥にはならなかったのだろう。母のコメントの通り、確かに本作は「最近には珍しく1本スジの通った娯楽映画」である。
 とは言うものの、原作既読組からすると、カットされてしまった諸々がやはり余りに惜しいと思えて仕方がない。わたしが観たかった『亡国のイージス』は、海洋サスペンスと銘打たれてはいても、実は登場人物たちの心の動きにフォーカスした人間ドラマだったのである。ヨンファの、宮津副長の、仙石先任伍長の、そして誰よりも如月1等海士の、「国」に寄せる切ない思い、「家族」や「人生」に対する不器用で真摯な姿勢、それらのぶつかり合いだった。

 フラッシュ・バックを多用して、各キャラクターの背後にある事情を仄めかしているので、観客もある程度は「みんないろいろあるんだろうね」とインプット出来ただろう。しかし、延々と艦内での小火器による白兵戦を撮影する時間があるのなら、せめてヨンファと宮津副長の背景くらいは、もうちょっと詳しく描写してくれても良かったのではないだろうか。本作の宮津副長は、見ようによれば、一人息子の弔い合戦が主目的であるように思えてしまう。そんな皮相な動機とちゃうやんか!
 原作の、息も吐かせぬ(しかし決して説明過剰ではない)怒涛の心理描写を全部盛り込むのは到底無理なこと、それは重々判っている。見た目を派手にするためには、作品のコンセプトを「海洋サスペンス・アクション」にするのも仕方のないことなのかもしれない。でも、『ローレライ』に挿入された浅倉良橘の『罪と罰』についての発言のような効果的なエピソードが1つあるだけで、印象はだいぶ違ったのではないかと惜しくて惜しくて仕方がないのである。

 一番驚いたのはジョンヒ(チェ・ミンソ)の扱いである。一体何のために出て来たキャラだったのだろう(しかも悪いけど全然魅力的ではない)。例によって咽喉の傷を映して「背景の仄めかし」をやっているとは言え、彼女がヨンファに取ってどういう存在だったのか、なぜ行に興味を示したのかさっぱり判らない。そしてあの唐突なキス・シーン。原作未読の観客は訳ワカラン心境になったのではないだろうか。どうせならいっそ出さないでおいて、その分違うところにポイントを置いたら良かったのに。
 わたしの目には、ジョンヒの存在理由は「彼女を出さないと主要登場人物が全員男になってしまうから」以外に見当たらない。中途半端な出し方をするのなら、まだその方がマシだった気がする。

 DAIS内事本部長・渥美大輔(佐藤浩市)の静かな存在感には唸ったし、内閣情報官・瀬戸和馬(岸辺一徳)とのねちっこい駆引きシーンなんかは良かったと思う。テロリスト対日本政府、対策会議メンバー対DAIS、ヨンファ一味対仙石如月ペアのそれぞれの「闘い」の描写にヴァリエーションが出ていた。現場で行なわれる戦いもあれば、会議室で繰り広げられる戦いもある、という訳である。
 体育会系の先任伍長を熱演していた真田広之さんにも、改めて「凄い役者さんだなあ」という思いが湧いた。けれどわたしとしては、やっぱり「仙石さんの熱血」は、もうちょっと無口でうらぶれていて、それでも己の筋をどうしても枉げられない、不器用な人間のものであって欲しかった。真田さん版仙石先任伍長は、一言で表すならば「格好良過ぎる」のである。やっぱり角田信朗さんの仙石先任伍長が観たかった…。

 ともあれそういうことを全部よそへ置いて、「格好いい乗り物がいっぱい出て来るアクションもの」として観れば、本作品は文句なしの傑作だろう。母の言う「1本スジの通っているストーリー」が、単なるアクション映画以上のものを醸し出しているのも確かである。しかしわたしとしてはやっぱり、原作未読で鑑賞した人々には「騙されたと思って原作も読んでみて」と言って回りたくて仕方がない。「原作はもっともっと深くてイイんだよ」と、口を酸っぱくして推薦したくなって来る。
 はてそうすると、『ローレライ』鑑賞後に友人が言ったコメントも、今のわたしと同じ心境に拠るものだったのだろうか。現段階での個人的な印象では、本作品よりも『ローレライ』の方が面白かった面があるのだが、原作『戦場のローレライ』を読み終わったらまた違う心境に至るのだろうか。

 何だかえらく辛口になってしまったけれど、海とイージス艦と戦闘機を観るだけでもわくわく出来るし、アクションはやっぱり凄いので、ぜひぜひ大画面で観るべき作品である。TVサイズではあまりにもったいない。




ミニパト(神山健治)
MOBILE POLICE PATLABOR MINIMUM(2001年・日)
2005/08/17 15:51
ストーリー:『機動警察パトレイバー劇場版』、『機動警察パトレイバー2 the Movie』の登場人物3人が、押井守氏得意のウンチク満載の、奔流のような長台詞で、お題となるネタを語って語って語りまくる。

出演:(声の出演)大林隆介、千葉繁、榊原良子、池水通洋


 寡聞にして、この作品の存在すらつい最近まで知らなかった。最初に公開されたのは2001年、第14回東京国際映画祭でのことで、第2話だけの上映だったらしい。押井守作品について調べるなら断然ココというサイト「野良犬の塒」によれば、上映会場は「大爆笑と拍手喝采の嵐であった(誇張無し)」そうである。観てみたら本当にその通りで、劇場3部作しか知らないわたしでもメチャクチャ面白かった。「パトレイバー」シリーズについて愛着のある、コアなファンであればあるほど興味深く、笑えて、遊びネタ探しに没頭出来るだろう。

 見つけたきっかけはちょっとしたラッキーである。加入しているCATVのガイド・ブックをぱらぱら捲っていたら、「日本映画専門チャンネル」で押井守氏脚本の『ミニパト』を放送しますよ、と載っていた。パトレイバー関連作品だろうとの見当はすぐに付いたが、『WXIII機動警察パトレイバー』を観に劇場には行かなかったので、内容はまったく知らなかったのである。そんな経緯で今回わくわくとTVで初鑑賞。
 12〜14分の短いお話が3つで構成される。各話の間には特別な関連性はないが、どれも「押井守氏のシュミ炸裂」という点では共通している。『WXIII』の上映時には、1週間交代で1話ずつ併映という「シャッフル上映」をされていたようである。監督は言わずと知れた『人狼』の神山健治氏、制作スタッフもお馴染みの方々が名を連ねる。

 第1話は『吼えろ リボルバーカノン!』、語り手は後藤喜一隊長。パトレイバーの携行武器が何故リボルバーカノンでなくてはいけないか、その特徴と長所と限界を、独特の飄々とした語り口で解説する。「機動警察」という立場から見た、レイバー部隊のあり方&現実的設定考察が面白い。
 第2話は『あヽ栄光の98式AV!』、語り手はシバシゲオ特車二課整備主任。声優の千葉繁氏が、「いったい息継ぎはいつしてるの?」とこちらの息も苦しくなるほどの怒涛のトークで、既存アニメ作品におけるロボット、また「パトレイバー」シリーズのレイバーに関する考察をとうとうと喋りまくる。玩具業界のグッズ販売事情も絡めたアニメ界のロボット進化過程、「パトレイバー」がその中でどういう位置付けにあるか、実践的見地からのレイバーの機動および性能はどう設定されるべきか、そしてレイバー保守担当部隊の悲哀まで、内容は多岐に渡りかつ奥深い。3話の中で代表的な1つを挙げろと言われたらこの話、わたしもこれが一番好きである。
 第3話は『特車二課の秘密!』、語り手は南雲しのぶ隊長。前の2話とは少々毛色の変わった、一番お遊び的性格の強い作品である。「金食い虫」と呼ばれていつもピーピーしている特車二課の台所事情と、自給自足から次第に発展して行く厚生面改善のマル秘作戦を、後藤隊長の特異なキャラクターを絡めてしのぶさま(←個人的な愛称)がこっそり教えて下さるという体裁を採る。後藤隊長があんなヘンな人間だったなんて…いや、思ってはいたんだけど(汗)。

 OVA版「パトレイバー」は1話も観ていないのだが、『機動警察パトレイバー劇場版』も『機動警察パトレイバー2 the Movie』も大好きである。劇場版2作目には特に思い入れも強く、贔屓目を抜きにしても2作目は映画として特級品だと思っている。そんな半端なファンでもこれだけ面白かったのだから、OVA版からコンプリートしているというコアなファンにはもうこたえられない作品だろう。つつけばつつくほど小ネタがぼろぼろ出て来る奥深さ、脱帽である。
 一見パタパタ・アニメ風ながら、実は全編バリバリの3D CGアニメーションというギャップもいい。「最新技術をこんなことに!」という呆れとも感動ともつかない思いを、観る人の胸に呼び起こすだろう。ワリバシに貼っ付けた2D人形みたいなキャラたちは、なるほどその織り成すスラップ・スティックにぴったりである。

 音楽はもちろん川井憲次氏。主題歌「果たし合いカナ?」はどことなく『攻殻機動隊GitS』の「毎天見一見!」のようなポップな雰囲気だが、良く良く歌詞を聴くとエラく物騒なことを歌っていたりしてまたまたギャップが楽しい。というか出て来る曲が全部「パトレイバー」のパロディになっているんではないだろうか。曲を聴いただけで笑えること請け合いである。
 とまあそんな訳で、ショート・ストーリーながら密度は非常に濃く、「パトレイバー」のエッセンスがここにあると断言しても過言ではない(と思う)。実に実に贅沢な作品である。「パトレイバー」ファン、押井守氏ファンなら必見。

 鑑賞後、メイキング映像も特典として付いているDVDが欲しい…! と激しく欲望が募っているのだが、セルDVDのお値段は税込み5250円。高価過ぎて手が出ない(滝涙)。そして当然のことながら観たくなっちゃったOVA版『機動警察パトレイバー』、全部DVDで揃えたらざっくり計算して4万円…(目幅涙)。レンタル屋さんに通うしかないのだろうか。でもウチの最寄のレンタル屋さん、「パトレイバー」はあったっけなあ…(とほほほ)。




容疑者 室井慎次(君塚良一)
THE SUSPECT MUROI SHINJI(2005年・日)
2005/08/31 15:14
ストーリー:室井管理官(柳葉敏郎)が捜査本部長を務める殺人事件の容疑者が、取調べ中逃亡した。新宿北署の刑事たちが追跡する途中、不慮の事故により被疑者が死亡してしまう。室井は被疑者死亡のまま事件の真相究明を続けようとするが、「過剰な取調べにより息子を死に至らしめた」として、被疑者の母親が室井を刑事告訴。さらに長官職を競い合う警察庁次官と警視庁副総監との権力闘争も絡み、室井は次第に追い詰められて行く。

出演:柳葉敏郎、田中麗奈、哀川翔、八嶋智人、真矢みき


 わっけ判んないですよ。あまりに不可解なんでついついパンフレット買っちゃったけど、パンフ読んだってやっぱ訳判んない。有り得ない。このストーリー、全編有り得ないことのオン・パレード。「踊る」シリーズでよもやこんな気分で帰って来る羽目になろうとは。内容にさほど期待せずに観に行ったものの、その予想の斜め下をぶっ飛ばす最悪の出来。「不完全燃焼」の一言を叩き付け、可能ならば記憶から消去したい。

 冒頭、取調べ中に逃走した神村誠一郎巡査(山崎樹範)を刑事たちがみんなで追っ掛けるシーンですでに違和感がいっぱいだった。新宿北署がどれくらいの規模なのか知らないけど、追い掛ける人数が余りに多過ぎないだろうか。わたしは一瞬「マラソン大会の練習とか…?」などと勘違いしそうになった(阿呆)。それだけ人数が居て何故逃げ切られそうになるのだ。新宿北署の連中にはチーム・ワークという言葉はないのだろうか。ただ馬鹿正直に全員で後ろから追っ掛け続けるとは…。
 被疑者が逃走中に死亡したら、それは確かに捜査本部長・室井のミスとは言えるだろう。でもそれを刑事告訴出来るかといったら多分無理。マスコミだって騒ぎ過ぎ。責任問題にはなるだろうけれど、それを材料に権力闘争の主導権を握る握らないの話に至るものなのだろうか。利用どころか、せいぜいが「不幸なことで誠に遺憾だが、正当な捜査行為の範疇にあったと認識している」とか何とか記者会見の場でエライさんが発表して終わりという気がする。

 さらにまた登場する弁護士が全員トンデモである。駆け出し新米で頼りない小原久美子(田中麗奈)は、新人という設定をさっぴいても、弁護士にしてはアタマが悪過ぎる。弁護士というより「法律おたく」の集団にしか見えない灰島法律事務所の連中は、やることなすこといちいち矛盾だらけ。いろいろ難癖付けてるけど、あんたらのやってるソレは肖像権侵害と違うんかい、という調子で、所長の灰島秀樹弁護士(八嶋智人)のどこいら辺が有能敏腕なのか、なぜこの事務所が大繁盛してあちこちに顔が利くのかさっぱり不明。
 多少なりともリアリティを感じられる弁護士は、小原弁護士の上司である津田誠吾所長(柄本明)だけなのだけれど、それとて良く考えると「あまり活躍しなかったからボロが出なかった」以上の理由はないのである。「潜水艦事件」の担当弁護士という設定らしいけれど、その事件が未だに語られていないのだから、「なんか大変だったらしい」程度の推測しか観客には無理で、感情移入どころではない。
 個人的な好みだけれど、田中麗奈さんのナレーションがまた下手でイライラする。誰か違う人に喋らせといて欲しかった…。

 という訳で、「これはわたしの知らないどこか余所の、日本とは違う警察組織、弁護士、マスコミなどなどが存在する異次元世界の物語なのだ」とでも自分に言い聞かせない限り、とてもではないが楽しむどころではない。自分の預かり知らぬ思惑で追い詰められて行く室井管理官の心境をじわじわ感じる…という点だけは良かったし、印象的な台詞やら構図・色彩的に美しいシーンもちらほら見られたものの、それだけでは他の粗を隠しようがない。
 「印象的な台詞」と言っても、どれも取って付けたようなものばかり。「人は法律に守られてるんじゃない、法律に縛られてるんだ」とか、「室井さんは勇気を捨てていない人なんだ」などなど、使いようによってはもうちょっと効果的な一言になったんだろうに…。

 柳葉敏郎さんの渋い演技、噛み締めると動くこめかみとか、翻るコートなどは良かった。けれど彼にしても、学生時代に亡くなった彼女の顛末を暴露されて、あそこまで心理的に追い詰められちゃうというのが判らない。罪悪感を覚えるのは仕方ないとは言え、何故それで辞める辞めないになるのか不明。スキャンダルにすらならないものなんではないだろうか。青島との約束はその程度のものだったの? 何より一番がっかりしたのは、室井さんが終始一貫しょぼくれて、「戦う姿勢」をほとんど見せてくれなかったことだった。
 怪文書をバラ撒いた人物の意図も全然判らない。そもそもやたらもったいぶって出て来た「大御所」始め、関係各氏が何故室井管理官をそこまで邪魔に思うのかが全く判らない。肝心の事件の真相を闇に葬りたい理由もさっぱり。これで「巨大組織に押し潰されようとする個人の無念」を感じろってのもねえ…。

 「踊る」シリーズでこれほど上映時間を長く感じたこともない。結局「なんじゃそりゃー!」と叫ぶしかない事件の真相とか、口を開いたらとんでもない大根だったキイ・パーソンとかに呆れ果てつつ、憤懣やる方ない思いで劇場を後にした。こんなことなら、どうせ「有り得ない」物語なら、鑑賞後にほのぼのした気分になれた『交渉人 真下正義』の方にこそ断然、軍配を上げたいと思う。
 陰気で沈鬱なダラダラにアクセントを付けてくれたスリーアミーゴスと、彼らの持って来た招待状に免じて「金返せ」とは言わずにおこう。3人が画面に登場しただけで劇場内が笑いに包まれるというのもナニではあるが。そしてこの世界ではまだ和久さんがご存命であるということにちょっとホロリ。『踊る2』では単にイヤな女だった沖田管理官が格好良かったのもそこそこ嬉しい…などと、帰宅後思わず「良かった探し」をしてしまうのであった。やれやれ。




チャーリーとチョコレート工場(ティム・バートン)
Charlie and the Chocolate Factory(2005年・米)
2005/09/15 18:24
ストーリー:チャーリー・バケット(フレディー・ハイモア)の家は、貧しいけれどとても温かい家庭。チョコが大好きなチャーリーだが、食べられるのは年に1度、誕生日に1枚もらえるだけ。しかし皮肉なことに、バケット家のすぐ近所には天才ショコラティエ・ウィリー・ウォンカ(ジョニー・デップ)の持つ世界一有名なチョコレート工場があった。ある日ウォンカ氏は、幸運な5人の子供たちとその保護者を、チョコレート工場見学に招待すると発表する。

出演:ジョニー・デップ、フレディー・ハイモア、デイヴィッド・ケリー、ディープ・ロイ、クリストファー・リー


 いやー最高のファンタジー作品だった。鑑賞後は大にこにこで、「ウィリー・ウォンカの歌」なぞ口ずさみつつ、久し振りに板チョコ買って帰ろうかしらん♪ と悩みながら歩いたものだ。ティム・バートン監督独特の賑やかな色彩感覚と、キッチュ感いっぱいの仕掛け・からくりの数々。そしてダニー・エルフマンの音楽がまたイイんである。
 ジョニー・デップは十八番の「ヘンなキャラクター」を、呼吸するような自然さで熱演している。個人的にジョニデには「キモカワカッコイイ」役が大変似合うと思っているのだが、さすがティム・バートン監督&ダニー・エルフマン音楽とのゴールデン・トリオ作品だけあって、『シザーハンズ』のエドワードを髣髴とさせる「異形のキャラ」、ウィリー・ウォンカにジョニーはパーフェクトである。
 単なる「ヘンなキャラ」でなく、そのヘンさの裏に隠れた孤独を、繊細に演じられるところも素晴らしい。原作のワンカ氏の不気味なイメージぴったりなのに、動いてみるとちゃんとジョニー・デップにも見えるという辺り、スター性を兼ね備えた天才、と呼びたくなってしまう。

 ネズミーランドの某アトラクションを思わせる人形劇が燃えて溶け落ちるシーン、そこに流れる悪乗りの「ウィリー・ワンカの歌」、失格する子供たちのいぢわるな造形などなど、バートン監督一流のブラックさがにじみ出ていて楽しかった。71年に制作された『夢のチョコレート工場』は観ていないのだが、朧気に覚えている原作の「わくわくするけどちょっと怖い」印象を、本作品は実に巧く映像化している。
 どちらかというとバートン監督風味のブラックさは抑え気味だろうか。その辺やや「もう一押し」と思わないでもなかったのだが、大人も子供も楽しめるのがコンセプトだとすると、アレ以上やったら悪趣味になってしまうかもしれない。ともあれ何より素晴らしいのは、掛け値なしにこの作品が「大人も子供も心から楽しめる」ように作られているバランス感覚の妙である。ワンカ印のチョコレートのように、ビターとスウィートが絶妙のハーモニーを奏でている感じだった。

 そしてやっぱり絶賛してしまうのがウンパ・ルンパたちの歌と踊り。ある時はロック調に、ある時はバラードっぽく、またある時は民族音楽風に、わくわくするパフォーマンスを繰り広げてくれる。あんなの聴いちゃったらサントラも欲しくなってしまうに決まっている。ずるいじゃないかと思わず八つ当たりしたくなっているのだった。またディープ・ロイのキャラが強烈で、以後「ウンパ・ルンパ」と聞いたら条件反射であの顔と姿を思い浮かべてしまうに違いない。
 排除されちゃう子供たちの小面憎さと、排除される時の情け容赦なさも、いい具合に大袈裟に演出されててつい笑ってしまう。その他ナッツ選別係のリスたち(もうメチャクチャ可愛いので、ベルーカならずとも1匹連れて帰りたくなりそう)とか、ジェット・エンジン付きガラスのエレヴェーター(とワンカ氏のお茶目な小ネタ)とか、4人合わせて381歳を数えるチャーリーの祖父母たち、微笑ましく寄り添う両親、厳しい顔の下には心優しい父親が潜んでいたドクター・ウィルバー・ワンカ(配役のクリストファー・リーがまたぴったり…だけど、原作には出て来てなかったような。記憶違い?)とか、もうあらゆる点でカンペキな1本。心優しい気分になりたかったら、ぜひ映画館へ走るべし。

 当分上映されていると思うので、おそらくまた何度か、ウンパ・ルンパの歌と踊り、ジョニー・デップの雄弁な無表情、楽しい色とからくりの洪水を堪能しに出掛けたい。DVDが出たらきっと買ってしまう。ティム・バートン監督のファンには堪らない1本だと思う。
 ところで観ている間、時々ウィリー・ワンカ氏の顔が『アメリ』のオドレイ・トトゥに見えてしまって驚いたのだが、他にもそんな錯覚をした人は居ないのだろうか。妙に気になってしまっているのだが…。




銀河ヒッチハイク・ガイド(ガース・ジェニングス)
THE HITCHHIKER'S GUIDE TO THE GALAXY(2005年・米英)
2005/09/22 23:12
ストーリー:イギリスの片田舎に住むアーサー・デント(マーティン・フリーマン)は、バイパス工事のために自宅を取り壊される危機に瀕していた。そしてまさに同じ時期、太陽系を通る銀河バイパス建設のために立ち退きを迫られた地球はあっさりと爆破されてしまう。最後の地球人となったアーサーは、実は宇宙人だった友人フォード・プリーフェクト(モス・デフ)と共に当てのない旅に出る。

出演:マーティン・フリーマン、モス・デフ、サム・ロックウェル、ズーイー・デシャネル、ビル・ナイ


 どこで耳(or目)にしたのかちょっと覚えていないのだが、「イギリス人気質を説明する最も適切な言葉は“half serious”である」というのがあって、わたしはこの説明が大好きである。日本語で同じことを言えば「面白半分」だけれど、面白がってたりフザケてたりする残りの半分は、紛れもなくシリアス…大真面目、なのである。
 馬鹿馬鹿しいことをフザケてやってたって、観ているこっちはちっとも楽しくない。馬鹿馬鹿しいことを、この上もなく大真面目に勿体ぶって鹿爪らしく執り行うからこそ生まれる「笑い」というものも、間違いなく存在する。そしてこの作品は、全編そういう笑いのエッセンスに満ち溢れている。

 本作品は言わずと知れた古典的SFカルト小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化で、原作者のダグラス・アダムス氏が亡くなる直前に手掛けていた脚本を元に作られている。そのおかげで、実にイギリスらしい、大真面目でちょっと気取って果てしなく回りくどい、原作の魅力そのままの、しかも原作よりも起承転結がきっちり付いたオドロキのコメディSFに仕上がっている。
 『不思議の国のアリス』とか『モンティ・パイソン』、『Mr. ビーン』などなどを好きな人ならば、きっと本作品のことも気に入ってくれるだろう。逆に言うとあの手の作品をまだるっこしく感じる方々には不向きかもしれない。お馬鹿をやるにもイヤミを言うにも直球勝負は絶対しない。イギリス・コメディ独特の皮肉っぽさとか、痛烈な風刺、えげつなさスレスレのブラック・ユーモアとか、とにかく観る人を選ぶタイプ。
 鑑賞後にあちこちのレヴュー・サイトを覗いたら、まあ見事に賛否両論に分かれていていっそ面白かった。とりあえずわたしは大満足。1回観るくらいでは消化し切れないほどの情報量と遊びネタが満載なので、出来たらもう2、3回は観に行きたいくらいである。

 原作付きとは言え、小説を読まずに映画から入ってしまってもまったく問題なく作られている点もお見事。先述したように、ストーリーのまとまりとしてはむしろ本作品の方がきっちりしているくらいである。原作途中に出て来る「さよなら、そしてお魚をありがとう」が、映画では堂々のオープニングになって、しかもちゃんとメロディまで付いちゃって、イルカたちのジャンプ映像と共に流れる冒頭でもう既に爆笑。
 自ら人格を(というより脳を)2つに分けたキワモノ銀河系大統領とか、「黄金の心」号の不可能性ドライヴとか、激烈な鬱に囚われているロボット・マーヴィンとか、どうしようもなく無駄口の多いメイン・コンピュータのエディとか、キューキョクの答えに対するキューキョクの問いを探す「宇宙で2番目に賢いコンピュータ」とか、開け閉めの度にタメイキを付くドアなどなど、よくもまあこれだけ、原作のイメージぴったりに映像化したものである。個人的な最大のツボは、やっぱり価値観転換銃(原作には出て来ないけど)でありました(笑)。

 原作の、一種独特の哲学的な雰囲気はだいぶ削られているし、米英共同制作ということでか、ビミョーに恋愛ネタが増えている辺りはちょっと違和感だったけれど、それでも全体があまりにも上手くまとまっているので問題なし。個人的には鬱病ロボットのマーヴィンがもう少しきちんと「ロボットしてる」と満点だったけれど、それも今から考えるとある種キッチュな魅力があったかも。
 センス・オヴ・ワンダーを味わいたかったらぜひぜひ映画館へ走るべし。SF好きならば絶対後悔しません。




下妻物語(中島哲也)
(2004年・日)
2005/10/04 01:28
ストーリー:時は21世紀、ところは茨城県下妻。フリフリのドレスとロココ調の人生に命を賭ける孤高の根性悪ロリータ娘・竜ヶ崎桃子(深田恭子)は、ひょんなことからまるで接点のないバリバリ暴走族(ただし原チャリ)ヤンキーの白百合イチゴ(土屋アンナ)と知り合う。始めはイチゴを鬱陶しくさえ思っていた桃子だったが、様々なエピソードの末、2人は固い友情で結ばれて行くのだった。

出演:深田恭子、土屋アンナ、宮迫博之、阿部サダヲ、樹木希林


 のっけからナニだし安易でもあるのだが、いや、参りました。正直ここまで面白くてイカす映画だとは思ってなかった。口コミでアレは面白いらしいよ、と聞いたので、まさかと思いつつちょっと気になりCATV放送をチャンスにTVで鑑賞。映画館で予告編を観て、ゴスロリに身を包んだふかきょんの「げ、ん○踏んじゃった」シーンだけで「ああまたしょーもないアイドルお神輿作品ね、はいはい」とカンタンに判断していたことを猛烈反省。すんませんでしたっ。
 原作の『下妻物語』も未読で、本作の雰囲気から、恥ずかしながらまず間違いなくコミックだと思い込んでいた。もちろん作者の嶽本野ばらさんは女性だとばっかり。実は原作は小説で、書いたのがロリータの世界では超有名な作家さんで、しかもれっきとした男性である、ということを知って俄然原作にも興味津々。そして同時に本作に流れる独特の雰囲気にも納得。なるほど、女の子同士の友情物語は、ロリータを理解している男性が描くとこんなに素敵なお話になるんだ…。

 本編の後に放送されたふかきょんのインタヴュー番組で知ったのだが、本作の中島哲也監督は、元々CM制作畑の人物らしい。マツモトキ○シとか、某ビール(スローモーションで温泉卓球をするアレ)を作った人だと言えば、本作の雰囲気も多少は想像が出来るだろう。あんな感じで、キャッチーで判りやすい映像が、細かい細かいカット割でこれでもかこれでもかと押し寄せる。テンポとノリとどこか突き放した第3者的なギャグ。手法的には丸っきりCMとか4コマ漫画のものだろうと思う。
 ストーリーもコアな部分はホントにベタ。独りぼっちのロリータ娘と、独りぼっちのヤンキー娘がいつしか互いに惹かれ合い、次第に篤い友情を育てて行くなんてお話、ベタ過ぎて少女漫画の世界でも編集さんに「このプロットじゃありふれてますよ」とボツを喰らいそう。主人公2人のプロフィールも、どこと言って特に変わっていたり斬新だったりするものはない。

 王道のド真ん中過ぎて陳腐になるような、何と言うかあまりにも「ちゃっちい」ストーリーが、不思議と心に響くのである。桃子が「誰も居ませんから」と言って後ろを向くシーンでは、2人の心の通い合いについホロリとかしちゃうんである。一世一代の大芝居にも、つい一瞬「えっ、そーだったのか!」と信じちゃいそうになったんである。それは多分、主人公2人を演じた深田恭子さんと土屋アンナさんが、役柄に実に上手くフィットしていたからに尽きる。
 学校で、お弁当の時間、誰のグループにも入らずにたった1人窓際で、夢想の世界に遊びながら趣味丸出しのお弁当を広げる。こんなこと、生半可な勇気と根性では絶対出来ない。その凄いことを、ただ自分がそうしたいからという理由だけでいともあっさりとやってのける桃子。この冷めた感じと浮世離れととりとめのなさ、ロリータ着てても自分に「酔ってない」感じ、深田恭子さんの素顔なんじゃないかと思えて来る。
 高校デビューのヤンキー娘・イチゴにしても同様。アホ全開で突っ張っているけどどこか真っ直ぐで、シャイだけど大変に熱い部分も持っている。お人好しで、夢見がちで、一言で表現すれば本当に「可愛い」女の子。たぶん、土屋アンナさんはこういう女性なんだろうな、と思う。

 2人のキャラと2人の女優さんが、絶妙のコンビネーションで繰り広げる奇跡のような物語。これが例えば、孤高のヤンキー・イチゴにまとわりついて固く閉じこもった彼女の心を開こうとするお人好しロリータ娘・桃子とかいうシチュエーションだったり、イチゴと桃子のキャスティングが(有り得ないけど)深田さんと土屋さんと逆だったりしたら大失敗に終わっただろう。
 キャラにドンピシャと言うこともあり、深田桃子ちゃんも土屋イチゴちゃんも、なんと魅力的で説得力に溢れた存在であることか。2人のタンデム・シーンでついつい顔が綻んでしまうのは、ヤンキーもロリータも理解の範囲外であるわたしでさえ、この主人公たちに心底感情移入しちゃったからなのである。いやほんと参りました。

 テイストとしては、不思議と『アメリ』に通じるお洒落さがあるようなないような。自分の世界に閉じ篭る不思議少女・桃子が語り手であることと、遊び心満載の細かいシーンの連続が似ているのかもしれない。『アメリ』ほど小洒落た感じではないけれど、鑑賞後に思わず「下妻って行ってみたい」と思うほど、下妻を魅力的に描いている映像もとにかく大好きである。
 そんな訳で、ベタもちゃちさも徹頭徹尾貫き通せばそれはそれで1つのスタイルとなる、ということを実証した1本。見た目ちゃちだけど実は非常に手が込んでいて、しかもそれを感じさせない拘り感も素晴らしい。例えば桃子とイチゴが「貴族の森」という喫茶店(冗談のようなネーミングだが実在するらしい)で長話をするシーン。BGMのフランス語(たぶん)の歌が、どうも妙にスタイリッシュで印象的で素敵だなと思ったら、音楽担当はあの菅野よう子さんだとエンド・ロールで判明したりするんである。

 心底「邦画もまだまだ捨てたモンじゃないではないか」とにっこりしたくなる作品。観たことない方々は、騙されたと思って1度観るべし。朝目が覚めた時も、この物語を思い出せばハッピーな気分で活動開始出来るんじゃないか、そんな気分になれる素敵な1本です。




コープス・ブライド(ティム・バートン)
Tim Burton's Corpse Bride(2005年・米)
2005/11/16 23:38
ストーリー:成金の息子で気弱なヴィクターは、落魄貴族の娘・ヴィクトリアと政略結婚をすることになった。不安な予感にも関わらず、初めて会ったその日に恋に落ちる2人。ところが緊張し切ったヴィクターは結婚式予行演習でドジばかり踏み、ついに「ちゃんと出来るようになるまで式は延期」を言い渡される。失意の彼が森で練習している時、うっかり枯れ枝と間違ってコープス・ブライドに結婚指輪を嵌めてしまった…。

出演:(声の出演)ジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーター、エミリー・ワトソン、クリストファー・リー、ディープ・ロイ


 そうなんだよ、こういうのが観たかったんだよ…! と、エンド・ロールを眺めながら映画館で踊り出したくなった奇跡のような1本。まだ観てない人はすぐにでも映画館へ赴くべし。コープス・ブライド役のヘレナ・ボナム=カーターの声が素敵なので、出来たら字幕版を選びましょう。でも、よっぽど声優さんがいい加減なことをやらない限り、本作品の魅力は吹替え版でも減ずることはないと思う。

 結婚式の日、ヴィクターが蝶のスケッチをしているシーンで始まるのだけれど、まずここのディテールで「凄過ぎる」と感心。羽ペンをインク壷に浸した後、ヴィクターは余分なインクを壷のヘリでちょちょいと落とすんである。それもごくごく微かな自然な動作で。2次元アニメでさえここまで凝らないケースも多いのに、ストップモーション・アニメでこれは何? パンフレットによれば、12時間ぶっ通しで撮影しても1〜2秒程度しか進まなかったらしいけれど、こんなことやってたらそれも当然である。
 あまりにも滑らかな動きは「これ本当にストップモーションなの?」と信じられないくらい。けれどパペットや背景や小道具の質感といい、コープス・ブライドやヴィクトリアのドレスの動きといい、3DCGアニメでは絶対に出せないだろう(少なくとも今の技術では)手作り感がいっぱい。ダークさとヴィヴィッドさが上手く融合したティム・バートン独特の色彩にもうっとりする。『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』を気に入った人ならば、間違いなく本作も美味しく召し上がれます♪

 ストーリーは割に小ぢんまりとまとまっているのだけれど、「人を想う気持ちの素晴らしさ(言葉にするとなんと陳腐になってしまうことか/嘆)」というぶっといテーマが貫かれているので、食い足りなさは感じない。ヴィクトリアと想い合うヴィクターの、ヴィクターを想うコープス・ブライドの、そしてコープス・ブライドへ向けるヴィクターの愛情が、極めて抑えた演出ながらこっちの心臓に突き刺さって来る感じだった。
 個人的にヤラレタのは、コープス・ブライドがヴィクターへあげた「結婚の贈り物」。この娘は本当に「誰かを想う気持ち」がどんなものかを、骨の髄から知っているんだなあとついホロリ。最初は「不気味な死せる花嫁」だった彼女に、感情移入を覚えてしまいました。

 力及ばないながらもヴィクターを救出しようと精一杯頑張るご令嬢・ヴィクトリアの可憐さにも胸キュン。また彼女の歩き方が、いかにも「ご令嬢」という雰囲気で可愛らしく素晴らしい。どことなくご本人に似ているような(失礼)ヘタレ君・ヴィクターの声をアテたジョニー・デップも、何かを諦めることに慣れた気弱さを上手く出していて好印象。
 何より惚れたのは、終盤にかけてのコープス・ブライドの格好良さだった。何というか既に「男前」という言葉が似合うような、凛とした美しさを纏った彼女に、惚れずに済ませられる人が居りましょうか(いや居ない)。怖い牧師(神父?)さん役のクリストファー・リーも、帰宅後パンフで初めて「ああ、あれは!」と思い当たったディープ・ロイも、さらに「いかにもそれ風」な新郎新婦の両親たちも、みんなみんな素敵でした。

 さらにダニー・エルフマンの音楽の魅力も炸裂。しんみりした曲から、ガイコツのダンス・シーンのはぢけた曲まで、どれもこれもわくわくするものばかり。すべてが有機的にオーガナイズされた、バートン・ファンタジーの決定版である。
 エミリーが呪縛から解き放たれ、蝶になって飛んで行くシーンでは思わず涙がこぼれた。彼女の孤独、愛への希求、ロマンティックなものに憧れる気持ち、ティム・バートン監督の心はそういう切なさで溢れているのだろうなと思った。だからみんな、バートン監督の作品には胸打たれるのだろう。

 出来れば最後、「それから2人は末永く」的な余韻をもうちょっと残して欲しかったのと、ピアノを弾くシーンで「出てる音と叩いている鍵の音が違う」のがちょっと気持ち悪かったのだけが、重箱の隅をつつくように探し出した難癖である。もちろんそんなことはこの作品の素晴らしさには何の関係もないのだけど。

 そんな感じで、77分間という短さにも関わらず、いや短いからこそなおさら、1秒1秒が宝物のように貴重な作品だった。せめてもう1回は観に行きたい。DVDが出たら間違いなく買う。でも家の小さなTVで観るのは哀し過ぎるので、やっぱり出来る限り何回も映画館に通って、脳裏に焼き付けておきたいと思う。いやこの作品に出会えて幸せでした(しみじみ)。




ブラザーズ・グリム(テリー・ギリアム)
Brothers Grimm(2005年・米)
2005/12/01 04:36
ストーリー:19世紀初頭のドイツ。民間伝承を収集しつつ、怪奇現象に悩む人々を救う手腕で高い評判を得ていたグリム兄弟は、実はやらせの詐欺師だった。ある時ペテンがバレ、フランス人将軍ドゥラトンブ(ジョナサン・プライス)に逮捕されてしまう。拷問→死刑になりたくなければ、マルバデンという小さな村で起きている連続少女行方不明事件を解決するように、という。監視役に拷問係のカヴァルディ(ピーター・ストーメア)に伴われ、マルバデンに行ってみると、本物の魔法が待っていた。

出演:マット・デイモン、ヒース・レジャー、ピーター・ストーメア、ジョナサン・プライス、レナ・ヘディ


 面白くなかった訳ではない。ギリアム監督独特の美しい映像たっぷりの、お得意のダーク・ファンタジーである。リアリストの兄・ウィル(マット・デイモン)とロマンティストの弟ジェイコブ(ヒース・レジャー)の演技も良かった(ウィルはちょっと『ロード・オヴ・ザ・リング』のサム・ギャムジーに見えたけど)。『赤頭巾』とか『ヘンゼルとグレーテル』などのモチーフがいっぱい出て来る遊びも『バロン』とか『バンデッドQ』とかを思い出して期待が募った。セルフ・パロディも盛り沢山だと聞いていたし。
 しかし観終わった後の感想は、何だか良くも悪くもフツーの映画だったなあ、という印象なのである。会った事もない人物についてこういう言い方をするのも好きではないのだが、どうも「テリー・ギリアムっぽさ」を感じない。いや、イマジネーションは確かにギリアム風なんだけど、ギリアム監督作品を語る上で避けて通れないもう1つの柱「風刺(あるいは毒)」があんまり感じられないというか…。

 パンフを買うかどうか散々悩んだ挙句に結局買って帰り、読みながら、もしかしたらこの作品、最初の脚本はもっと短かったのかな、と思った。詐欺で大儲け→ペテンがバレる→マルバデンで調査活動→いろいろあって無事解決→めでたしめでたし…というストーリーの、「いろいろあって」の所で、アレもコレもとつい欲張って詰め込み過ぎたんだろうか、と。
 マルバデンでの連続少女失踪事件を調査して、森に入ったり出たり入ったり出たり…の辺りで、はっきり中弛みしていたような印象を受けた。他の作品だと、一見無意味なお遊びシーンがそれほどダルくもなかったのだけれど。どうせ遊ぶなら、本作品唯一の風刺対象「近代合理主義者のフランス人将軍・ドゥラトンブ」のネタをもうちょっと絡めてくれたら面白かったような気がする。

 個人的に一番笑ったのは晩餐会のシーンだったり、一番「これだよこれ〜♪」と思ったキャラが「ドゥラトンブ将軍の側近」だったりするので、出来たら最初から「グリム兄弟 vs ドゥラトンブ将軍一味」の対立をメインにして欲しかった感じ。いつももうちょっとのところでヒーローになり損ねる三枚目キャラが、今回割にあっさり「王子様」になってしまったのが違和感の原因かもしれない。
 拷問大好きでその技術とヴァリエーション開発に血道を上げるカヴァルディが終盤妙に活躍するので、何となく「やっぱりギリアム監督って三枚目が好きなんだなあ」としみじみ思ってしまった。
 泥人形とか狼男とかのVFXがかなり違和感あったのを除けば、やっぱりどのシーンも本当に美しい。ジェイコブが塔の天辺に登って辺りを見晴るかすシーンなんか大好きである。さらに「ヨーロッパの宝石」と謳われるモニカ・ベルッチの完璧な美貌にはうっとり。暗くて泥塗れのマルバデン村の描写も雰囲気満点だった。

 そんな訳で、久しぶりのギリアム監督作品というのに期待し過ぎたのがいけなかったのか、ちょっぴり消化不良を感じてしまった惜しい作品。どっちかというと片手間に制作したという『Tideland』の方に却ってエッセンスが詰まっているのかもしれない。
 本作品を観た後で、ぜひギリアム監督に映画化して欲しいなという日本人作家の小説を思い付いた。佐藤亜紀さんの『モンティニーの狼男爵』。最後までヒーローになり損ねる三枚目が主人公。ヒロインもとりたてて美女じゃないから作品として地味過ぎるだろうか。結構「ギリアムっぽい」と思うのだけど。誰か英訳してギリアム監督に読ませてくれないだろうか。




SAYURI(ロブ・マーシャル)
SAYURI(2005年・米)
2005/12/15 11:28
ストーリー:貧しい漁村生まれの千代(大後寿々花)は、姉・佐津とともに9歳で花街に売られて来た。姉妹引き離され、必死の逃亡計画も失敗に終わる。置屋の女将(桃井かおり)は厳しく、先輩芸者の初桃(コン・リー)にも辛く当たられる。ある日橋の上で泣いているところを立派な紳士(渡辺謙)に優しく声を掛けられ、千代はそれ以来彼を「会長さま」と呼んで密かに慕うようになった。15歳の時、下働きの彼女を、売れっ子の豆葉(ミッシェル・ヨー)が芸者として育てたいと言い出した。厳しい稽古の末、千代はとうとう「さゆり」(チャン・ツィイー)としてデビューする。

出演:チャン・ツィイー、ミシェル・ヨー、桃井かおり、役所広司、渡辺謙


 とにかく美しい映像だった。雪にけぶる都や、山の端に沈む夕陽、散り敷く紅葉、桜の花吹雪の中での園遊会。芸者たちの化粧シーンでは咽るような白粉の香りが漂ってきそう。衣擦れの音も麗しい絢爛豪華な着物、優美な裾裁き。「This is JAPAN!!」と銘打ちたくなるような、作り手の「日本的な美」に対する憧れとインスパイアをびしびし感じる入魂の作品である。
 とは言え、残念ながら内容としてはそれだけに尽きてしまう。千代=さゆりの波乱に満ちた半生と、彼女の切ない恋物語を2本柱にしていたのだろうが、後者の印象があまりにも薄い。英語での演技のせいなのか、どうもこう、何もかもがもどかしいまでに伝わって来ない感じ。少女〜半玉(駆け出し芸者)時代のサクセス・ストーリーはそこそこ面白かったのだが…。

 一応日本人だけれど、わたしはいわゆる日本的文化について全然詳しくない。芸者の世界のしきたりも日本舞踊の良し悪しも着物の着付けの何たるかも知らないし、第2次世界大戦前後における花街の状況についてもさっぱり知らない。しかしそれでもひしひしと覚える違和感はちょっと辛かった。別に粗探しをしようと思って観た訳でもないが、ここぞと言うところでガクッと来るのが続くために、今一つ感情移入し切れなかったのかもしれない。
 つまりお勧めの鑑賞方法は「あくまでも“アメリカ人のファンタジーとしての芸者”であると割り切って観る」と言うことであり、例えば『マダム・バタフライ』鑑賞と同じ心構えで臨むと良いのではないか。ちなみに思わず吹き出してしまったのは、神社の拝殿の紐を引っ張ると何故か鐘の音が「ゴ〜〜〜ン…」と響くシーンであった。桃井かおりさんが全編に亘りかなりチェックを入れ、監督に重宝がられたそうなのだが、SEにまでは気が回らなかったのだろうか。

 という訳で、実は世界に多いらしい「日本は中国の一部だと思っている」ような人々へ向けたプロモーション・ヴィデオとしてならば、本作品は文句なしの合格点と言えるだろう。ディテールはともかく、「日本的な美」のエッセンスはまあまあ頑張って詰め込んである。
 もしくは「日本に良く似た架空の国のファンタジー」として観るのも良いかもしれない。そう言えば舞台となる「都」も、結局どこのことなのか、特に最初のうちは全然判らなかったっけ。伏見稲荷大社の千本鳥居が出て来るので、たぶん京都のつもりなんだろうなーと見当が付くのだが。

 いじわるな先輩芸者・初桃と、さゆりの先生役となる豆葉の権謀術数の応酬は迫力だし、巻き込まれて翻弄されるさゆりと同輩のおカボ(工藤夕貴)との友情物語もなかなか切ない。「やり手婆」という言葉がぴったりの女将は桃井かおりさんの熱演で活き活きしている。もうちょっと出番が多かったら存在感も相当大きかっただろう。
 個人的に一番惚れ込んでしまったのは、やっぱり豆葉を演じたミッシェル・ヨーさん。侠気溢れるお姐さんと言うと妙かもしれないけれど、「目で男を落とす」凄腕芸者がハマり役であった。敵役のコン・リーさんの狂気めいた迫真の演技も素晴らしい。さゆりのロマンスはどうでも良いから、芸者の世界の凄まじい出世競争とか、女同士の足の引っ張り合いとか、そういうストーリーに絞ってくれたら良かったのにと思う。

 一部では評判の悪いらしい「日本語混じりの英語」も、わたしはそれほど違和感なく聞くことが出来た。おそらく英語圏の観客は、ところどころに出て来る「お姐さん」とか「お母さん」とか「ありがとうございます」などの日本語の響きにも、エキゾティシズムを感じるのだろう。英語の中に混じるといかにも柔らかい印象の言葉たちは、なるほど芸者の世界には似つかわしい。
 という訳で、あの映像美を堪能するためには、やっぱり映画館の大スクリーンで観る方がいいだろうなと思える不思議な1本。手放しで褒められないのがもどかしいのだが、例え芸者のメイクが京劇の役者さんにしか見えなくとも、着物の着付けや結い上げた髪が「?」でも、さゆりの舞が何かヘンでも、舞妓たちがこともあろうに扇子をくるくる回そうとも、敢えて見逃して他の美しいシーンに目を凝らしたい。




ハリー・ポッターと炎のゴブレット(マイク・ニューウェル)
Harry Potter and the Goblet of Fire(2005年・米)
2005/12/22 01:26
ストーリー:ハリーは不気味な夢に悩んでいた。同じ頃、クィディッチW杯見物に行った際、闇のシンボルが会場の空に広がる。不安な気持ちを抱えつつホグワーツに戻ると、余りにも危険なため100年以上開催されていなかった「三大魔法学校対抗戦」がついに開かれるという報せ。2つの学校からゲストたちを招き、学校内は沸き立った。3校を代表して戦う選手選考は17歳以下立候補禁止。ところが、立候補もしていないのに、なぜかハリーも選手に選ばれてしまった。異例な4人での試合の行方は、そしてハリーに迫る危機とは…?

出演:ダニエル・ラドクリフ、ルパート・グリント、エマ・ワトスン、ブレンダン・グリーソン、マイケル・ガンボン


 原作はこの巻から読んでいない。あの分厚い本2冊分をどうやって2時間40分に収めるのかと思っていたが、予想よりもかなり判り易く、かつ、盛り上がりも充分のなかなかのストーリーに纏められていた。とは言え観ていて「なっげーなあ」と思った部分もないではなく、もうちょっと思い切って刈り込んでしまっても良かったかもしれない。
 例えば3校合同でのダンパ・シーンとその関連。カットしてしまうと華やかで楽しいシーンがほとんどなくなってしまうし、ハーマイオニー(エマ・ワトスン)のドレス・アップ姿も見られないのだが、本筋に関係ないだけにちょっとダレてしまった。予告編を観た時、ハリーの初恋の相手となるのかと思ったチョウ・チャン(ケイティ・ラング)は結局何だったの? ハリー&ロン(ルパート・グリント)&ハーマイオニーの微妙な擦れ違いを描くにしても、あそこまで凝って説明しなくても良かったような。

 とは言え、余りにもばっさりカットしてしまうと、原作ファンの方々が「あのシーンもない、このシーンもない」とがっかりしてしまうだろうから、ある程度は仕方なかったのだろうか。全部詰め込む訳には行かないというのは承知の上、ダンパ・シーンその他の脇道は「ディレクター・カット版」とかで初お目見えというのでも、いっそすっきりしたのではないかと思う。
 それでなくても原作未読組には初顔キャラとか「こいつ誰だっけ?」なお久し振りキャラとかが多いので、ストーリーが脇道に逸れると人間関係把握が混乱するのである(とほほ)。

 そういう辺りに目を瞑るとすると、今回は、全シリーズのストーリー的には山場その1に当たる部分だけに、かなり盛り上がっていた気がする。ヴォルデモート卿復活を企む一派と、否応なく巻き込まれて行くハリー。黒幕が誰かというミステリの部分はある程度「こいつだろうなあ、やっぱり」という見当は付くものの、ご都合主義ではなくきちんと描いてあって好感が持てる。
 クライマックス・シーンでは、確かにどこかで予想していた展開ではあったけれども、「そうなる必然性」というのが感じられたため、うっかりホロリとしそうになってしまった。

 主人公たち3人は前作に比べてますます育っていた。子供が大きくなるのって本当に早いものだと感心する。ハリーは正統派好青年(誰かが“ヨンさまに似て来た”と評していた。言い得て妙かも)に成長し、ロンはいかにもイギリス人らしい素朴さと、ちょっと意外な男臭さを併せ持つようになった。ハーマイオニーはお転婆美少女から大人っぽい(しかしやっぱり勝気な)美少女へ。ありし日の『グイン・サーガ』のリンダ王女はこんな感じではないかと想像するとときめいてしまう。
 対抗戦の正規の代表選手3名、ボーバトン魔法アカデミーのフラー(クレマンス・ポエジー)、ダームストロング学院のクラム(スタニスラフ・アイエネフスキー)、ホグワーツ魔法学校のセドリック(ロバート・パティンソン)も、それぞれ個性的で印象強い。新任の護身術教授マッドアイ=ムーディ(ブレンダン・グリーソン)は謎めきつつ存在感大であった。
 いちいち神経に障る女性記者・リータ(ミランダ・リチャードソン)など、イロモノ・キャラも健在。

 スネイプ先生の過去とか、魔法省大臣(?)コーネリアス・ファッジ(ロバート・ハーディ)、回想シーンで判事をやっていたバーティ・クラウチ(ロジャー・ロイド・パック)とその息子(デイヴィッド・テナント)の絡みは、原作未読組には辛い相関図である。ダンパ・シーンは削ってこっちに重点を置いて欲しかった。
 ラスト近くになって非常に重大な新事実(過去にも匂わされていたことではあったが)が出て来たのに、ダンブルドア校長に報告せんで良いのかとか、そもそもその状況だとハリーが下手人に思われないのか(後に誤解が解けるとしても)とか、良く考えたら単なる学校同士の対抗戦でその趣向はヤバくないのかとか、いろいろあるけれど、まあいいことにしよう。
 1回映画を観たら、原作を読んでみて、改めて映画館に出向くと深く理解出来て良いかもしれない。

 イングランドとスコットランドでロケが行われた風景は相変わらず美しくて大満足。本作から音楽担当が代わったため、全体の印象もやや変わっているのだが、これはこれで映像とマッチして良いと思う。
 ハリーそっちのけで一番お気に入りだったキャラが途中退場してしまったのが哀しいのだが、何はともあれ、次回作もきっと観るだろうなと思えたのが嬉しい。
 1つ文句があるとすれば、エライおじさんたちの人間相関図が載ってるかと思ってパンフ買ったのに、相関図どころか読みやすく纏めたストーリー紹介もないとはどういうことやねん。プロダクション・ノートと兼用なんかにしたら、判りにくくて仕方ないんですが…。